08 Ground
島崎新はパソコンのコンセントを抜こうと手を伸ばし、寸でのところで学生に止められた。
言うことを聞かない上に、画面が固まったのだ。これはもう命の供給を止める以外に方法はあるまい。
「いえ、ありますから。電源を正常終了しないとパソコンの寿命が1年縮みますよ。この学科、予算ないでしょう」
「医学部がないから寄付が少ないのだ。私の学科限定で予算が少ないわけじゃないぞ」
「それは知っていますが、やめてください。ストロベリーカラーが泣きます」
よく分からないが、パソコンの割に球形フォルムの赤い透明の機体は学生のお気に入りらしい。以前これを見た時、ものすごく複雑な表情をしていた。論文提出はどうせワードでしょうとか窓を林檎に変換するとか画像じゃないのに何でおとなしく窓にしないんだとか窓も扱えないのに宝の持ち腐れだとか散々吐き出し挙げ句、嬉々として初期設定とやらをしていた。パソコンを立ち上げるたびに『良く来たな諸君!歓迎しよう!』と叫ぶのも初期設定らしい。コンピューターは日々進歩していまいちよく分からない。
「なら何とかしろ」
「します。そっちに座っていてください。──あ、そちらに立ってるのは私の兄で高里栫と言います」
「おや。似て……いないな。似ているように見えたんだがな」
顔を見た瞬間は瓜二つに見えたのだがよく見てみれば全く顔立ちが違う。否、顔の造りは似ているのだが、似ていない。
「よく言われます。初めまして、塞がお世話になっております」
「ああ、色々しているぞ」
「全然専門の指導してくれてないじゃないですか」
学生は不満そうな声で、けれどちっとも気にした様子なくパソコンから視線を向ける。実際、学生にこれと言った指導はしていないし、これと言った指導を要求もしてこない。何をどうすればいいのか一から十まで教えなくてはならない者もいる中でかなり特殊ではある。しかし逆にこちらの指導を飲ませるのもかなり困難でもある。確立してしまっている人間への指導と言うのは、それはそれで大変なのだ。結果、学生に与えるのは参考文献や学会の資料、外国の論文である。古代言語にはかなり興味がある割に英語やドイツ語は苦手なようで学士論文を与えるとあからさまに困った顔をする。
そう言えば、名前は何と言ったか。
「さすがに、すごい本の量ですね」
「君も学生ではないのか」
「天文学を専攻にしている院生です。勿論学術書も多いですが最近は外にばかりいるので、あ、これ天動説の絵ですね、いいなあ…。あ、でもそうなると昼の月ってどういう分類になるのかな…」
自己紹介の途中で自分の世界に入ってしまった。まあ学者や研究者は大抵こんなものだからあまり気にはならないが、しかし。
「ふうん。では君はヘブライ聖書に興味はないのだね」
その言葉に学生の兄はふ、と顔を上げ。
ううん、と首を傾げた。不思議な仕草だ。
「一応最近塞に借りたばかりですが。後は、創世記くらいは知ってますね」
「知っている、ね。物語は流布しているが、まあ知らないよりはましか」
「専門の教授からすれば全然知らないのと同列だとは思いますが。借りたのは、これです」
左手で天動説の図版を広げながら器用に右手で鞄から本を取り出す。素直に置けばいいものを。
「うん?イザヤ書と……列王記か。また意味のない貸し方を。いや、ある意味興味深いものではあるが」
「意味がない?」
「ああ、読んでみれば分かる。ようするに、被っているんだ内容が」
そうは言っても長い話の中の、2章から3章程度の話だが。
しかし第一イザヤの最後を飾る話でもある。それだけにいかにも伝説のような話である。第一イザヤ、と突然説明したところで通じはしないだろうが。
「列王記はその名の通り、王の列伝だ。そしてその王の側で預言をすれば、まあ被ることもある」
「ああ、なるほど。では全く同じ内容なのですか」
「うん…。いやまあそれは違うな。だから興味深いと言ったのだが。文章は多少変わっていなくもないが、ほぼそのままだ。けれど、そのままと思えないというか、流れの問題もあるが」
