第4話 文月③

 

 七月三週目の月曜日。いよいよ今週が終われば夏休みだった。一行に衰えない連日の暑さも、この長期休みの前の高揚感があれば乗りきれる。

 

 そう物語るかのように、生徒達の表情は明るい。今朝の天気予報が報じた日本の南の海上に低気圧の塊が出来た事など誰も気にしなかった。

 

 その日の二限目は移動教室で化学の授業だった。授業が終わり教室に戻る為、はるは一人で階段を降りていた。その階段の手すりから、一つ下の階段を降りている生徒が見えた。


 同じクラスの椿陽子が、両手に溢れんばかりの教材を抱えている。日直の彼女は先程の化学の授業で使用した教材を資料室に戻すよう教師に頼まれたのだ。

 

 椿陽子はクラスでも大人しく目立たいタイプだった。この教材を運んでいるのが、もし多々野薫辺りだったら。明るくて可愛い彼女なら男子が進んで手伝っただろう。

 

 それにしても椿陽子は足取りも不安定で、今にも教材を落としそうだった。

 

 はるは手伝う為、椿陽子に近付こうとした。その時、一人の男子が椿陽子が抱えていた教材を自分の手に運ぶ。

 

「椿。半分持つよ」


「あ、ありがとう。中津川君」

 

 二人は資料室に続く階段を降りて行った。自分は優しい。という噂でも広めてほしいのか。


 以前のはるなら、そう思ってその場は終わっただろう。しかし、中津川守の印象が変わってきたはるはふと考える。

 

 大人しく決まったグループとしか話さない椿陽子に、その噂を広めてほしいと期待するのは無理な相談だろう。


 では純粋に親切か。答えが出ないまま、二人の姿は階段の下に消えていった。

 

 その日の昼休み。はるは机で寝ようとしていた。しかし彼女の席は窓際だった為、灼熱の太陽の明るい光がはるを寝かさんとばかり窓に射し込んでくる。


 クラスの共用カーテンを使用するのは、さすがにためらわれた。音楽室なら寝れるかもしれない。


 そう考えてい時、中津川守の机の周囲で高坂徹が話している姿が目に入った。ほかにもその輪に数人いた。

 

 徹は以前より確実にクラス内で会話する相手が増えた。守にバンドを誘われてからだ。


 きっと音楽絡みの話題で盛り上がっているのだろう。はるは目を細め再び思案に耽る。

 

 ······あれは、まだ五月だっただろうか。里山実という大人しく小柄な男子生徒がいた。誰とも話さず、いつもスマホでゲームをしているような生徒だった。


 「アイツなんか暗いよな」そんなイメージがクラス内に定着しそうな時だった。中津川守が里山実に話しかけたのだ。


 二人は何やらお互いのスマホを見ながら会話していた。そしてスクールカースト上位に許されている特権を行使する。

 

「すっげーな! 本当にここにあったんだ! 雷雲のマント!」

 

 守の大声がクラス中に響いた。何人かの男子生徒が守と実に近づく。そしてまた歓声が上がった。里山守は人気ゲームのレアアイテムを収集する名人だったのだ。

 

 次々に男子達が里山守に教えを乞う。その日から里山守はゲーム好き男子から一目置かれる存在になった。

 

 二ヵ月前から現在に時間を戻したはるは、里山実に視線を移す。相変わらずスマホでゲームをしていたが、以前のように一人ではない。何人かの男子と笑いながらゲームをしている。

 

 高坂徹も里山実も。中津川守がきっかけでクラスで話す相手が増えた。これは偶然だろうか。もしこれが意図的な行為だとしたら。


 それは何の為だろうか。話す相手が多ければ学校生活はかなり円滑に過ごせるだろう。

 

 中津川守はスクールカースト上位の余裕か慈悲かで、カースト下位の者達の為に一肌脱いだのか。はるは頭を軽く振る。さすがにそこまで傲慢な奴とは思えなかった。

 

 ならば純粋な親切心か? そこまで周囲に気を使う理由が分からなかった。

 

『そうだ。図書室なら寝れる』


 ふと名案が浮かんだはるは席を立った。中津川守の行動を分析するより、昼寝のほうがはるにとっては急務だった。

 

 その日の放課後、高坂徹は音楽室にいた。今日は全体練習の日だったが、まだ誰も来ておらず徹が一番乗りだった。


 空調のスイッチを入れながら、徹は丘ノ上はるとの接し方について考えていた。

 

