七日の満月

@yomoyomo_131

1:満月の夜

その日は快晴だった。雲ひとつ無い空が橙色に街を染める。談笑しながら帰っていく生徒を二階の窓から眺め、わたしもそろそろ帰らねばとポーチと財布、ケータイが入ったカバンを肩にかけた。教科書が机の中に詰められていることを確認して、あたりを見回す。丁度、わたし以外の生徒が出ていくところだった。がらり、引き戸が閉められて、落ちる人影が一つになる。


「わたしも帰ろ」


今日は母の月命日。足早に教室を出た。


電車に乗る。帰宅ラッシュに巻き込まれた。

春先ではあったが、色々なにおいが混じる車内に眩暈を覚えた。これが日常なのかと疑う。普段徒歩で帰宅している身としては信じ難い事実だ。毎日こんな状況なんてストレスがたまる。でも今日だけなら我慢しよう、などと自分に意味もない言い聞かせをして降車予定の駅を待った。


学校のある駅から4駅。歩いて10分のところにある総合病院、その二階。道中で購入した生花をお手洗いで整え、病室に向かう。カーテンが締め切られた薄暗い個室に一人、文庫本を広げる父は前来た時よりも細く見えた。


「おつかれ。元気してた?」

「ああ、来てくれたんだね。わざわざありがとう」


本に縫い止められていた視線をわたしに移した瞳は、きらきらと輝いていた。皺を増やして笑顔になった父に、少し安心感を覚える。サイドテーブルにある花瓶に花を生け、常備されている椅子に座った。


「今日で丁度10年か、早いものだなぁ」

「そう?わたしはよくわからないかな、実感ない」

「はは、それでも少しくらい思い出あるだろ?」

「まあね」


わたしが6歳の時、母はこの病院で亡くなった。昏睡状態からの心肺停止だった。

原因は衰弱だろうと医者が言っていたらしい。わたしの朧げな記憶を探っても元気とは言えない母の顔しか思い出せないから、それが正しいのだろうと。けど、本当に衰弱だったのか、父は疑問に思っているらしい。昏睡状態になってからは今にも起きそうだと錯覚するほど血色が良く、穏やかな表情で眠っていたから弱っているようには見えなかった、と。

けれど、亡くなってしまった事実は変わら無い。そう割り切り事実を探ることはしないようにしている、と前に言っていた。


「そうだ、お前に渡したいものがある」


父はおもむろにサイドテーブルの引き出しを開けた。骨ばった指ですくい上げるように取り出したのは、ネックレス。いや、チェーンに通した指輪だった。


「母さんの形見だ。亡くなる直前、これを身につけていたんだ」

「亡くなる直前?」


わたしの手を取りそれを乗せた。赤く小さな石が埋め込まれたシルバーリング。けどどこか不思議な輝きで、まるで中で何かが燃えているような揺らめきを感じた。


「元々心臓が弱かったから入退院を繰り返していたけど、その指輪をつけていたのは昏睡状態になって亡くなる直前だけだった。でも不思議なんだ、母さんの見舞いに来ていた人みんなに聞いてみたけれど、誰も知ら無いって。だからどうして身に付けていたのかわからないんだ」


父さんも見たことがなかった。


「だから、きっと母さんが最後に自分のいた軌跡を残そうとしたのかなーって。はは、あまりにも変な話だけどね」

「ふぅん…」

「それはお前が持っていなさい。不気味かもしれ無いが、何か優しい力を感じるんだ。御守り代わりにするといい」

「曖昧だなぁ。でも綺麗だし、せっかくだからもらっておくね、ありがとう」


死後の直前に身につけていた指輪。確かに不気味だけれど母の形見であれば突き返すわけにもいか無いし、自分自身特別な感情を感じた。首から下げシャツの中に仕舞う。


「そういえば、進路の話をしたんだろう?進学か就職か決めた?」

「あー…ううん。正直なところ、あんまり考えて無いんだ。多分就職すると思う」


将来の話。

いきなり現実に引き戻された感覚に気持ちが落ち込む。あまりこの話題は好きじゃなかった。自分には取り柄が無く、特化して得意な教科も興味のある趣味も無かったせいか、将来について考えられないからだ。今を生きれればそれでいい、なんて達観した考えまで浮かぶほどには。