どこに話が挿入されるかで感じ方ががらりと変わることは事実だろう。列王記とイザヤ書ではそうでもないが。そう言えば学生は以前預言書のゼミ発表を順番にさせた時、代表的なイザヤを選んだ。代表的というのは資料もある一方で誰でも知っているものなので発表するに諸刃の剣であるのだが。
「まあ、……歴史書と予言書じゃ違いますよね」
「それは君が違う」
「え」
「預言者は確かにあらかじめ語るというところから来ているが、日本の言語で言うのなら言葉を預かる者とも書く。それで混乱を生じさせたのではあるが…。預言と予言は意味が違う」
よげんよげんと言っても通じるものではない。棚にある資料をひとつ引き抜くとその比較する文字を指示してやった。
「預言者というのは、原典からそのまま訳すと単純に『語る者』とある。その後の言語からは『前で語るもの』とあるな。これは『時間』的な前と、『空間』的な前の双方に取れる接頭語にあたる。時間的な前ならば当然、未来を語るということだ。予め語ると言うことだな。まあ神の声を預かるとも言えるが、別段神が未来ばかりを語らせようとするものではない。すでに起こったことへの罰もありうるし、単純に悔い改めを指導することもある。空間的な前で、と言うのなら神の前や人の前だ。神の前で語るとすれば、日本的に言うと巫女などが浮かぶだろう。これも神に近い。一般的な預言者というイメージに沿うものなのかもしれないな。しかし人の前、であればこれはね君。演説だよ」
「──ああ」
「演説するものといえば普通に現代で考えて、君は何を浮かべる」
「政治家、ですか」
そういうことだ。ようは、そういうことなのである。
例え、政教分離していない時代だったとしても、王はいたのだ。王がいたのなら、その臣下も、当然いた。
「そう。先導者や、啓蒙者だ。それは予言とは全く別のものだ。イザヤは、確かに神の声を聞いたものだけれど。――まあ、読む前の者に話すこともないか」
「あ、はい。それはいずれ読もうと思いますが」
学生の兄が、ああそうだ、とのんびりとした口調で自分自身の言葉を遮った。中々器用である。
「ここに、天使学の基本テキストってありますか」
「天使学? ああ、いわゆる天使学はこの学科としては扱っていないが、楠本君のところならあるんじゃないのかな」
「美術の専門ですよね」
名前を言っても他大学の人間には分からないだろう。確か、と言いかけたところで学生がいつの間にか後ろに立っていた。パソコンに目を向けると起動音を鳴らしながら画面を光らせている。どうやら直ったようだ。
「そう、宗教美術の専門だな」
「それなら尚更ここに資料があると思います。この前山口さんが他の教授が置いていった資料をその隅にまとめてましたから。あの先生、忘れ物多いでしょう」
「かなりな」
講義に資料を持ってくるのを忘れて、持ってきたら持ってきたで置き忘れていく。学生ならばよく知っているだろう。しかしいつの間にか本棚にも増えていたらしい。本棚は大抵助手達が整理しているから手近な部分以外はどうなっているのかよく分からない。
「何だ、兄くんは天使学をやるのか。まあそれならイザヤ書にはセラフィムもケルビムも出てくるからちょうどいいのかもしれないが」
「知人が必要なんですが。そうなんだ」
学生の兄は、後半を学生に向かって問いかけた。
当然に当然のことなので、学生は是と即答するはずなのだが、多少驚いたように目を瞬かせ、兄がしたのと同じように軽く首を傾げた。
「そう――だったかな。出ていたことは覚えてるけど、あんまり名前のある御使いには興味がなくて」
いくら『そういった』天使に興味がないとしても珍しい反応ではある。
まるでイザヤ書の見所はそこではないというかのよう、に。
「――ああ、そうか」
確かにそれはそうだ。
『御使い』の専門であれば、『そんなもの』は後回しだろう。
何せ、『御使い』が主役なのだから。
「主役?」
「ああ、そうだ。神の声を聞き、それを人間に伝え語る者だからね。ようするにそれは、使いだろう。神の、使いさ」
「あ」
それは、確かに学生の専門。
「代表的な、御使いだ」
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