 はるは自分の母である百合子に好意を持ってくれている。そして今や同じバンドの仲間だ。


 クラスでは席が隣同士でもあるし、もう少し気軽に話したほうがいいのではないかと徹は思っていた。

 

 だが、それを躊躇させるはるのまとった空気は以前と変わらない。あの人を寄せ付けない雰囲気。


 徹が気安い仲間意識ではるに近づくのは、はるも望んでないと思われた。


 少なくともクラス内では、今まで通りの接し方のほうが良策と思われた。腫れ物に触る様だと徹は苦笑した。

 

 程なくその腫れ物が教室に入ってきた。腫れ物は今日も音楽の補習で疲れている様子だった。

 

「クラシック界の三BだかニBだか知らないけど。これがこの先、生きていくのに役に立つの?」

 

 はるは教室に入るなり徹に愚痴をこぼす。

 

「多分役に立たないね。補習しんどかった?」 


 徹は肩をすくめ学校で費やす勉学の成れの果てを予言した。

 

「私。昔からオタマジャクシが苦手なの。おまけに四Bとか覚えないといけないし」


 はるの歴史の中では、クラシック界の巨匠が一人増えたらしい。

 

「世界史、日本史と関連付ければ覚えやすいよ」


 徹はずれた眼鏡を直しながら前向きな提案する

 

「関連付け?」

 

 はるが一重の瞳を大きく見開いた。

 

「そう。例えばバッハが生きた時代は、神聖ローマ帝国とスペインの力が衰えると同時に、イギリスとオランダが強くなっていった。日本では江戸時代で五代将軍綱吉の有名な政策があったでしょ?」

 

「な、なんだっけ?」

 

「生類憐れみの令」

 

「あ。聞いた事がある」

 

 学生としてあるまじき丘の上はるの発言を、徹は優しく聞き流した。そして臨時講義を続ける。

 

「その政策が世に出た時、バッハは三才。覚えやすいたでしょ? ベートベンが生きた時代はイギリスで産業革命が有名かな。日本では江戸時代で十代、十一代将軍だった時で。武士が剣より学で身を立てないと食べていけない時代だった時だよ」

 

 時代の変わり目では、いつも変化出来ない者達は退場を余儀なくされていった。

 

「その産業革命知ってる。雇う側と雇われる側に別れて、格差がものすごい広がったんだよね」

 

「うん。丘ノ上、詳しいね」

 

「そこは覚えてたの。昔も今も格差があるって変わらないんだね。この先もずっとそうなのかな?」 

 

 突然音楽の話から、現代の格差問題に話が飛んで徹は戸惑った。

 

「それは分からないけど。丘ノ上は社会問題に興味があるの?」

 

「え? 別に無いよ。それにしてもこの五Bの人達は、何百年後かに自分達がテスト問題になるって予想出来たのかな?」

 

 余計に二人増えた巨匠達も、まさか文句を言われるとは思わなかっただろう。東洋の果ての島国の女子高校生に。徹はズレた眼鏡を直しながら苦笑した。

 

 それにしても。とはるは思う。高坂徹と話すといつも喋り過ぎてしまう。徹が百合子と同じ雰囲気だから。はるはそう思っていたが、果たしてそれだけだろうか。

 

 今は同じバンドのメンバーであり、そんなに気にする必要も無いのかもしれない。はるはこの事について深く考えなかった。

 

 音楽室のドアが開き、熊本元康が入って来た。彼は数学の補習後だった。 

  

「徹やん。はるやん。早いね」

 

 人懐っこい笑顔を二人に向ける。今日も彼はワイシャツのボタンを外しており、貫禄あるお腹からTシャツが張り出していた。


 シャツには〔恋と嵐は止められない〕と書かれていた。

 

 はるはこの元康のTシャツが気になって仕方なかった。毎回文章が違うシャツ。一体そんなシャツを何枚持っているのだろう。

 

 先日、元康の父が運んできてくれたドラムセット一式は音楽室の倉庫に閉まってある。練習の為、三人は倉庫からドラムセットを運び出す。


 ここの教室は入口とピアノの間に十分なスペースがあり、中央にドラムをセットしようとしていた。 

 

 はるはハイアットシンバルと呼ばれる物を床に置こうとした。

 

