ピョンと僕と残酷と(カクヨム版)

青鷺たくや

第1章 家出少女

ピョンと僕と残酷と



                      青鷺たくや


無神論者のまえがき


いつも何かに追われ、自分に迷い、それが本当に良いとも正しいともわからぬままゴールを追い求め、走り続ける人がいる。たとえ何かをようやく手にしても本当の幸せや充足感の後には必ずいやましに、また何かに追われ、自分に迷い、ある人は身も心もボロボロになりながら、また何かを求める無常の河へ。


アキレスとリクガメの話はご存知でしょう。永遠のパラドックス。

ウル覚えの方には復習。古代ギリシャ時代のお話。アキレスという青年は、200メートルとしましょう、リクガメと徒競争をすることになりました。当然リクガメは遅いので100m先からのスタートというハンディを与えられました。アキレスはそれでも余裕な表情で、いざスタートとなりました。ところがどうでしょう。アキレスが100m地点まで行くとリクガメはすでに10メートル先を進んでいる。焦ったアキレスは10メートル進むとリクガメはやっぱり1メートル先を進んでいる。アキレスが1m進むと、またリクガメは10㎝先を歩いている・・・。つまり永遠に追いつけないのです。


答えは簡単ですね。2人の速度を計算したってアキレスが勝つ。つまりは時間の問題です。誰か何者かがこの競争の時間を止めてアキレスがリクガメに追いつくところでリクガメを常に前に進めておく。この所作が必要になるわけです。

みなさんも人生というレースで、リクガメのような目標を、時間を切り取って前に進めてはいませんか? その所作を行っているのはあなた自身ですか? 会社ですか? 家族ですか? いえ、どれも良い悪いなんて言ってはいません。僕がむしろ気になっているのは追い越してしまってからのアキレスの行方です。みなさんだったらまたリクガメのような目標を前に据え、走り続けますか? 目標や試練を乗り越え成長できたら素敵ですよね。

しかし試練は時に残忍、薄情で、あなたを悪魔のようにしてしまう。神なるものがこの世には存在しないのか、と恨みたくなるほどに。


これからある男の半生について100ページちょっとでお話したいと思います。ああ、頁を閉じるなかれ! 人生の悲哀に同情を求める愚痴話をお伝えするわけでもなく、かといって、みなさんを啓発するようなサクセスストーリーでもないのですが、僕、庄司(しょうじ)涼(りょう)太朗(たろう)という男が、夢を追って走った結果、待ち受けている「悪魔の世界」へと皆さんをご案内するエンターテインメントです。

ほんの最初の場面は辟易とするような男と思われるでしょうが、どうか勘忍して、見てやってください。世の中にはそういう人もいるのだと、軽蔑でもして下さい。

それでは、神なき悪魔の世界の最終章まで、この男をほくそ笑みながらご堪能あれ。




第1章 家出少女


 僕・庄司(しょうじ)涼(りょう)太朗(たろう)が「ピョン」に出会ったのは、いまから2年前の秋のことだった。

 人生に躓(つまづ)いてやさぐれていた僕は、自分の孤独を慰めるために、いや自分の欲望を満たすために、「出会い系喫茶」なるものにホイホイと引き寄せられた。


 「出会い系喫茶」とは、ガラス越しに部屋にいる女の子たちがくつろいでいる様子を見て、男が気にいった子を指名するのだ。ガラスはマジックミラーになっていて、女の子からは馬鹿な男たちの視線がわからない。素人の女の子たちはそれぞれにおしゃべりをしていたり、携帯をいじっていたり、寝ていたりと様々だ。指名をすると、ボックス席が割り当てられてその女の子がやってくる。お互いに話してフィーリングや交渉がマッチすれば、連れ出し料金ウン千円を男が払って女の子を外へ連れ出すことができるのだ。そこから先は店は関知しない。売春行為は違法です、という骨抜きされたザル法の張り紙があるだけ。

女の子は店に入るのは無料だ。ジュースやお菓子もあり、雑誌も読み放題。もちろん携帯の充電だって自由。そんなメリットもあって単純に暇つぶしに来る子もいれば、男に食事でも奢ってもらおうという子、割り切りの気持ちで性行為に及び小遣いを稼ぐ子もいる。昔はJK喫茶などといって制服女子高生がいた店もあったが警察の取り締まりをうけて、今はいない。

