第11話 長月④
先刻誕生したばかりの恋人同士の動向も気になる所だったが、残念ながらセプタンブルのメンバー達はそれ所では無かった。
壇上に帰還した丘の上はるは、息を切らせる様子も無く中津川守を見て頷く。守も頷き返し熊本元康に合図を送る。
「観客の皆さん! 今日はセプタンブルの演奏を聴いてくれてありがとうございました! 最後の曲になる「スコール」を聴いて下さい!」
体育館に集結した観客達が手拍子をしながら応えてくれる。
〈 週末の休みまで
平日なんて使い捨て
ウンザリする日常も
この休息の為に耐えている
砂漠のようなこの日常は
何も変わらず乾燥している
駅に急ぐ途中散歩してる
子犬とすれ違う
何も感じず 何も思わず
今日が過ぎる
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
どうせ季節を愛でる
余裕なんてないから
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
そしたらこの窒息しそうな
平日も変わるかな 〉
間奏に入り、はるはメンバーを見渡す。皆一様に真剣に演奏している。皆いい顔している。はるはそう思った。
何かに打ち込む人の姿は、その人を最も魅力的に見せるのかもしれない。
〈 テレビで見た南の海の
干からびたサンゴ礁
その大きさになるまで
何百年もかかるって
使い捨ての毎日で何も
残せない僕はきっと
サンゴ礁以下だ
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
もし永遠の命があっても
きっと面倒なだけ
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
こんな平日が永遠に続く
なんて正気でいられない 〉
曲は間奏に入り、Cメロサビを残すのみとなった。はるはマイクでメンバー達の名前を告げていく。
「ギター。中津川守!」
守はお辞儀をしてギターソロを奏でる。その守の姿に、この場に居た学年一の美女、松高慶子が守の名前を呼ぶ。その声が守に聴こえたか。聴こえなかったか。
守は表情を変えずギターソロを演奏しきった。
「ドラム。熊本元康!」
体育館に元康のドラム音だけが響く。彼の着ているシャツは最早、汗に濡れて無い箇所は皆無という有様だった。
今日、メンバー達に配ったシャツは、記念にそのままプレゼントしよう。元康はそう決めていた。約一名を除き、皆の喜ぶ顔が浮かんだ。元康はほっこりとした気持ちになった。
「ベース。彦根五郎!」
五郎がベースソロを弾く。演奏中、五郎は自分の母親を見つけた時は辟易したが、高坂の事を考えると贅沢な悩みだったと反省する。
家に帰ったら母親にお礼を言おう。五郎はそう決めていた。聴きに来てくれてありがとうと。
「ピアノ。高坂徹!」
徹のピアノソロが奏でられる。徹はこの時決心していた。この文化祭が終わったら、はるに気持ちを伝えようと。それは奇しくも、中津川守と同じ考えであった。
「ボーカル! 丘ノ上はる!!」
最後にリーダである守のマイクから、はるの紹介がされた。お祭りが終わりに近づいている。はるは少し寂しい気持ちになっていた。
この碁に及んでも、やはりはるには集団行動は好きになれなかった。仕様が無い人間だと、自分を俯瞰して苦笑する。
それでも。このメンバーと演奏が出来た事は嫌では無かった。楽しかったと言うべきか。
この祭りが終われば徹とも、また以前のように話もしなくなるのだろうか。はるはふとそんな事を思う。
『仕方ない。こんな無愛想な女に、わざわざ寄ってくる物好きも居ないだろう』
この胸の、チクチクするような感覚も、時間が経てば消える筈だ。はるはそこで思考を停止させた。
〈 紫陽花が枯れてゆく
蝉が力尽き鳴き声を止める
全てには終わりがある
だから儚く尊いという
言葉が生まれた
息の根を止められそうな
この日常も
いつか終わるものなら
儚く尊いのかな
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
今日は抱きかかえられた
