第三章 狼と煙  … 参

〈参〉


 月島えりたちの通う高校では、校内に悲鳴が響いていた。

 狼男が放ったオオカミたちは、散り散りになって校舎中を走りまわり、逃げ遅れた生徒や教師たちを見つけては、飛びかかったり噛みついたり、引っ掻いたりと暴れまわった。

 狼男と対峙していた教頭や数名の教師は、オオカミが放たれた際に飛び掛かられて、転倒した拍子に頭を打ち、そのまま気を失ってしまった。

 最後に狼男の止めに入った女性教師は、あのあと人質となってしまった。背後から男に、筋肉質で太くそして硬い腕を回されて、左腕一本で首周りを固められ身動きが取れなくなっていた。

「もう、もうやめてください……」

 泣きながら懇願する彼女の髪を鼻先で掻き分けながら匂いを嗅ぎ、男はポツリと呟くように答えた。

「残念だがやめない」

 男が上を見上げると、空は先ほどよりも暗く、灰色が濃くなっているように感じた。男が来た時はまだ明るく、青空が見えていたはずだった。

 狼男やオオカミにとって、曇りや雨、特に雨は大敵だった。彼らの毛は湿気で重くなり易く、また雨はニオイを消しやすい。

「はぁ、おせぇなぁ」

 男がため息をついた時、僅かだが、風が変わったのを感じた。その変化を気にしていると、そこへ引き連れていたオオカミのうち三匹が戻ってきた。

「いたか」

「いました。こっちです」

 他の黒っぽい毛色のオオカミと違って、一匹だけ赤茶けた色のオオカミが、人間の言葉を話しはじめた。

「よくやった」

 男はいとも呆気なく女性を解放すると、何事もなかったようにスタスタと狼の後ろを歩き始めた。

 力が抜けたように腰から崩れ落ちた女性は、力を振り絞って男に向かって呼び止めた。男は背中を向けたままだったが、足を止めたのを見て、言葉を続けた。

「待って。私をどうしても構いません。彼女たちに手を出さないのであれば、代わりに私を、嬲るなりなんなりしてください……!」

 すると数秒ほど経って、男が女性の方へ振り返った。

「そんな簡単に自分の身を差し出すんじゃねぇよ。俺はそんな女は嫌いだぞ。女の身体はもっと大事にしろ」

 男の意外な言葉にハッとしていると、三匹のうちで一番小柄の、目の周りに傷のあるオオカミがよだれを垂らしながら近寄ってきた。

「へへ、俺だったら、相手になるぜ」

 すると男がその一匹の横っ腹に、大きく振りかぶった足蹴りを一撃食らわした。

 悲痛な断末魔を上げて飛んだオオカミは、そのまま廊下の窓枠にぶつかってそれをへし折り、ガラスや窓枠とともに内側へ落下した。

「そこの女、お前はそこで座ってろ。俺たちの話には関係ねぇからな」

 再び向こうに歩き始める男の姿を、女性教師は力なく見送った。



 その頃月島えりたちは、その他の生徒や教師らとともに、二階渡り廊下の中間でオオカミの挟み撃ちに遭い足止めを食らっていた。

「いつまでこの状態なんだろう……」

「ねぇ、警察呼べない?」

「携帯繋がんないんだけど……どういうこと?」

 周りの生徒が口々に不平不満を漏らす中、月島はどうにかしてみんなを逃げさせる方法を考えていた。

(体育館まではあともう少しなのに……。私が狙われてる理由はわからないけど、でも、そのせいでみんなを怪我させちゃってる。オオカミの数が少なくなった今がチャンスかもしれない……)

 渡り廊下の窓から体育館をうかがった。二階から見える限りでは、オオカミの姿は確認できなかった。

 集団の端にいた月島は、自分のいる側に一匹、反対側に二匹のオオカミがいるのを再度確認すると、心を決めて小さく息を吸った。

 密集した中でゴソゴソと体を動かしていると、月島のその怪しい挙動に近くにいた由依が気付いて、不思議そうに肩をたたいた。

「えり、何してるの?」

「上履き脱いでるの」

「え、なんで?」

 訝しんで由依が尋ねると、振り返った彼女から真剣な眼差しが返ってきた。

「由依、瀬里と陽愛をよろしくね」

「え、ちょっと、それどういう——」

 由依が質問を言い終わるよりも先に、月島はもう、その質問の答えを行動に移していた。

 月島は一歩集団から飛び出すと、同時に手に持った上履きを思いっきり自分たちとは反対側へ放り投げた。すると、オオカミは月島が投げた上履きを追って反対側の渡り廊下まで走っていった。

