第15話

 記憶。小学四年生の記憶。

「ねえ珠菜、確認したいことがあるんだけど」

「どうしたの、芹ちゃん」

「私たちって小学四年生であって、四歳児じゃないわよね」

「うん、そうだけど?」

「だったら、これってどうなの?」

 ひどく不機嫌な面持ちで、芹は目前に広がる情景に目を向ける。

 カラフルな遊具のあふれる広い室内で小学四年生と大学生が一緒になってはしゃいでいた。

 近所の大学が提案した『ふれあいレクレーション』という活動の一環で、珠菜たちには大学生たちと楽しく遊ぶ時間が設けられていた。

 今は『どきどきトレジャーハンティングタイム』であり、室内に隠された宝物をみんなで探しているところだ。

「……やってられない」

 壁に背をあずけた状態で、芹は眉間にしわを寄せて冷めた声をおとす。

 それから四時間後。御暁芹の家にて。

「それじゃあ珠菜、入っていいわよ」

 呼ばれて部屋の扉を開けると、満面の笑みの芹に迎えられた。

「さあ、どこから探してもいいわよ」

 自分の家の台所よりも広い芹の部屋をぐるりと見わたす。

 学校の帰り道、突然宝探しゲームがしたいと言いだして、芹の部屋ですることになったのだ。

 主催者は芹、参加者は珠菜のみ。昼のイベントとは打って変わって、芹の機嫌は上々だった。

 芹から提示された宝物は一冊の青い本。珠菜はそれを探すことを求められている。

 芹の部屋には大きな本棚と、そこに並ぶたくさんの本がある。そして、普段は見たことのない脚立きゃたつもあった。

 あれを使ってもいい? と珠菜は脚立をさす。もちろん、と芹はうなずく。

 脚立を駆使して本棚の高い場所をくまなく探してみたものの、青い本はどこにも見当たらず、しばらくして珠菜はギブアップした。

「正解はここでした」そういって芹は足下を指さすと、絨毯の上に青い本が堂々と置いてあった。「脚立はフェイクだよ。珠菜は絶対引っかかると思ったんだよね」

 フェイクの意味はよくわからないけど、芹の策略にまんまとのせられた自分がなんだかみっともなく思えた。

 明日はちゃんと高い場所に隠すから、また宝探し遊びをしましょうと約束をして帰宅してから二時間後、芹の母親から緊急の電話がかかってきた。

 ──娘が、脚立から足をすべらせて死んだ──

 珠菜は靴をはくのも忘れ、芹の家まで自転車をこいだ。

 部屋の扉を開けると、そこに芹はいた。ベッドの上で顔に白い布を被された状態で。

 珠菜は知っている。亡くなった人が、こうなることを。

 喪失感そうしつかん、なんて言葉ではとてもたりない、自分の世界の最も大切な場所が予告もなしに奪われ、いともたやすくなくなってしまった。

 体の軸がじわじわと削られ、珠菜はふらふらとした。意識が薄れていく。

 だから、親友の顔を確認しようと白い布にふれた瞬間、その死体が声を上げて起立したときはショックで死にかけた。

 尻餅をついて目と口をぱくぱくさせていると、ベッドの上で芹は、してやったりと実に愉快そうに笑ってみせた。

 珠菜は、からかわれたことに気づくのに、およそ三分かかった。

 芹は予想以上にいたずらが成功したことに目に涙を浮かべ喜んでいる。

「珠菜があんまり必死だから、もしかして私、本当に死んだんじゃないかって……珠菜?」

 珠菜は立ち上がると、そのまま芹に背を向けて、部屋の扉を開けて、いつもは必要以上にゆっくりと閉めるそれを、殴るような勢いで叩きつけて帰っていった。