僕は入会費ウン千円と入店料ウン千円を払って、阿呆な男たちに混じってガラスの向こうを眺めていた。確かに嘘だろ、という見た目が地味で落ち着いた格好の女の子や、会社勤めの綺麗なお姉さんもいっぱいいる。他には金髪にどぎつい化粧のヤンキー系、ひたすらおしゃべりに夢中な普通の学生っぽい子・・・。たまに店員に呼ばれては、部屋から出ていく。


壁にもたれかかって座っている1人の女の子がいた。そう、この子がピョンだ。なぜピョンなのかというのは後でわかる。1人ぽっちで、イヤホンの音楽を訊いて目を閉じている。

(寝ているのか?)と思うとたまに憂鬱な動きで姿勢を治す。癖っ毛のような内巻きミディアムの黒い髪を真ん中で分けているので、おでこがやけに目立っている。青白い肌、少し濃いアイメーク、思いっきり白いマスク。デニム色のコットンシャツに、ベージュピンクのロングスカート。

(大丈夫かな、あの子・・・)僕はなぜかその壁際の女の子が気になった。

マスクがいかめしいのか、負のオーラが出ているのか、男からの指名もないようだった。コクリと頭が下がったかと思えば、また少し顔を上げる。

僕は勇気を持って、その女の子を指名した。


ファミレスのようなボックス席に座って煙草の灰をトントンと落としていると、その女の子がすうっと現れてシートに座った。

「・・・」

「・・・んー、あのさあ、顔色悪そうだったけど熱でもあんじゃないの」僕は躊躇なくピョンの額に手を当てた。ピョンは一瞬、ギクッとした。

「・・・ピョーン、お腹すいただけ」ピョンは両手を頭の上に乗せてネコ耳を作る。

「フー、熱はないけど頭が壊れちゃったかな?」僕は煙を下向きに吐いて首をかしげた。

「みんなそう。頭コワレテル」

「ふーん。そうかもしれないな。んで今日は何も食べてないの?」

ピョンはペコリと頷いて、「うん、でも昨日はアルフォートとパイの実食べた」

「あのよく聞こえないんだけどマスク取ってくんない」僕はイラッとして言った。

「嫌いにならない?」

「ならないも何も好きにもなってないし、会ったばっかだし」

「じゃあ嫌だ。マスクは取りませーん。ピョーン!」ピョンは携帯のストラップについたピンクのクマを僕の前で跳びあがらせてみた。

「んー、で今日はご飯でも食べさせてもらいたい感じ?」僕は訊いた。

「うーん。お金。お金ないんだもん」ピョンはためらいもなく答えた。

「・・・んまあ、飯でも行くか?」

「行く、行く、オジサンお金出す?」

「お、オジサンオカネダス、つか名前は?」僕は復唱した。

「うさぎ」「え?」「うーさーぎ」

「ウサギちゃんなんて、呼べるかっちゅうーの、ピョンだな、ピョン」

  僕は最初のネコ耳ポーズがウサギの耳のアピールだとやっとわかった。

「ピョン、マスク取れ。じゃないと行かない」

「嫌いにならない?」

「ならねーよ!」

幼かった。あどけない。普通の女の子だ。マスクと変なメイクがよっぽど痛々しい。


ピョンはA5和牛カルビをウマそうに頬張る。僕はあまり肉奉行になるのが好きではないが、なぜかこの日はピョンに焼け過ぎないようなところで肉を小皿に置いてやった。

「おいひー。ウチ焼肉なんて久しぶりー!」ピョンは幾分元気になっていた。

「あーそう、よかったね、ご飯も食べなきゃあかんよ」

「だってお菓子の方が食べたいもん」

「馬鹿じゃん。そんなおカネないの?」

ピョンは部活の遠征にでもいくような赤いスポーツバッグから胡散臭いピンクの長財布をだして、チャックを開けた。ひっくり返すと出てきたのは、銀貨1枚に、十円玉、五円玉・・・。

