第3話 文月②

 高坂徹と丘の上はるの両者に裁判沙汰があった翌日。茶髪とピアスの若者は不機嫌な顔をしていた。 

 

 中津川守は忙しかった。文化祭のクラスの準備。日本史と世界史の補習。近づいてきたデートの下調べ。


 好きなタレント大海原うみの出演番組の鑑賞。守の年齢では本来借りてはいけないDVDの返却。そしてボーカル探しと演奏練習。

 

「全く体がいくつあっても足りやしない。全くこんな時になんで高坂の奴は俺達を呼び出したんだ?」

 

「中やん。僕らいつまでここに隠れるの?」


「でも隠れるのって、ちょっとワクワクせえへん?」

 

 中津川守。熊本元康。彦根五郎の三人は音楽教室にいた。先日はるがいた中段の位置よりもっと高い最上段の位置の机に腰掛けていた。

 

 ここからだと教室全体が見渡せた。三人仲良く補習を終えた後、血相を変えた徹に呼び止められ、翌日ここに来るように言われたのだった。

 

「徹やん。ボーカル候補がどうのこうのって言ってたね」


 熊本元康はおもむろにポケットからチョコを出し、口の中に放り込みながら回想する。

 

「なんや。どんな人かなあ」


 彦根五郎は身を隠す高揚感にボーカル候補が加味され、楽しみで仕方ないといった様子だった。

 

 元康。五郎。徹の三人は、もう顔合わせを済ませていた。文化祭演奏のミーティングで守が三人を引き会わせた。


 元康と五郎は徹から自分達と似た空気を感じたのか、徹にすぐ友好的になった。それは徹も同様だった。ほどなくして教室のドアが開いた。

 

「来たぞ。隠れろ!」

 

 守が小声で二人に指示しながら体を隠した。気づかれないよう慎重にドアの方角に目を向ける。高坂徹の後に女子が一人教室に入って来た。守の目が大きく見開く。

 

「丘ノ上······?」

 

 守が怪訝な声を漏らした後に、丘の上はるの声が聞こえてきた。

  

「本当に一度だけでいいんだよね?」

 

「もちろん。助かるよ」

 

 徹は丘の上はるに笑顔でそう返す。昨日、判決を宣告された後に徹はしばらく茫然自失としていた。徹の歌声が悪くないとはるは言った。


 そんな筈が無いと徹は何度も思った。自分の歌声は万人が失笑するに値するものだと徹は確信していた。

 

 では丘ノ上の言葉の真意は何なのか。気遣いか。憐れみか。徹は後者ではないと思えた。では前者か。それも徹は無いような気がした。

 

 そもそも徹は、丘の上はるとは今までろくに会話した事が無かった。席が隣同士にも関わらずだ。


 最近少し話す機会があったが、はるの性格を推し測るには、余りにも情報が無さすぎた。

 

 端的に言うと徹には、はるがどんな人間か分からない。今徹がはるについて知っている事は空手経験者でまつ毛が長い。たったそれくらいだった。そしてあの歌声。

 

「じゃあ、ここに書かれた歌詞を歌ってもらえるかな?」

  

 徹は大学ノートを一枚はるに渡した。そこには、昨日徹がはるに教えた曲の歌詞が手書きで記されていた。

 

 はるは今日も音楽の補習を受けていた。補習が終わり教室を出ると廊下に徹が立っていた。


 はるに近づくと徹は両手を合わせて頼み込んできた。文化祭の演奏練習に協力してほしいと。自分の演奏に合わせて歌ってほしいと。


 はるはあまり乗り気では無かったが、補習で分からない所は協力すると言われ心が揺れた。

 

「これを歌えばいいんだね」


 はるは少し跳ねたくせ毛の後ろ髪を掻きながら両目を徹に向ける。

  

「うん。じゃあ、ちょっと練習しようか」


 徹はピアノを弾き始めた。はるは、ほぼ地声で歌う。

 