「あ。はるやん待って。まず最初に椅子を置きたいんだ」

 

 元康が重そうな体に鞭打って、小走りに椅子を持ってきた。

 

「順番なんてあるの?」

 

「あるよ。僕の場合はまず椅子から。はるやんの持ってるそのハイアットシンバルは、その次なんだ」

 

 元康の話によれば、順番通りに置かないとバランスが崩れ、演奏しにくくなるという。はるにはよく分からなかったが、経験者が言うのであればそうなのだろう。

 

「熊やんは、彦っちと中津川と三人でずっとバンドやってたの?」

 

 元康と五郎は、はるに自分の名前をそう呼んでくれと懇願していた。はるは素直に従っている。


「中学の時にね。中やんが僕と彦やんを誘ってくれたんだ」


  はるは先程の中津川守の行動分析を思い出した。


「高坂の時みたいに強引に?」


 はるの質問に 元康は一瞬目を見開いた。


「違うよ。僕と彦やん、中学の時イジメられててさ。バンドでもやれば、皆が僕ら事見直すからって誘ってくれたんだ」


 それが本当なら、中津川守のいままでの行動に一貫性が生まれる。この時はるは、不覚にも中津川守を見直してしまった。


「悪りー。悪りー。補習が長引いてさ」


 今しがた丘の上はるに見直された茶髪とピアスの少年は、彦根五郎と共に教室に入ってきた。 守の視界にはると元康が映る。

  

「何よ。二人で何話してたの?」

 

 守は背負っていたギターを壁に立て掛けた。

 

「あんたが、なんで熊やんと彦っちをバンドに誘ったかって話」

 

「え? そんなの決まってるだろう。この凸凹コンビ入れれば、俺のカッコ良さが目立つからに決まってるじゃん」

 

 そう言い残し、守はカバンを机に置く為に離れていった。

 

「······熊やん。話が違うんだけど」


 はるは熊本元康を横目で見ながら呆れた口調で呟く。一瞬でも守を見直した自分が情けなかったと後悔しながら。元康は柔らかそうな腕を組み口を開く。

 

「はるやん。上手に嘘をつくコツって知ってるかい?」 


「え? いや。急にカッコ良さげに言われても困るんだけど」 


 はるのつっこみに元康は構わずカッコ良さげに続ける。

 

「嘘の話の中に、少しだけ真実を混ぜるんだよ」

 

 元康は片目を閉じて見せた。彼にとって精一杯のキメ顔だった。

 

「そ、そう」


 はるは少し困ったような返事を返した。その時、ピアノの前にいた彦根五郎が大声を上げる。

 

「マモー! エライこっちゃ! 今週のシルステに大海原うみの水着グラビアが出とる!」

 

 シルステとは、シルバーステップと言う名の週刊青年漫画雑誌だった。グラビアなどは載せず、漫画一本で勝負していた硬派な雑誌だったが、近年の出版業界の不況に勝てず、部数売上のテコ入れとして最近グラビアを掲載するようになった。

 

「マ、マジか彦根!?」

 

 守が血相を変えて駆け寄る。大海原うみは、その天然な性格とアニメ声優のような声で最近人気急上昇中のタレントだ。

 

「うみちゃんの初グラビアが、まさかシルステとは! くそ。完全にノーマークだったぜ」

 

 叫びながら守は雑誌を、否。大海原うみのグラビアを食い入るように見つめる。

 

「うみちゃんて体の線が出ない服ばっか着てはったけど、ごっつスタイルええなあ」

 

 彦根五郎も守と顔を並べ夢中に見入っている。

 

「事務所がわざと緩い服を着させてたのさ。全てはこのグラビアの為の布石だったんだ。このギャップとインパクト。すぐ世間で話題になるぜ」

 

 鼻息荒い守の興奮は徐々に増していく。

 

「うわ。初グラビアでこの角度から撮るか普通? 男心をわかってるぜ。このカメラマン」

 

『お前は批判してるのか称賛しているかどっちだ』


 中津川守の絶賛の声と態度に、はるは心の中でそう毒づく。

 

 気づけば高坂までもが、その長身を生かし上から覗いている。

 

「はぁ!? ここまで来て続きは袋とじかいな!」 

 

 彦根五郎が大口を開けて絶叫する。

 

「完全にやられたぜ! コイツは立ち読みを許さず買わせる算段だな。やる事がエゲツないぜ王禅文社」

 

