もてなす日
ふり
1
「ただいまぁ~」
ドアの開く音とともに、気の抜けた声が玄関先から聞こえてきた。ソファで雑誌を読んでいた女――紗綾子(さやこ)が、ウェーブした黒髪をたゆたわせ、スリッパをパタパタと鳴らしながらまずは冷蔵庫に立つ。経口ゼリーとスポーツドリンクを取り出して玄関へ向かう。
「理央(りお)ちゃんお帰り。あらまあ、汗みずくじゃない。ほら、ゼリーとジュース飲んで」
帽子を取ってリュックを下ろし、ピンクとホワイトの長袖のジャージを脱ぎかけた理央の表情が曇った。
「えー、ビールじゃないのー……? 『紗綾子スペシャル』のひとつでしょ?」
「今まで散々売ってきたでしょう。早く裸になってお風呂に入って入って」
「わかったよ」
乾いた部分がほぼ皆無なジャージの上下を脱ぎ、洗濯かごに入れる。首の巻いたタオルもたっぷり汗を吸っていた。下着の上下もかごに投げ込むと、一糸まとわぬ健康的な体があらわになる。しかし、理央は玄関先でもあるにも関わらず、スポーツドリンクを一気に飲み干した。喉の渇きを潤すことが最優先だったのだ。
「ねぇ、裸なのは結構だけど、カギしたの?」
「あっ、まふいまふい」
経口ゼリーをくわえながら理央は玄関を施錠する。もしも、宅配便なんか届いた日には、とんでもない痴女がマンションに住んでいると噂されてもおかしくない。
「それにしても、こんなにあっついのに湯船に浸からなくちゃダメ?」
唇をとがらす理央に、紗綾子のオッドアイ――右目が青で左目が黒――がすがめられた。
「こんなに暑いからこそ、よ。ずーっと動きっぱなしで、体が悲鳴を上げてるのよ。ぬるめだし、ハッカの葉が入っててスーッとするわ」
「はいはい。『紗綾子スペシャル』を堪能しますよ」
理央が浴槽の扉を開けた瞬間、ハッカ特有の鼻を突き抜けるような匂いがした。
「ああ、こいつが原因だねぇ」
ハッカの葉が入った布袋(ふたい)が浴槽内にあった。ちなみにハッカには、風呂上がりのサッパリした清涼感にはもちろん、血行促進や保湿効果があるそうだ。
かけ湯をしてから気持ち少な目の浴槽に体を沈める。布袋を足で足元へ押しやりながら大きく息をついていると、すりガラス越し紗綾子の声がした。
「ちゃんと20分ぐらい浸かってね」
「えー、20分もー?」
「デトックスよデトックス。窓際に置いてあるタブレットを使ってもいいし、あと水分補給も忘れないでね」
そう言って紗綾子はスリッパを鳴らして去っていく。理央は用意周到に準備されていた暇つぶし用のタブレットとスポーツドリンクを見つつ、半ばあきれた口調で言った。
「紗綾子さんってやっぱり、面倒くさいところあるよねぇ」
* * *
動画サイトでお笑い芸人の漫才で大笑いしていると、不意に浴室の扉が開かれた。
「おー、紗綾子さん。水着なんか着てどうしたの?」
髪をアップにした紗綾子が恥ずかしそうに身をよじらせている。今年初の水着のお披露目に、照れているらしかった。
「ほら、今度いっしょに海に行こうって言ってたでしょ? ……似合うかしら?」
チェック柄のワンピースの水着である。理央は上から下、下から上と視線を往復させてひと言。
「露出が足りない」
「お、おなかが少し気になって……」
「そんなに太った感じはしないけどねー」
人差し指で紗綾子の脇腹をつつく。
「おおー、ギリギリセウトかもしれないけど、あたしは好きな肉の感じだよ」
「年上をからかわないのっ。頭と体を洗ってあげるから、早く浴槽から上がりなさいっ」
「はーい、お願いしまーす♪」
理央がイスに腰かけると、紗綾子が黒髪にシャンプーを垂らして洗い始めた。マッサージするような手つきで頭皮を刺激され、しばし無言で気持ちよさに浸る。
「理央ちゃんみたいにショートだと楽よね」
「楽だよー超楽楽。ただ、髪を伸ばしたくなるけどねー」
「あれ、理央ちゃんって髪を伸ばしたことあったの?」
「中学校の部活を引退したときに肩ぐらいまで伸ばしたよ。ただ、それが限界。首に髪がかかる感じと髪の長い自分に違和感を感じてね。あとね、何より手入れが大変で大変で。だから、紗綾子さんマジ尊敬。よくまあ、この毛量の多さと長さを保ってられるなって」
「らしい理由ね。私の場合はお母さんもおばあちゃんも長かったし、小さいころからずーっとロングだったから、慣れてしまったのよ。手入れとかも生活の一部になってしまってるし」
「でも、あたしぐらいほどじゃないけど、ショートにしたことってある?」
「あるわよ。大失恋したことがあってね。そのときに自分でハサミで切ったの。もちろん、お母さんとおばあちゃんにはこっぴどく叱られたわ」
「ほうほう、そのお話を詳しくお聞かせ願えませんかね」
「頭流すわよー。目と口を閉じないと入るわよー」
「うわ、逃げた」
* * *
紗綾子は洗面器にお湯を張り、ボディーソープを気持ち多めに注ぎ、ネットで泡立てていく。
「いつ見てもたくましい背中ね」
「そりゃそうですよ。中高と登山部で重いザックを背負って、今はバイトでビールサーバーを背負う日々だもん」
紗綾子と対照的に、理央の体は全体的に引き締まっている。様々の箇所の筋肉が、同年代女子とはまるで違った。
「……私もビールの売り子のバイトをしようかしら」
理央の首に泡をつけて優しく手で撫でるように洗う。
「紗綾子さんが? 見た目的には私より背も高いし、ナイスバディでさすがはロシアの血が入ってるって感じで最っ高だけど、担げんの?」
「高いと言っても2センチしか違わないじゃない。それで、何キロぐらいなの?」
ちなみにふたりの身長は、理央が167センチで紗綾子は169センチである。
「だいたい15キロ以上、20何キロ未満かな」
「ムリね」
「即答!?」
「そんな重い物を担いだら、肩が外れるわ」
「将来、子どもができたらどうするの? 子どもは重いよー、ビールサーバーよりも重くなった子が『おんぶ! おんぶ!』なーんて言ってきたらどうすんの?」
紗綾子の手が一瞬止まった。
「……それまでにはなんとかするわよ」
「なんていい加減な」
肩と腕や手を丁寧に洗っていく。背中を洗い終えたところで、紗綾子はきっぱり言った。
「胸とか下のほうは自分で洗ってね」
「なんで?」
「理性が飛んで『紗綾子スペシャル』が達成できなくなるのよ」
「……ああ、わかりました」
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