12
朝に近づくにつれ湿度が高くなったように感じる。香織はその空気を吸いながら、気持ちが落ち着いていくのを感じた。不純なものは重たくて浮いていられないのだ。
「佐久間君のこと、好きでしょう?」美沙は少しもためらう様子を見せずに聞いた。
「そうだね。まあ、振られちゃったけどね」
「マーライオンした日は何にも覚えてないけど、佐久間君の家に連れて行かれたことで何となくはかおりんがそうだってことは分かったよ」
「そんなに分かりやすいかな?」
「酔っ払ってトイレにこもることが目に見えている私を連れていっても負い目を感じないほど仲のいい友達なんて、かおりんいないもん」
「よく知ってるね。もうちょっとオブラートに包んでほしかったけど」香織はふてくされた口調で、下を向きながら言った。
「あ、ごめんね。傷ついた?なんて、まさかね」
「うん、大丈夫」
「佐久間君がさっき泣いていたでしょう?」
「…ああ」
香織は少し思案した後に、ようやく鰤谷の話の最中に佐久間が泣いていたことを思い出した。美沙がそんなことを覚えていることが意外だった。
「なんでだろうね」
「分からないけど、なんでそんなこと?」
「かおりんは知りたくない?」
「知っているの?」
「ううん、知らない」まるで興味がないとでもいうように、彼女は冷たい口調で言った。
「知りたいけど、そういうことは聞いても教えてもらったことないし。多分、私が普段、佐久間とか賢治君が話す面白いことに気付かないから感受性がない、ダメな人間だと思われているからじゃないかなと思うけど」
しばらく美沙は黙っていた。あたりの霧が深くなってきた。香織は照度を極端に落とした空のせいでこのまま霧と同化するのではないかと心配になった。
「佐久間君はかおりんのこと、好きだと思うよ」
美沙の顔もよく見えなかった。
「それはどうも」
「慰めではなくて、そう思う」
「それは好き嫌いで言えば、好かれてるけど、そういうことじゃないから」
「そう…。でも、そう思うよ」
美沙がこちらを気にしている様子が気配で分かった。
「だったら!…ごめん、なんでもない。」
つい語気を荒げてしまう。
苛立ちを感じた。そして、賢治の涙をふと思い出してつらくなった。苛立った原因が美沙の言動ではないことを祈った。祈りたかった。
「私は何も言えることはないけど、佐久間君は誰かに聞いてほしいことがあるんだと思う。それを話すならね、かおりんにだと思うよ」
香織は寄りかかるように体を寄せた。美沙は肩を抱き寄せて、撫でた。二人の間に流れているものが怒りではないという安心感が生まれた。本気で私のことを応援してくれているのが分かった。
「…分からないよそんなこと。いつも何にも話してくれないし、私だって話してほしいよ」
「それを佐久間君に言った?」
「言わないよ。私は佐久間にとっての何者でもないんだから」
「一度振られたからって…。私が恵一に何度告白したか知ってる?どんな気持ちだったかわかる?」
香織は息をのんだ。
美沙の肩が離れた。彼女は俯いている。
そうだったのか、と香織は思う。
私が適当に彼と向き合っている間、彼女はずっと傷ついていた。そんな当たり前のことを私は見ないようにしていたのだ。
誰かを好きなったときのただ甘くて苦い気持ちを私はもう味わえない。そんな何かを失った感覚だけが日々の暮らしの中でどんどんと大きくなった。何もかもがつまらなく思えた。毎日が投げやりになった。彼の気持ちもぞんざいに扱った。
そうして、知らずしらずのうちに、ふさぎこんでいたのかもしれない。大学に行かなくなったのも、多分、そのせいだ。
展望台を支配している朝方の寒さがシャツの編み目から少しずつ身体を刺してくる。その痛みがさらに切なくさせる。香織は、腕組みをしてその感覚を紛らわした。
「今、どんな顔しているかわかる?」
美沙の顔がこちらを向く気配。
急に彼女の身体が迫ってきた。
香織は身構えた。
美沙の額が香織の額に押しつけられる。
震えている…。
彼女から伝わる感情を一つも逃さないように、懸命に、その体温を感じていた。
しばらくそうしていると、美沙は顔を上げた。はっきりとわかる。満面の笑みだ。
「すっきりした。ごめんね」美沙は香織の肩に手を当てていった。
そして、綺麗な指先で、空を指さした。
見上げると霧が風に乗って、消えていく。
満天の星空だ。
「綺麗だね」美沙は星空を見上げながら言った。
その声に、勝手に許された気がして、勝手に救われた気がして、うまく話せなかった。
美沙はただそばにいた。それが彼女の優しさだとはっきり分かった。
香織は、星に見とれているその姿にただ、見とれていた。
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