 曲のメロディに歌詞をどう乗せるかの練習だった。長くもない練習が終わり、徹の表情が少し緊張したものに変わった。ズレた眼鏡を直す。

 

「じゃあ。次本番ね」

 

 徹の確認に、はるは素直に頷く。再び徹の指が動きだす。はるは歌い始めた。昨日感じた驚きと同等の物を徹はまた感じていた。

 

『本物だ······!』

 

 曲が中盤に差し掛かった頃、はると徹の後方から大きな声がこの音楽教室に響いた。

 

「さ、採用!!」

 

 その大声に、演奏と歌声は同時に止まった。

 

 中津川守が駆け足で上から降りてくる。女子をボーカルにはしないという誓いも、この時はどこかに忘れていた。熊本元康はその体型からか少し遅れた。彦根五郎もその後に続く。

 

「お、丘ノ上。お前。歌上手いな!」

  

 突然目の前に現れた中津川守の姿に、はるは事態が全く飲み込めなかった。

  

「なんで中津川がここにいるの?」

  

 中津川の後ろにいる二人は、はるの知らない顔だった。ふくよかな体型をしている男子が着ているTシャツに、なにやら文字が書かれている。そこには〔あきらめないで。夏〕と書かれていた。

 

「高坂。これどういう事?」

  

 徹はまた両手を合わせた。今度はお願いではなく謝罪のためだ。

 

「ごめん! 丘ノ上。どうしても中津川達に丘ノ上の歌を聴いて欲しくて」

 

 はるは少し首をかし傾げた。

 

「なんの為に?」

 

「そこからは俺が話すよ。聞いてくれ! 丘ノ上。いや。丘ノ上さん!」

 

 守が話し始めた。口調がなにやら芝居かかって胡散臭い。はるはそう感じた。

 

「俺達、九月の文化祭でバンド演奏するんだ」

 

「知ってるよ」


 守の熱がこもった口調に対して、はるの返答は冷めきっていた。

 

「だがしかし、肝心要のボーカルがまだ決まってないんだ」

 

「それも知ってる」


 大袈裟に両手で頭を抱え熱弁する守の姿に、はるはいよいよ冷淡になってきた。


「そこでだ! 今、丘ノ上の歌声を聴いて確信した! 俺達のボーカルは丘ノ上しかいないって。一緒に体育館の壇上に立って、素敵な思い出作りをしないか?」

  

「それは知らない」

 

 はるの即答に、守の口が開いたまま止まった。

 

「それはそっちの事情でしょ。私は関係ないよ。じゃあ私帰るから」

 

 はるはそう言うと、教室のドアまで一直線。一度も振り返る事も無く去って行った。守の口はまだ開いている。

 

「あかん。取り付くしまもないなあ」


彦根五郎のつぶやきが、静寂の教室に悲しげに響いた。

 

 


 七月一日の日曜日。丘の上はるは丘登園総合病院にいた。この日は今年初の猛暑日を記録した。


 本来なら鮮やかに色づくはずの紫陽花が茶色くなり、しょんぼりと下を向いていた。活躍の場を与えられず退場していくその姿は、はるに人間の姿を連想させた。


 雨と湿気を奪われた紫陽花がしおれるように、健康を奪われた人間もまたしおれていくのだろうか。

 

 まだ十七年しか生きていないはるにとって、その連想すら実感がわかなかった。健康を奪われた人の気持ちを理解するには、はるはあまりにも若く。健康だったのかもしれない。


「まあまあ。はるちゃんいらっしゃい」


 窓際のベットに腰掛けていた百合子は、両手を合わせてはるを歓迎した。

  

 百合子が入院している部屋は四人部屋だった。前回、部屋まで送っていったので場所をはるは覚えていた。


 以前は部屋の入り口にある表札に空きがあったが、今は四つ全てが埋まっていた。

 

 四人部屋と言っても各ベットにカーテンが付いており、最低限のプライバシーは守れるようになっていた。


 部屋には、はると同じようにお見舞いに訪れている人が何人かいた。

 

