天を目指した糸

カピ

そして結末は描かれぬまま


獲物を捕らえる蜘蛛の糸は、終ぞ貴方だけは捉えられることがなく。


糸は、まだ届かない。



――――好きではない。

本当にこの味は、全く好みではないしむしろ不味いと感じるほどだ。

質素な茶器になみなみと注がれた黒い液体は、どこか深淵の闇を彷彿とさせる。

二口、三口。

私の口にはどうやっても合うことはない苦い味。

けれど確かに、苦さではない別の味がした。



昔、此処には一つの絵があった。

そのさらに昔は何も描かれていない白亜だったのだろう。カンバスの前に男が座っている。


『こんなところかな』


彼はそれまで微動だにしなかった腰をよっこいせ、と上げると珈琲でも飲もうかと言う。


『あら、それは私に対して言っているの?』


『当然じゃないか。君以外に何がいるとーーー』


ああ、君も居たか、と。

彼は先程まで向かい合っていた人を見る。


『折角だ、たまには自分自身と語り合ってみるのも悪くないんじゃないか?』


そう言うと彼は返答を待たずに何処かへと行ってしまった。

とはいえ、その場所はわかりきっているのだけれど。


自分自身と語り合う―――

何度か言葉を反芻し、カンバスと向かい合う。


『こんにちは、私。』


似ていない、と思った。

それも当然か。


私には――。


『お待たせ。』


思考を遮られる。彼が珈琲を片手に戻ってきた。


盆に乗せられた茶器が3つ。私と、彼と、自分に。


『あら、伝えていなかった?私、珈琲は好きではないの』


一本の腕で砂糖瓶を開け、もう一本の腕で掬う。

吐き気がするほど甘ったるくするのが当時の流行だ。


『だろうね。だから持ってきたよ』


彼が差し出したミルクを、さらにもう一つの腕が受け取る。

珈琲は姿を変え、元の色など分からなくなってしまった。


『よく飲めるわね。珈琲なんて』


元の色はこうだったっけ、などと考えながら彼の持つ黒色の液体を眺める。


『好きではないよ。ただ、飲むと落ち着くだけだ』


とは言うものの、実に美味しそうな顔で堪能しているものだ。決して羨ましくなんてない。決して。


『それにしてもーーー』


三番目の茶器。未だに手付かずのソレは、私を嘲笑っているようだった。

お前と私は違う、と。


『私よりずっと綺麗ね。妬いてしまうわ』


自分自身に妬くとは我ながら器用なことをするものだ。

しかし、それも仕方がないだろう。


腕が二本しかないだなんて、なんと羨ましいことだろうか。


最初は自分から言い出した。

”私を描きなさい。”

彼はいつも通りの柔和な笑みで受け入れてくれたし、それを黙々と描き上げた。

絵を描いている間は一時たりとも彼の側を離れなかった。その全てを自分の中に焼き付けたいが為に。


空になった茶器を置き、彼はおもむろに口を開く。


『僕はやっぱり、二本より六本の方が三倍好きだ。』


『なによ、それ。腕が多ければ多いほどいいってこと?』


『違う違う、君は今の君が一番美しい。ただそれだけのことさ』



―――全て、過去のことだ。

ここにはもう二番目の茶器も三番目の茶器も存在しない。

蜘蛛の巣には誰も近寄ろうとはしない。

かつてのただ一人を除いては。


四口、ぴりりと舌が痺れた気がした。

五口、ほのかに甘い――ありえない。


記憶は風化し、時の奔流に押し流され過去になっていく。

今日もまた一つ、自分の何かが失われていく。



六度珈琲に口をつけた時、また何かが過去になった。




『蜘蛛の糸、って知ってる?』


『知らないわけないじゃない、ほら』


指の先から糸を出してみせる。

糸は彼の頬に粘り付き、離れる様子はない。


『……そうじゃなくてだね。』


自分の故郷の話なのだと彼は言った。


曰く、地上で数々の罪を犯した大罪人は死後地獄へと堕ちた。

大罪人は悲嘆に暮れる中、一本の糸を見つける。それは生前彼が気まぐれで助けた蜘蛛の糸だった。大罪人は喜び勇み、糸を登って脱出を図るのだが他の罪人が登って来たところを蹴落とした結果、悲しんだ仏によって糸が切られ再び地獄へと堕ちていってしまうのだという。


『ふーん……。』


結局どういう話なのだろうか。

自分だけ助かろうとするな、とか?

一体それのどこが悪いのだろう。私だって人間が糸を勝手に使いだしたら残らず蹴落としてしまう。


そう言うと、彼は困った顔をした。


『ほら、君は蜘蛛じゃないか』


あまりにも直球な言い方に少しムッとする。


『蜘蛛ですが、何か』


『いやさ……もし僕が地獄に堕ちたとしても、君が一緒にいれば怖いものなしだなって思ってさ』


一緒に……という部分に嬉しさを感じないでもないが、それはありえないことだ。

なぜならあなたは――。



『貴方を地獄に堕とさせはしない。私の糸で絡め取って、ずっと一緒にここで暮らすのだから。』


彼は眩しそうに目を細めると、唐突に身体を起こす。


『だめよ、寝てないとーーー』


『最後に描きたいものが出来た』


そう言って、そのまま彼は行ってしまった。

私の糸は彼を捕えることも、捉えることもできず、ただ残された。


きっと、私の糸は貴方に届かない。

近くにいるはずなのに、あまりにも遠すぎる。

お願いだから、私の傍に居て――――。

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