 翌日。

「ねえ珠菜、昨日は──」

 話しかけてきた芹に、露骨に顔をそむけ、珠菜はどこかへ歩いていった。

 休み時間。

「ねえ珠菜、一緒にトイレ──」

「ねえゆうちゃん、一緒にトイレいこう」

 珠菜は近くにいたクラスメイトを誘って教室から出ていった。

 給食の時間。

 いつもは席をくっつけて食べているのに、珠菜はどこか別の女子のグループに混ぜてもらっていた。

 帰りの時間。

 珠菜は一人で帰っていった。

 少しからかいすぎたかな、でも三日もすればいつもどおりに戻るだろうと芹は楽観していた。

 一週間後。

 もう一週間も珠菜と口をきいてない。避けられている。無視されている。そうではない。

 怒らせたのだ。

 ここでようやく芹は自分のあやまちに気づき、深く反省し、学んだ。

 冗談でも、やってはいけないことがあるということを。

 帰り道、先回りして珠菜の前に立つ。珠菜は障害物のように芹をかわして帰ろうとする。

「──珠菜!」芹は深く頭を下げ、大きな声で、しっかりと伝えた。「ごめん……なさい」

 それからゆっくりと顔を上げると、珠菜と目が合った。友達の顔を見る。当たり前だと思っていた何気ない行為も、実に一週間ぶりのことだった。

 珠菜はみるみる目に涙を浮かべこう言う。

「許さないからね……またあんなことしたら……今度勝手に死んだら……ころすからね」

「なにそれ」芹はちょっと笑ってしまう。「……意味わかんない」

 だけどその後で芹はすぐ「うん、わかった」とうなずいて珠菜をぎゅっと抱きしめた。

 それが仲直りのしるしだった。


 白の部屋。

 そこにけて一体化しそうなほど、珠菜の頭の中は真っ白になっていた。

 その疑問がなかったわけではない。心のどこかで考えないようにしていた。

 芹はなぜ自殺したのか。

 死ぬ理由なんてないのに。芹は絶対、自分から死ぬような人ではないのに。

 確かにもう何度も芹の自殺を目撃している。だけど、昨日は本当に自殺だったのだろうか。

『今日の放課後、御暁芹を教室に呼んでおくので、彼女を殺害して下さい』

 あれは、誰が誰にてたものなのだろう。

 誰に宛てたのかはわからない。でも、誰が宛てたのかは見当がつく。

『あいつ』だ。

 理由も目的も正体もわからない。でも、そいつに間違いなかった。

 それにあの紙にはこうも書かれていた。

『それでもうあなたの珠城珠菜への罪は問いません』

 どういう意味だろう。自分への罪とは。

 わからないことばかりがふくれて、これ以上ここで考えてもらちがあかないことだけはわかった。

「じっとしていられない」珠菜は言う。

「わかった」

 ティーアは珠菜の左手をとって、指先を自分の右目からこぼれる涙にふれさせた。


【残り時間 一〇〇秒】

 珠菜はまずる。さっきのプリント用紙は爆風で飛んできたものだ。乃愛が懐中時計を破裂させたあたりに目星をつけると、窓際の机の上に誰かの鞄があった。

 速やかにそこまで足を進め、許可もなく開けた。

「ちょっと珠菜ちゃん、勝手に開けないでよ」と焦る羽祇の声。

 これは栖々木羽祇の鞄だった。羽祇の席は自分の後ろのはずなのに、なぜ違う席に置いていたのだろう。


【残り時間 九十三秒】