 百合子はベットの前にある木製の折りたたみ椅子に座るようはるに促した。ベットの隣には床頭台があり、小さいが冷蔵庫もついている。


 台の上には小型の液晶テレビが置かれており、前回はるがご馳走になった果物ゼリーがまだ残っていた。


 はるは飾られていたガーベラが目に入った。ピンクと黄色のこの花は何という名の花か一瞬思案したが、分からずに直ぐに諦めた。


 花にあまり興味がないはるは、このガーベラに。まして花言葉など気にも留めなかった。ガーベラの花言葉は〔希望 前向き〕だった。

 

 はるは人付き合いに興味が無い筈だった。先日も中津川達に面倒な事に巻き込まれそうになったばかりだ。


 それは、はるにとっていい迷惑だった。では何故知り合って間もない人のお見舞いに来ているのか。はるは自分でも分かり兼ねていた。


 百合子のまとった優しい魅力に惹かれたのだと、はるは自分を納得させていた。

 

「お加減どうですか?」

 

 はるは百合子に進められ椅子に腰掛けた。今日の百合子は点滴をつけていなかった。


「はるちゃんが来てくれたから、今元気になったわ。暑いのにわざわざありがとう」

 

 午後になっても日差しが強く、窓は空調の為閉められている。本当に今年の夏は変だとはるは思う。日に日に暑さが増していくような気がした。

 

 はるは夏が好きだった。青い空と大きな雲。密度の濃い空気と夕暮れの蝉の鳴き声。


 寝室に潜んでいる蚊には困るが、梅雨から夏にかけての時期が、四季の中でも一番のお気に入りだった。

 

 そんなはるでも、連日続く夏日には少々壁癖していた。ここら辺りで一雨欲しかった。この際台風でもいいと心の中で雨乞いをする。

  

「そうなんです。うちの父は、いつも下着姿で家の中をうろついているんです」

 

 暑さの話題から、はるの家族エピソードに話は及んでいた。

 

「男の人って皆そうよね。うちの主人と息子も似たようなものよ」

 

「三人家族ですか?」

 

「あとパグがいるの。三才のオスなんだけど。犬がいると家の中が賑やかになるのよ」

 

 はるは犬と猫に関しては人並みに好きだった。特なパグに関しては母の幸恵が大好きでその影響を受けていた。


 はるも散歩しているパグを見かけると目を細めて見つめてしまうのだった。

 

 夏の日の午後。病室で他愛もない話が続く。以前もはるは感じたが、百合子は本当に柔らかな雰囲気を持った人だった。


 穏やかに笑顔を絶やさず。それでいて他者に気を使う事を忘れない。


『素敵な人だな』


 知り合って間もない百合子に、はるはすっかり魅了されていた。

 

「あの。先日ご馳走になったので。お口に合うか分からないんですが」

 

 はるはリュックから水筒を出した。コップに注がれた液体は黒かった。

 

「まあ何かしら。これ麦茶?」

 

 百合子がコップを覗き込む。


「黒焼き玄米茶っていいます。焼いた玄米を煮出した飲み物です。血を綺麗にする効果があるそうです」

 

「まあ。なんだか体に良さそうね」

 

「私の両親、食べ物には気を使っていて。この黒焼き玄米茶もうちの家族が常飲しているんです」

 

 今自分が健康でいられるのは、両親がちゃんとした食べ物を食べさせてくれたお蔭か。一瞬そんな思いがはるの頭を過る。

 

「はるちゃんを見てたら、効果は保証されているって分かるわ。ありがたく頂くわね」

  

 百合子は微笑んで両手でコップを受け取り、玄米茶を口にした。

 

「まあ。苦そうな色をしているのに、そんな事ないのね。なにかしら。これ麦茶に味が似てるわね」 

 

 百合子は以外そうな顔をはるに向けた。

  

「はい。以外と飲みやすいんです」

 

「本当ねえ。とっても美味しわ。ありがとうはるちゃん」

 