乳飲み子とすれ違う
四つの季節を混ぜ合わせ
過ごしたらどうかな
その子はサンゴ礁以下の
僕を見て微笑んだ
砂漠のように乾燥している
日常にスコールが降り注いだ 〉
演奏が止み、六百人以上の観客達はその日一番大きな歓声を上げてくれた。メンバー達は全員お辞儀をした後、舞台の袖に歩いて行く。
その途中はるは、多々野薫と目が合った。薫は笑顔ではるに手を振る。今日薫は最前列で最後まで応援してくれた。はるは薫に微笑して応える。
体育館の拍手は、メンバーが去った後もしばらく続いていた。舞台の袖に到着したメンバーは、やり切った充足感より先に疲労感が優った。
熊本元康が座り込む。続いて彦根五郎、高坂徹も床に腰を落とした。中津川守が汗をタオルで拭きながら観客席を伺っていた。
「どうしたの? 中津川」
はるもタオルで顔を拭きながら、守に声をかける。
「いや。これはあるかもしれないぜ」
はるに答えながら、守は両手を腰に当てまだ観客席を見ていた。
「あるって?」
はるは水を飲みながら守と並んで観客席を見る。拍手は小さくなり、手拍子に変わっていた。それが鳴り止む気配がなかった。
手拍子は、刻一刻と大きくなって行く。誰かがその第一声を挙げた。
「アンコール! アンコール!」
もう一度聴かせて欲しい。観客席からアンコールの大きな声が、メンバー達に聴こえてきた。
「だ、そうだ。行けそうか? 皆」
リーダである守が座り込むメンバー達を見渡す。
「なんか食べてから。その暇は無いよね。中やん」
熊本元康は自分の鞄からチョコの塊を取り出そうとしていた。
「アカン。今日帰ったら爆睡決定や」
彦根五郎はタオルで顔の汗を何度も拭う。
「中津川がアンコール用にした曲。無駄にならなかったね」
高坂守は細身の長身を重そうに起こす。
「私もう眠いんだけど」
失敗上等歌姫の意見は満場一致で無視され、セプタンブルのメンバー達は再び壇上に登場した。
観客席から歓迎の歓声と拍手が沸き起こる。はるはステージ中央に再び立ち、観客達にお辞儀をする。
体育館の窓は一階、二階とも全て開放されており、二階席の窓から外が見えた。空にはうろこ雲が浮かんでいる。
それは夏が終わり、次の季節の到来を告げるような空だった。時間は止まらない。どんなに悲しい事があっても。嬉しい事があっても。
はるは好きな季節に再会を約束し、暫しの別れを告げた。
「アンコールありがとうございます!」
守が右手を挙げ感謝の意を伝える。それに応えるように観客席から拍手が返ってくる。
元康が疲労で重くなった手首を健気に動かし、スティックカウントを響かせる。守と五郎も、気を抜くと指先の力が抜けそうだった。
徹は途切れそうな集中力を維持するのに必死だ。
はるは今日の昼寝が出来なかった分、今夜は早く寝ようと決意していた。
「聴いて下さい! 「残り香」!」
守が笑顔で曲名を告げた。
〈 あなたの残り香を探す
またもうすぐ始まる日常の前に
それが始まればもうそれは叶わない
空を見上げる事も
蝉の鳴き声に耳を澄ませる事も
夜空に浮かぶ月を眺める事さえも 〉
守は思う。ロック調の曲も。この歌のようなバラードも。このサボテン女子は見事に歌いこなしてしまう。
それも初めてのステージで。しかも、もう眠いと訴えながら。
『全くたいした女だ』
茶髪とピアスの少年は、我らが歌姫にそう脱帽するしか無かった。惚れ直す。その言葉が守の心に浮かんだ。
『そうか。この言葉はこんな時に使う言葉だったのか』
恋をすると。人を好きになると。知識では知っていた筈の言葉に血が通い体温が宿る。
茶髪とピアスの少年は今自分は恋をしている。そう実感出来たのは初めての事だった。
〈 気が滅入るほど毎日は
足早に過ぎ去っていく
だからその前にあなたの
残り香をさがす 〉
曲が終わり、演奏は途切れなく続いた。
「次の曲は「夕暮れです」聴いて下さい!」
〈 夕暮れは思う
自分は嫌われものだと
みんな明るい空がすきだ
暗い夜など歓迎していない
明日の仕事や学校
夜になれば憂鬱なる
だから夕暮れは思う
自分は嫌われものだと
夕暮れは思う
今夜も自分は嫌われものだと
二人の恋人同士が
星空を見上げている
それは楽しそうに
