第三章 忍び寄る〈笛吹き男〉の影
第三章 忍び寄る〈笛吹き男〉の影 -1-
いまにも壊れそうなドアを軋ませ、男は部屋に入った。一歩踏み込むなり室内を一瞥し、俄かに険しい顔になる。
玄関直通の狭いダイニングは埃っぽく、ファストフードの空きトレーや、汚れた衣服が床に散乱していた。それこそ足の踏み場もないほどだ。食卓の上にも、菓子の空き袋が地層のように積み重なっている。
食卓の向こうの窓際には長椅子が置かれ、まだ一〇代後半の若者が寝そべっていた。
若者は型遅れの携帯端末を手に、ニヤニヤしている。男が耳を澄ますと、色っぽい女の声がかすかに聞こえてきた。
若者とは倍近く歳の離れた男は小さく舌打ちすると、青筋を立ててがなり立てた。
「俺が帰るまでに掃除しとけと言っただろーが!」
「わわわっ!?」
驚いた若者は身体を起こそうとするが、勢い余ってソファから転げ落ちた。
「すっ、すいませんっ!」
あちこちぶつけながらようやく立ち上がった若者は、手にした端末を放り投げ、慌てて床に散らばるゴミを拾いはじめる。
「ったく、使えねー奴だな」
男は忌々しげに吐き捨てると、もう若者には目もくれず、隣の部屋へと向かった。
隣室には皺だらけのシーツが敷かれたベッドと、粗末な机だけがあった。ダイニングと違って、きれいに片づけられている。ただし机の上を除いて。
小さな机の上は、処狭しとコンピュータに占領されていた。その端末に長い金髪を一つに束ねた二六、七ぐらいの青年が窮屈そうに向かい、一心不乱に指にはめた入力デバイスを操作しいている。
「ほらよレイ、新しい端末だ。最新型だぞ。手に入れるのに苦労したんだからな。今度はヘマしてくれるなよ」
ぼやきながら、神経質そうな顔の男は小脇に抱えたノート型端末と食料の入った包みを一つ、レイと呼んだ青年に手渡した。
「ありがとう。でも前の失敗は相手が上手だっただけで、端末の性能のせいじゃないんだけどな」
青年――レイは一旦手を止めると、苦笑しながら男のみやげを受け取った。そして早速、いまあるシステムに組み込みはじめる。
ハードウェアの接続を終え、ソフトウェアのセットアップに取りかかったレイは、モニタに目を向けたまま男に問いかけた。
「それより〈教授〉の方はどうなんだい?」
「ああ、やっと行動開始だ」
ところどころ擦り切れたコートを脱ぎながら、男は答えた。シャツがはちきれそうなほど鍛えられて引き締まった上半身と、左脇にぶら下がった拳銃が現れる。
男はホルスターに収まったその銃を身につけたまま、ベッドの端に腰かけた。
「あんたが〈北基幹学校〉のサーバに忍び込んであの〈姫さま〉に関する情報を仕入れてくれたおかげで、随分とやり易くなったとさ」
そう言って男がニヤリと笑うと、レイは満足そうに微笑んだ。
「それは何より」
「でもよ、こんなまどろっこしいことしてないで、ガキなんかふん縛って、船にポイと放り込めばいいじゃねーか。んで、こんな暗くて寒い
男はうんざりした顔で天井を仰ぐ。よほどここでの生活が合わないらしい。同意を期待してレイの端整な横顔を窺うが、彼は男の期待には応えてくれなかった。
レイは緑がかった青い瞳で年上の男を軽く睨みつけて言う。
「手荒な真似はダメだ。あくまでも女の子の意志で、ここを離れるようにしむけなきゃ。できるだけ騒ぎは起こしたくないからね」
「へいへい」
提案を却下された男はそれ以上反論せず、鼻にしわを寄せただけで素直に引っ込んだ。そして自分の食料をベッドの上に広げはじめる。
男は黙々と機械的に食事の準備をしていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、さっき
「へえ。どんな?」
興味深げな声でレイは聞き返した。男は生ハムを挟んだパニーニを頬張りながら答える。
「
中年の男は、一旦口を閉じて青年の反応を見る。
しかしレイは複雑に口元を歪めただけで、何も言わなかった。
男は軽く肩をすくめると話を続けた。
「で、ガキの方はえらくすばしっこくてよ。〈
「その『ガキ』って――この子?」