『良かった。百合子さんは喜んでくれた』


 これで百合子の体調が良くなるなんて、甘い考えは持っていないが、微力でも助けになればとはるは思う。


 今日は来て良かったとはるが満足感に浸った時だった。百合子は咳き込んだ。コップを床頭台に置き両手で口を抑える。

 

「百合子さん? 大丈夫ですか?」

 

 百合子は片手をはるに見せた。


「大した事ないわ大丈夫よ」


 百合子はそう言ったが咳は止まらない。刻一刻と激しさは増していった。百合子の腰が曲がり、ベットに倒れ込むように胸を抑えている。


 病室が緊迫した空気に包まれる。ほかの入院患者。その家族達から不安そうな視線を集めた。

 

「百合子さん! 百合子さん!」 

 

 はるは狼狽した。どうして。自分が百合子に飲ませたお茶に毒でも入っていたのだろうかとはるは疑心に陥る。


 混乱したはるだったが、最低限やらなくはいけない事があった。頭より体が先に動いた。左手の指でナースコールのボタンを押す。


「高坂さん。どうされましたか?」

  

 女性の声がボタンの下のマイク口から聞こえてきた。

 

「お茶を飲んだ後、激しく咳き込んでます。呼吸も苦しそうです!」

 

 はるは手短に。そして口早に答える。

 

 後は百合子に呼びかけながら、背中を擦った。無力な自分にはこれくらいしか出来なかった。

 

「母さん? 母さんどうしたの!?」

 

 後ろから少年の声がした。それは、はるの知ってる声だ。

 

「高坂?」

 

 振り返ったはるはクラスメイトの名口にした。はるの視線の先に高坂徹が立っていた。母を心配する徹の顔に驚きの表情が加わった。

 

「丘ノ上? なんで······」

  

 守が言い終える前に、部屋に女性の看護師が入ってきた。

 

「高坂さん。声聞こえますか? 聞こえていたら右手を握り返してください」

 

 後から来た男性看護師がストレッチャーを運んで来る。百合子が処置室に運ばれていく迄、はるは銅像のようにただ立ち尽くしていた。

 

 

 病院の長い廊下にはるは立っていた。目の前のドアには第二診察室と表記されている。その左右にも二つの診察室があり、他の患者や家族が出入りしていく。

  

 ソファーもあったが、座る気にはなれなかった。天井の照明が寿命が近いのか、時折点滅して暗くなる。


 それは、はるの心細さを照明が代弁しているかのようだった。診察室のドアが開いた。担当医から説明を受けた高坂徹が中から出てきた。

 

「もう大丈夫だから。安心して」

  

 はるが安心出来るよう、徹は穏やな口調で伝えた。

 

「本当に? ······良かった」


 力を使い果たしたようにはるの膝は折れ、ソファーに座り込んだ。

 

「ごめんなさい······。私が変な物を百合子さんに飲ませたから」

 

 顔を俯けながらはるは小声で謝る。

 

「違うよ。丘ノ上のせいじゃない。ちょっと気管に入っただけ」

  

 はるは黙ったまま俯いている。

 

「母さんここの所。あんまり調子が良くなくて。ちょっと大袈裟になっただけだよ」

 

 医者の話では、はるが持ってきたお茶は消化に負担のかかる玄米なので今は控えたほうがいいとの事だった。

 

「母さん言ってたよ。せっかく来てくれたのにごめんなさいって。そう丘ノ上に伝えてくれって」

 

 はるは無言で頭を左右に振った。

 

「それにしても驚いたよ。母さんが言ってた若い友達って。丘ノ上だったんだね」

 

 以前はるがクラスで転倒した時、徹は心配して追いかけて来てくれた。やはり徹はその後に病院に行ったのだろう。母である百合子を見舞う為に。その話をすると徹は苦笑した。

 

「見舞いは週に三回まで。それ以上来るなって言われてるんだ」

 

「どうして?」

 