 中津川守が雑誌の出版社名を名指しした。

  

『いや、そこは許そうよ。出版業界も今、本が売れなくて大変なんだから』

 

 普段ロクに本など読まないはるも、この時は王禅文社に。否。出版業界全てに心から同情した。

 

「くそっ! ここまで来てお預けかよ」 

 

 守が額に両手を当て天を仰ぐ。

 

「かまへん! 手で破ったらええ」

 

 彦根五郎が両手をバタバタと振っている。

 

「馬鹿野郎! 神聖な袋とじを傷つける気か? くっそ。ハサミかカッターがあれば」

 

「俺持ってるよ!」

 

 きちんと刃の向きを逆さにして、高坂徹が守にハサミを差し出す。急いだせいか徹の眼鏡がズレた。

 

『え? なんで高坂がハサミ持ってるの? それ

高坂が買った雑誌? 袋とじの為にハサミ準備してた?』

 

 はるは「高坂よお前もか」と言う気分になった。このフレーズ、歴史の授業で聞いた事があったような無かったような。十七歳の女子高校生はぼんやりそんな事を考えていた。

 

「でかした高坂! 借りるぜ」

 

 守が高坂から受け取ったハサミで袋とじを慎重に切っていく。


「は、はるやん」


  熊本元康が何かを訴えるような目で丘の上はるを見る。全てを悟ったはるは優しく頷く。


「うん。いいよ。熊やんも行って見ておいで」

 

 元康は満面の笑みを浮かべた。それは今年あまり活躍が出来なかった紫陽花の花が咲いたような笑顔だった。


 笑顔の紫陽花は、男子三人の元へ小走りに去って行った。程なく男子四人から感嘆の声が沸き起こる。


 はるは、暫しその光景を目を細めて眺めていた。

 

 

   

 七月三週目の火曜日。その日も太陽は朝から容赦なく強い日差しを地上に降り注いだ。長雨の季節も強制退場させられ、炎天下の毎日が永遠に続くのかと思われた。

 

「日本の南にありました低気圧の塊が、今朝未明に台風になりました」

 

 朝の情報番組で、眠そうな目をした女子アナウンサーがその一報を伝えた。朝食を食べていたはると心太は、同時に幸恵を見た。


〘幸恵予言〙を呟いた本人は「なになに?」という顔をしている。どうやら予言の事は、本人は忘れているらしい。

 

「俺の出勤日に来ないように頼む」  

 

 今日は非番でのんびりしている父が、母を拝む。台風の進路予想図は関東を通過する予定だ。

 

『私も学校がある日は来ないように拝んでみようか?』


 はるは混ぜた納豆を嬉しそうに茶碗に入れる母を見て止めた。また妙な予言をされても困る。ここは黙っておこう。そうはるは即断した。

 

 台風でもいいから一雨欲しいと思ったのがいけなかったか。父は外の仕事だから、台風だと身に危険が及ぶ可能性もある。影響が少なくなるようにはるは願った。 

 

 学生は何かと忙しい。学校に入学したら、すぐ話せる友達を作らなければならない。毎日の授業に定期テスト。更に補習。体育祭に文化祭。


 部活をやっている生徒はさらに忙しい。おまけに家に帰ってもスマホのラインで、友人達といつ終わるとも知れない会話を続けなくてはならない。

 

 ここから人間関係を省くと、かなり忙しさが軽減されると思われた。それで学生生活が楽しかどうかは本人次第だが。  

 

 この日の放課後、少し前まで学生生活を全く忙しくしていなかった女子高校生は、机に座って縫い物をしていた。

 

 はるのクラスでは、教室の至る所で文化祭の準備が行われていた。これからすぐ始まる夏休みが明けたらすぐ文化祭だ。休みに入る前になるべく準備を進めなくてはならなかった。

 

 はるは自分の机でクラスの出し物である喫茶店で使用するテーブルクロスを縫っていた。


 各家庭で不要なタオルや布を供出してもらい、それを縫い合わせてテーブルクロスにするらしい。確かコンセプトがエコ喫茶だとか。

 

 誰とも話さずに済むこの役目に、はるは満足していた。黙々と何かを作業するのは嫌いではなかった。

 

 時折周りに目を向けると、教室内はかなり混沌としてた。作業スペースを確保するため机と椅子は端に寄せ、ノコギリ。釘。ハサミ。カッター。ダンボール。木材等が床に散乱していた。