レイは端末を操作すると、ワイドショー番組のログを呼び出した。モニタにセピア色の髪の少年が映し出される。
パニーニと
「おー、それそれ!」
男の返答に、レイの蒼白い顔がさらに蒼白くなった。呻くように呟く。
「〈ウラーヌスの子〉だ……」
「アレがか!?」
目を剥く男に、レイは重々しく首を縦に動かす。
「くそっ。そうと知ってたら、あんとき
「それだけは絶対にダメだっ!」
青年の鋭い声が部屋の空気を震わせた。
「〈機構〉との協定はまだ九年残っている。その間に少年の身に何かあれば、〈機構〉は全力をあげて〈我々〉を潰しにくる。まだ準備が整っていない
男は納得できないといった顔で青年を睨みつける。
レイはその視線を真正面から受け止めた。よく見ないと緑を帯びているとは判らなかった瞳が、いまははっきりと緑色に変わっている。硬質な翠玉が冷たく光る。それまで柔和だった色白の頬が、大理石の彫像のように硬くなった。
彼は声から一切の感情を消すと、言葉を重ねた。
「最近〈機構軍〉の連中が、
男は滅多に見せることのない青年の威圧的な態度に鼻白んだ。喉を鳴らして口の中のものを飲み込むと、なんとか承諾の言葉を吐きだした。
「……
「よろしい」
レイはその答えに満足すると、再び端末に向きなおった。淡くくすんだ金髪が背中で揺れる。
室内が静まりかえった中、端末を操作しながらレイは男に聞こえない声で独りごちた。
「〈我々〉には、〈我々〉の意志を継ぐ者が必要なんだよ……」
一日目のフライトは、つつがなく終了しようとしていた。
予定されていた課題も全てこなすことができ、訓練機〈パック〉を操っているヴァルトラントは充足感を味わっていた。
〈パック〉から送られてくるデータを地上で見守っていたコリーン率いる技術者たちも、得られた結果に満足したようだ。
あとは無事に地上に降りるのみ。
それでも、自機のセンサと絶え間なく送られてくる管制官の報告によって、
クリストッフェル少佐の〈ティターニア〉率いる編隊は、五機のデルタ隊形をとって飛行している。
〈ティターニア〉の左後方にはヴァルトラントの〈パック〉。そのさらに後ろにはデータ収集を担当した〈雪組〉の〈シュネーヴィント〉。〈パック〉の模擬戦の相手だった〈花組〉の〈オンタリオ〉と〈ロサ・アルバ〉は、〈ティターニア〉の右後方を飛行している。
それらが上下左右一メートルに満たない間隔を保ち、リーダー機である〈ティターニア〉の動きに合わせて飛んでいる。その様は、まるで一つの生き物のように見えるだろう。
しかし、その自信と訓練終了の気の緩みが、そのミスを引き起こしたのかもしれない。
「こちら
基地へ近づくにつれ周囲の気圧が上昇しているのは、〈パック〉の気圧計でも判っていた。
クレーター内には、「森」として設置されている〈大気循環システム〉によって、常に大気が供給されている。しかし供給量は一定ではなく、クレーター外に洩れていく分を考慮して、生命維持システムがその量を調整する。そのため、時々大量の大気供給が行われることがあった。
大量に放出された空気によって基地周辺は高気圧となり、空気の薄いクレーター外へと流れてゆく。その際、強い風が生じる。
ヴァルトラントの視界にある〈ティターニア〉の主翼が、わずかにブレた。
先ほどの訓練によって、感覚が極限にまで研ぎ澄まされていたヴァルトラントは、その動きを「〈ティターニア〉の転進だ」と判断した。
一瞬反応しかける。
が、すぐにそれは間違いだと気づいた。
しかし一切「遊び」のない戦闘機の操縦桿とペダルは、すでにその少年の一瞬の動きを忠実に実行していたのだ。
〈パック〉が不意に列を乱した。
ぐらついた機体は左に傾く。
「おいおいおいっ」
危うく接触しかけ、〈シュネーヴィント〉のパイロットが声をあげた。だが彼もトップクラスの
「わぁっ、ゴメンっっ!」
「何をしている!」
悲鳴とともに謝罪する少年の声に、クリストッフェル少佐の怒号が被さった。
「えへ。反射神経、良すぎちゃった」
軽く首を引っ込めたヴァルトラントは、ペロリと舌を出しながら答える。
