浩紀と椿

浩紀ひろきさん、ちゃんと一匹って言いましたよね? 十匹も送ってどうするんですか! 取引先の社長が怒ってましたよ」

 椿つばきは呆れたようにため息をついた。先ほど取引先の社長から電話があり、俺のミスが発覚した。本来なら巨大マグロ一匹を送るはずだった。しかし、俺のミスで十匹も送ってしまったのだ。

 取引先は全国に寿司屋をチェーン展開している大企業だった。うちの社長とは昔からの顔なじみで贔屓にしてくれていたのだが、今回の件で取引が打ち切られるかもしれないと社内が大騒ぎになっていた。

 我が社は寿司屋と卸売市場を仲介する仲卸業者だ。取引先の要望に応じて卸売市場で魚を仕入れて加工し、発送するのが仕事だ。卸売市場で巨大マグロを買った時は十匹だと思い込んでいた。そのため、加工した十匹の巨大マグロを取引先に発送してしまった。我が社の社長も激怒し、罰として給料の減給を言い渡された。

「……浩紀さん、ここ最近ミスが多いですよね? もしかしてまだ奥さんのこと引きずってるんですか?」

 椿は心配そうに俺のことを見ていた。一年ほど前に妻は不倫相手と無理心中し、この世を去った。妻は不倫相手に睡眠薬を飲ませた後、窓をすべて締め切って、ガスを全開にした。二人は一酸化炭素中毒で死んだのだ。警察によると、妻は不倫相手の心が奥さんに向いていることに腹を立て無理心中を図ったのではないかとのことだった。

 俺はそれまで妻が不倫していることに気付いていなかった。家庭をないがしろにしていたこともあり、妻を不倫という道に踏み込ませてしまった。今思えば妻は数々の信号を出していた。きっと不倫していることに気付いて欲しかったのだろう。いや、正確には自分を見て欲しかったのかもしれない。しかし、俺は気づいてやれなかった。その結果が無理心中という悲劇に繋がった。

 突然、母親を失った七歳の娘は泣いた。家族と相談した結果、娘は姉夫婦の養子になった。姉夫婦には子供がいなかったこともあり、養子の件についてすぐに賛成してくれた。姉夫婦に養子を提案したのは母似の娘を見ると、イヤでも妻を思い出してしまうからだ。

「あの……浩紀さん、うちで一緒に晩御飯を食べませんか?」

「……それじゃ、お言葉に甘えて椿の家で食べようかな」

 俺がそう言うと、椿は嬉しそうに頬を緩ませた。椿は俺を励まそうとして一緒に晩御飯を食べようと提案したのだろう。椿に気を使わせてしまったことを申し訳なく感じた。


 ☆☆


「遠慮なく食べてくださいね」

「うん、いただきます」

 俺は椿が作ってくれた野菜炒めに手を伸ばした。箸で野菜と肉を一緒に掴むと、口に入れた。口の中に旨味と辛味が一気に広がって美味しかった。次は肉じゃがを食べた。これも旨味が凝縮されていて美味しい。

「……浩紀さん、私がまだ新人の頃、いつもミスばかりしていたのを覚えていますか? 取引先に一緒に謝ってくれましたよね」

「……ああ、覚えているよ」

 十年ほど前に椿は我が社に入社した。その時の椿は右も左も分からない新人だった。今は出世して上司になっているが、椿はいまだに俺をさん付けで呼んでいる。俺も最初はさん付けで呼ぼうとしたが、椿が呼び捨てにしてほしいと言うからそうしている。

「浩紀さんがいたから私はここまで頑張れました。浩紀さんがいなかったら、今の私はありませんでした。寂しそうな浩紀さんは見ていて辛い。私は浩紀さんを支えてあげたい」

「……椿」

「私では浩紀さんの心を埋められませんか?」

 椿は真剣な表情で俺のことを見ている。本気で俺を支えたいと思っていることが伝わってきた。

「ありがとう、椿」

 俺は椿を思いっきり抱きしめた。椿の気持ちがとても嬉しかった。椿は嬉しそうに抱きしめ返してきた。

「浩紀さんの寂しさを埋めてあげられるように頑張りますので、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 言い終えたと同時に椿の唇が俺の唇に重なった。

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