 それを見た月島は、隙を突くように一目散で近くの階段へ向かって走った。

「今よ、逃げて!」

「みんなこっち!」

 後ろに向かって叫びながら階段を目指す月島の姿を見て、ようやく状況がつかめた由依はみんなに声をかけながら、後を追うように階段へ走り出した。

 月島が上の階へ向かったのに対し、由依を含めた集団の先頭にいた生徒たちは階段を下っていった。そうとは知らず、教師はみんなを下の階へ誘導し、後を追いかけてきたオオカミ二匹に向かって、自身の上履きを二足、おっかなびっくり放った。

「きゃんっ」

「きゃんっ」

 二匹のオオカミは、まるで犬のように上履きに飛びつくと、床に落下したそれらを不思議そうに眺めてみたり鼻先や前足で突いてみたりし始めた。


 しばらくして入れ違いで現れた狼男は、上履きに戯れている二匹の部下を見て眉間にしわを寄せた。

 渡り廊下まで案内した二匹のオオカミを見下ろすと、男は彼らに質問をした。その声は端々に苛立ちが感じられた。

「例の月島えりはどこだ」

「そ、それは……」

「俺は何を見せられている」

「確かにここまで追い詰めたんだ」

「それがどうした! 追いつめても、俺がここへ来た時にこの場にそいつがいなければ意味がないだろ!」

 もじもじと落ち着きのない様子で答える部下たちに、ついに苛立ちが隠せなくなった男は、大声で彼らを怒鳴りつけた。

 しかし、それでもなお上履きと戯れ続ける別のオオカミたちに、男は舌打ちをした。

「おい、そこの犬腐れども! いつまでその靴とじゃれついているつもりだ」

 彼ら狼人間、ないしオオカミにとって「犬」というのは、人間に飼いならされ、怠け切ってしまった、落ちぶれたような存在という認識で、種族のランクとしては人間の言葉が理解できないオオカミよりもさらに低い、差別的な位置に当たる。

 男の罵声を聞いてようやく正気を取り戻した彼らは、慌てて男のもとへ走り寄った。だが男は、そんな見え透いた取り繕いはいらないとばかりに睨みつけ、その上牙をむき出しにして唸り声をあげた。

「貴様ら、ペットフードになりたくなきゃ、とっとと探して、引きずってでもここに連れて来い!」

「ハッ!」

「ラジャッ!」

「お前らも行け。数は多い方がいい」

「了解」

「イエッサー」

 先に走っていった二匹を追って、赤茶けたオオカミと体格のしっかりした黒いオオカミも月島えりを追って階段へ向かった。

 男は苛立たしげにため息をつき、ふと渡り廊下の窓を見ると、ガラスに雨の水滴がつき始めていた。


 月島えりを追って階段に差し掛かったオオカミたちは、三階へ向かう階段の踊り場に上履きが一足落ちていることに気づいた。

「おい、あれ」

「まさかあいつか?」

 近寄って匂いを嗅いだ彼らは、それが月島えりのものであると確認した。

「兄貴、間違いねぇぜ」

「上か、いくぞ」

 彼らのうち一匹が赤茶けたオオカミを兄貴と呼び、そのオオカミは先頭を走って三階に上がると、グループを二匹ずつに分け、三階のフロアをそれぞれ端から順番に探そうと指示を出した。

「いいか、虱潰しに探せば必ず見つかるはずだ」

「わかった、兄貴」

「よし、いけ」

 威勢よくフロアの端へ走り出した下っ端の二匹の後姿を見ながら、残りの二匹はニヤニヤと笑った。

「あいつらが先に見つけても、俺らが捕まえてきたことにして、また俺らの株をあげて、他の奴らは下げてやろうぜ。なぁ、相棒」

「そうだな」

 やれやれといった足取りで、二匹のオオカミはのろのろと反対側の校舎の端へ向かっていった。



 下っ端の二匹が一つ目の教室の手荒な捜索を終え次の教室へ向かった。そこは化学実験室だった。

 よく分からない化学薬品が所狭しと収納された木組みの棚。オオカミたちにとってはもっと難解で用のない物かもしれない、元素周期表。今にも動き出しそうな人体模型。それらが置かれた化学実験室の中を、オオカミたちが鼻を鳴らしながらうろつく。

「チッ……窓が開いてるじゃなぇか。雨の湿気でにおいが分かりにくいよ」

「しかもここ、なんか臭くねぇか? これじゃあ、あの人間のにおいも分かりづらいや……」

 雨の湿気と化学薬品のにおいで月島のにおいが掻き消されつつあったが、それでもこの部屋から、より彼女のにおいがすると感じた彼らは、執念深く棚や机の下を嗅いで回った。

 そしてそれは確かだった。月島えりは渡り廊下から逃げ出した後、咄嗟に化学実験室に逃げ込んだのだ。

 この日は偶然、狼男が現れる直前までこの部屋が使われており、施錠される隙も余裕もなく、この部屋を使用していた生徒や教師たちは避難していたのだ。

 そして今、彼女は化学実験室のさらに隣、化学準備室に身を隠し、扉のすぐ内側から隣の部屋の様子を窺っていた。

「さっきの部屋より、確実ににおいがする。だから間違いないはずなんだが……」

「なぁ、おい」

「なんだよ」

 オオカミたちが急に会話のトーンを落とし始めた。扉の裏に身を潜める月島は、高鳴る心臓を抑え、呼吸音すらも漏らすまいと口を押えた。それでも心臓の音はさらに高鳴り、激しく脈打つ血流で首筋や耳の奥が五月蠅く、痛い。

