虹の雲と闇のトンネル・2


 雲がすごい勢いで飛んでゆく。

 しかし、顔にかかる風はきつくない。おそらくは何かの魔法で守られているのだろう。アガサはつぶりかけた目を大きく見開いた。

 フレイは、前方に見える大きな入道雲に飛び込もうとしている。


「うわわわ……」


 雲が物体でないことは、アガサはちゃんと知っている。

 しかし、これだけはっきりと形をとどめているものを、たんなる水分の集まりだなんて、どうも考えにくい。その上、アガサは飛行機にも乗ったことがなかった。


 初めての雲の中体験……。

 まさに、ずぼっと音がした。


 雲に突っ込んだとたん、急に周りに空気が圧されたような気がする。

 あたりを見ると、湯気が踊っている。光が当たって、七色に輝いていて、所々渦を巻いている。

 その文様は、いきなり薔薇の花のように盛り上がって開いたかと思うと、その花びらの奥から女の顔が覗いている。にやりと笑ったその口は、あっという間に大きく開かれて、顔を完全に裏返してしまった。そして、今度は桃の姿になる。


 ――気持ち悪い! これ、本当に雲?


 水色やピンクのパステルカラーや、ひとつひとつの形は綺麗なのだが、組み合わさると、不気味な配色で醜いフォルム。何ともいえないおぞましさだ。

 それがゆらゆら湧き上がってくるかのように舞い踊っているのだから、移動スピードの速さもあって、気分が悪くなる。


「ねーさん、酔ったのか? ここは幻影の宝庫だからな。あまりまわりを見ないほうがいい。前でも見てな」


 ふと、前方を見ると真っ黒な塊が見える。もしかしたら、貧血寸前の幻かも知れない。

 アドバイスならば、もっと早く言って欲しかった。


「もう駄目! 吐く! 止まってよ!」


 半分口を抑えながら、喉の奥をゴホゴホ言わせながら叫ぶ。


「駄目だ。ここは止まれない場所だ。そのまま吐いちゃえば?」

「げげげ……」


 そんなバカな! 服に掛かるし、あなたにもかかるよ!

 と、思いつつ、吐き気というものは止まらない。

 できるだけ下を見て、フレイや自分にかからないよう気をつけながら、アガサは思いっきり吐いていた。

 せっかくのチキンもケーキも、すべて出てしまった。

 しかも……。

 アガサが吐いたものを追って、七色の雲が渦を巻く。

 それは女の形になったり、食虫植物の形になったり、そしてその花びらの奥からさらに手を伸ばす子鬼に化けたり……。

 まるで宝のように、アガサが出したものを奪い合うのだ。

 吐きながらも、悲鳴を上げそうになった。

 鬼のような形相の女の、赤いマニキュアの指先が、アガサの口元に届きそうになった瞬間。

 あたりは急に真っ暗になった。


「おい、ねーさん。大丈夫か?」


 フレイの声が聞こえる。顔を上げると、顔がある。

 気持ちの悪さは、怖さのほうが上回って忘れてしまった。


「あ、あれ……何?」

「何? ああ、あれ?」


 フレイは、何事もないようにそっけなく言った。


「あれはね、まぁ、お化けみたいなもんだ。命あるものに飢えているからね、あんなところに留まっていたら、それこそ命をしゃぶられちまうぜ」


「気持ち悪いし……怖かった」


 アガサは座り込んだ。

 そして、そこに地面があることに気がついた。

 あたりは本当に真っ暗で、フレイの姿だけが浮き上がって見えている。よく見たら、自分の手すら見えていない。


「大丈夫。ここは『何もない境目の空間』だから、あいつらは入ってこれない。目的地はもう少し飛ばなきゃ……。でも、少し休もう」


「ありがと……」


 アガサは力なくお礼を言った。

 なんとなく、フレイが実は急いでいるらしいことを感じたからだ。休むのは、アガサのことを気遣ってなのだろう。



 先ほど目の錯覚かと思って見ていた黒い塊は、どうやらこの闇の世界への入り口だったらしい。

 お化けらしきものに捕まるほんの寸前で、フレイとアガサはこの入り口に飛び込んだのだ。


「境目って……生と死の? 私、やっぱり焼け死んじゃったの?」


 アガサはすすり泣いた。

 フレイは少し困った顔をした。


「ここは、下界と天空の境目であって天国と地獄の境目じゃない。ねーさんは死んだわけではないからね」


「じゃあ、いったいどうしちゃったの! 私をどこに連れてゆくのよ!」


 死んでいたら、こんなに気分が悪くなることはないだろう。間違いなく、これは生身の体である。たぶん……。

 でも、何が起きたのかわからないのはそのままだ。

 アガサが泣き叫びながら詰め寄ると、フレイは少しだけ身を引いた。


「ソーサリエの学校に入るため、天空へ行くんだよ。おいらは、その道案内をしているだけ」

「ソーサリエ?」

「うん、精霊使いのことさ」


 アガサには初めて聞く言葉だった。


 精霊使い?