「自分は病院生活で、一人の気分を楽しんでいるからって。今まで家事や子育てで一人になれる事が無かったから。それが理由」

 

 それは百合子の気遣いだとはるは断定する。他人であるはるが分かるくらいだから、当然徹も気付いている筈だとはるは思った。

 

「私が言う事じゃないけどけど、バンドに時間取られて大丈夫?」

 

 はるの頭に半ば強引に徹をバンドに引き入れた、中津川守の顔が浮かんだ。余計な奴が余計な事をしたものだと、はるは腹立たしくなる。

 

「それが逆でさ。文化祭でバンド演奏やるかもしれないって言ってたら、母さんすごく喜んでたんだ」

 

 ピアノをあまり弾かなくなった息子が、文化祭の舞台で演奏する。母親にとってはやはり嬉しい事なのだろうか。はるはそう想像するしかなかった。

 

「ボーカル。見つかりそう?」

 

「それがまだ。こればっかりは仕方ないよ」

 

 徹と話している時のこの感覚。はるは突然思い出した。百合子と話している時と似ているのだ。


 穏やかで安心できる。百合子の穏やかさを徹はしっかり受け継いでいたのだ。

   

 照明がまた点滅した後、一瞬明るく光った。天井を見上げながら、はるはある事を考え込んでいた。

 

 

 はると徹が丘登園総合病院で遭遇した翌日。余計な事が得意な少年、中津川守は放課後音楽室にいた。バンドのミーティングの為だ。熊本元康と彦根五郎はもう来ていた。

 

 後は高坂徹が来るのを待つのみだ。守は皆に告げるつもりだった。ボーカルは自分がやるという事を。

 

「中やん大丈夫? 深刻な顔してるけど」

 

 熊本元康が声を掛けてくる。今日も彼は妙なTシャツを着ていた。シャツには〔始まったのは 青春か恋か?〕と書かれていた。

 

「マモー。なんや悪い知らせかいな?」

 

 彦根五郎も心配そうにする。夏場で痩せたのか細い顎がさらな細く見えた。

 

「高坂が来て皆が揃ったら言うよ」

 

 ギター担当の自分がボーカルを兼任する。本来なら避けたかった事だ。守はバンドのリーダーとして全体を見なければならなかった。


 練習でも本番でもメンバーに注意を払い、何かあればフォローも必要だ。とてもじゃないがボーカルを兼任する余裕は無かった。

 

 ボーカルは歌う事に全神経を傾けなくてはならない。片手間に出来る役目では無かった。


 しかしこの碁に及んでは、兼任もやむ無しという状況に陥った。もう時間が無かったからだ。本番での困難を想像して守は深いため息をついた。

 

 徹が音楽室に入ってきたのは守が三回目のため息をつこうとした時だった。徹の後にもう一人教室に入って来た。それは丘ノ上はるだった。

 

「中津川。熊本に彦根。ちょっと話があるんだ」

 

 徹が皆に声をかけた。三人が徹とはるの前に集まる。

  

「その。実は丘ノ上が」


 徹がずれた眼鏡を直しながら説明を始めよとする

 

「高坂。私自分で言うよ」

 

 はるが徹の言葉を遮る。徹は頷いた。

 

「このバンドのボーカル。私で良かったらやらせて下さい」

 

 はるは言い終えると三人に頭を下げた。時間にして数秒かかったが、三人はこの状況を理解した。

 

「ま、マジで? やってくれるのか!? 丘ノ上!!」

 

 守の表情が不審から歓喜に変わる。この瞬間、中津川守ランキングでのはるの順位は、十二位から十一位になった。


「はるやん。ありがとう」


「はるっち。おおきに!」

 

 元康と五郎がさりげなく、そして馴れ馴れしく丘の上はるの名前を叫ぶ。

  

「ハッキリ言って、歌や音楽の事は全然分からないけど。私、頑張るから」

 

 徹から見たはるの表情は迷いが無かった。これと決めたらブレない性格。昨日から丘ノ上はるという人間の一端を、徹はいくつも見たような気がした。  

  

