婚約破棄された翌日から見知らぬ男が私を訪ねて来るのですが

柴咲もも

婚約破棄された翌日から見知らぬ男が私を訪ねて来るのですが

「グランフォレスト公爵令嬢オリヴィア・キャンベル、私と結婚を前提にお付き合いしていただきたい」


 その場に跪き、恭しく私の手を取って、彼ははっきりとそう言った。

 あまりにも突然のことだったから、その手を振りほどくことすらできなかった。

 私の頭に浮かんだのは、たった一言。


 ——この人、誰?


 なぜか見知らぬ男に求婚されている。

 この状況を正しく把握するには、少しばかり記憶を遡る必要がありそうだ。



***



 私は昨夜、王城で開催された夜会で、幼馴染みであり婚約者でもあるこの国の王太子フランシスとの婚約を発表するはずだった。『するはずだった』と表現したのは、実際には婚約発表が行われなかったからだ。

 理由は単純なものである。私が精一杯着飾って約束の時間にフランシスの元を訪ねると、彼の部屋には親友の——いや、親友のカレンがいた。彼は私の目の前でカレンの手を取って、そして私に言ったのだ。

「オリヴィア、やはり僕は君とは結婚できない」と。

 私は黙って頷いてその場を去った。理由を知らされることもなく婚約は破棄されてしまったけれど、フランシスの計らいで婚約の話自体まだ公表されていなかったから、私や私の父の名誉が汚されることはなかった。

 婚約を解消したい相手にもそういった情けをかけてくれる。フランシスのそういうところが、私は結構好きだった。


 フランシスがカレンに好意を寄せている。その事実に気がついたのは三年ほど前、王城で開催された夜会で、ふたりを引き合わせたときのことだった。

 この国では、社交の場で異性に白のシャンパンを勧める行為は、『あなたのことを知りたい』『お近付きになりたい』という意味を持っている。

 私がカレンを紹介して、賓客への挨拶回りでその場を離れた隙に、フランシスは白のシャンパンをカレンに勧めていた。私はその瞬間を遠目でちらりと見かけてしまったのだ。

 けれど、そのときの私はフランシスのその行為を別段気にしなかった。王子と公爵令嬢という間柄ではあるものの、フランシスは私よりひとつ歳が若い。それもあって、彼が私に逆らうことは絶対になかったからだ。

 だから、私とカレンの友情が破綻したのは、別にフランシスのせいではない。


 カレンはいわゆる箱入り令嬢で、元々常識のない子だった。

 私たちがまだ幼かった頃、私が可愛がっていた金糸雀をカレンが欲しがったので譲ってあげたのだけど、彼女はたったの三日で飼い猫に金糸雀を食べられてしまったのだ。でもまあ、終わったことは仕方がない。私はそれからもカレンを妹のように可愛がっていた。

 ある日、私のお気に入りの下僕が唐突にうちの屋敷を辞めてしまった。とても寂しい思いで日々を過ごしたその数日後、私はその下僕がカレンの屋敷で働いていることを知った。

 カレンの誕生日パーティーに呼ばれたとき、私は主役であるカレンとドレスの色が被らないように、オリーブ色のドレスを仕立てた。誕生会では薔薇色のドレスを着るのだと、カレンが嬉しそうに話してくれたからだ。けれど、当日、パーティーに顔を出してみると、カレンは私と同じオリーブ色のドレスを着ていた。私は大恥をかいたけれど、皆の白い視線を我慢してカレンの誕生日を祝った。

 そんなわけで、カレンにはとにかく嫌な思いをさせられてきたから。だから、カレンがフランシスに気があると知って、私は父に頼んだのだ。

 フランシスと結婚したい、と。

 けれど、カレンは手を尽くしてフランシスの気持ちを射止めてしまった。その結果、私は昨夜、夜の公園で惨めにひとり涙を流すことになったのだ。



 それで?


 私はまず、目の前に跪く男の手を振り払った。

 男は顔をあげて、驚いたように目を丸くすると、立ち上がり、まっすぐ私を見下ろした。

 男の背は高く、肩幅も広かった。腕や脚も太いし胸板も厚そうだ。精悍な顔付きから、軍人だろうか、と私が考えていると、男はふと表情を和らげて言った。


「つかぬ事をお伺いしますが、貴女は今、酷く傷付いておられるのではありませんか」


 新手の宗教団体の勧誘か何かか?