「お金ない。お金ないからどこにも行けない」

「家に帰れよ」

「オジサン独身?」

「・・・んん。まあね」僕は焦ってロース肉を焼くことにした。

「助けて! 泊めてほしい。お金欲しい」

「親が心配してるよ、失踪手配されてんじゃないんの」僕は肉を並べる。

「ナイナイ。されてないよ。メールしてるし。だけど帰れないから」

「どこにも?」

「うん。友達には迷惑かけたくないし、みんな実家なんだもん」

(実家ってことは1人暮らしの友達がいない? 大学生? 友達の実家の人がピョンの安否や居場所を知らせてしまう、そういう事情か?)僕は逡巡した。

「いくつ? うさぎさん?」焼けたロースを小皿に乗せていく。

「待って、食べるから」

といいながら忙しそうにジョッキのビールを飲み干すピョン。

「オジサンいくつ?」

「どうでもいいんだろ、30,40,50歳そのくらい」

「洗濯機ある?」

「当たり前だろ、つか何歳?」僕は訊いた。

「30,40,50歳そのくらい、キャハハ、ウケル」

「悪いけど家で家出少女連れ込んで監禁なんて、ニュースになってみ、最悪だ、断る」

ピョンは次々に肉とビールをかきこんでいく。

「オジサンも自分のことばっかり? 急に怖くなって本音を隠す。どうせH目的でしょ」

「Hなんて誘ってねえだろ、アナタのこと考えて心配してんの」

「嘘。じゃ、なんであんな店さ来たの? 自分が捕まるのが怖いだけ。ピョーン!」ピョンは箸で肉をピョーンと飛ばせてみせた。下唇が赤みを帯びてきた。

「じゃあ、食事代のほかに小遣いあげるから」

「からなに?」

「どっか他で泊まるか、家へ帰るかっしょ?」

「ひどーい。また知らない人と泊まるのイヤ、怖―い人かも、性的虐待、キャー」

「・・・あのさあ、あなたの方がよっぽど怖―い子なんですけど」僕はハラミを裏返す。

「お願い! オジサン! あたしハタチだし。大丈夫。家に帰ったら殺される! あとビール1杯」

もう3杯目だ。よく飲む子だなあ、僕は酒が好きなヤツは嫌いじゃない。

「ホテルにしよ、1晩だけだぞ」

「ヤダ! 洗濯したいの。オジサンち、行く」

「そういう男の人についていっちゃ駄目。それに怖くねえの? 手錠とかはめられたりしたらどーする? お―怖。第一オジサンち、狭いし、ベッドは1つだし」

「んなわけないよ、オジサンは。いいいい。ハラミがいちばん肉ッて感じだね」

「何がいいんだよ、聞いてんの? ったっく」僕も3杯目のビールを飲み干した。


    *


 このピョンと僕の運命を紐解(ひもと)くために、申し訳ないが30年ほど時点を移動させていただく。

(ちなみに今、僕は、虹色の人生によってすっかり自分を自分だと判断できなくなったらしい。いろんな色が混じって、透明になり、目が回ったまま色彩感覚さえ疑って卒倒してしまう。丘の上の閉鎖病棟にある大きな窓から空を眺めては青だ、青だと呟いている)

 

 1980年代後半。東京・多摩のベッドタウン。第2次ベビーブーム。まだ団地にも黄色い子供の声が溢れていた。日本にもまだ希望と活気が漲っていた時代。


 中2でバスケット部を早々にドロップアウトした僕は同じような帰宅部の連中と団地の公園で、スケボーをしたり、エアガンで遊んだりして毎日をダラダラと過ごしていた。ラジカセを持ち出してはM・ジャクソンやビ―スティーボーイズをかけて地べたでペプシを飲んでいた。

 父は画家で、僕らが国分寺という街に住んでいた時には、庭にアトリエをつくって絵を描いていたが、母との折り合いが悪く離婚を機に引っ越しをして、フランスだのイタリアだの、インドなどを放浪して、いったいどこにいるのかはっきりしなかった。