普段この程度のミスなら、少佐は苦笑しながら「気をつけなきゃダメじゃないか」と言うだけだ。
しかし今日は違った。
少佐はヴァルトラントのお茶らけに反応せず、むっつりと黙り込んでしまった。しかも、それだけではなかったのである。
その後、何事もなく着陸した〈パック〉のコクピットから降りたヴァルトラントは、先に降りて待ち構えていた少佐に殴り飛ばされた。
「いきなり何すんですかっ、少佐っ!?」
尻餅をついて転がった少年を助け起こしながら、〈パック〉機付整備長のコハネッツ曹長が抗議の声をあげた。
立ち上がったヴァルトラントは何が起こったのか
目の前の人物は、いつも穏やかな口調と笑顔を絶やすことのない、あのアダルベルト・クリストッフェル少佐と本当に同一人物なのだろうか。
と、ヴァルトラントが疑いたくなるほど、少佐の口調は厳しく、顔は怒りに染まっている。
「管制の報告がなくても、計器を見れば風が来るのは判っただろう? あれぐらいの風で煽られてどうするんだっ。〈シュネーヴィント〉を巻き込むところだったんだぞ!」
アダルは矢継ぎ早にヴァルトラントを怒鳴りつけた。
「だって、少佐が動いたから――」
言いかけたヴァルトラントの頬が、再び鳴った。
「口答えは許さない!」
「
慌てて駆けつけたマルロー軍曹が、アダルを押しとどめる。苛立ちを抑えきれずに、アダルは舌打ちした。
そんな彼を見つめるヴァルトラントの目に、恐怖と不信、そして悲しみの色が浮かぶ。
編隊飛行中は、常にリーダー機との間隔を一定に保持しなくてはならない。リーダー機が旋回すれば、一瞬たりとも遅れることなく、その動きに合わせなければならないのだ。
しかもリーダー機は、次の行動を予告しない。ゆえに僚機は、リーダー機の動きを先読みする必要があった。でないとリーダー機が動いてから反応していては遅すぎるからだ。
そしてあのとき、アダルは確かに動いた。
これが他の者なら、乱気流によって流されたのだと思い、ヴァルトラントも迂闊に動いたりはしなかっただろう。しかしどんな条件下でも微動だにせず、定められたコースを精確に飛ぶことのできる少佐が動いた。
その動きが少佐の意図するものでなかったというのなら、それは彼が機体を制御しきれなかったことを意味する。
それがヴァルトラントにはショックだった。
どんな人間でも失敗はする。だが少年にとって、敬愛する師の失敗は、決してあってはならないことなのだ。
頑として反省の言葉を述べようとしない少年と、自分のミスに気づいていない少佐は、お互いの気持ちを探るかのように鋭く見つめ合っていた。
そこへようやく騒ぎに気づいた連中が、駐機場へと駆けつけてきた。
「一体どうしたっていうの!」
「ヴァル!」
人だかりを掻き分け、コリーンとミルフィーユが現れた。その後ろにはウィルの姿もある。
「ちょっとアダル――いくらなんでも殴ることないでしょ。可哀想に、唇が切れてるじゃないの」
夕べの傷口が開いたのか、口の端から血を流しているヴァルトラントを、コリーンはアダルから守るように抱き寄せた。ハンカチを取り出し、そっと血を拭き取ってやる。心配そうにミルフィーユが親友を覗き込んだ。
だがアダルはコリーンの抗議には答えず、淡々とした口調でつけ加えた。
「それに、フライト前にケンカして怪我するなんて、自己管理ができていないということだ」
「何よそれ。あんたこそねぇ――」
「コリーン」
食ってかかろうとするコリーンを、ウィルが止めた。数歩進んでアダルと向かい合う。
「上であったことは、下でも見ていた。詳しい原因は、こちらのデータと各機の航法記録を分析してみないと判らない」
司令官が何を言わんとしているのか量りかね、アダルはかすかに形のいい眉を顰めた。
珍しく物分りの悪い副司令官に、ウィルは根気よく諭す。
「つまり、原因がハッキリするまでは、貴官が〈パック〉のパイロットを殴る必要はないということだ」
「……軽率でした」
司令官からの実質上の抗議にようやく気づいたアダルは、苦々しげに口元を歪めつつも自分の非を認めた。そしてヴァルトラントに目を向けると、硬い声で謝罪する。