 男の言葉があまりにも胡散臭いものだったから、私はおそらく渋面になっていたと思う。

 確かに昨夜、私は夜会を抜け出して公園で泣いてみたりもしたけれど、あの涙は失恋による悲しみの涙ではない。カレンに負けたことによる悔し涙だ。

 だから、私が傷付いているだなんて、そんな馬鹿げた話はない。


「私と結婚しましょう、オリヴィア」


 男がまた私の手に触れようとしたので、私は咄嗟に手を引っ込めて、それから慌てて玄関に飛び込んで扉を閉めた。

 危なかった。忠誠のキスでもされるのかと思った。



***



 翌日、男はふたたび私の元を訪れた。

 厳つい顔に似合わない腕いっぱいの花束を抱えて、彼は屋敷の玄関先で私に求婚した。


「おやめになったほうがよろしいかと思います。わたくしは、フランシス様のように容姿の美しい殿方でないとときめきませんの」


 私はにっこりと微笑んで優美に一礼してみせた。

 わりと本気で、私は線の細い綺麗な男が好きだった。少なくとも目の前に立ち塞がる筋肉ダルマのような男はタイプではなかったのだ。

 男は一瞬気圧されたようだったけれど、すぐに唇を引き結んで、私にずずいと花束を突き付けた。


「見てくれはこの様ですが、貴女を想う気持ちは本物です。必ず貴女を幸せにします」

「……でしたらなおさら、おやめになったほうがよろしいですわ」


 私は面倒になって、フランシスと婚約したのはカレンの大切なものを横取りしたかったからなのだ、と、彼にありのままの事実を教えてやった。

 元々私はフランシスのことなんてどうでも良かったのだ。ちょっと顔は良いけれど、口論で私に勝てたことなんて一度もない情けない男だし。だから、あんな男、カレンにくれてやったのだと。

 すると、男は困ったように眉を垂れて、私をみつめて言った。


「でしたらなぜ、あの夜、貴女は泣いていたのですか?」


 私は咄嗟に目の前の男の横っ面を引っ叩いていた。

 あの夜、夜会を抜け出して公園で泣いていたところを見られていた。こんな、どこの馬の骨かもわからない筋肉ダルマに泣き顔を見られていたなんて、一生の汚点だ。

 冷静になって考えれば、普段の私にあるまじき行動だった。淑女が紳士に手をあげるなんて、とんでもない失態だった。

 けれど、この際構わないだろう。いい加減、私はこの男が鬱陶しいと思っていたし。

 これでこの男が私に幻滅して、二度と目の前に現れなければ結果オーライだ。



 しかし、また翌日、懲りもせずに彼はやってきた。

 曰く、「突然婚約を破棄されて、腹が立たないのですか」と。

 私はうんざりしながら、けれどもそれを表情には出さないように、努めて冷静に彼に話して聞かせた。


「振られて当然なんです。だってわたくしは、フランシス様のことをこれっぽっちも好きじゃなかった。容姿も身分も完璧な『彼女の自慢の恋人』を横取りしてやりたかっただけなんですもの。ですからあの夜泣いていたのも、婚約を破棄されたことで傷ついたからではないのです。何をしても彼女に及ばない愚かな自分に嫌気がさしたの」