 他人に関心が無さそうに見えるけど、好意を持った相手には義理堅い。百合子の為、徹の演奏が実現出来るようボーカルの役目を引き受けたのだ。


『いい娘だな』


 背筋を伸ばしたはるの背中を見ながら徹はそう思った。丘の上はるは一日前と今日の自分の状況が全く変わったしまった事にまだ実感が追いついていなかった。


 しかしもう後には引けなかった。文化祭でこのバンドの演奏が実現するよう、自分が出来る事をしようと思った。

 

 この時はるは、何か時間に追われているような感覚に襲われた。理由は自分でも分からない。


 ただそんな気がした。それは初めて百合子の痩せた姿を見てから、はるの中に残り続けた感覚だ。

 

 その不鮮明な気持ちを言語化すると「もうそんなに時間がない」だったが、今は目の前のやるべき事で頭が一杯であり、具体化もしてない自分の気持ちを追求する余裕はこの時の十七才の少女には無かった。

 


 七月ニ週目の水曜日。丘ノ上はるは、朝から携帯音楽プレイヤーで音楽を聴いていた。

 

「珍しいわね。はるが音楽を。それも朝から聴くなんて」


 母の幸恵が片手鍋に味噌を溶かしながら言った。

 

「借り物。音楽の補習で必要なの」

 

 その音楽プレイヤーは中津川守から借りた物だった。中には文化祭で演奏する曲が入っていた。音楽をあまり聴かないはるも、耳にした事がある有名な曲が多かった。

 

 まず歌詞と曲を覚える。中津川守からお願いされた最初の課題だった。

 

 はるは三年熟成された味噌汁を口にした。味噌の量が少し多かったが、汗をかく夏には丁度いい。


 同じく三年漬け込んだ梅干しをかじる。口の中に広がる酸味が食欲を増進する。


 和食の時は、はるは必ず味噌汁、梅干しの順番で食事を始める。ズッキーニと玉ねぎの炒め物も塩気が効いてて美味しかった。

   

 丘ノ上家は夏に限らす年間を通して、しっかり塩気のあるものを食べている。塩気は血を綺麗にしてくれるという考えだった。 


 市販の塩はミネラルが少ない為、昔ながらの製法で作られている塩を取り寄せている。口にする食材や調味料に厳しいのは、父の心太だった。


 良くも悪くも本などから影響を受けやすい性格の父だった。新婚当初、母の幸恵は正直ウンザリしていたという。

 

「買い物の時、いちいち商品の裏を見て添加物見ろっていうのよ? おかしいでしょ?」

 

 はるは昔の愚痴を幸恵から聞いた事があった。ところが、いつのまにか幸恵のほうが食事に関しては厳しくなった。


 スーパーで添加物だらけの商品を買おうものなら、即座に商品棚に戻してしまう。

 

「それもこれも。心太から影響を受けたせいよ」

  

 母の言だった。夫婦は似る。と言うのは本当かもしれなかったとはるは思った。

 

 窓の外からは木にしがみつきながら鳴く蝉の声がした。この暑さのせいか、蝉の鳴き声も辛そうに聴こえた。


 力なく木の下に落ちる蝉は寿命なのか。暑さのせいなのか。はるにはその判断がつかなかった。

  

 はるが住む街には小学校。中学高。高校が複数ある。これらを全て含めたエアコンの普及率は、ニ年前の統計で四十九%だった。はるが通う高校は、幸運にも普及していない五十一%には入らなかった。

 

 空調の効いた音楽室で男子四人。女子一人が集まっている。


「手元にある用紙を見てくれ。文化祭当日までのスケジュールを書いてみた」

 

 中津川守は他の四人に説明をしていた。メンバーは全員、ピアノの前に腰を下ろしていた。

 

「用紙にある通り、練習が休みの日数を引くと四十日弱しかないんだ」

 

 はるはその練習日数が長いのか。短いのかすら分からなかった。

 