東京G大を首席で卒業したのに、父は売れる作品を作らなかった。学内に残ってしたたかに生きていれば、いまごろ凄い肩書になっていたんだと僕は思う。頑固な父は売れる作品を作らなかった。どんどん出世して名前が知られるようになっていく同級生や後輩を父は蔑(さげす)んだ。師事する教授が夭逝すると出世の道が断たれた。いや,断ったのだ。もっと依怙地(いこじ)になって孤高な人になっていった。頑固で昔気質な父は、家庭で音楽やゲーム、ディズニーランドの話さえ許してはくれなかった。

そんな父が離婚して家からいなくなったから、まるで我が家には日本に進駐軍がやってきたように自由と民主化の波がやってきたのだ。

 母は父に比べ、自由奔放なお嬢様育ちで、美大を目指しているときに父と出会った。父とは違ってリベラルでラディカルな人だった。離婚を機に多摩地区の団地で僕と母と弟の母子家庭の生活が始まった。

毎日外で怠惰な時間を過ごす僕を見て、なぜか母はY社製の黒いアコースティックギターを買ってくれた。ピックアップのついたアコースティックギター、通称エレアコだ。

 コードを覚えるのに1カ月、コードで音が出るまでに1カ月はかかったが、コツは弦を押さえる左手をいかに前に出せるかで楽に音が出ることがわかった。幸い指は人より長いほうなのでそれほど苦労しなくて済んだ。

 しかし壁はそこからだった。コピーができないのである。M・ジャクソンだってボンジョヴィだってレベッカだって、コードもわからないし、ついていくことができない。

 考えて古典に行きついた。母のカセットに謎の「ビートルズ」と書かれたものがあった。

Love Me DoやLet It BeやObladi-ObladaやWhen I’m Sixty-four・・・。今思えばメチャクチャな選曲だなというオリジナルのカセットだった。どれもキャッチーで知っている曲ばかりだが、ちょっとダサいかな、小学生が聞く曲? という印象だった。でもこれなら弾けそうだ。楽譜を買ってもらい、貸しレコ屋に通ってアルバムをダビングし、本や雑誌でビートルズを研究した。

 目から鱗だった。(こいつらタダモノではない!)

初めて聞く曲に僕は戦慄を覚えた。

アルバム・アビーロードのStrawberry Fields Forever プリーズプリーズミーのI Saw Her Standing There リボルバーのShe Said She Said ウィズ・ザ・ビートルズのRoll

Over Beethoven パストマスターズ2のRainやHey Jude ザ・ビートルズのWhile My Guitar Gently WeepsやBirthday・・・。(ああ、どれを聞いていてもきりがない!)僕は気が遠くなった。神様のように売れて、好き放題に曲を作って、酒と薬に溺れて、メンバーと喧嘩して、それでも叶わぬ愛を追い求めて・・・そうして出来上がった曲たちは、どれもクールなメッセージに溢れていた。はやく学校が終わらないかと待ち遠しかった。帰ってビートルズの練習だ。ニイニイ蝉が鳴きはじめた梅雨空も僕にはなんか素敵に見え始めた。

 僕にも中2病やってきたのだ。

 

僕がアヤツと出会ったのはちょうどそんな頃だった。

中2でクラス替えになってやけに目立ちやがって、全くもって忌々しいヤツだった。

 クラス一位の、いや学年一のモテ男、橘田(きった)準(じゅん)だ。

 後の生徒会長、バスケット部長だ。背が僕と同じ180㎝近くあり、髪の毛のサイドを刈り上げてサラサラヘアをツーブロックにしている。やや耳が大きいが顔は小さく聡明そうなインパクト。笑顔の時のキラキラとした白い歯がいつも爽やかに見えた。

バスケット部のキャプテンで、試合は彼を中心として動き、いつも見事なオフェンスととフェイントで確実にシュートを決める。

まったく天は二物を与えるものだ。彼はまた塾にも行っていて、勉強も常に上位だった。 

中3では生徒会長にもなり、まるで橘田のための学年のようだった。文武両道の模範生。きっとH高校も余裕で合格だろう。

それでいてヤツは驕ったところや見下すところもなく、いつもさわやかで笑顔が絶えない。中学では彼を慕って、常に取り巻きのような男子が集まっていた。彼がおばさんの買い物籠(かご)のようにスクールバッグを右腕にぶら下げている姿を見ては、みんなもそれを真似した。彼が聞く音楽で、これがいい、というものはみんなカセットをダビングしてラッセンや鈴木英人の描いたインデックスカードに入れてそれを聞いた。彼が休み時間、トイレの前でヘアチェックをすれば、みんなそれを真似してたむろした。

