03 Summit

 高里栫は山頂でいつものように空を見上げていた。

 学外の人間は、それが栫の学問のためだと思っているようだが、実際のところ天文学を勉強するのにそこまで望遠鏡での観測に意味はない。学問として行うのならそれこそ研究室に閉じこもって学術書や論文でも漁っている方が良いし、実際の星の動きを観察するのなら学生に買える程度の望遠鏡は役に立たない。趣味の範囲ならともかく、正確な論文用としては。

 だから栫が山頂に居座っているのはただの趣味である。趣味が高じて大学院に進んだわけだからおかしなことではない。趣味が天体観測で、専門が天文学なだけである。

 そして今日も今日とて空を見上げている。

 季節は2月。キャンプとしてはオフシーズンだ。元々ハイキングやピクニック向きの山ではないが。季節柄肌寒いという気温ではない。刺すような寒さだ。それでも栫は震えることもなく座り込んでいる。

 時刻は11時。ただし夜ではなく昼だ。空に見えているものといえば白い月だけである。栫はそれにカメラのレンズを向けた。自分のためにではない。妹の塞がそれを好きだからだ。栫は宇宙が好きで、塞は空が好きだった。塞は、空は宇宙よりも広いと言う。科学的にそれは有り得ない話なのだが、何故か言い負かされてしまうのだ。だから高里家限定で、空は宇宙より広かった。けれどそれは別に栫にとってどうでもいいことだ。栫は、ただ。

 そこで、はたと思考が止まった。

 雑念ではないけれど。何かを考えながら撮った写真を、塞は嫌う。否、嫌うというより気づく。そしてたいていそれは塞の好みのアングルにならないのだ。頭を一つ振って、じっとレンズの中の月を見つめる。白い月。それはとても不思議な光景である。空の中に納まったその白い月。けれど月は宇宙のもので、空のものではない。空の枠組みに組み込まれているように錯覚するだけで、それはまったく別の存在なのだ。栫には、白い月と、宇宙の月が同一のものとどうしても思えないのだけれど。

 そう。あれは宇宙の月ではなくて、空の一部ではないのだろうか。空の月なのだ。空の中にも月があって、それがたまたま宇宙の月と良く似ている。それだけではないのか。あるいは、水面の月のようなものではないか。あれは、反射だ。けれど反射だとしてもそれはやはり宇宙のものだ。そうではないのだ。あれは空の月なのだ。

「───あ」

 カシャ。

 気づけば、また色々と思考したままシャッターを切ってしまったらしい。せっかく綺麗なアングルで取れたのに、きっと塞は気に入らない。残念だけれど、部屋に飾るとしよう。こうして研究室に白い月が増え続け、同期や教授に栫は月の専門と思われてしまうのだ。栫の専門は、星のないところにあるのに。

 ふう、と息を吐き出す。息は、白い。

「昼にしよう」

 小さく声を出して、両頬を軽く叩く。軽く昼食をとったら1度仮眠して夜に備えよう。ついでに論文を少し進めようか。そうなると1度山を下りなくてはならない。この季節は学会もないし、引き継ぎもないので4月になるまで山を下りなくてもいいのだ。せっかく山にいるのなら出来うる限り下りたくない。何か資料になるものはないかとテントに顔を突っ込むと塞に借りた本と教授から渡された資料が転がっていた。塞の本に手を伸ばす。塞のことだ。貸し出し用の本で、きっと自分で読む用に同じ本が部屋にあるのだろう。けれど返すのがあまりに遅くなるのも気が引ける。なるべく早く読んで、3月までに1度麓まで下りて郵送した方が良いだろう。

 タイトルに首を傾げる。軽いものと頼んだだけあって専門書しか読まない栫でも知っている有名どころの文学書が2冊、そして。──旧約聖書。塞の専門だ。「列王記」「イザヤ書」の2冊。栫は宗教についてはあまり知らないし、聖書を物語としてもあまり読んでいないがそれでもそれが、あまり「軽い」ものでないことだけは分かる。確かに旧約聖書はすべての物語を孕んだ原点と言われているし、実際物語として読める部分も多い。けれどそれならば「創世記」などを選ばないだろうか。

 ともかく。塞が選んだ以上はこの山頂でこの4冊を読むしかない。

 昼の準備――と言っても湯の中にレトルトを放り込むだけだ――をして火の前で待ちながら、頁を捲る。

 塞は列王記が好きだと言っていた。

 いつだっただろうか。高校生の時、大学進学と言った時、それはそうだろうと思った。塞は典型的な優等生で、真っ当な人生を真っ当に進むような気がしていた。引かれたレールではなくて、自ら真っ当なレールを補強してまっすぐに。

 だからきっと法学部とかそういう学部に進むものだと思っていたのだ。それなのに。進んだのは宗教学。正直、ぎょっとした。それでも金にもならない学部に進んで院まで行く予定だった栫に何か言えるわけもない。

 それに。結局それは栫と同じような気がしたのだ。

 自らを包む何かに、恋い焦がれている。

 ふう、と足元にマグカップを戻して空を見上げた。

 白い月が、浮いている。

 首に下げたままのカメラを再度構え直す。


 ぽっかりと浮いている、白い月。


 望遠レンズのついたカメラ。その中に。白い月。

「……え?」

 白い月と、何か。


 カシャ。


 あ、と。何を思うまでもなくシャッターを切っていた。きっと、塞好みの写真が撮れただろう。撮れただろうが。

 けれど今見えた何かは一体何だったのか。

 レンズから目を外し、その目で空を見つめると。そこに。


 少年が、落ちてきた。




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