「ごめん、羽祇ちゃん」口では謝ったが手はとめない。鞄の中から一枚の紙を取り出して近づいてきた羽祇に振りかざす。「でも、これについて説明してほしいの」


【残り時間 八十六秒】

「……それは、えっと」羽祇の表情にみるみる動揺が広がる。

「芹を殺すみたいなことが書いてあるけど、こんなの冗談でも笑えないよ。それに私への罪って何のこと。怒らないから答えて」


【残り時間 七十九秒】

「……私、だけじゃないよ」責任逃れするように、羽祇はつぶやく。

「え?」

「私だけじゃない、そのプリント持ってるの私だけじゃないよ。御暁さん以外、ここにいるみんな持ってるよ」


【残り時間 七十四秒】

 羽祇は何か重大な秘密を暴露するように声を上げたが、それに対して珠菜が驚いた様子を見せなかったのは、心のどこかで、もしかしてそうではないかと察していたからだ。

「……みんなで、芹を殺すつもりだったの?」

「違うよ! 私は御暁さんに逃げてって忠告にきてたの」羽祇は強く訴える。

「わ、私もだよ」茨楽香央が割って入る。

 その言葉を信じたい気持ちと疑う気持ちが衝突する。

 かつて香央は芹を鋏で刺して、羽祇には芹の救出を妨害されている。少なくとも過去のリトライで明確に芹の命を奪ったのはこの二人だけだ。


【残り時間 六十五秒】

「じゃあ、私への罪っていうのはどういうこと」

 珠菜がそう訊ねると、教室が一瞬、しんとした。


【残り時間 五十七秒】

「どうしたの? 怒らないって言ったよね? だから教えて」

「それは……その」いつもよく喋る運部桔京が言葉を濁す。

 一方、普段は口数の少ない葛谷御奈があっさり告白した。

「ここにいるみんなで、珠菜ちゃんのこといじめてたの」


【残り時間 四十七秒】

「……みんなで?」その言葉は想定していなかった。

「でも信じて」御奈は言う。「みんな、珠菜ちゃんのことが嫌いでいじめてたわけじゃないから。これは本当。少なくとも、私は珠菜ちゃんのこと、好きだよ」

 ひどく矛盾したことを言われた気がした。

「そうだよ、そもそも珠菜ちゃんが悪いんだよ」羽祇が声を上げる。「珠菜ちゃんが私たちを追い詰めたんだよ。私なんて、ちょっとカンニングしてただけなのに、それなのに……」

「私がみんなに何をしたの?」

「何もしてないよ!」珠菜に罪はないと認めながらも、羽祇は問い詰めるように声を張り上げる。「珠菜ちゃんこそ『あいつ』に何をしたんだよ。珠菜ちゃんが『あいつ』を怒らせたんでしょ、それで『あいつ』は私たちに──」

「芹を殺すように命令した?」

「……そうだよ、なんで『あいつ』は標的を珠菜ちゃんから御暁さんに……」

「羽祇ちゃん、喋りすぎ」誰にも届かない声で、桔京はつぶやいた。


【残り時間 三十一秒】

「でも、一番ひどいのは御暁さんなんだよ」羽祇は芹を指さす。「御暁さんは珠菜ちゃんをいじめるの、楽しんでたもん。知らないおじさんに珠菜ちゃんを襲わせようとしたり、今朝なんて珠菜ちゃんのペットにかわいそうなことしてたんだよ!」

 ハラマキのことを思い出して胸がしめつけられる。だから少し呼吸を整えて芹を見た。

 話を聞いてほしい。そんな目をしている。だから珠菜はこう言った。

「……みんなのこと信じたいと思ってるよ、何か理由があるのもわかったよ。だけど芹は──」珠菜は芹と目を合わす。「──芹のことはずっと昔から信じてるから。だから心配しないで」

