ココア
あれから一年が経った。桜の季節も過ぎ、梅雨も過ぎ、季節はすっかり夏だ。
幸運なことに事務職の就職が決まり、大学生活も残りわずか。あれからすぐ始めたバイトにも慣れて充実した日々を送っている。
「あ、ここどうぞ。私次降りるので」
小さい子をふたり連れたお母さんに座席を譲った。バスはもうすぐ目的地に着く。
先生は元気だろうか。この前新しく出ていた本が店頭に並んでいるのを見た。相変わらずとてもよく売れているようで、前で立ち尽くす私の横から何人もの人が本を手に取っていた。
先生はテレビや雑誌の取材を受けない。珍しく雑誌に出ていると思ったら、取材・文章のところに『川上ひとみ』と書かれていた。前に家に来たことのある女の人だ。その事実にじりっと胸が痛むほどにはまだ私は先生のことを忘れられていない。
バスは目的地に着いた。大学を卒業するまでの少しの間、ゼミの先生のツテである企業の事務のバイトをすることになったのだ。今日はその初日。緊張しながらも気合を入れる。
学生時代にはあまり来ることのなかったオフィス街。スーツの男女が忙しなく行き来している。私も就職したらあんな風になれるのかな。かなり不安だけれど。
バスを降りて立ち尽くしていたら、ドンっと右側に衝撃が走った。それと同時にバサバサと書類が落ちる音。
「あ、すみません!」
「いえ、こちらこそ……あ」
そこにいたのは、よく知る人だった。
「ひよりさん……」
「原田さん……」
そうか、原田さんの出版社もこの近くだった気がする。一瞬ドキッとするけれど、先生が出版社に出向くことは滅多にない。遭遇することは奇跡的な確率。
「お元気そうですね」
「ええ、原田さんも……」
書類を拾いながら答える。そういえば原田さんには何の挨拶もせずにやめてしまった。
「大丈夫ですよ、痴情のもつれなんてこの世界にはありふれています」
「そ、そんなんじゃありません!……たぶん」
ややこしいところだ。お母さんと先生の痴情のもつれ?そこに私も入ってしまった?……だいぶややこしい。
「……先生はお元気ですか?」
「そのうち猫と結婚すると言い出しそうです」
ぷっと吹き出してしまった。シロと仲良くやっているようで何よりだ。
「ひよりさん」
「はい」
「本当にもう、会わないつもりですか」
ストレートにぶつけられて言葉を失う。会わない、と躊躇なく答えなければならない。お姉ちゃんはあの日、「さよならしてきた」と言ったら「そう」とだけ答えてそれ以来何も言わない。お姉ちゃんがどう思っているのかは分からない、けれど。
「……会いたい、です」
会いたい。会いたい会いたい会いたい。私はまだ先生のことがたまらなく好きだ。嘘をついたことを謝りたいし、ちゃんと話もしたい。でも、私のわがままでお姉ちゃんを傷付けることはできないんだ。きっと私の知らないところでたくさん傷付いて我慢してきたお姉ちゃんを。
「……二人とも、優しすぎるんですね」
「え?」
「二人とも、自分をもう少し許してあげてもいいんじゃないですか?」
許す……、自分を?先生はとても優しい人だから、きっと自分を責めている。私は……
「どうしたら、いいんでしょう。私には分かりません……」
「先生も分からないでしょうね。でも……」
「でも?」
「わざわざひよりさんに言う必要はないと思いますが……、先生は、とても優しい人です」
春の優しい風がふわりと頬を撫でた。蝶が舞うように、すとんと胸の中に落ちた言葉。
「そうですね」
あの、花が咲き誇る綺麗な広い庭。蝶が舞い、蜂が蜜を求め、鳥が遊ぶ。それらを見つめる私の隣に、先生がいる。何も話さなくても、ただそばにいるだけでよかった。
「原田さん」
「はい」
「私少し、考えてみます」
姉に許してもらう方法を。先生のそばにいる方法を。先生が、もう一度私と向き合ってくれる方法を。
「きっと先生は、ひよりさんを待っていると思いますよ」
だって最近、先生はココアしか飲まないんですよ。
そう言った原田さんにまた笑ってしまった。あまり繋がっているようには思えないけれど、原田さんの中ではきっと繋がっているのだろう。
書類を拾い終わると、原田さんと別れた。さあ、バイトに行こう。ひらひらと舞う桜の花びらさえ、私を応援してくれているかのようだった。
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