 オオカミたちの足音、爪が床のフローリングに当たる音が、雨の音と混じって響く。

「ここからにおいがするぜ」

「近いな……」

「どれ……ここだっ!」

 オオカミがドアと枠の隙間に爪を引っ掛けて、思いっきりこじ開けた。

 すると中から学生服のセーターが二匹の頭の上に落ちてきた。

「うわっ」

 それに驚いて、振り払おうともがき暴れていると、もともとセーターが乗せられて不安定になっていた薬品のガラス容器が、彼らが暴れて棚にぶつかったことで余計にバランスを崩し、その薬品類も彼らの上に降り注いできた。

 化学実験室のみならず、廊下や、そして反対側でのらりくらりと捜索していたもう二匹のオオカミたちの耳にも、下っ端二匹の悲痛な叫びが響いた。

(今だ!)

 月島の頭の中で、どこかで聞き覚えのある少女の声が響いた。次の瞬間には、彼女自身でも不思議なほどに自然と体が動き、準備室のドアを開け彼女は外に飛び出した。

 黒板の前を通過して、開け放たれたドアをすり抜けるように廊下に飛び出ると、彼女は渡り廊下のある方に目をやった。

 するとそこには、同じように廊下に飛び出したばかりの赤茶けた毛色のオオカミと黒い毛色のオオカミがこちらを睨んでいて、彼女の姿を捉えるなり低く唸り始めた。

「っ!」

 教室を飛び出すまで、いざとなったらこれで応戦するしかないと、護身用に化学準備室にあった箒を勝手に拝借したものの、そのいざとなった場面でやはり恐怖が勝って、月島は箒を握りしめたまま校舎の端へ駆け出した。

 それを見た赤茶けたオオカミは、相棒の黒いオオカミに向かって指示を出した。

「おい、下だ! 先回りしろ」

「おう!」

 慌てながら階段を下りる月島の膝は笑い、まともに下りることができない。その間にも後ろからどんどん床を蹴る爪の音が近づいている。

 踊り場をやっとの思いで折り返した時、もう既に間近までオオカミが来ていることに気づいて、月島は焦った。

(あぁ、もう……もう駄目……!)

 彼女は迫り来る影に気を取られ、目視もせず勢いをそのままに一歩踏み出して、そして階段を踏み外してしまう。

 彼女の身体がふわりと宙に浮く。心臓が居場所を失くし彷徨いだす、そんな、気持ちの悪い浮遊感に襲われる。

 そして彼女の脳内に走馬灯が流れ出したころ、白く深い霧が一気に晴れ渡るような、先ほどまでのモヤモヤが瞬時に解決されるような、あの懐かしい感覚に、ふいに襲われた。

 月島はそれを疑問に思う余裕はなかった。そもそも答えは知らなかったし、分からなかったが、もう既に納得はしていた。

(そうか、やっぱりあれは夢じゃなかった。私は、いや、私たちはあの時の記憶を一部消されて、あのゴーグルによって改ざんされてたんだ!)

 赤茶けたオオカミは勢いよく階段を駆け下りて、踊り場をUターンした。オオカミの算段では、そこには月島の姿があるはずだった。

「もらった……って、なに?!」

 しかし、そこには月島の姿はもうなく、彼女は一階へ向かう踊り場をすでに折り返していた。

「逃げ足が急に早くなりやがった」

 月島が一階の廊下に飛び出ると、廊下の先に真っ黒のオオカミが下っ端を二匹連れて立ち塞がっているのが見えた。

(考えなしに飛び出しちゃったけど、どうしよう……)

 廊下の途中で止まり、箒を構えて間合いを図る月島だったが、すぐ後には後ろから赤茶毛のオオカミも追いつき、前後を塞がれてしまった。

 前後両方に睨みを利かせ、箒で牽制し間合いを取ろうとするも徐々に徐々に詰められていく月島。そんな時、黒いオオカミの後ろに物陰から人影が姿を現した。

「よぉ、漸くお目にかかれたな……月島えり」

 それは狼男だった。初めて見る狼男の姿や、その男から感じられる恐怖感、そして何より、自分の知らない人間が自分のこと、名前を知っているということに、彼女は驚愕し震え、立ちすくんだ。

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