23話 パノラマ

23 パノラマ 


 暗いネガティブな闇だった。

 下降する、ぬかるんだ急な坂だった。

 彼女とのことを思うと、暗いことばかり考えた。

 ひとりで東京へ行く。

 彼女との愛をあきらめるのにはそうするしかない。

 死ぬほどつらかった。

 死のうともおもっていた。


 停車場坂といった。

 このぬかるみの坂をのぼるのだ。

 のぼれば――なんとか道がひらけるだろう。

 駅に着けば出発できる。

 どこへ? 

 むろん、めざすはトウキョウだった。

 あらゆるシガラミをすてて故郷を離れたかった。

 闇はこころのなかにもあった。

 どうせこのまま街に残っても、いいことはない。

 彼は長年生きてきた街を、好きにはなれないでいた。

 急坂をのぼる気力だけは残っていた。

 わずかな、仄の明かりのような希望。

 東の空が明るんできた。

 日光線鹿沼駅。

 始発に乗る。

 宇都宮で東北線にのりかえて、こんな街とは――。

 オサラバダ。

 明けきらぬ黎明の道を彼女が黒川の向こう岸から近寄ってくる。

 彼女の不意の出現に彼はあわてた。

 彼女が追いかけてくるとは思ってもみなかった。

 彼女は街の東側の『晃望台』に住んでいた。

 富裕層の高級住宅街だった。

 彼女はむじゃきに手をひらひらさせている。

「こなくていい。ぼくがそちらへいくから。橋をわたらなくていいよ。くるな。ぼくがいく」

 べつに橋に危険があるわけではなかった。でも、彼女をこちら側に、こさせることが、憚られたのだ。彼女が好きだ。死ぬほど愛している。だから、生活をともにすることはできない。ぼくといっしょだと、彼女は苦労する。彼女はぼくとのビンボウ暮しにはたえられない。

 彼女がなにかいっている。

 ぼくの声は、彼女にとどいているはずだ。

 彼女はフラノのチェックのスカートをはいていた。

 ベルトの留め金が金色に光っていた。

 彼女のベルトのバックルのしたにぼくらの赤ちゃんがいるのを、そのときまで、ぼくは知らされていなかった。

 胎児が母とともに、ぼくに近寄ってきた。

「くるな」

 彼女はすでに橋の中央までさしかかっていた。

 ぼくの声がようやくきこえた。

 それがクセで、うなじをかしげている。

 こちらをみている。

 立ちどまった。

「くるな。ぼくはひとりで上京する。いかせてくれ」

「わたしもついていくわ」

 そこで、記憶がとぎれる。

 ストーンと落下したのは明るい室だった。

 彼女のとなりに赤ちゃんが寝ていた。

 まさに天使の寝顔だった。

 すやすやと寝息をたてていた。

 彼女のベルトを質入れして作った金で支払いを済ませた。

 純金のバックルつきのベルに助けられた。

 彼は幸せだった。

 守るべきものが二人になった。

「どう、かわいいていでし。わたしたちの赤ちゃんよ」

 そこで、さらにさらに歳月がながれた。

 死んでいく者には一瞬だった。

 とぎれた記憶がつながる。

 ストーンとふたたび落下したのは死に臨んでいる老人の病室だった。

 瀕死の老人を上から見下ろしている彼。

 ……の……

 ……こころは……満たされていた。

 ポジティブな気分で死んでいける。

 これでいい。

 これでよかったのだ。

「おじいちゃん。ほほ笑んでいたわ。どんな夢をみていたのかしら」

 ベットの老人は、いままさに息をひきとったところだった。

「おかあさん。さびしくなるわね」

 あれから50年以上が経っていた。

 彼女はあのときの、彼のこころをしるよしもなかった。

 娘のほかに息子。孫たち。

 大勢の親族が集まっていた。

 老婆はそれがクセだった。

 くびをかしげ、遠くを見ていた。

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