06 Hospital

「そこで宇宙人の方か、になる栫の思考回路に遺憾の意を感じるよ」

「遺憾の意は若干違う意味かと思うけど。取り敢えずこういう時って、俺が病院から連れ戻されるべきなんじゃないかと思うのだけれど」

「甘いね、栫。ちょうどいいから見てもらおうという兄を想う心は継続されるものなのよ」

「兄を想う妹は、兄を呼び捨てにはしないと思うけど」

「一人の人間として認めているという何よりの証拠じゃない」

 鳥問は塞が『前衛的』と表現した自動二輪にまたがり、不思議そうにそれを見つめるナツノと栫が名付けた─と言っていいだろう─少年を目で追った。

 兄妹の会話は続いている。2人の珍妙な会話は今に始まったことでもない。栫はそれなりに、恐らく一般的にはかなり妹思いであるし、塞はやはり一般的にかなり兄好きである。けれど不思議に会話はキャッチボールにならない。お互い酷く冷静な変化球同士で投げ合い、打ち返さない。にも関わらず会話は成り立つ。今日などはかなり会話になっている方だ。

 ナツノはまだ不思議そうに自動二輪を見つめている。

「天使様だね」

「ああ、それが気になったのか。そう、これは天使ケルビムだよ」

「その発言に異議あり」

 当たり前に頷くとすぐさま却下が飛んできた。塞に言わせればその通りなのだろうが、美術的な意味では確かにこれは天使である。それに、この天使を探しているらしき少年も、これを天使と認識しているようだ。それを口にすると塞はひどく不愉快そうな顔をした。ついで、ナツノを見つめる。

「それは、まあ確かに天使と想像されたものではある。一般的カテゴリの『天使』より、より具体的なケルビムと名前のあるものだけれど。それでも『天使ケルビム』は言語的におかしい。ケルビムは複数形、そこには1人しか描かれていないなら『ケルブ』と表現すべきでしょう。まあケルビムと表現しておいて1つしか描写が無いことはよくあるからそこまで単数複数を深く言及してはいないのだろうけど。ケルビムが登場するのは少ないからね。分類別にしても旧約聖書で5つだし。そのほとんどがエゼキエル書としても、創世記や出エジプト記にも登場する。具体的な名前で出てくることで有名だけれど、そんな子供の姿では記されていないし、実際ケルビムが最初に描かれたときはむしろ獣としてあるいは乗り物として表現されているんだ。『主の玉座』としてと『守護獣』としてのイメージが本来的だし。その辺に売られている天使階級を記したような本は確かにあるけれど、それでもやはり子供の姿とは表現されてない……まあ、これは余談か」

 すべてが余談です、と口を挟める強者は栫だけだろう。そして該当者は昨日撮った写真を広げて首を捻っている。

「ええと、塞。これはあくまで美術的な意味での天使であって」

 このままエゼキエル書の引用文まで飛んでしまいそうな勢いだったのであわてて間に言葉をはさむと、一瞬眉を寄せたが、ナツノに気づいて溜め息とともに言葉を止めた。ナツノは、自らの言葉への完全否定にも関わらず、喜色を浮かべている。

「そもそも天という概念がおかしいでしょう。神とか天使とかって言うのは、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教から派生したものなのに、天それ自体は東洋思想なんだから。天使という言葉自体、和洋折衷じゃないの」

「ま、まあ天使という言葉が日本語だから仕方ないんじゃ…」

「和訳した時点で主観が入ることは仕方が無いけどね。だからこそ原典を研究するんでしょう。大体、angelと言う言葉自体に天使という意味はないでしょう。ギリシャ語やラテン語ではあくまで使者という意味で、まあようするにそれが御使いを指すわけだけれどそれならあくまで御使いでいいのよ。天使論が出てきたのは中世ではあるけど旧約聖書といえば紀元前に出来た物語だからそれまでに色々な伝承が混じって新しい概念が生まれるのは当然といえば当然なんだけれど」

 大変興味深い話なのは確かなのだが、こうなってしまうといつ止めればいいのかが分からない。鳥問は軽く息を吐いた。あまり興味のない法学部の授業に出席していた頃、将来の試験で必要にならない箇所に来ると熱弁する講師がいたが。だからこそ、塞はあまりにも学生であるべき学生なのだ。役に立たないものほど面白いとはまさにだ。

 だが。

「あのさあ。それってこの2つの本に載ってるの」

「2つの本?」

 いつの間にか脇に立っていた栫は暢気そうに、あるいは眠そうに、何かの本を塞に差し出した。

 『列王記』と『イザヤ書』。


 かちん、と。何かが鳴った。


 それは。

 ――載っている。

 けれどそれは、それはそうではなくて。

 ケルビムだとか、そういう問題ではなくて。

 その本に、は。


「主の玉座と言う種類でなら、載ってる」

 何故か飛びかけた思考に、冷静な塞の声が重なった。

 2人の会話から目を離して、ナツノに視線を向ける。

 そしてゆっくり辺りを見回した。何もおかしなところはない。本も、ただの本である。ただの本でしかない。

 鳥問は大きく息を吐いた。何に動揺していたのか。もう忘れた。忘れるのは、記憶しなくても良いようなことだからだ。『記憶しなくても良い』ことには3つの分類があるけれど、そんなものはどうでもいい。そういうことに興味がある、塞が分かっていればいいのだ。

「ナツノが探している『天使様』はね、これに関係するみたいなんだ」

「そう」

 なの、と塞がナツノに声を向ける。ナツノはただ、嬉しそうに。

「ヒトが天使と呼ぶものだよ」

 ただそう言った。

「それだけじゃ分かりにくいな」

「分かる分からないの前に、それは私達に関係ないでしょう」

「あるよ」

 栫はやはり暢気そうに笑う。


「だって、天使様探し引き受けちゃったから」


 ぶちり、と何かが鳴った気がしたのはきっと気のせいだろう。

 関係は無いけれど。病院の前で良かったと何とはなしに思ってみた。




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