それは幸せそうに
夕暮れは思う
少しは自分も役に立って
いるのかと 〉
徹は、夜通しはると話し込んだ時の事を思い出していた。
はるは高校を卒業したら、自立する為に家を出ると言う。ただ一人暮らしをするだけではない。旅をしながら気に入った場所を探すと言う。
普通に進学し就職する事しか考えていなかった徹には、はるの行動予定は衝撃的だった。そんな選択肢があったのかと。はるはその時徹に言った。
今は進学、就職という社会のシステムが出来上がっているから仕方ないと。でも、そのシステムから一歩外に出れば、責任は伴うが自由な行動が得られる。
地方なら空き家を借りてもいい。畑いじりをして、自分の食べる物を作ってもいい。その土地が肌に合わなかったら、また別の場所を探せばいい。
物欲を抑えれば低収入になるが週に三、四日働けば生活して行ける。
徹から見たはるは自由だった。学校では他人とは関わらない自由を行使していた。そして卒業した後は、今よりもっと自由な生き方を実践して行くのだろう。
そんな生き方が出来るはるは、徹の目にはあまりにも眩しかった。
〈 夕暮れは見る
夜の中で明かりを灯す薪を
夜の中で火花を散らす花火を
夕暮れは思う
暗闇だからこそ人の心を
揺り動かす事があると
あの時の恋人同士がいた
今夜は一人だった
泣きながら
一人で月を見上げている
夕暮れは思った
あなたが無事帰れるよう
あなたの歩く道を
月の灯りで照らそう
夕暮れは願う
明日の夜空が 星が 月光が
あたなの悲しみを癒せるように 〉
曲が終わり、今日何度目か知れない歓声が起こる。
セプタンブルのメンバーは、今この体育館に一体どれくらいの観客が集まっているのか見当も付かなかった。
だか、一曲事に湧き上がる声が大きくなり、メンバーは手応えを感じていた。この日の為に練習を積み重ね、用意された曲も残り二曲となった。
「ありがとうこざいます! 我らセプタンブルの演奏も残り二曲となりました。最後までお楽しみ下さい! まずは一曲目「恋船来航」お聴き下さい!」
守がマイクで曲紹介をする。元康がカウントで合図送る。繰り返された今日の約束事も終わりに近づいていた。
〈 私はずっと扉を閉ざしていたの
昔の鎖国時代のように
気ままに泰平を過ごしていたら
恋船に乗ったあなたが現れた
あなたは大砲で脅す事なく
不平等な条約を押し付ける事もなく
ただ私との友好を望んだ
あなたの手は銃を持つ事なく握手を求め
てきた
相手を威圧する事なく柔和に微笑む
黒船だったら迷う事なんてなかった
いつも通り扉を閉ざしていればそれで良
かった
黒船だったら迷う事なんてなかった
あたなは異人より理解不能だった 〉
この曲を練習している時、はるは守に言われた。この曲のテーマは一歩踏み出す事だと。今自分はその通りに歌えているだろうか。
この曲の主人公のように一歩踏み出し、誰かに近づくなんて自分に起こり得るのだろうか。
はるは自分には不可能に思えた。そんな経験は無かった。経験を積む意思さえも。
だから。せめて歌の世界では踏み出そう。歌詞の中でなら何度でも踏み出せる筈だ。はるは心の中でそう呟いた。
〈 扉を閉めようとする
手に力が入らない
あなたはまだ微笑んでいる
いつまでも待つと
いってるかのように
黒船だったら迷う事なんてなかった
あなたは異人より理解不能だった
私は頼りない勇気をかき集め
扉の外に出ようとする
あなたとの調印式をする為に
今日は歴史的な日になりそうです
年号の語呂合わせいいのがあるかな?
あなたは笑った
調印式を終えたら一緒に考えようと 〉
曲が終わった。最後の曲を控え、体育館の熱気は最高潮に達した。そして最後の曲の前奏が始まり、守が間を置かずマイクで叫ぶ。
「本日はセプタンブルの演奏を聴いて頂き、本当にありがとうございました!」
観客から大きな拍手が起こる。残り一曲は藤沢サンシャインの名曲だった。
「最後の曲になります。聴いて下さい! 「Try & Err」!!」
〈 熱すぎる太陽の光と
青すぎる空
ニつを混ぜてシャッフル
したら暑い暑い
季節の出来上がり
何を君は落ち込んでいるの?
何を君はうなだれているの?