「ヴァルティ、悪かったね」
それだけ言うと、アダルはウィルに対してなおざりな敬礼をし、踵を返した。
その背中にウィルが鋭く言い放つ。
「クリストッフェル少佐、あとで俺のオフィスに出頭するように」
「……はい、大佐」
足を止めて振り返ったアダルは、他人行儀に呼びかけたウィルに合わせて返答した。
その様子を見ていたヴァルトラントの目から、不意に涙が溢れ出した。ポロポロと涙を零しながら、少年がしゃくりあげる。
「ああヴァルティ、もう大丈夫よ」
コリーンが優しく囁きながら少年の涙を拭き取ってやるが、ヴァルトラントの涙は止まらなかった。
「何も泣くこたぁないだろ」
苦笑しながらウィルが息子の頭を軽く叩くと、ヴァルトラントはコリーンの腕から飛び出し、父親の胸にすがりついた。
「あら。こんなお父さんでも、やっぱりいいのね」
「おまえに言われたかねーよ」
幼馴染の嫌味にウィルは歯を剥く。
「ヴァルトラント、今日のことは気にするな。アダルはここんところ調子が悪いみたいだから」
膝をついたウィルは、涙でくしゃくしゃになった息子の顔を覗き込んだ。そして手袋を外し、冷たくなった少年の頬をゴシゴシとこすってやる。
父親の温もりを求め、ヴァルトラントはなおもウィルの首にしがみついた。そして耳元で呟く。
「アダル……可哀想……」
師の苛立っている原因に思い当たった少年は、師の代わりに泣いた。
ハズリットはこの日、校長に自分の望む進路を告げた。
「そのとき、そのとき、興味のあることを究めていけばいい」
この少年の言葉を、彼女は一晩かけて考えた。
そう、目的地へ向かう道は一つだけではない。遠回りと思える道を通ってもいいのだ。それがいつか、役に立つこともあるだろう。それに、自分にはまだ時間がたっぷりあるのだから、いまやりたいことを一つぐらいやってもいいはずだ。
こうして彼女は、植物について学ぶことを決心した。選びかねていた少女は、ようやく吹っ切れたのである。
そして彼女が進路を明確にしたことによって、面接される側の明暗をも分けることとなった。
彼女の希望する学部を持たない大学は涙ながらに撤退し、残った候補たちは合格する確率が大幅に上がったといって踊り出さんばかりだ。いや、実際に踊っていたかもしれない。
候補者が減ったおかげで彼女の面接スケジュールは大幅に短縮されたが、それでもまだ四分の一ほどは残っている。しかしそれも早々にケリがつきそうだった。
残った候補で今日面接した一つに、少女の関心を惹く条件を提示した大学があったのだ。
ガニメデの総合大学〈ディムナ・フィン〉は、木星でも名の通った大学である。私立校だが、単なる金持ちの子女を対象にした学校ではなく、優れた研究者を育てることを目的としていた。それゆえ入学試験は厳しく、卒業するのも難しい。そしてその難関を乗り越え無事卒業できた者は、洩れなく第一線で活躍している。
その大学が、出世払いの奨学金でハズリットを勧誘してきた。それだけではなく、彼女が大学に在籍する間の生活費や住居の援助、さらには彼女の母の就職までも斡旋するという。
だがこういった条件を出してきたのは、〈ディムナ・フィン〉だけではない。企業と組んだ大学は、大抵これに似た条件で彼女の気を惹こうとした。
奨学金も生活費も、ハズリットにとってはありがたい話だった。しかし、母親の就職には尻込みしてしまう。
母のリディアは、かつて〈機構軍・陸戦隊〉の特殊部隊で狙撃手として活躍していた。だがハズリットを産んで退役してからは、酒を飲んでいるか遊び歩いているかで、まともな職についたことがない。
その母に「会社へ行って働け」と言っても、難色を示すだろう。もし天変地異が起こって母が「働く」と答えたとしても、デスクワークといった頭脳労働がこなせるとは思えなかった。
ところが〈ディムナ・フィン〉の話は少し違った。
〈ディムナ・フィン〉はハズリットの母に、会社勤めではなく大学の寮の管理をして欲しいと言ったのだ。