「……珠菜」

 ほんの一瞬、芹は救われたように顔をほころばせたような、あるいは顔をくしゃくしゃにして泣いたように見えた。


【残り時間 二〇秒】

 重要なことを思い出し、はっとして珠菜は教卓まで走る。

 内側に回り込むと、歩斗家乃愛はすでに息を引き取っていた。

「……どうして」がくぜんとして膝をつく。

 何か原因を探そうと動く珠菜の目が、あるものを捉えた。

 乃愛の右手にあめの包み紙と、まだ開けていない包まれた状態の飴があった。

「…………」

 それを手に取り、包みをほどく。綺麗な飴だった。

 思いきって口に入れて舌を動かすと。

 意識を踏みつぶされた。


【残り時間 〇秒】


「──やっと、わかった」

 それだけつぶやくと、珠菜はただちに行動に移った。


【残り時間 一〇〇秒】

 リトライがはじまると、真っ先に教卓の内側に回り込み、乃愛を起こす。

 飴玉を見せてと頼むと、乃愛はポケットの中から銀色の紙で包まれた飴玉を二つ取り出して、それを珠菜にわたした。

 やっとわかった。音もなく誰かが死ぬ理由が。この飴だったのだ。おそらく毒物のようなものが入れられているのだろう。

「ねえ乃愛ちゃん、この飴はどうしたの?」と訊ねる。

「これ? 『傷の人』からもらったんだよ」

「傷の人って、どんな人?」

「傷の人は傷の人だよ。傷があるから傷の人」

 それだけじゃわからないと思ったけれど、そこで珠菜は一人の人物を思い浮かべた。

 二ヶ月前、ゴールデンウィークが終わったある日のこと。

 放課後の教室で本を読んでいると、輸血が必要なくらい血の気の引いた女子生徒が珠菜たちのクラスに走ってきた。

「運部先輩はいらっしゃいますか?」

 と訊ねてきたので後輩の子だと知る。不在だったのでそれを告げると、じゃあ先輩たちでいいからとにかくきてくださいとかされ、そこにいた珠菜と羽祇と御奈は後輩の少女に保健室まで誘導された。

 扉を開けると、左手を包帯でぐるぐる巻きにした香央がいた。

 美術部が夏祭で展示する予定の彫刻の鋭利な箇所で手のひらを切ってしまったのだという。

 下級生の少女は美術部員であり、以前、別の先輩が同じように左手を切ってしまったので、気をつけてと言ったにもかかわらず、まったく同じ場所を切ってしまいパニックになったのだという。二人も怪我人を出したとなると展示の中止を学校から言いわたされるかもしれない。美術部員全員の想いのこもった彫刻なので、それだけは避けたいと声をふるわせている。

「心配しないで。ケガのことは誰にも言わないし、先生に訊かれたらハサミで切ったってことにするから」

 香央の言葉に美術部の少女は、助かります、と胸をなでおろす。

「でもどうして珠菜ちゃんたちがきてくれたの? 桔京ちゃんを呼んでもらったのに」

「桔京ちゃんなら御暁さんと隣のクラスの手伝いにいってるよ。メッセージ送ったからもうすぐここにくるはず」と御奈が答える。

 それから間もなく桔京と芹が保健室の扉を開いた。

 大丈夫? と桔京は心配そうに香央に駆け寄る。

 大丈夫だよ、と香央は笑ってみせた。

「隣のクラスの手伝いはもういいの?」

 という香央の問いに、桔京は「あのね、御暁さんが凄かったんだよ。難しいことを一人で全部やっちゃうの。私、感動して一口日記にそのことをいっぱい書いちゃった」と興奮気味に声をはずませる。

「相変わらず凄いね、御暁さんは」と香央は感心するように芹を見た。

「ねえ御暁さん、もしよかったらこれから私たちと何か食べに──」

「それじゃあ珠菜、帰ろうか」

 さらりと芹はそう言った。

「え、でも、いま桔京ちゃんが何か……」

 気をつかう珠菜に、桔京は笑ってみせる。

「いいんだよ。香央ちゃんのケガもあるし、みんなは先に帰って。またね」

 そう言って、本音を隠すようにもう一度笑った。


【残り時間 九〇秒】

「ねえみんな、これ持ってる人、いる?」

 乃愛から受け取った銀色の紙で包まれた飴玉を顔の高さで掲げる。

 どこからともなく現れた珠菜と教卓の中から出てきた小さな女の子に不振な視線をおくりながらも、一人の少女が小さく手をあげる。

「私、持ってるよ」運部桔京だった。

「私も」茨楽香央がそれにつづく。

 過去のリトライで謎の死を遂げた二人とも、飴を持っていた。

「誰かにもらったの?」珠菜は訊く。

「私が作ってきたんだよ。みんなに食べてもらおうと思って、そこに置いてるし」そう言って教室中央にある机を指でさした。確かに銀色の紙で包まれた飴玉がいくつかある。「あれ? ちょっと減ってる?」桔京は首をかしげた。

