金縛り

 私は仕事から帰宅すると、軽く夕食を済ませてから、ゆっくりと湯船に浸かった。ちょうど良い湯加減で、仕事の疲れが取れた気がした。

 風呂から上がると、すぐにベッドに入り込んで眠りについた。

 それからどのくらいの時間が経っただろうか。何故か急に寒気がし、背筋がゾッとした。体が強張ったかのような感覚があり、私は恐ろしくなった。体がまったく動かないことに恐怖を感じた。

 まさか、これがいわゆる金縛りというものなのだろうか? 今までに金縛りの経験がないだけに、何とも言えないけれど。

 体はどうにもならなかったが、かろうじて瞼は動かせた。恐る恐る目を開けてみると、鬼の形相を浮かべた幽霊と思しき女性が私の首を絞めていた。

 本来であれば、恐ろしい状況のはずだが、幽霊の鼻毛が出ているのが気になって恐怖は薄れてしまった。鬼の形相を浮かべているだけに、何だか滑稽だった。しかも、1本だけではなく、3本くらい鼻毛が出ていた。

 幽霊なのに、鼻毛が出ているってどういうこと? 死後も鼻毛って伸びるんだろうか? それとも鼻毛が出たまま、死んだのだろうか?

 よく見ると、鼻くそもついていた。もしや生身の人間かと思ったが、薄らと透けている。やはり、この女性は幽霊と考えた方が良さそうだ。鼻くそがついた幽霊なんてイヤだけど。

 幽霊の鼻毛と鼻くそを見せつけられてイヤな気分になった。本人(本霊?)は見せつけている気はないだろうけど。

「……殺してやる」

 幽霊は鼻息を荒くして呟いた。鼻息で鼻くそがグラリと揺れたのが見えた。鼻くそが落ちるのではないかという恐怖が私の心を支配した。

 見知らぬ幽霊の鼻くそが顔に落ちるなんて絶対にイヤだ。それだけは何としても避けたかった。首を絞められている状況も避けたいが、それは二の次だった。

 今、考えなければいけないことは、如何にして鼻くそを避けるかだ。幽霊が鼻息を荒くし続ければ、鼻くそが落ちるのは時間の問題だった。

 私は必死で思考を巡らし、ベッドのすぐ近くに姿見を置いていることを思い出した。何とか姿見に幽霊の気を逸らすことができれば、鼻毛と鼻くそに気が付き、手が緩むかもしれない。上手くいけば、恥ずかしがって立ち去ってくれるかも。幽霊に恥ずかしさがあるのかは分からないけれど。

 私は幽霊の気を逸らそうと、視線を姿見に向けた。何かを訴えるかのように、黒目を姿見に向け続ける。

 すると、幽霊は不思議そうに首を傾げると、視線を姿見に向けた。すぐに幽霊はハッとなって両手で鼻を覆った。首への圧迫感がなくなり、私はホッとした。

 見る見るうちに、幽霊の顔が真っ赤になった。どうやら幽霊にも恥ずかしさはあるようだった。

「イヤァアアァ!」

 幽霊は悲鳴を上げると、一瞬で消え去った。鼻くそを食らわずに済んだことに、私は安堵した。

 

 その後、二度と幽霊が現れることはなかった。

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