正しくは「いまの寮母の手伝い」だったが、その方がより都合がいいと思われた。いきなり学生の面倒を見る責任を負わせるのは、少々荷が重過ぎる。しかしその重さが半分以下ならば、社会復帰のちょうどよいリハビリになりそうだった。
また、寮母ならハズリットとともに寮で暮らせる。書類ではなく若者たちと向かい合うのは、賑やか好きな母の性にも合っている。
「ねぇ、どう思う?」
少女は林檎の木を見上げて問いかけた。だが木は静かに少女を見下ろすばかりだ。
まあ彼女も、もとより応えなど期待していない。相手が人ではないせいか、構えることなくひたすら物言わぬものに語りかける。
「いままで面接した中では、そう悪くないと思う。面接に来た教授はともかく、資料や校長先生の話ではいいスタッフが揃ってるみたいだから、満足できる授業が受けられると思う。それにいままで面接した中で、一番うちの事情に気を遣ってくれてるし」
ハズリットの心は〈ディムナ・フィン〉に傾きかけていた。しかしその片隅で、見知らぬ地に対する不安と希望が、彼女の心の支配権を巡って争っていた。
彼なら、何て言うだろう。
今日はまだ姿を見せない少年の顔が、ハズリットの頭を過ぎる。
その彼女の耳に、落ち葉を踏む音が聞こえた。乾いた音は、ゆっくりとこちらにやってくる。ハズリットの胸は高鳴った。
足音は、期待どおり彼女の背後で途絶える。
ハズリットは、逸る気持ちを抑えながら振り向いた。
「おやおや!」
少女の目に、目を丸くしている老紳士が飛び込んできた。
「カロリーネや、来てごらん。可愛い林檎の精がいるよ」
老紳士は目を離した隙に消えられては困るとばかりにハズリットから目を逸らさず、手だけを振り回して連れ合いを呼んだ。その無邪気な必死さは、どこか少年めいて見える。
「あらまあ、本当に!」
少し遅れてやって来た老婦人も、ハズリットを見るなり嬉しそうに目を細めた。
「あの……?」
ハズリットは怪訝そうに眉を顰めると小首を傾げる。その少女に向かって、老紳士がいきなり手を合わせた。
「ああ、ありがたや、ありがたや~」
「まあ、あなた。いい加減、土星で覚えたその何でも拝む癖、なんとかなさいな」
熱心に呪文のようなものを唱えながら拝んでいる紳士を、夫人は苦笑しながらたしなめる。
「何を言う。林檎の精に逢えるなど、滅多にあるもんではないぞ。だからご利益があるように祈っておるのだ」
口元を覆う薄く短い髭以上に頭髪の寂しい老紳士は、むきになって反論する。本気でハズリットを林檎の精だと思っているのだろうか。
「それにワシは、彼らの『この世のありとあらゆるものには、神が宿っている』という考えに、いたく共感しているのだよ。大自然に宿る魂を敬うこともできずに、それらを自分たちの都合のいいように作り変えようとするのは、その魂への冒涜だ」
「はいはい」
熱弁を振るう夫を適当にあしらって、夫人はハズリットに微笑みかけた。
「突然驚かせて、ごめんなさいねぇ。主人は学者のクセに、自分のやっていることには懐疑的なのよ」
いきなり現れて夫婦漫才を始めた老夫婦に、少女はどう反応していいか判らず二人を凝視するばかりだ。
夫人はハズリットが返事をしないことを気にした風もなく、柔らかい笑みを浮かべたまま話しつづける。
「ハズリットちゃんでしょう? ここの所長さんから聞きましたよ。主人の論文を読んだ、とても勉強熱心なお嬢さんだって」
「え?」
ハズリットは一瞬耳を疑った。いま彼女は何と言った?
少女の心の声が聞こえていたとでもいうように、豊かな白髪をゆったりと結い上げた老婦人は名乗りはじめた。
「私はカロリーネ・レンツ。そして彼が、モーリッツ・レンツ」
「まさか――!」
夫人の告白に、少女はその大きな目を思わず瞠った。
いま目の前にいるちょっと変わった老紳士が、あの植物遺伝子学の第一人者と言われるレンツ博士なのか?
俄かに信じられず絶句する少女を、婦人は優しく、紳士はいたずらっ子のような目で見つめていた。
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