落ち込むには
うなだれるには
夏バテするには
この季節は短かすぎる
その顔を上げて Try & Err
何度失敗しても Try & Err
この痛みも
この切なさも
いつか君の勲章になる 〉
歌詞の前半が終わった所で、はるの膝は折れステージに座り込んでしまった。守が驚いた顔ではるを見る。はるも守を見ていた。はるは舌を出し笑っていた。
『あのサボテン女! こんなアドリブ聞いてないぞ。まったく!』
はるのアドリブを察した守は、直様マイクで芝居がかった声を出す。
「誰か! この中に、さっき恋人が出来たばかりの藤沢サンシャインマニアは居ませんか!?」
体育館中から、歓声と拍手が地鳴りとなって響く。
ついさっき恋人が出来た藤沢サンシャインのマニアは、ポカンと口を開けて立ち尽くしていた。
ついさっき出来た恋人万福寺妙子にその背中を押されてステージに向かう。壇上に登った各務勤は「参ったなあ」という表情だ。
はるからマイクを受け取った各務勤は、リーダである守を一瞥する。
「先生! 歌詞の続き大丈夫?」
守の声に各務勤は左手を上げて応える。筋金入りの藤沢サンシャインマニアには、愚問だったようだ。
はるは壇上の下に降り、頭上で手拍子をしながら観客にも促す。
〈 どうしても顔を
上げられないなら
ヒマワリを見るといい
ヒマワリが向いてる方を
見てごらん
ほら自然と太陽を
空を見上げられる
その顔を上げて Try & Err
何度失敗しても Try & Err
たとえ綺麗な思い出に
ならなくても
たとえ忘れられない
傷になっても
夏はまた君にチャンスを
くれるから 〉
壇上の下で手拍子をする丘の上はると、最前列で応援してくれていた 多野薫との視線が交錯する。はるは笑顔で薫を手招きする。
薫は一瞬ではるの意図を理解し、満面の笑みでそれに答えた。はるの隣に並んだ薫は、お互い笑みを交わし、若者らしく快活に手拍子を合わせた。
気づくと千代が丘健太と片平健二までも、はると薫の横に並ぶ。
「あんた達、映像記録は?」
手拍子しながら、はるは弟達に問いただす。
「大丈夫だよはるちゃん。バッチリ後輩に頼んだから!」
健太がはると薫の三倍は響く手拍子で答えた。健二は白い歯を見せ笑顔で頷く。
間奏が終わり、祭りのひとときは最後の瞬間を迎えようとしていた。
〈 その顔を上げて Try & Err
何度失敗しても Try & Err
たとえ綺麗な思い出にならなくても
たとえ忘れられない傷になっても
夏はまた君にチャンスをくれるから 〉
曲が鳴り止み。祭りは終わりを告げた。夏の終わりを思わせるこの日の体育館に、何時までも鳴り止まない拍手が響いた。
はるは息を弾ませ、しばらく体育館の天井を見上げていた。その姿を徹は見つめる。彼女のその姿は、誰かに何かを報告しているようだった。
「丘ノ上」
徹の声にはるが振り向く。壇上の上から徹が手を差し伸べる。
「いい。一人で上がれる」
以前のはるなら、そう言って断っただろう。はるは笑顔で徹の手を借り壇上に上がった。セプタンブルのメンバーと、スペシャルゲストである各務勤が壇上に一列に並ぶ。
全員手を繋ぎ両手を上に上げる。声を合わせ、今日この場に来てくれた観客達に心から感謝を伝える。
「今日はありがとうございました!!」
鳴り止まなかった拍手が一瞬大きくなった。
全員両手と頭を下げる。頭を戻せば、本当に祭りが終わる。それを惜しむように、メンバー達はしばらく頭を上げなかった。
リーダである守が顔を上げ、他の者も順にそれに倣う。一人ずつ。ゆっくりと歩きながらセプタンブルのメンバー達は舞台の袖へと消えていった。
観客席が見えなくなると、守は大きなため息をついた。そして疲労感を上回る充実感と歓喜が全身を満たして行く。
この喜びを誰かと分かち合いたい。今すぐに。そんな守の目の前に、はるが立っていた。
「中津川!」
はるが守の名を叫ぶ。守は、はると心が通じ合ったような気がした。
『丘ノ上! お前も同じ気持ちだよな。この喜びを一緒に形にしようぜ!』
守は両手を挙げた。はるとハイタッチをする為だ。守もはるがそうすると信じて疑わなかった。