「最初に言っとくけど、俺は完璧な演奏をしようなんて思ってないから。出来る範囲で最善を尽くそう」

 

 はるは先程から手際よく話を進める中津川守を訝しげな目で見ていた。はるの中で中津川の評価は明快だった。軽くていい加減そうな奴。


 だが、案外この演奏に対して真剣なのかもしれないとはるは感じた。

 

「熊本。彦根。高坂。自主練の進捗状況は?」

 

「うん。毎日やってるのよ。ドラム一式は、父ちゃんがこらから軽トラで持ってきてくれる」

 

 後から聞いたが、熊本元康の家は自営業で酒屋さんを営んでいるという。ドラムも元康が家の仕事を手伝い、その対価として購入したらしい。


 それにしてもこの元康は、いつも文字が書かれたTシャツを着ている。先日、はるがこの音楽室で初めて元康を見かけた時もそうだった。


 母の影響か、観察癖があるはるはそれを見逃していなかった。今日の元康のTシャツには〔あなたを知れば知るほど〕と書かれていた。

 

「俺も毎日やっとるで。最近、漫才ネタも作らす真面目にな」

 

 彦根五郎が得意気に答える。関西からこちらに来たのだろうけど、地元の言葉を使い続けるのは、こだわりがあるのだろうか。はるは無意識に観察を続けていた。


 生まれも育ちも神奈川のはるにとって、そこら辺のこだわりはよく分からなかった。

 

「俺も可能な限り音楽室で練習してるよ」

 

 はるは急に合点が行った。自分が高坂のピアノを初めて聞いた時、徹は文化祭演奏の練習していたのだ。


 その一週間後にまさか自分も一緒に練習するとは。はるは想像すら出来なかった。

 

「高坂はお袋さんの見舞いがあるから、全体練習に参加できない時があるけど皆よろしくな」

 

 はるの中で百合子の顔が浮かんだ。もう体調は落ち着いただろうかと心配する。

 

「丘ノ上。曲の聴き具合どうだ?」

 

 守は最後にはるに聞いてきた。

 

「まだ憶えるまでは時間がかかりそう」

 

「十分だ。焦らずやってくれ。あと丘ノ上はバンド演奏なんて初めてだからさ。俺達がしっかりフォローするから心配すんなよ」


「う、うん」

 

 中津川はこんな仕切り屋キャラだったのか。守に対して今までかなり辛辣な評価だったはるは、少し戸惑っていた。

 

「あと皆も知っての通り、吹奏楽部が休部中だからこの音楽室はかなり自由に使える。んで俺達と同じく、文化祭で演奏予定だったほかのグループが出演を取り下げたらしい」

 

 守の仕入れた情報によると、そのバンド内メンバー同士で色恋沙汰がこじれて、練習どころじゃなくなったらしい。

 

「と、言う訳で。文化祭演奏は俺たちワンマンになりそうだ。あ。音楽室が自由に使えるからって後片付け。掃除。戸締まりはしっかりやるからな。あと使える時間はカガッチの帰る時までな」

 

 カガッチとは担任であり、音楽室管理責任者の各務勤の事だ。

 

 この茶髪とピアスの軽そうな男は学級委員なのか。はるはそう思い、中津川守と言う人間が分からなくなってきた。

 

 熊本元康のスマホが鳴る。どうやら元康の父の軽トラが到着したらしい。その時、はるは高坂徹の表情に違和感を感じた。


 何か変だった。スマホの着信音が鳴った時、徹は何かに怯えたように見えた。しかし徹はすぐにいつもの表情に戻っていた。


『気のせいかな?』


 はるは意識を目の前に戻した。全員でドラム一式を運ぶ為音楽室を出る。廊下を歩きながらはるは思った。


 他人と苦手な共同作業を自分がする。それも自らが望んだ形で。

 

『不思議だな』

 

 形容し難い感覚が、はるの胸の辺りをざわつかせていた。

 

 



 


 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 




 

  

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 

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