 彼は黙って私の話を聞いていた。穏やかな眼差しで、ただじっと私の顔をみつめていた。


「貴方はとても優しい方ですわ。わたくしなんかよりもずっと、貴方にふさわしい方がいらっしゃるはずです」


 愛想の良い笑顔を作ってそう告げると、私は玄関の扉を閉めた。



***



 次の日も、またその次の日も、彼は私を訪ねにきた。回を重ねるごとに彼は畏まった服装を改めるようになり、カレンやフランシスについて私から聞き出そうともしなくなった。

 ただ、何も話さずにいると、いつまでも玄関前に陣取られて鬱陶しかったから。私の好きなものについてひとつふたつ話を聞かせてやると、彼は一言礼を言って帰っていった。



 そんな毎日が一か月ほど続いたある日、彼が久しぶりに畏まった服装で玄関前に立っていた。

 どうやら彼は私をディナーに誘いたいようで、「必ず、いつまでも待っている」と真剣な表情で言われてしまった。

 これまでの経験から、彼が絶対に自分の言葉を曲げないだろうことがわかってしまって。閉店間近になってもひとりで席に座っている哀れな姿がありありと想像できてしまって。

 私は仕方なく、彼が指定した時間にそのレストランに向かったのだけれど。


 案内された席で私を待っていたのは、あの男ではなかった。大人しくて可愛らしい箱入りのご令嬢——フランシスの現在の婚約者、カレンだった。

 すぐに引き返すこともできたはずだ。けれど、そんな負け犬のような惨めな真似はしたくなくて、私は黙ってカレンの向かいの席に着いた。


「どういうこと?」


 私が訊ねると、カレンは顔を俯かせて、震える声でつぶやいた。


「オリヴィア様と、きちんとお話がしたくて」


 私達の友情なんてとっくに消え失せてしまったのだと思っていたけれど、彼女はまだ、私に言いたいことがあるようだ。

 私は黙ってカレンの話を聞くことにした。

 カレンはこくりと息を飲んで、それからまっすぐ私をみつめて話しだした。


「わたし、フランシス様と婚約することになるだなんて思ってもみませんでした。フランシス様にはオリヴィア様がいましたから」


 フランシスを横から掻っ攫っておいて、何をぬけぬけと。

 私はそう思ったけれど、口に出したりはしなかった。


「金糸雀が猫に食べられてしまったとき、オリヴィア様はわたしを責めたりしませんでした。ですから、少しでもそのお返しがしたくて、オリヴィア様と親密だった下僕の男性が公爵様のお怒りを買って解雇されそうになったとき、父に頼んで伯爵わたしの家で彼を雇ってもらいました。誕生日パーティーではオリヴィア様とお揃いのドレスを着たくて、後からドレスのデザインを変更しました。当時のわたしは愚かでした。主催のわたしとドレスの色が被ってしまうことで、オリヴィア様の名誉を傷つけることになるなんて知らなかったんです」


 黙ったままの私を見て、カレンは続けた。


「フランシス様とオリヴィア様の婚約を知って、わたしはフランシス様を訪ねました。それまでは……その、フランシス様は何度かわたしにお声を掛けてくださっていましたし、随分と急なお話だと思ったので。フランシス様は合理的な考えをお持ちの方ですから、オリヴィア様との婚約は政略的な理由で決めた愛のないものではないのかと心配になったんです。でも、フランシス様は安心していいと仰ったから。ですから、夜会の当日、突然あんなことになってしまって……」


 なるほどね、と私は思った。

 私との婚約を気にしてカレンが訪ねてきたことで、フランシスは彼女に想われていることを確信し、私との婚約を破棄することに決めたのだ。

 私は長いあいだ、彼のことを従順でおとなしい弟のような存在だと思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。


「わたし、まだお返事をしていないんです。フランシス様のお相手に相応しいのはオリヴィア様だって、わかっていますから。でも、それでもフランシス様をお慕いする気持ちが消せなくて……はっきり断るべきなのに、断ることができなくて」

「どうして断る必要があるの? 貴女は彼を愛していて、彼は貴女を愛している。それが全てだわ。貴女はフランシスの求婚を受けるべきよ」


 私はきっぱりとそう告げて、颯爽と席を立った。

 カレンに顔を見られたくなくて、足早に店を出た。



 夜会会場から逃げ出したあの夜と同じように、私はひとり、公園で夜の空を見上げた。ざくりと砂を踏み締める音がして、振り返るとあの男が立っていた。彼は黙って私をみつめていた。


「私、やっぱりカレンが好きだわ」


 私がぽつりとつぶやくと、彼は黙って頷いた。


「私、カレンと大切な友人のままでいたい。従順だったフランシスが、初めて私に歯向かってまで選んだ相手が彼女だったことが誇らしいわ。私、本当にふたりのことが大好きだわ……」


 私がカレンからフランシスを横取りしたのは、フランシスと結婚したかったからではない。カレンとフランシスが結ばれてしまったら、今までの三人の関係が壊れてしまったら、私はどうすればいいのかわからなかったからだ。


「貴女は、大好きなふたりが離れていってしまうことが怖かったんですね」


 穏やかな低い声が私の耳を掠めた。

 胸の内を見透かされてしまったみたいで、気が付けば、涙がぽろぽろと溢れ出していた。

 私が泣き出したからだろうか。嗚咽をあげる私の身体を、彼は黙って抱き締めてくれた。私はそのまま彼の胸に縋り付き、涙を流し続けた。


 そして、その日を最後に、彼は私の前から姿を消した。



***



 数ヶ月後、フランシスとカレンはめでたく式を挙げた。国中の、ともすれば国外からの要人を招いた華やかな披露宴で、私はふたりに祝福の言葉をかけて、それからひとりでぼんやりと会場内を彷徨った。

 花びらのようにドレスの裾を翻して、淑女たちが紳士とダンスを踊る。その向こう側に、不似合いな紳士服で着飾ったあの男の姿を見つけた。

 私は給仕に声をかけ、白いシャンパンを受け取ると、揺れ動く人波の合間へと足を踏み入れた。


 幸いなことに、人の影に視界を遮られても、私が彼を見失うことはなかった。大柄な彼は人混みに紛れていても頭ひとつ抜きん出て目立つからだ。


 彼がいつ私に気付くのか。

 それを考えると、何故だか胸がどきどきした。

 一歩、また一歩彼の元へと進みながら、ほんの少しの違和を感じる。

 私は本当に、彼を知らなかっただろうか。

 だって、その胸の紋章は……。


 振り返った彼の眼が、ふと私を捉えた。

 私は精一杯澄ました振りで彼の前に進み出て、そして華やかに笑ってみせた。


「御機嫌よう、オズワルド殿下。シャンパンはいかが?」


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