 女子とも仲が良かったから、クラスの雰囲気はいつも明るかった。異性にシャイなところがないから女子も話しかけやすいのだ。バレンタインは一体幾つのチョコレートをもらったんだろう? 考えただけでも反吐が出る。そう。僕はヤツに嫉妬と反抗で綯(な)い交ぜになっていたんだ。


 橘田準が「太陽」なら、僕は「月」だと思った。大嫌いだ。どう頑張っても重なりあうことはない、星の世界。そう思っていた。

 ある日の午後、橘田準と取り巻きが、部活から帰る塊りとなって、僕とすれ違う羽目になった。僕は、バスケ部をドロップアウトしていたから、彼と目を合わすことさえ、引け目を感じていた。まずい展開だ。大名行列がやってきたようなもんだ。目を合わさず道の横を通り過ぎよう。どこからか栗の花の匂いが鼻をくすぐる。

「あれー、涼太朗じゃん。(僕は庄司(しょうじ)涼(りょう)太朗(たろう)という)どこいくの?」取り巻きの1人が声をかける。(チッ! 余計なこと言いやがって・・・)

「待ってよ、庄司君!」それは橘田準の声だった。

(喧嘩か? 人数的に分が悪すぎるし、丸腰だ、手で拳を作る)

「あん?」僕はそっけなく振りかえった。

「涼太朗君、ギターやってるんでしょ、家にも弾いている音が聞こえるよ」

「あーそう。ごめんね、じゃあ」僕は去ろうとした。

「待ってよ、公園のベンチで話そ。一緒にギターやるヤツ探しててさ」

準は屈託のない相変わらずの白い歯を見せて、公園の方へ目配せをした。動揺した僕は断る理由が出てこなかった。仕方なく公園のブランコに並んで座ってやった。準はチンピラのような取り巻きを追い払った。


 それが彼との邂逅(かいこう)だった。

 「涼太朗君はカッコいいよね。いつも教室では気になっていたんだ」

 「ああそう。べつにかっこよくないし」僕は無愛想に答えた。

 「ねえ、今度一緒に遊ぼうよ、ギター持ってきてさ」準の目がキラキラ輝いている。

 とりあえずわかったのは、準はビートルズの信奉者で、とくにジョンレノンの曲を、ギターを弾きながら諳(そら)んじて歌えること、邦楽は浜田省吾や大滝詠一、チューリップを聞いていること、もうエレキのギターとアンプは持っていてオリジナルの詩も書いていること、などだった。

 たしかに夜、向かいの団地の号棟で五階の風呂からすざましい大きな声で、「ギミョアラブ!」だの「ミッシング!」だの「フリー!フリー!」だの、大声で歌うヤバいヤツがいるなあ、とは思っていた。それが橘田準だった。


    *


 世の中には、いつも自分より先を行くやつがいるもんだ。

 ギタリスト、太刀川瑠(たちがわりゅう)一(いち)と出会ったのもこの頃だった。決して目立つキャラではない。アウトローな雰囲気を醸し出した一匹狼。少し長めの癖っ毛の髪にどこかニヒルでシニカルな大人びた表情が気になっていた。授業中にはノートにストラトギターやらテレキャスやらレスポールのギターを書いていて、クリアファイルの下敷きにはジェフベックがプレイ中の切り抜きを入れていた。ヤードバーズのことを話したら気が合った。次の日にベック・ボガート&アピス(BB&A)のカセットを貸してくれた。