 飴玉は桔京が作ってきたものだった。桔京のお菓子好きは珠菜もよく知っている。何度も手作りのものをごちそうになっているし、そのどれもがお店では買えない優しい味がしたことも覚えている。

「そうだ、よかったら御暁さんも食べてよ。特別に綺麗につくれたの、持ってるんだ」

 桔京は近くの机に置いていた自分の鞄を開けて、金色の紙で包まれた飴玉をわたそうとする。


【残り時間 六十二秒】

「ダメだよ芹、そんなの食べちゃ」慌てて珠菜は警告した。

「え?」桔京は訝しい顔つきを珠菜に向けた。「──『そんなの』ってどういうこと?」

「違うの……そういう意味で言ったわけじゃなくて……」しどろもどろになる。

「珠菜ちゃん、私のお菓子に不満でもあるの? それとも私が御暁さんに何かあげるのが嫌なの? どうなの?」

「だから、その……」

「落ち着いて、桔京ちゃん」羽祇が助け船を出してくれた。「ちゃんとこのキャンディーおいしいから」桔京の作った飴を口に入れながら。

「そうそう、桔京ちゃんのお菓子はいつもおいしいよ」香央もそれにつづく。

 数秒後、二人は倒れた。


【残り時間 二十七秒】

「……どうしたの二人とも、これって何かの冗談? ねえ?」

 困惑する桔京の背中にどんな声をかけたらいいのかわからないまま、珠菜は硬直していた。

 ただ二つ、わかったことがある。

 過去のリトライで桔京や香央の命を奪ったのは、桔京の作った飴玉だったということ。

 しかし桔京の態度から、彼女が意図的に毒物を混入してはいないということ。

「……珠菜ちゃん」ゆらりと桔京は珠菜に振り返る。「珠菜ちゃん、私の飴に何かおかしなところがあるって知ってる感じだったよね? どうして? まさか、珠菜ちゃん、私の飴に何か入れたの?」

 桔京は珠菜に掴みかかる。「答えてよ! ねえ!」

 首に食い込んだ拳が珠菜に弁明の余地を与えない。

「落ち着いて、運部さん。珠菜がそんなことするわけない」

 芹は珠菜から桔京を引き剥がそうとする。

「どうして御暁さんはいつもそうなの!」紙を裂くような桔京の声。「なんでいつも珠菜ちゃんの肩を持つの? この人のどこがそんなにいいの? こんな普通の人、御暁さんには不釣り合いだよ!」

