10 Anyone

 栫は妹の言葉を聞きながら、2つ上の棚に厚く大きな本を見つけた。

 手を伸ばすと書棚の埃が落ちてきたが本そのものは汚れてはいなかった。つまり、最近追加された本と言うことだ。

 何とか片手で持てる厚さと重さ。大学に並ぶ書物としてはそれほど珍しいことでもない。この厚さにうんざりするものとときめきを覚えるものは互いを未来永劫相容れることはないのだろう。

 間違いなくときめきを覚えるだろう塞はまだ何かを語っているが、ナツノはそれをとても嬉しそうに聞いている。ある意味『天使』が真っ向から否定されているわけだけれど、熱心に研究していることは事実なので、それが嬉しいのかもしれない。

 机に本を下ろし広げて見ると、わかりやすいほどの宗教美術の作品が並んでいた。

「あ、見つけたの」

「これなのかな」

「受胎告知か、わかりやすいね」

 受胎告知。

 それは宗教を知らなくとも何となく耳にしたことがある単語である。

 絵も想像の範囲である。

 そしてここで『マリア』という名前を出そうものなら塞の語りが滝から弾丸に変わることは想像できる。ヘブライ聖書――一般に言われる旧約聖書と新約聖書を混同すればどうなるかはわかっている。

 これ以上教授の部屋に居座るのも悪いので、本を返しておくのでと言いながら預かり、ロビーへ移動した。各階に用意されている休憩室と言う名の階段前の空き空間であるが、2月には特に学生が溜まっていることもない。そもそも、現在は大学試験中である。

 ところで、と塞がパラパラと紙を捲りながら、その絵を興味深そうに覗き込む藜に言葉を向ける。ナツノはその手にある『天使』の絵よりも、語り合う2人をとても嬉しそうに見つめている。

「気になっていたんだけどね、栫」

 てっきり藜を呼ぶのかと思えば指名されて不思議そうに視線を向ける。ここまで同行したけれど、これ以上栫にすることがあるとも思っていなかったので、出来るのなら早く山に戻りたいところなのだけれど。


「天使がいなくて、それが何なの」


 ナツノに向けるでもなく、塞は淡々とそう言い放った。

 先ほどの饒舌さはあくまで己の研究について語る学者肌の自己紹介のようなもので、ナツノのために熱心に語っていたわけではないと承知はしているが、それはずいぶんな言葉でもあった。初対面の相手に礼儀以上のものを向ける質でもないが。

「え?」

 探すことに興味がないと言うことはわかるが、それが何かと問われる真意がわからず首を傾げると、同じように首を傾げられた。

「だからさ、仮に私が天に仕えるものだとしよう。いやまあただの人間でもいい。神というものを信じている信仰深い民族だったとしよう。天に祈りを捧げ、空を見上げて、天使がいなくて、それが何か?」

 天を見上げ、天使がいないそんな空間。

 それを見て。


「――神が死んだわけでもあるまいし」


 冷静に、冷徹に、けれど当然に言い放たれた言葉に、どこかにそんなことを言った者もいたな、と明後日に思考を飛ばす。

「でも、ナツノは気にしてるんだし、色々あるんじゃないのか」

 天の存在そのものがいまいち受け止めきれないとは言え、ナツノが『普通ではない』ことは事実であり、その存在が『天使の不在』を嘆いて降りてきたのである。

 あの、白い月から。

「…………まあ、天も神も御使いも伝承だし実際のことなんてわからないけど」

 その、伝承を話そうかと塞が綺麗に指を立てた。

「天使…………御使いを聖書の中でいくつかのパターンに分類分け出来るんだけど、何だと思う」

 言いかけては停止させるほどにその単語が苦手らしい塞にナツノに視線を向けるが、やはりひどく嬉しそうな顔をしている。ナツノが白い月から降りてきた理由を全否定していると言うのに。

「ええと、先ほどの話からすると名前の有無かな」

 答える藜に視線を向ける。塞が前衛的と呼ぶ絵を描く以外は非常に成績も頭も良い。先ほどの話を脳内で箇条書きにしているのだろう。

「うん、理解が早いね。文献の中で存在が明確になっている御使いもいる。ただそれだと、『そうでない御使い』がざっくりしすぎている」

「……ざっくりするほどいるの?」

「いるんだ、これが。まあ先ほど言った分類としてはね、『物語』とそうでない、という方がわかりやすい。つまり『御使い』として表現しようとしたものと、そうでないもの。物語としてはヘブライ聖書の中でざっくりと『サラの受胎告知』『マノアの受胎告知』『モーセの召命』『ギデオンの召命』『ソドムとゴモラ』『バラムとロバ』、それから存在がこの6つと異なる『ゼカリヤ書』と『ダニエル書』がある」