友人も多く無いから、相談したい人もできる人も居ない。先生に話すのも、父に話すのも嫌だった。余計なことを考えてたくないし、考えて欲しく無いから。


「まあほら、まだ4月だから。時間あるしゆっくり考えるよ。お父さんは自分のことに一生懸命になればよし!」

「進学するなら遠慮はしなくていいからな。貯金はいっぱいあるんだし」

「わかった、ありがとうね。お父さん」


それじゃそろそろ、と席を立つ。また来るねと手を振って、少し薄暗くなった病室を後にした。


この後の行き先も決まっていた。母の眠るお墓だ。父の病室に生けてきた花とは別の仏花を持ち直す。萎れ無いように真ん中を持っていたけど少し花びらがしんなりしてきているように見える。少し急いだ方が良いかもしれない。

病院の裏手、数百メートル歩いたところに霊園がある。わたしの家系のお墓がそこにあった。水を汲み柄杓を持つ。雑巾も買っておいたから準備は万端だ。お線香は買い忘れてしまったけど。


「きたよお母さん」


縦長の墓石。わたしの家の名前が彫られたそれは、立派なお墓だった。周りとは少し浮くくらいだ。左脇に小さなお地蔵様が居るのは少しかわいいなと思う。制服の袖をまくり、桶に雑巾を浸して絞る。まずはお墓の掃除から。


「ちょっと来ないとすぐに砂まみれだ。雑巾何枚か買っておいて正解だったなー」


高い場所から順番に拭いていく。一番上の部分が砂が積もっていて、しかもそれに隠れて鳥の糞まで付いていた。あまり頑固なものじゃないけれど力を入れて拭き取る。側面やお供え物を置く場所まで順番に下の方まで拭いて、最後にお地蔵様の頭をくるりと拭った。


「よし、ぴかぴか。」


どれくらいの時間をかけたのかわからないけれど、最初見たときとは見違えるほど綺麗になった。いつもこの瞬間が好きで、ここに来たときには欠かさずやっている。袖を戻し、雑巾を桶に掛けて改めてお墓に向き直る。


「もう10年なんだって。お母さんが死んでから」


お父さんにも言ったけれど、実感が全然ない。きっと一緒に過ごした時間が短いからそう感じるんだろうなって思う。たった6年の家族。それでも、お母さんはちゃんとお母さんだった。

ふと、首に下げていたシルバーリングを思い出す。胸元から取り出した。不思議なことに石が輝いていた。赤く燃えるように。


「すごい…本当に中で燃えてる?それとも集光みたいな感じなのかな」


石の中で揺らめく炎。光に当てると当てた時間だけ暗闇で光る機能を持った商品なんかは知っていたが、これは違う気がした。やっぱり石自体が燃えている。


「お母さん、どこで誰からもらったんだろう」


現実のものとは思えない石の輝きに、心が少し踊っていた。お父さんは不気味だと言っていたけれど、わたしはそれ以外にこの石は、「母の特別」なのだと感じた。誰とも違う、母が死に際に身につけていたこのリングだけの特徴、個性。わたしにはないそれを持っているこのシルバーリングが、今自分の手の中にあることにわずかでも優越感を覚えずにいられなかった。お墓を見る。わたしは心の中で「つけてもいいですか」と母に問いかけた。答えが返ってこないのは当然わかっていた。「母の特別」を勝手に身につけることが悪いことなのだと思った、だから、今聞いた。聞いたから、身につけてもいいだろう。

自分の問いかけにうん、と返事をして、ゆっくり、リングを左の小指にはめ込む。


「あったかい」


リングの内側は熱を帯びていた。

日が落ち、紫色に変わった空にリングを掲げる。地平線から顔を覗かせ空に浮かび上がった満月が、シルバーリングを輝かせた。本当に神秘的な、不気味で美しい輝きをじわじわと実感していく。


きら、と石が月明かりを反射したときだった。


「熱っ!?」


視界が真っ赤になったのだ。ゴウッと勢いのいい炎がわたしの体を包んだ。わたしの体が燃えている。どうして?なぜ?まさかこの石が?走馬灯のように考えが頭を過る。混乱した。