 おまけにその上を生徒達が行き交ってる。何人かの男子は、笑いながら走り回っていた。

 

 窓から湿った空気が入ってきた。針を持つ手を止め、はるは窓の外を見上げる。遥か頭上には積乱雲がその姿を現していた。

 

 急速に空が暗くなって来る。クラス内でも何人かは空の急変に気づいた。一雨と涼を求める声がはるの耳に聞こえてきた。

 

 それは突然来た。短い轟音がとどろいた刹那、爆発音のような音と光が間近で炸裂した。

 

「カ、カミナリ!?」


「近くに落ちたっぽいぞ」

 

 教室内が騒然とする。その時はるは自分の観察癖を誇ったか。呪ったかは定かではないが、誰よりも早く見つけてしまった。倒れている女子生徒。多々野薫を。

 

 多々野薫は決して鈍臭い訳ではない。運動神経もいい方だ。だか、突然の爆音を耳にして体がのけぞった。仕様が無かった。


 そして乱雑に置かれた木材を踏んでしまい、左半身から床に倒れてしまった。不運にも使用後放置されていたノコギリがその刃を向けてる先に。

 

「痛いっ! 痛いよ!」

 

多々野薫が左腕を抑えて悲痛な声を上げる。クラス中の生徒が、窓の外のカミナリから多々野薫に視線を移す。

  

 左腕を抑えている手から、血が流れ出す。ただ事ではない空気が教室中を張り詰めていった。


 はるは誰よりも早く動いた。左手には消毒液とガーゼが握られていた。空手教室に通っていた頃から生傷の耐えないはるは、最低限の治療用具をいつもカバンに忍ばせていた。


 だか切らしていた包帯を補充するのを忘れていた。はるは自分のだらしなさを反省する時間も無かった。

 

「ちょっと。やばくない?」


「だ、誰か救急車呼べよ」


「俺、今充電切れだよ」


「救急車って、110だっけ?」


「ばか! 警察呼んでどうすんだよ」

 

 クラス中が混乱している中、はるは多々野薫の前にしゃがみ込む。薫の左腕から血が滲んでシャツ赤く染める。

 

 消毒と止血をする。はるは自分がすべき事をこの二点に絞った。医者ではない自分にはそれ以外は範疇の外だ。はるは出来る事だけを迅速に行う事を考えた。

 

 はるは軽く腹式呼吸をする。自分の手当なら適当にやればいいが、人の事となると勝手が違った。


 だが緊張している時間はなかった。まず消毒する為、薫の左腕のシャツを切らなければならない。


 幸運にもすぐ近くにハサミがあった。左手にハサミを握った時、高坂徹の声がした。

 

「お、丘ノ上。俺に出来る事ある?」

 

 徹は蒼白な顔をしながら協力を申し出てくれた。

 

「ありがとう。多々野さんの右手を握ってくれる?しっかりと」

 

「わ、分かったよ」

 

 徹は、はるが何かしようとする事を察知して駆け寄ってきた。はるはきっと狼狽している自分より、確実に多々野薫の為になる事をする筈だ。


 そう確信した以上、はるから頼まれた事は何でもするつもりだった。

 

「多々野さん。今から消毒と止血をするね。かなり痛みがあるから、歯を食いしぱって、高坂の手をぎゅっと握って」


  はるはハサミで薫の左腕のシャツを切りながら薫に話しかける。


  薫は半分泣きながら辛うじて頷く。シャツを切り終え、傷口を確認する。素人目にも出血が多い。ノコギリの刃がかなり深く刺さったらしい。猶予が無かった。


「多々野さん。消毒液かけるよ。歯を食いしばって!」

 

 薫は力の限り高坂の手を握った。気丈にも声を上げなかった。

 

 次は止血だ。傷口にガーゼを当て、はるは周囲を見回す。布ならテーブルクロスの物があるが、衛生面の問題と縫い合わせ済なので切る手間がある。


 クラスの生徒に声を掛ければ、ハンドタオルくらいあるだろうが長さが足りない。数瞬でそれを考察し、はるは決断した。

 

「ちょ、お、丘ノ上何を?」

 

