おとぎ話の終わり(最終回)
薄暗い森の中、清浄だが湿っぽく少し苔臭い獣道をリデュケは歩いている。ドライアドの森へ向かって。後ろを振り返ると
その背中に揺られて、ぐったりした様子のヒルダが言った。
「ずっとこうしようと思っていたんでしょう?
わたしを自分の住処に連れ去ろうと。森の奥深くへ。
わたしはあそこにいるべきではないと、最初から思っていたんでしょう?」
リデュケは前を向いたまま訊いた。
「……あの領地には、いたくなかったですか?」
「自分はあそこにいるべきだと、思い込もうとしたことはあったわ」ヒルダは気だるげに答えた。「実は異世界転生など起こってなくて、わたしが勝手な妄想を抱いているだけ。そう思おうとした。〝実は自分はこの家の子供ではなく、どこかに自分が帰るべき理想的な家庭がある〟という空想をしているだけの、ただのクナーグ家の娘だと」
高貴な家柄の赤児が川か何かに流されて、下賤な民に拾われるという神話は各地で自然発生する。それは比較神話学では貴種流離譚と呼ばれ、心理学では家族空想と呼ばれる。
「でもヒルダ様の場合は、そのおとぎ話こそが真実だったのですね。一つの世界を失った孤児としての」
森の青い光、魔素代謝植物が多くなってきて、後ろを振り返ってももはやリレサントの領地は見えない。ヒルダは自分の人生の半分を過ごした世界そのものと、残りの半分を過ごした狭い領地を後に残してきた。
ヒルダはリデュケの背中に押し当てていた顔を上げて、少し強い調子で質問した。
「でも、なぜわたしを選んだの?わたしより不幸な子供はたくさんいる。単にかわいそうだからというだけで子供を連れて帰っていたら、森は子供だらけになってしまうわ」
「子供だらけの森……ふふ」リデュケはその情景を想像しているようだ。
ヒルダは問い詰めるように言った。
「なぜ?なぜわたしだけのために来てくれたの?」
「わかりません……。強いていうなら、あなたのような種類の孤独の形は見たことがありませんでしたから。それが理由です。
まるで別の種族に、寝ているときさえ解けない偽装魔法を使ってまぎれているような。自分で解けない魔法のことは、呪いと呼ばれます。
でも奇妙なことに、魔法の匂いはしなかった。わたしの鋭敏な嗅覚でさえ、どんな魔素代謝物の匂いも検出しませんでした。それはすなわち、対応する解呪魔法も存在しないということを意味します。
そんな人をどうやって助ければいいのでしょう?わたしが何もせずに去れば、誰によって救われるのでしょう?
対抗魔法でも遺伝子操作でも解呪できない呪いなど、あってよいのでしょうか?それは、アンチキャスターであるわたしにとって異界からの挑戦でした」
「あなたは呪いに惹かれて来たのね。チートシステムという呪いに」とヒルダ。「でも、そのシステムを呪いだと思わない人もいる。絶大な力が得られるのに、罪の意識以外には特にリスクがないのだから」
「おそらくリスクはあります。単なる罪の意識だけでなく、実際にヒルダ様を蝕む呪い――チートスキルの対価が」
「対価?」
「それは、記憶です。過去を蓄積する能力。それが、失われるかもしれないのです」
リデュケはまた長い説明を始めた。
「記憶とは時間の痕跡、熱の痕跡、エントロピー増大の残した爪痕です。ならば熱を消して時間を逆行する存在――転生者化石が、記憶できないのも当然です。
我々が化石の表面に演目を刻印することによって以外では、自力で情報を蓄積できないのです。
まるで前向性健忘症の人が、自分の身体に入れ墨を刻むことで外部記憶としたように。
我々が何かを記録できるのは、エネルギーが熱に変わるときに非可逆な痕跡を残すからです。
転生者化石の表面に演目を彫刻するとき、鎚の運動エネルギーは回収不可能な熱として散逸し、その証拠として破壊が残されます。もし運動エネルギーが回収可能な形で残るなら、痕跡は残らずに鎚は跳ね返されるでしょう。
破壊の痕跡、それが記録です。石に文字を刻むという行為は、最も原始的で象徴的な記憶のありかたです。