 一つ隣の号棟の家に遊びに行ったらびっくらおったまげた。フォークのギターで、ボンジョビからレベッカ、ボウイまで、すべてをコピーできていた。耳コピだという。本来はフォークソングのためにあるギターだが、彼はまだエレキを買ってもらうことができなくて、仕方なくフォークギターで、早弾きから、ブルースのソロ、ライトハンドまでを鍛錬していた。その技にもはや僕は脱帽で、「トルコ行進曲」には、ただため息をついて見惚れてしまった。中3になると、太刀川瑠一は念願のエレキ、グレコの黒いレスポールとエフェクター群(足でペダルを踏む音質変造機)を手にいれた。もはやだれも真似できないほどの腕前になっていった。こんなヤツが僕の号棟の後ろに住んでいるとは思わなかった。音楽好きというより、それはもうギター小僧、いやギター職人と言えた。


 こんなにも近所で、僕らが出会うことはある意味、運命的でもあり、必然的でもあった。まさかこれからずっとこやつらと青春時代を共にするとは僕は夢にも思っていなかった。


 もはやこの時点で、ボーカルは橘田、ギタリストは太刀川、そして僕はというと、ギタリストを太刀川に譲らざるを得ない事態になった。

残るは、ベース。ドラマー。仕方ない。よくありがちな話だが、僕はギターをあきらめてベースをやるしかなくなった。近所のクラスメイトの兄ちゃんから5000円でプレシジョンのエレキベースを買った。プラグのコードが揺れるたび、ひどいノイズを出すポンコツだった。中3からはポールマッカートニーのベースラインを必死で聞きながら、真似をした。左利きではないけれど、なんとかルート音にはついて行くことができるようになっていった。All My Lovingのベースは永遠のお手本だ。今だって目を瞑(つむ)って弾ける。


ここに、ドラマーのいない、

「The Quarter Moon」(ザ・クウォータームーン)というバンドが誕生する。

もとは、クオリーメンというビートルズの前身からもじっている。

ボーカルは橘田準。

ギターは太刀川瑠一。

ベースは僕、庄司涼太朗。

キーボードは僕の号棟の3階に住む半グレヤンキー、原田(はらだ)浩(こう)介(すけ)に要請した。なぜかDX―7という本格派なシンセサイザーを持っていたからだ。もっとも初期の段階でやめてしまうことになったのだが。

ドラムは、4人でなけなしの小遣いをはたいてリズムボックスを買った。1曲ごとに、そして1小節ごとにバス、スネア、タム、シンバルとプログラミングをした。

 僕の4畳半の小さな部屋で4人の音楽活動が始まった。(準は時おり『デートだ』と言ってイチャイチャしに抜け出しやがったが)


 中3になって話は嫌が応でも高校の話になる。

「一緒にH高校に行こうよ、バンドも作ってさ、ライブもやってさ」そう言ったのは橘田準だった。H高校。ぼくらの学区の中でトップの公立進学校だった。準は余裕かもしれないけど、僕には厳しかった。

僕の唯一の習い事は、英語だった。週に1回、我が家の崩壊っぷりを心配した叔父が、英語を教えるために僕を久我山の家に呼び寄せるのだ。伯父は私大でイギリス経験主義の哲学、とくにデヴィッド・ヒュームを専門としていて、中1から文法も糞もなく、ギリシャ神話を訳させて、僕に禅問答のような説教を食らわせるのだった。まあお陰で高校まで英語には苦労しなくなったが。

問題は僕の成績だった。塾は行ってない、先生の印象が悪いから通知表もよくない、評価できる活動ポイントは特にない、僕はナイナイ尽くしだった。仕方が無いから、必死で独学で勉強してやった。当日の入試得点に賭けるしかない。玉砕覚悟で捨て身の作戦に出た。

担任の姉御肌の太田先生が、

「庄司君がH高校に合格できたら、卒業式に体育館で卒業ライブをしてもいいわ」という妙な企画が出来上がっていた。(どうせ準の根回しだ。変なプレッシャーかけやがって、コン畜生!)僕は呪った。


数学は惨敗したが他は満点をとってやった。薄氷の合格だった。アキレスは何とかリクガメに追いついた。

瑠一は隣町の高校へ合格した。

卒業ライブは、下手くそ極まりないカラオケ宴会ショーみたいだったが盛り上がった。

僕らの初めてのライブ。恥ずかしくて今思うと冷や汗が出る。


    






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