 徹は思わず叫ぶ。迷いなく躊躇なく、はるは自分のシャツのボタンを外していく。徹は今自分の目の前で起きてる事が理解出来なかった。


 あっという間に、はるは上半身下着姿になった。はるの白いうなじと肩が目に入り、徹は慌てて目を背けた。はるは脱いだシャツを細長く畳んだ。

 

「多々野さん。今から腕を縛るから。かなり痛いよ。頑張って耐えて」

 

 薫は両目から涙を流しながらも、何度も頷く。

 

「丘ノ上! 俺のシャツも使ってくれ!」

 

 中津川守が自分のワイシャツを差し出してきた。

 

「ありがとう。シャツは大丈夫。それより、救急車呼んでくれる?」

 

 はるは自分のシャツを薫の左腕に巻きながら守に伝える。

 

「ノコギリで左腕を切った。傷口は十センチで、出血がかなりある。消毒の上シャツで止血中って伝えて」

 

「分かった! 任せろ」


 守の返答と同時に、はるは多々野薫に声をかける

。 


「多々野さん。縛るよ!」

 

 薫の悲鳴が教室に響き、目を背ける生徒が何人もいた。

 

 徹も顔をしかめる。自分の手を震えながら握る薫の痛みが思いやられた。

 

「連絡したぞ丘ノ上。これから、救急車来てくれるって!」

 

「ありがとう。あとベルト貸してくれる?」

 

「え? ベルト? あ、ああ」

 

 守は、はるの白い背中が目に入り返事が一瞬遅れた。自分のベルトを外し、はるに差し出す。

 

 はるは薫の左腕に縛ったシャツの上から、ベルトを巻き固定した。

 

 両手でベルトを固定しているはるを見兼ねて、守は丘の上はるの側に駆け寄る。


「ベルト片方持つよ」


 守の助力に、はるは素直に感謝する。


「助かる。お願い」

 

 この時はるの正面にかがんだ守の目に、またしてもはるの白い肌が目に入った。


 守は、はるの下着の胸元から慌てて視線を上に移す。それは、はるの顔を斜め四十五度から見下ろす角度だった。一方ではるの目は薫の方に向けられていた。

 

『コ、コイツ。こんなにまつ毛長かったのか······?』

 

 守はこの緊迫した状況に相応しく無い驚きを感じていた。そしてよく見ると、はるの瞳は奥二重だった。


 この角度で。しかもこんなに間近ではるの顔を見るのは初めてだった。中津川守はしばらく唾を飲み込む事を忘れていた。

 

 二十分程経過した後。事態を察知した担任の各務勤が救急隊員をクラスまで誘導する。ストレッチャーに乗せられた多々野薫は病院に運ばれて行った。

 

 張り詰めた空気が少しずつ和らいで行く。安堵する生徒。この後の薫を心配する生徒。教室内はいつもの日常を急速に取り戻しつつあった。

 

 はるはしばらく窓の前に立ち、救急車が去っていくのを見つめていた。

 

 高坂徹は窓の外を見ているはるの背中から視線を動かせなかった。はるの両手には、薫の血が生々しくついている。


 その手で頬の汗を拭ったのだろう。顔にも血がついていた。前も感じたが、はるは立っている時の姿勢が本当に良かった。今もその背筋はピンと立ち、凛々しく堂々としていた。

 

「綺麗だな······」

 

 徹は無意識の内にそう呟いた。はるがふり返るまで徹は動く事が出来なかった。

 

「お、丘ノ上。いつまでそんな格好してんだよ。これ着ろよ」

 

 守が先程脱いだワイシャツをはるに差し出した。ボタンを外す時間を惜しんで力任せに脱いだのだろう。シャツのボタンが外れていた。

 

「大丈夫よ。体操着着るから」

 

 はるはやっと窓から振り返った。守は目のやり場に困った。

 

「だ、だから! それまでその格好でいるつもりかよ。いいから着ろよ」

 

 守は顔を横に向けたまま、シャツに腕を通しやすいよう広げた。

 

「そう。じゃあ借りるね」

 

 はるにしては素直に従った。

 

「お、おう」

 

 窓の外はどしゃ降りになっていた。西の空は明るい。時期にこの雨も止むだろう。

 

 教室がいつもの日常に戻っても、高坂徹と中津川守は落ち着かなかった。二人は、いつまでも収まらない胸のざわつきの正体を、自分でも測り兼ねていた。

 

 

 

 

 


 


 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 




 

  

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 

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