我々の脳も同じです。脳は排熱しながら過去の痕跡を自身に刻みつけます。
記憶とは、我々が築き上げた秩序の王宮ではなく、破壊の墓銘なのです。生命は局所的にエントロピーを減少させるといいますが、実際は自己組織化された無秩序の集合体です。
しかし、それとは逆に、転生者は自分を破壊できません。よって痕跡を、記録を残せません。だからカルヴィンが言ったように、学習ができないのです。エントロピーを局地的に減少させることができても増大させることができないから」
「骸の王を倒せたのはそれが理由ね。だって、三億年もあったら宇宙の真理の一つや二つ悟っていそうなのに、彼の精神はほとんど最初のままだった」
「はい。それでも少しは記憶が増えていたのは、レベルアップに伴う表面積の増加の過程でエントロピーが増大する余地があったからでしょう」
「でも、わたしは問題なく記憶できてると思うけれど」
「今までは。でも、これからはわかりません。
チートシステムを起動する前、つまりヒルダ様がオークを殺すために経験値獲得を始める前は、問題は起こりませんでした。
そして、常習的に経験値を獲得していたここ数ヶ月の間も。
でも、もしチートシステムを起動したまま、殺しを控えていたら?」
「ああ、なんてこと。わたしは何かを殺し続けなければ、記憶できなくなるのね?新しい出来事を。あなたと、どんな楽しいときを過ごしても、過ぎ去って心に留まらなくなる。〝経験値〟とは、よく言ったものだわ!記憶できなければ、何も経験できないのと同じ」
「そうです。当分は大丈夫だと思いますが、月日が経つとそうなる可能性があります。
取得経験値の高い微生物を培養して、殺すことでしのぐという手もありますが……」
「よくそんないんちきなレベル上げ方法を思いつくわね」
「所詮、レベリングは狩猟採集の追体験ですから、それを養殖化・箱庭化するのは当然の流れといえます。でも、それもいたちごっこです。必要な経験値量が増えていけばキリがありません。だから、根本的な呪いを取り除かなければ。
でも安心して下さい。きっと解呪できます」
「どうやって?わたしの身体から暗黒星を取り出すの?外科的手術か何か――ピンセットで特異点をつまみ出す?そんなことが可能なの?」
「暗黒星はヒルダ様の存在と一体化しています。肌が人型の事象の地平面ですが、コアがどこにあるかは不確定です。
ヒルダ様をデータとして複製してオリジナルを廃棄してしまうのではなく、複製不可能な魂を救出する。それは難しい試みになります。ドライアドの姉妹達の手を、もしかしたらエルフの手を借りなくては達成できないでしょう。
だからドライアドの森に向かっているのです。もうすぐ見えてきます」
森の青い瞬きの群れが最も濃い方向が、だんだん橙色の暖かい色相を帯びてきた。
「本当にあったんだ」ヒルダは目を輝かせて言った。
「疑っておられたのですか?」
「無いんじゃないかと思ってた。そんな都合のよい場所が、わたしが許されるような場所が、この世にあるなんて。あなたの優しい嘘かと思ってた」
驚いた様子のリデュケはヒルダを降ろして、向き直って抱きしめながら言った。
「なぜそんな風に思っていたんですか?誰があなたに絶望を吹き込んだのですか?」
「ごめんなさい。わたしが勝手に絶望していただけ」
暖色の光を背景に、向き合う二人はシルエットになっている。
リデュケは座ったままで言った。この状態だとヒルダより少し目線が低い。
「ここまで来てなんですが、ドライアドの森は受け入れてくれるかどうか。領地には入れて歓迎はしてくれるでしょうけど、その後の話です。
あんなに異種族に干渉してしまったので、女王に怒られるかもしれません。最悪の場合、追放されるかも」
「だって、あなたは人間族に喧嘩を売ったものね。魔族に濡れ衣を着せようとしてたけど、シェレカン達にはバレているでしょう」
「でも、追放されるのも面白いかもしれません。そうなったら、二人で色んな場所を見て回りましょう。