慌てて地面に伏せようとしたが、ぐらりと歪む視界に目眩を覚え、そのまま意識を失った。













「あなたのおばあちゃんはね、わたしが6歳の時にいなくなっちゃったの」


真っ白な空間に拡散する暖かな光、ベッドにうつぶせる少女の頭を撫でる女性。

彼女はつぶやくように言葉を紡いでいる。


「ある日からずっと眠り続けていてね、そのまま死んでしまったの」


「原因はわからなかった。きっと衰弱だ、って」


「でもね、お母さんは違うと思うんだ」


「だって、とても穏やかだったの。幸せそうな顔をしていたし、今にも起きそうなくらいだったから」


きっと、幸せな夢を見ていたのかも知れないね。







「—…お母さん?」


土の匂いがした。重い瞼を持ち上げ、今目にしている世界を確認する。一見森に見える場所。だけど何か雰囲気が異様な、そんな感情を抱かせる場所だった。

わたしは土の上に倒れていた。体を起こし立ち上がる。砂を払いながら自分の体を確認した。焦げている様子は無い、別段怪我もしていないし無傷だ。一体何が起きたのか、頭の整理がつかない。わたしは確かお墓の前にいて、シルバーリングを小指にはめて、それでその後燃えたのだ。何故かわからないが燃えた。

はっと左の小指を見る。そこにリングはなかった。首のチェーンを確かめ胸元から引っ張り上げる。


「ある…」


ほっと胸をなでおろす安心感とは裏腹に、恐怖が襲ってきた。これは本当に持っていて良い物なのだろうか。二度と嵌めたくないのはもちろんだが、正直優越感などどこかに吹き飛んでしまった。きっとこれのせいでわたしの体は燃えたのだし、そう考えると手放したくなるのは当然だろう。其処ら辺に捨てておけば良いのだろうが、リングを見ているとどうもそういう気になれない。怖いがそのまま胸に仕舞っておくことにした。


(ここはどこなんだろう)


リングのことは良いとして、自分がさっきとは違う場所に来ていることに意識が向いていく。ここが森の中であることは間違いないけれど、どうやって来たのだろう。時代遅れの人さらいにでも遭ってしまったのか。もしくは無意識にここまで来てしまったのか。空を見上げれば見たこともないような大きさの満月が、赤紫色の空に輝いていた。あまりにもでかい。クレーターがよく見えるくらいの大きさで、今にも落ちてきそうだ。非現実的な状況に溜息も出ない。


(と、とりあえずどこか建物探そう)


まずは森を出なきゃ。と、行動の目標を立てたが。


(どっちに向かって歩けばいいの…)


四方を見ればどこも草木が生い茂り、獣道すら見当たらない。月明かりが木々の隙間から差し込んでいるが、真っ暗に近い状態だった。この中を歩くのは今の自分の服装では危ないだろうし、何よりクマやイノシシ、或いはヘビなんかに襲われでもしたらひとたまりもない。動かなければ打開できないだろう状況に、怪我の恐怖が行動する意思に蓋をしていく。動けない。

だが、やはりこのままここにいては何も変わらないのも事実だった。


はぁ、と盛大に溜息をついた時だった。


ガサガサ…


背後で動く音が聞こえる。


「ど、動物?」


振り返ると大きな影は特に見えない。タヌキとか、小さい動物かな、と考えているうちに、その音はわたしを中心に円を描くようにして移動していた。しかも数が増えている。複数。2、3…音は数えられない騒音に変わっていた。


(もしかして狙われてる?なんで!?)


足が竦み動悸が激しくなる。体が強張ってうまく動かない。どこかに逃げなくては。でもどこに。頭を必死に動かすが思考が同じところで堂々巡りする。結果が出ない。そうだ、ゆっくり下がればいいんだ。どこかで聞いたことがある。クマと対峙する時に相手の目を見たまま背後に下がれば襲われないって。今はクマかどうかわからないけど、攻撃する意思を見せなければ良いんだ。役立つかもわからない知識を懸命に探り出し、一歩、背後に足を引いた。


その刹那。


ガサッ!!


飛び出したのは大きな狼。正面から何頭も同時に牙を剥く。わたしはそれを見た瞬間思った。


これ死ぬやつだ。


時が止まった気がした。大きな牙と口を広げて襲いかかるその群れを観察できてしまうくらいには。きっとこれが死ぬ瞬間の、そういう時間なんだろう。止まっているのはわたしも同じで、体は背後に仰け反るだけだった。


「愚かな」


その声を聞くまでは。



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