次の瞬間、守の予想は見事に裏切られた。守は、はるに抱きしめられていた。
守は何が起こったのか暫く理解出来なかった。茶髪とピアスの少年は、頭の中に一つの答えを導き出した。
『······丘ノ上。もしかして、お前も俺の事を好きだったのか?』
心より身体が先に動いた。守は宙に浮いた両腕をはるを抱きしめる為に動かす。
「丘ノ上! 俺も······」
守の両腕は、何も無い空間を抱きしめていた。抱きしめる筈の相手が忽然と目の前から消えていた。
「え?」
守が疑問の声を漏らす。茶髪とピアスの少年が気づくと、はるは熊本元康と抱き合い、続いて彦根五郎とも抱き合った。
『え? これってただのハグ? ただの親愛のハグ?』
守が事態を把握した時、はるは徹とも抱き合う為両手を広げた。その時、はるの動きが止まった。
徹の目の前で広げた両手を止めたまま、はるは動かない。石像のように固まっていたはるは、やがて手を下ろし一歩後ろに下がった。
徹は広げた両手をバツが悪そうに戻して苦笑した。守は信じられない光景を目にした。あの無愛想なサボテン女が顔を俯け、頬を赤らめている。
守の中で何かが割れる音がした。それは割れた後、粉微塵になっていく。自分や元康、五郎とハグが出来ても徹とは出来なかった。
それが何を意味するか。守には説明が不要だった。守の左目から涙の粒がこぼれ落ちた。汗を拭く振りをしてタオルで顔を隠す。
守の中で壊れた物は何だったのだろうか。それに名をつけるとしたら何だろうか。恋心か。青春か。
数年後。同じ大学で付き合っていた恋人に守は質問される。初恋はいつだったかと。守は少し考え高校二年の夏と答える。
守の性格と容姿をよく知る恋人は、真面目に答えてと抗議する。守は微笑して何も語らなかった。
この時、恋人に質問された守は初めて気づいた。あの時、高校二年生の夏に自分の中で壊れて行った物の名を。
それは守にとって、初めて本当に人を好きになった初恋だった。数年後やっと分かるその名も。今この時は何も分からなかった。
「中やん。中やんったら」
熊本元康に肩を揺らされ、守はようやくタオルを外した。
「何だよ。今喜びの余韻に浸ってるんだよ」
守は元康に下手な言い訳を言う。元康によると観客達の一部が帰らないらしい。守も観客席の様子を見ると確かにまだ生徒達が残っていた。
「気にしなくていいだろ。そのうち帰るよ」
壇上前には、はる達のクラスメイトが集まっていた。はる。守。徹に労いの言葉をかける為だ。
その集団を見て、まだ何があるのかと期待して残っている生徒達は二百人弱いた。
まるでお祭りの終焉を拒否するかのように。体育館の中はまだ熱気が冷めなかった。
誰かがあと一曲と叫ぶ。
祭りの宴から、家に帰る事を拒否する子供のように。もう少しだけここに居たい。
そんな空気が他の生徒達に伝染するのに、そう時間はかからなかった。
あと一曲。
その掛け声は、手拍子と共に少しずつ大きくなって行く。
「マモー。どないすんねん」
五郎がジュースを片手に、リーダーの判断を仰ぐ。
「どうするって言われてもなあ」
汗まみれの茶髪を掻きながら守は思案する。
守は何かが閃いたようにはると徹を見る。ハグし損なった二人は、微妙に距離を置いて立っていた。
「丘ノ上。高坂。お前ら二人でなんか一曲歌って来いよ」
守の口調はのんびりとして気軽だった。はると徹が顔を合わせる。
「俺らはもう限界だ。高坂ならあと一曲ぐらい弾けるだろ?」
「いや。ちょっと。私の疲労の心配は無いの?」
失敗上等歌姫の言葉は無視され、守は半ば強引に徹とはるの背中を押しステージに戻す。
「忘れモンだ。鈍感女!」
守はそう叫び、はるにマイクを投げた。
『俺の中の塵になった何かも、一緒に受け取ってくれ』
投じられたマイクは放物線を描きはるの手に収まった。
はるは憤慨した表情で守を睨む。
『そうそう。お前はそうでなくっちゃな』
守が失敗上等歌姫を見て微笑む。壇上に追いやられた二人は、互いに困った顔を突き合わせる。
諦めが悪い観客の駄々っ子達は、お祭りの続きが叶うと歓喜した。
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