第72話
ミノスを乗せた馬車は、帝都中央部にある裁判所にやってきた。大理石で作られた白亜の神殿。十二本の巨大な石柱が建物を取り囲み、大屋根を支えている。
裁きを司る女神像。天秤と剣を持ち、血の涙を流す彼女の像が、裁判所の正面に作られている。その左右には開かれた黒い大扉があり、赤い絨毯が屋内へと伸びているのが見える。
裁判所の正面に馬車を乗り付けると、そこでミノスを下ろす。二人の兵士がミノスの両脇に立ち、腕を絡めて裁判所へと入って行く。
正面フロアから左右に廊下が伸びている。中央からまっすぐに伸びる通路を挟むように、階段が上に続いている。
兵士とミノスは真っ直ぐに伸びる廊下を進み、すぐ左手にある下り階段を降りて行く。
裁判所の地下にあるのは、罪人たちを拘留する拘置所だ。
一つ六畳ほどの牢屋の中に三人の罪人が押し込められ、己の判決が下るまでここでの生活を強いられる。
兵士は一つの牢の前に立ち止まり、錠の鍵を開けて扉を開く。
「入れ」
もう一人の兵士がミノスを背中を押し、中へ入らせる。
むき出しの石畳と石壁に囲まれた狭い室内には、薄汚いトイレとカビの生えたベッドがあるだけで、それ以外のものは一切ない。
先客は痩せこけた老人と厳つい図体をした男。
男の太い腕には全裸の女とその体に絡みつく蛇の刺青が刻まれている。
「本日十五時にお前の裁判が開かれる。それまでここで大人しくしていろ」
牢の鍵を締めながら、兵士が言う。
施錠を確認すると、兵士たちは階段を登って行った。
「豚箱へようこそ、神父様」
意地汚い笑みを浮かべながら、その男は彼に話しかける。
「神様に見放されでもしたのか」
「いいえ。神は私を見放したりしません」
「ほう。こんな場所に送られてもか」
「ええ。私と神はともにあるのです」
「面白いことを言うじゃねぇか。じゃあ、その神様はどこにいるって言うんだ」
「……ここです」
ミノスは自分頭を指でこずく。
「ここに神はいらっしゃるのです」
「くだらねえ」
男はミノスの言葉を一蹴する。
男はこれといった宗教にも入っているわけでも、どこかの神を信奉していると言うわけでもない。
男にとって宗教家という生き物は、人を騙す詐欺師と同然であった。また、彼らの語る神というのも、都合のいいマスコットにすぎないと考えてもいたのだ。
当然好きかと聞かれれば、そいつの顔に唾を吐きかけるぐらいには、嫌いであった。
「人の天上におられると言うことは、つまりはここの中に神の坐臥があると言うこと。雲の上よりも、幾分身近なところにおられるのですよ」
「うるせえ」
男はミノスの胸倉を掴み、ドスを利かせた声色で言葉を突きつける。
少し脅かしてやろうと思ってのことだったが、彼の顔は恐怖でこわばりはしない。 依然として薄笑いを浮かべたままだ。
それは男の望む反応ではなかった。
ミノスを掴んだまま、男は腕に力を込めて石壁に叩きつける。
ミノスの表情が苦渋に歪むが、それでもすぐに笑顔が張り付いていく。
「貴方もすぐに理解できる。もうすぐね」
うっすらと浮かべていた笑みに次第に声が漏れ出し、高らかな嘲笑へと変わる。
苛立ちから、男はミノスの顔を殴りつける。
けれど、笑い声は鳴り止まない。
さらに殴る。
けれど止まらない。
何度も、何度も。満身の力を込めてミノスの顔面に拳を振り下ろす。
彼の声が途絶えるまで、彼の声が聞こえなくなるまで何度も繰り返す。
けれど鳴り止まない。収まらない。むしろ、次第に大きくなっていく。
鼻を折ろうと、頬骨を砕こうと、いくつものあざを作ろうと。
壊れた玩具のように、彼の笑い声は牢に響き渡りこだまする。
男の腕はミノスの血で真っ赤に染まって行く。
だが、それでも、男の手は止まらない。もはやそこにミノスに対する苛立ちはなかった。ただ得体の知れぬ何かに対する恐怖のみが、男に拳を振り下ろさせていた。
あまりにも異様な光景。異質な状況。それをそばで見守っていた老人は、膝を抱えて震えていた。
早くこの悪夢が終わることを願って。信じてもいない神様に老人は祈りを捧げる。
その願いを神が聞き届けたかは知らないが、牢屋の中に響き続けていた音が、止まった。
「……では、せっかくですから貴方に神を見せて上げましょう」
ミノスはよろよろと立ち上がると、おぼつかない足取りで枝垂れかかるように男に近寄っていく。
「く、くるな」
ミノスが一歩近寄るごとに、男の足が一歩、退いていく。
先ほどまでの威勢は一体どこへ消えたのか。男はまるで悪魔に怯える子供のようだ。目を潤ませて、手のひらを前に突き出して、ミノスを制止しようとする。
だが、狭い室内では逃げ場などすぐになくなってしまった。
男の背中に硬いものがぶつかる。
顔だけを向けると、そこには見慣れた石壁があった。
「捕まえた」
しなだれ掛かるミノスが、彼の耳元にそう囁く。
「怖がらなくていい。時期に何もかもが、どうでもよくなる」
その言葉が聞こえたかと思うと、男の視界が黒に染まった。
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