 明確に憎しみの帯びた眼で桔京は珠菜をにらむ。

 珠菜は何も言い返せずに視線を下げた。そこであるものが目に飛び込む。

 口の開いた桔京の鞄の奥に、パンフレットが見える。

『瀬戸内海の楽園、小豆島しょうどしまへようこそ!』

 珠菜と芹は夏休みに二人でそこへ旅行にいくので、毎日話題にしている島のものだった。


【残り時間 〇秒】


 思えば、運部桔京について珠菜はほとんど何も知らなかった。

 お菓子が好きで、胸の大きさを気にしていて、茨楽香央となかよし。それくらいだった。

 だけど、昨日の教室にいたということは彼女も影で珠菜じぶんをいじめ、芹を殺せと命じられていたということになる。

 もう少し情報が必要だと思った。だから考えて、思いついて、それを実行することにした。

 リトライのリトライ。


【残り時間 一〇〇秒】

 放課後の教室に戻ってきた。

 珠菜は芹に駆け寄り、その手を掴み、教室の外へ連れ出した。


【残り時間 八〇秒】

 廊下は夏祭の準備を進める生徒たちで賑わい、珠菜はそこにかえるべき日常の片鱗を感じた。

「どうしたのよ、珠菜。っていうか、なんで珠菜がまだ学校にいるのよ? さっき帰らせたはずなのに」


【残り時間 七十五秒】

 前回とは違い、珠菜には少し余裕があった。呼吸も乱れてはいない。

「……珠菜? どうしたの、大丈夫?」

 一方、芹は前回と同様、強く困惑している。


【残り時間 六十八秒】

「ねえ芹、小豆島の話でもしようよ」

「なんでいきなり小豆島が出てくるのよ?」

「だってほら、旅行にいく約束してるでしょ?」

「まあ、別にいいけど。もしかして、旅行の話がしたくて戻ってきたの?」

「うん、そんなところ」嘘はついていない。「ところで芹、小豆島にいくのって私たちだけなんだよね?」

「どういう意味?」

「例えば、うちのクラスの誰かも小豆島にいく予定があるとか」

「他人の予定なんて興味ない」芹は、実に芹らしい言葉を返した。

「そう、だよね」

 それからほんのわずかな時間を雑談で潰した。

 もうすぐだ、と珠菜はつばを飲み込む。


【残り時間 三十六秒】

 悲痛な叫びが教室の中から響いてきた。

「何? どうしたの?」

 それに反応した芹が珠菜から離れ、教室に走った。

 珠菜も急いで芹を追って教室に入る。

 床に運部桔京があおむけに倒れている。その体を泣きながら茨楽香央がさすっている。

 そこで珠菜は、予想外のものを目にした。

 どうしたの返事をして、と泣きながら必死に呼びかける香央。彼女は桔京の体の上に丁寧に手をわせている。肩から胸、腕、そして桔京の手に香央の手がふれたとき、その手のひらの中にあった銀色の包み紙を奪い、速やかにそれを自分のスカートのポケットに隠した。

 理由がわからなかった。だけど、いま重要なのはそこじゃない。

 香央の行動に気を取られるのをこらえて、珠菜は足下に転がっていた桔京のスマートフォンを拾い上げた。

 さいわい、などと思いたくはないけれど、幸いにもパスワードや指紋認証によるロックはかけられていなかった。

『見ちゃダメだよ、珠菜ちゃん』

 前回同様、葛谷御奈からメッセージが届く。珠菜はそれを無視して操作をつづける。

 今、中高生の間でブームになっている『一口日記』というアプリケーションソフトがある。

 正式名称は『書けば書くほど夢に近づく一口日記』であり、普段の生活でふと頭によぎったことや、なんとなく思いついた言葉を入力することで、ゆめりょくなるものが増幅してやがて願いが叶う仕組みなのだという。

 桔京はこのアプリに夢中で一日に何度も書き込んでいた。

 珠菜は一口日記のアイコンをタップしてアプリを起動するも、パスワードの入力を求められてしまう。無論、珠菜はそれを知らない。だけど、突破方法なら知っている。

 かつて御奈から教えてもらった。

『最近流行っている一口日記っていうアプリはパスワードを求められる画面で適当にタップしているだけでそれを回避して中身を見られるバグがあるから使わないほうがいいよ』と。

 珠菜は画面を何度もタップする。指先が画面にふれるたび、罪悪感が増していく。

 最低のマナー違反。プライバシーの侵害。もしかしたら何の意味もないことをしているのかもしれない。結果がどうあれ、後であやまらないと。

 そうしている内に画面が切り替わり、桔京の書いた言葉たちが表示される。


【残り時間 一〇秒】

『今日も御暁さんを見ているだけで一日がおわりました』

『御暁さんと珠菜ちゃんが夏休みの旅行について話してる。いいなあ』

『私もいきたいなあ。御暁さんと二人で旅行』

『私も御暁さんのこと、名前でよびたい。セリって……』

『なんで御暁さんと珠菜ちゃんってあんなになかいいんだろう』

『珠菜ちゃんなんて、ただのふつうの人なのに』

『いいなあ。私も旅行いきたいなあ』

『御暁さんのこと、名前でよびたい』

『セリ』

『セリ』

『セリ』

『珠菜ちゃんが、じゃまだな』


【残り時間 〇秒】

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