 それは、魔法使いとは違うのだろうか?


「ソーサリエにはね、必ず精霊が付いている……って、例外もいるけれどね。ただ、精霊が付いているだけではダメなんだ。お互いに訓練して力を上手く使わなくちゃね。だから、精霊使いの血を引く子供たちは、12歳の誕生日を迎えたら、誰でもソーサリエの学校に入って勉強する義務があるんだ」


「……ということは、私は精霊使いなの?」


「そういうわけ。そして、おいらはねーさんの専属ってわけ」


 だから、アガサには精霊が付いていたのだ。

 納得できたような気がする。

 しかし……。


「でも、わからない。なぜ、私が精霊使いなの? お父さんもお母さんも普通の人だったのに」


「うん、おいらにもわからない。たぶん、ずっと血筋を遡れば精霊使いがいたんだろ? とにかく、おいらがアガタについちゃったんだから、精霊使いの家系に間違いない」


「私、アガサよ」


 名前を修正しながらも、アガサは考え込んだ。

 両親、さらにじいさんばあさんまで遡っても、どう考えたって精霊やら魔法やら、そういうものには縁のない家である。

 だいたい学校の肝試しで誰もが見たという幽霊さえ、誰も見たことがないという家系なのだから。


「あーあ、ねーさん。幽霊と精霊は全然違うものだよ」


 なぜか言葉にしなくても、フレイはアガサの考えていることがわかるようだ。精霊は勘がいいのだろうか?


「アガタは、これからソーサリエの学校へ入学し、勉強して精霊の扱いをマスターしなければならない。義務だからな」


「ア・ガ・サ・だってば!」


 何度言えば名前を覚えるのだろう?


 アガサは、だんだん苛々してきた。

 だいたい、いきなり魔法使いだか精霊使いだか知らないけれど、わけのわからない者にされてしまって迷惑である。

 その上、家まで焼かれてしまって……いや、家を焼いたのは、隣のばあさんか? この際、もうどっちでもいい。すべての悪の根源はこの精霊なんだから。


「ひどいわ! 何で私がこんな目にあわなければならないわけ? 焼け死にそうになったり、お化けに食べられそうになったり!」


「それが、生まれついた運命ってものさ」


 簡単に運命などで片付けられて、アガサはぎっとフレイを睨んだ。


「生まれついた時から、あなたが勝手に私を振り回しているだけじゃない! あなたのせいで、私は普通の女の子扱いされたことなんてないんだから!」


「ソーサリエなんだから、仕方がないだろ?」


「私、そんなの認めない!」 


 フレイは、うーん……と小首をかしげた。


「いいかい、アガタ。そこで泣き事を言い続けていても、おいらはかまわない。気が済むまで待つさ。でもな、もうねーさんには帰る家もない。前に行くか、引き返すか、よくよく考えてみな」


「私はアガサよ!」


 鼻をすすりながら、アガサはクレームをつけた。


「名前なんかどっちでもいいさ、問題はこの先、どうやって生きるかってことだ。とにかくさ、泣き止んでくれないと、おいら、ねーさんの側にはいけないよ。おいらの火が涙でちいさくなっちまうからね」


「あなたなんか嫌い!」


 アガサは叫んだ。

 

 ――そう、精霊なんかいなければ、こんなことにはならなかった!

 精霊さえいなければ、変人扱いもされなかったし、普通の女の子として生きてこれたんだから!


「フレイなんか、大嫌い! どこか行っちゃえばいい!」


 大きな声で怒鳴ると、フレイは楽しそうに笑った。


「おいらはいい精霊さ。ソーサリエの言うことはよく聞くさ。だから、本当にどこか行っちゃうよ? いいんだね?」


 笑顔が憎らしくて、アガサは唇をかみ締めていた。


「それじゃあね、アガタ。気がすんだら、おいらの名前を呼ぶといい」


「私はアガサだってば!」


 怒鳴るアガサの声を聞いたのか聞かないのか、フレイは高々と飛び上がり、やがて闇の向こうに姿を消した。


「あなたの名前なんか、死んでも呼ぶわけないじゃない! ばかばかばか!」


 声はこだますることもなく闇に吸い込まれていった。

 叫ぶだけ叫んだアガサの回りには、ただ暗闇と静けさだけが残った。

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