 先生、ついていけません。

 藜の挙げる手に軽く同意しながら、『受胎告知』と言う言葉に美術書に視線を落とした。ヘブライ聖書においてもそれは存在すると言うことなのだろう。

「ダニエル書にはミカエルとガブリエルが出てくると言えば聖書を知らない人間にもわかりやすいだろう」

「すごくよくわかった」

 つまり、塞にとって興味のない『天使』だな、と。

「決して興味がないわけではないんだけど、研究材料にはならないな。分類分けには使わせてもらうし、どこの御使いから継承されてそうなったのかは興味あるよ。まあ、先にこちらの書があった可能性もあるけどね」

「先に?」

「作品の寄せ集めみたいなものだからね」

 時代背景と文献は密接に関係するため、当然にその研究分野も存在するが、それは塞の専門分野ではない。研究外の人からすればすべて同じに見えるとしても。

「物語の主要なものとしてではなく登場する御使いはその名の通り使いとして登場していたのだけど、徐々に様相も変わってくる。というか、その話によって存在が異なると言うべきかな」

「統一性がないのなら、ひとつの名前でくくる方が無理があるんじゃ」

「それだ――まさに、それなんだよ。つまり、天のなすべきことについて説明しようとするすべてを御使いに押しつけているんだ。けれどヘブライ聖書は一神教だから低級神を登場させることは出来ない」

「そうだったね」

 当時は都市ごとに神話が存在することもあり、多神教の方が多かった。一神教を広めるための書物に、低級神を登場させることは避けたため口伝を文字に起こした時に歪みが生じたことも否めない。

「そして。神を登場させることも出来ない」

「え?」

 栫の声にナツノも軽く反応を示した。

 神を讃える話も多く、登場することは多々あるはずであるが。

「まあ出てはくるんだけど、それを歌い上げるものや神託を持って登場するもののパートの方が長いね」

「それは、そうだね。そのための天使だし」

「そう、――そのための御使いなんだ」

 す、と塞の声音が元に戻る。冷静で、冷徹で。

 だから、と。


「天使がいなくて、それが何なの」


「あ」

 そうなのだ。

 神に仕えているらしきナツノがいるのなら、天使がいなくて何だというのか。

 するりと視線がナツノに向けられる。

 ナツノは天使を探していると言ったが、正確には違う。『ヒトが天使と呼ぶもの』と言った。それは、塞が指す『御使い』とは異なる。けれど本来『それ』が天にいるはずなのだ――あくまで、伝承的には。

 それを知る人間は少ないが。

 つまり。

「……ひとつ、御使いの話をしようか」

「え?」

 ここまで来てエピソードに戻る塞の言葉に、藜は不思議そうに首を傾げた。

「――セナケリブの退陣。当時の戦争の話だ。そこに御使いが降りてきて、敵を一掃してくれる」

「ああ、信仰している人からしたらよくありそうなエピソードだね」

「列王記下の19章、イザヤ書37章、そして歴代誌下32章」

「――ええと」

 さらさらと節まで続けられても、と呟くと塞は多少不思議そうな顔をしてから、完全に脳に収納されているのだろうヘブライ聖書を音読し始めた。

 


 その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きてみると、なんと、彼らは皆、死体となっていた。(王下19:35/イザ37:36)


 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに祈りを捧げ、天に叫びを求めた。

 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。(代下32:20-21)



「まあ、同じ話だけど。複数の書にこれが登場すると言うことは、実際にあった出来事だという可能性が高い。疫病だったと言われているけどね」

「ああ、なるほど」

 疫病により敵が全滅したことを、神の怒りを買ったのだと思う時代背景は理解できる。それにしてもずいぶんと具体的な数字ではあるが。

「面白い数字だよね。当時これだけの人間が戦場に出ていたとも思えないけど、まあそれはいい。問題は、『ひとりの御使い』を遣わしたわけだ。ずいぶんと強いね。1対18万5千」

「超人的な力というか、まああくまで表現でしょう」

 あくまで表現という言葉に、それと塞が指をさす。

「そう。あくまで表現だ。別にひとりの人型、たとえばイメージ的な大天使ミカエルみたいなのが剣を持ち、ばっさばさと10万人以上を相手にしたわけじゃあない。少なくともこの頃は御使いに形はなかった。にもかかわらず、数字が示されるのさ。――ひとりの御使いと」 

 それがまるでとても重要なことのように塞は語る。

 嬉しそうな顔をしていたナツノも少し困ったように手元の美術書に視線を向けている。

「ひとりだと、何かあるの」

「『ひとつ』というキーワードは非常に重要なものなんだよ」


 一神教においてはね。


「…………」

 思考がすとん、と止まる。

 低級神の存在を何とか排除しようとする伝承の中で、あえて『ひとり』と表現しなくてはならない『御使い』。

「おいそれと神を登場させることは出来ないと言ったね。その一方で天の力を御使いと表現することが多い」

「……神そのものを表現してはいけない、抑止力。つまり御使いというのは、」


「『アドナーイ』と同じだよ」


 神自身が出てきたら、御使いと、置き換えなさい。


「ねえ、ナツノ」


 君達は『何』で、君は『何』だと――最初に言ったかな。

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