White Box

鷹野

列伝壱

01 Library

 高里塞たかさとふさぎは教授のサインの入った入館証明書をカウンターに提示した。

 場所は塞が在籍している大学の図書館である。在校生が図書館に入館するのに、通常学生証で十分である。ただし、開架図書以外を閲覧したい場合は、端末で調べ職員に取ってきてもらわなくてはならない。必要な本が定まっている時にはそれでも構わないのだが、資料を探すとなれば書籍を開きながら中を確認したいと思うのは当然のことだ。しかし通常閉架図書と言うのは教授以外立入禁止である。そこで、塞は教授に頼み込み、卒論のために必要なのでと許可をもらったのである。

 塞は許可証を受け取ると室温の低い、暗い部屋に足を踏み入れた。

 図書館は当然静かだが、書庫は格段に静謐を保っている。静かと言うよりも、音が本によって消滅している。

 ぎしり、と物音がした方向へ視線を巡らすと職員らしき男性が塞の胸元の許可証を確認し、すぐに書棚に体を戻した。

 今から卒論の準備とは感心なことだとでも思っただろうか。今は、2月である。下旬ともなれば後期試験は終了し、入試のために在校生がむしろ敷地から締め出される季節だ。けれども図書館には学生が訪れる。否、自ら学びたいものはいつでも図書館に訪れており、それが2月になっても継続されているだけのことだ。

 けれど塞はまだ2年生である。卒論の準備にはあまりにも早い。とは言え、今の時代を思えば3年生から就職活動を開始しなくてはならない以上、2年から準備することは決して早過ぎるとは言えない。学生の本分、「学問」のために大学進学を選んだと胸を張って宣言できる人種ならば、全く早過ぎるものではない。もちろん、それが比較的少数派であることくらい塞は理解している。まして、文学部となれば。

 ふ、と小さく息を吐きだすとゆらゆらと空気が揺れた。窓─位置的に1階の足元だろう─から漏れる光に照らされている部分だけ、はっきりと空気の存在を主張する。

 揺れる空気を目線で追いそうになり、はたと意識を書棚に戻した。塞は「そういう」ことを考えてぼんやりすることは好きだが、今は資料を探すことが最優先である。あらかじめ聞いていた書棚の位置へ足を向けるとその手前当たりで目的の分類番号を見つけた。

 「宗教学」。それが、塞が専攻する学問である。正確には「旧約聖書」専攻。古代ヘブライ語の原典から研究している。その関係で学外では表向きに「古代言語学」を専攻していると説明している。そうでもしないと、「キリスト教」と「ユダヤ教」の違いを理解できず、まして「旧約聖書」と「新約聖書」を理解できない人間に様々な誤解を受けるからだ。

 己の研究は、己さえ理解していればいい。

 そこまでは思わないまでも、同じ学科生と教授が分かれば専門学など十分であろう。学者になるわけでもない。

「…無理だな」

 大学院に行って研究を続けたい気はある。しかし恐らく無理だろう。理由は3つ。単純に、金がない。文学部とは言え私立の大学まできちんと進学させてくれた両親に、これ以上の負担はかけられない。まして兄がすでに大学院に進学している以上、女の立場で院まで進みたいとは言えない。奨学金をもらえたとしても、子供にかかるお金と言うのはそれだけではないのだ。そしてもう1つは、就職氷河期。理数系特に工学ならともかく、院まで進んだ文学部の女子学生に就職先が見つかるとは思えない。それではまったく意味がない。大学を出ておきながら遊んでいられる明治文学に登場するような男性陣身分ではないのだ。そして最後の1つ。これが決定打だ。苦学生になりながら、無難な就職先を蹴ってまで、院に進む気がないのだ。行ける身分なら行きたい。その程度だからだ。それに。

「…卒論が書ければいい」

 結局のところ。そこである。塞はただ、書きたい卒論があるから大学の進学を選んだのである。そしてそれさえ達成出来ればそれで良い。その先に何かを見つけたところで、あの日あの時に受けた衝撃を、卒業論文として「どんな研究であろうと好きに書いていいそしてそれが学問と認められる唯一の自由時間」を大いに使って書き切れれば、それで良いのだ。

 視線を上げる。キリスト教、と言うカテゴリを通り抜けて、聖書学の棚を見つめる。各文書ごとの注釈書。塞の目的はそれだ。

「…結構あるな」

 口に出して少し視線を落とした。見たところ、本棚2つ分。すべての書籍を引き抜き、必要箇所をコピーする。そうなると、とても今日中には終わらないだろう。出版社ごとにコピーするか。それとも各文書ごとにコピーするか。すぐにでも書き始めるわけではないが。文書ごとの方が後で効率がいいだろう。

 では、と1番上に手を伸ばそうとして。

「届かないだろ、そこじゃ」

 背後から声が響いた。

「…うん。台を持ってくればよかったと思っているところ」

「ついでに抜いた本を入れておく台車なんかも持ってきてみました」

「すごく助かるけど、どうやって入ったの。ついでに、それを引きずってくる音、しなかったけど」

 突然かかった声の持ち主、法学部の鳥問藜とりといあかざに振り向くと、ははと軽い笑い声が書棚に吸い込まれた。

「画家に不可能はない」

「いつから画家はナポレオンと同義になったの」

 鳥問は、正確には法学部の学生ではない。休学中は在校生とは表現されるのだろうが、法学部学生と表現して良いのか判断の難しいところだ。どちらにしても、このナポレオンは法学部には似つかわしくない。自分ルールが多過ぎるからだ。

「まあ細かい話はいいさ。ここで話し始めたら塞筆頭に図書館職員に総スカンをくらう」

「正しい」

 一応「知識」と「情報」に礼儀は払う人となりなので、塞にとって本気で嫌悪する非常識さはないと言える。疲れる友人であることは確かだが。

「コピーする部分は塞じゃないと分からないだろう。力仕事手伝ってやる」

「それは助かる」

 軽く答えたが、かなり本気で感謝した。塞はそれはもう体力がない。腕力も脚力も持久力もない。あるとしたら精神力と集中力くらいだ。それは、恐らく常人のレベルを遥かに超える。鳥問が台車を静かに運んできたのではなくて、集中しすぎて聞こえなかっただけだからだ。

「その代わり、後でちょっと知識貸せ」

「いいよ。叩きのめしてあげよう」

「のめすな」

「じゃあ言い負かしてあげよう」

「まかすな」

 鳥問が休学している理由は「新しい自分」に目覚めたからである。それが何故画家なのかは疑問だが、新しい趣味を開拓したことは別段問題はない。問題だったのは鳥問の両親だ。父は大学教授、母は資産家の娘という、大変良いお家柄であったために、突然画家になるなどと言い出した娘を必死で止めたのである。結果として、休学というところに落ち着いた。ちなみに、鳥問の絵は、前衛的だ。

「天使画を書くのは自由だけど。私の前で言うな。それは私への挑戦状か果たし状か」

「せっかく天使を専門にしている人間が身近にいるんだ。ちょっとインスピレーションのために話が聞きたいってくらい普通だろう」

「天使じゃないと何回言えば分かるの」

「それがよく分からない」

「私の専門は、天使じゃない」


───御使いみつかいだ。

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