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 からっぽになったマグカップ。僕は自室の扉を開け、閉める。

「ナッド、あなたもはやくその牢獄から脱出しなさいな。あなたはもう解放権が認めらている年齢に達しているはずよ」

 僕は淡々と階段を降りる。

「こちらの世界は想像ひとつよ。何も持たずにすべてを得られるわ。娯楽も、快楽も、友達や最愛の恋人だって。誰もが誰かに認められ、愛されるのよ」

 冷蔵庫を開ける。ミルクを取り出しそれをマグカップに注ぐ。

「カフェオレだって、真に味だけを楽しむことができるわ。おかわりだって際限がないわよ。何十杯も、何百杯だってできるんだから」

「姉さん、少し黙ってくれないか」

 僕はちらと食卓を見る。大きな木製のテーブルに椅子が四脚。奥から順に、交通事故で死んだ父さん、姉さん、父の対面に母さん、そして僕。いま、空席は僕の席ひとつだけ。

 父さんの席では管だらけの機械が昼夜絶えずいろんなランプを明滅させている。姉さんの席には水槽がひとつ。二年ほどのあいだずっと濁ることなく透明な水が水槽に七分目ほど入っている。そのなかには皺のほとんどなくなった姉さんの脳が沈んでいて、父さんの席から伸びる無数の管があらゆる箇所に刺されている。

 姉さんはインターネットに代わる人類の楽園『イマジン』で楽しく暮らしている。そして時折ぼくに話しかけるのだ。それも脳内に直接。こんなものはコミュニケーションでもなんでもない。他者の完全理解? くだらない。

「何よ、ほんとにかわいげのない弟ね」こうやって僕の思考も姉さんは勝手に聞いて、理解する。

「姉さん、でもさあ、その『イマジン』とやらが人間にとって本当に完全な『最終世界エンドワールド』なのなら、どうして母さんは自殺したのさ?」

「自殺じゃないわ。あなたが殺したのよ」

 母の席には水槽がひとつ。そこに水は張られておらず、すっかりしぼんでしまった母さんの脳が白くなって、ある。右脳と左脳の間の溝には、僕が小さい頃よく使っていた気に入りのキャラクターのフォークが刺さっている。

「だって母さんが「殺して」って言うんだもの」

「だからって殺すことないじゃない」

「そのときの母さんの感情がさ、僕には堪えれられなかったんだ。とてもおそろしかった。まっしろでまっくろだった」

 圧倒的な虚無の色は、矛盾していた。それでいて太陰太極図のように美しかった。僕は僕でなくなりそうになったのだ。僕はそれがとてもおそろしかったのだ。

「私にはなんでその感情を共有してくれなかったんだろ?」

「だって肉体のない姉さんには、母さんを殺すことはできないからでしょう?」

「人を殺すのは、それも親を殺すなんて、ほんとに不良なのね、私の弟は」

「人殺し以上だよ、あんなの。母さんは罪深い。殺意を向けられるよりつらい感情だ。自己喪失の恐怖って、きっともう姉さんにはわからない感情だよ」

「そんなことないわ」

「だってさあ、もう姉さん、姉さんじゃないもの」

「ふふっ。でもあなただって同じじゃない? 『デボチカ』なんてイマジナリーフレンドとばっかり話して、ねえ?」

「姉さんだってデボチカと同じようなものじゃないか」

「知ってるかしら?」姉さんの声音に少しの悪意が混じり、ぼくのあたまのなかに艶っぽく響く。「彼、私の男なのよ」

「へえ」でもそれは『姉さんのデボチカ』であって『僕のデボチカ』じゃない。

「彼、あなたより私が好きだって。貧乳より巨乳の方が好きだって」うるさい、脳みそだけのクセに。

「ボクっ娘なんて時代遅れだって」こないだは「好き」って言ってたのに。

「私ね、デボチカとのあいだに赤ちゃんができたの」想像妊娠とでも? きもちわるい。

「もうね、赤ちゃんの名前は決めてるの」

「うるさいなあ。黙ってよ」僕はコーヒーのボトルを冷蔵庫から取り出す。

「ルドヴィコっていうの」ボトルのキャップを外し、水槽の前に立つ。あのレビュー、やっぱり姉さんの嫌がらせだったのか。

「姉さんさあ、脳だって肉体なんだよ。母さんは死んだよ。脳にフォークが刺さってさ」

「死がわたしたちの終わりだと、あなたはそう考えているのね」

「そうでないなら、物語はいったいどこで終わればいいの? ねえ、デボチカ?」

デボチカは応えない。僕は咳払いをする。「僕が行きたいのは『イマジン』なんかじゃないんだ。想像のさらに果てだよ」ねえ、デボチカ! 

 コーヒーのボトルを逆さにする。黒い液体は重力に逆らわずボトルから落下、そのまま姉さんの水槽に溶けていく。みるみる水は濁り、黒くなる。

「死が想像を超えると、そう期待しているのね」

「ルドヴィコによろしく。いつかあんたらのクソガキに「あなたのおばさんは神経質な貧乳で肉体主義者の愚か者だったのよ」なんて昔話をしてあげてよ」

「あなたの書くものはほんとうに退屈だわ」

「それはそれは、どういたしまして」どうやら姉さんは、国語教師のモデルが誰なのか、きっと気付いているに違いない。

「ああ、最後に言わせて」僕はすうっと息を吸う。「この世に出でたその瞬間から、あらゆるものの死は決定するのよ。あなたたちの子供も例に漏れず、ね」言い切ってすぐ、黒い液体に浸った脳にペットボトルを口の方から突き刺した。


 ざまあみやがれ。

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