例えば、転生者の発掘跡の遺跡に、様々な魔物が棲み着いて出来たダンジョン。
ナーガ・シーウィッチの海底都市。
化石竜が眠る地溝帯。
オークが生まれた土地、ドラゴンの高原。
コボルトとウォーゲンが共存する村。
グノームの地底都市。
ドワーフの鉄鋼要塞。
古代アラクネの巣。
我々は今まで、世界地図のごく狭い範囲を往復していただけです」
「そういうところを回れば、経験値稼ぎに困らないというわけ?殺しの言い訳探しに」
「ええ、言い訳です。〝殺してもいい生物〟を探しに、危険な場所を回るという。
でも、それは時間稼ぎにしかなりません。いつかは呪いに追いつかれる。だから、チートシステムを解呪しなければいけません。
もしかすると、ドライアド達はヒルダ様の身体の様態を変えたほうがいいと言うかもしれません。解呪の一環として」
「わたしを作り変える?あなたみたいな四脚と長い耳にしたいの?」
「いいえ。どちらかというと、ブラッドエルフ(エルフと人間の混血)やナイトエルフ(眠りの世界樹を守る夜の一族)のようになるでしょう。
ちなみに、ブラッドエルフの堕落した姿が、ヴァンパイアです。
だから、そんなに見た目は変わりませんよ」
「王都の上空で、血に操演されるべきではないと言っていたのに、種族にこだわるの?あなたの同胞に仲間と認められるために。矛盾してない?」
「もちろん、人間のヒルダ様も素敵です。一番背中に乗せたい存在です。私達が言いたいのは、種族が選択できるということです。
進化が用意した、一つの選択肢に囚われて欲しくないのです。
ドライアドは、自然淘汰に従うのを拒む種族です。
エルフは、もう少し極端です。物理法則に縛られるのを拒む種族です。
彼らは世界樹の中で、別の物理法則を夢見ています。いずれ物理法則を完全に理解し、あまつさえ変えることができると信じて。それは転生システムと同系統の、数学的宇宙の考え方ですが、アプローチの仕方が少し違います。
おそらく転生システムは、進化のアルゴリズムを採用しています。
無数の宇宙に無数の人間を送り込んで、〝人間にとってもっとも幸せな物理法則から成り立つ宇宙〟を人海戦術的に見つけようという試みでしょう。
輪廻型の巡回探索システムです。
しかし、わたしはその方式を否定します。進化を否定します。
残酷すぎる方式だからです。
探索者を増やしてどれかが成功するのを待つより、たとえ遠回りでも、コードを読んで理解して、自分自身が目的地を見つけたい。
コード、遺伝子、法則。
それらはいずれも、我々を縛るもの、制約するもの。
私達の肌の奥深くに刻まれた演目です。
わたしはそれを解読したい。
読解したい。翻訳したい。書き換えたい。
ヒルダ様、愛しています」
いつのまにか、ヒルダはリデュケにキスされたことに気づいた。いつもの長い説明かと思っていたら、愛の告白だった?
いや、好奇心と愛の区別がついていないから、感情が混ざってしまったのかもしれない。ドライアドとはとても不思議な種族だ。
「わたしの演目も書き換えてしまうの?呪いを解くために。人間でないものにするために」
「魂は変わりません。ヒルダ様は、一度それを経験しているはずです。この世界に来るときに。
千の方舟が座礁する中で、たった一人浜辺に打ち上げられて」
「怖い。それでも怖いわ。自分が自分でなくなるのは、何度経験しても」
マナバクテリアの胞子が淡い橙色の、無数の小さな灯籠のように、樹冠に隠された夜空に昇っていく。
王都の対空砲火よりはるかにゆるやかに、揺らめきながら。
リデュケとしばらくそれを見つめた後で、ヒルダは言った。
「わたしを領地から連れ出して、今度はわたしの魂をこの呪われた身体から連れ出そうというのね。
いいわ。わたしは願いの対価に、あなたに魂を捧げましょう。
わたしを変えてしまうその時に、この怖がりな身体を抱きしめていてくれるなら」
〈了〉
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