選択

 会わない、会う。忘れない、忘れる。大切にしない、大切にする。……諦めない、諦める。どうしたって二択になる。お姉ちゃんと、先生。……私には、そこから一つしか、選べないのだ。


「先生、やめさせてください」


 先生は無表情で私を見つめていた。今のところ私の目から涙は零れない。


「もうここには来ません」

「ダメ、っつったら?」

「……、無理です」


 初めて出会った時、すぐに目の前の男の人が『広瀬祐二郎』だと分かった。お姉ちゃんに何度も写真を見せられていたから。

 でも、イメージはすぐに変わった。私の中でその人は女の人を誑かし、騙すような人。なのに目の前にいるその人はぶっきらぼうで、けれど温かい。不器用で優しい人。

 男の人に『来るか?』なんて言われても絶対についていったりしない。そもそも男の人苦手だし。『広瀬祐二郎』という人が、お母さんが好きになった人が、どんな人だったのか興味があったのも事実。でも、一番は。


『大丈夫か?』


 心の底から私を心配しているようなその人の目が、温かくて。もっとその温かさに包まれていたいと思ったのだ。まるでひだまりのような、それに。


「……昨日、」

「え?」

「昨日、そこで話してたの聞いた。俺、お前に恨まれてたのか?」


 心臓がキンと冷えた。あれを聞かれていたのだ。お姉ちゃんとの会話を。

 違う。恨んでなんかない。確かにお母さんを奪われたのは事実かもしれない。でも正直あまり覚えていないお母さんよりも、私達を捨てて身勝手にいなくなったお母さんよりも、……先生と過ごしたこの家が、時間が、私にとってはすごくすごく大事なものになっていた。


「……はい」


 ごめんなさい。嘘をついてごめんなさい。でも私には、お姉ちゃんを裏切ることなんてできない。捨てることなんてできない。


「……理由は」

「金村かすみ……、知ってますよね」


 お母さんの名前を出した。先生の目が大きく見開かれた。それが答えだった。


「私はその人の……、娘です」


 先生の口から小さく驚きの吐息が洩れた。


「先生に殺されたひとの、娘です」


 小さく息を吐いた。その時お母さんと先生の間にどんなやりとりがあったのかは分からない。心中しようとするほど思い詰めて、少しでも私たち娘の顔を思い出してはくれなかったのかとも思う。私たちが先生にこんな感情を向けるのも筋違いなのかもしれない。……でも、お姉ちゃんは私が先生と会うのを許さない。

 会いたい。離れたくない。そばにいたい。そんな感情を私が持つことすら、許されない。


「……そうか」


 先生はそれしか言わなかった。窓を殴る雨粒の音が大きくなる。あ、洗濯物……と思ったけれど、もうここに私の居場所はないのだ。

 シロが近付いてきて私の膝の上で丸くなった。温もりがじんわりと私の心の中にひだまりを作っていく。大切だった、全部。先生と過ごしたこの家での全ての時間が、大切だった。


「……私、帰りますね」


 最後に先生の姿を目に焼き付けておこうかとも思った。ボサボサな髪、何日も剃っていない無精髭、3日は洗濯していない甚平。お世辞にも清潔とは言えない先生のいつもの姿を。

 でも、忘れなくちゃいけない。心の中で想い続けるなんて辛くてできない。私は知ってしまっている。温もりを、キスの温度を、大切だと言われた時の何物にも替えられない幸せを。


「ひより」

「っ、」

「風邪引くなよ」


 何も言わずに家を出た。雨が体を濡らしていく。傘は差さない。雨が隠してくれる。先生への気持ちを洗い流すかのように流れる涙を。


「せん、せい」


 本当は、大好き。恨んでなんかない。本当はもっとずっと一緒にいたかった。

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