第二章 少女は森の息吹に触れる -4-

 〈森の精〉ヴァルトガイストの高級士官用食堂で特注のお子様ディナーを平らげた少年と少女は、〈ヴァルトマイスター〉の地下街を、北駅から中央駅へと向かって歩いていた。

 この都市の北西に位置する〈森の精〉ヴァルトガイストと、北東に位置する〈とねりこの森〉エッシェンヴァルトを繋ぐ二路線しか持たない北駅は、事実上の軍用駅である。利用者が限られていることもあり、都市内を網羅する市街鉄道Sバーンとは連絡していない。そのため北駅利用者が〈ヴァルトマイスター〉北部から他の地区、および別都市へ行くには、Sバーンが出ている中央駅まで一〇分ほど歩かねばならないのである。

 北駅周辺には都市の行政機関や公共の施設、企業のオフィスが立ち並ぶ。そこから中央駅へと続く〈中央大通り〉ハウプトシュトラーセには地上地下を問わず〈ヴァルトマイスター〉最大の繁華街が横たわり、市民だけでなく軍を含む〈機構〉職員たちにとっても娯楽の場となっている。

「すっかり遅くなっちゃったね」

 看板とともに店の軒先に掲げられた時計を見て、ヴァルトラントが声をかけた。

 子供たちの時間はそろそろ終わろうとしていた。だが大人たちにとってはまだ宵の口とあって、中央駅広場周辺は依然として人通りが絶えず賑やかだ。

「別に送ってくれなくてもいいのに。それに、こんなお土産までもらってしまって……」

 少年と並んで歩いていたハズリットが、申し訳なさそうに呟いた。言いながら、箱に詰められたアプフェルトルテの暖かさを、手の中で実感する。

 そんな彼女に、ヴァルトラントは気にするなとばかりに手を振った。

「男は、暗くなってから女の子を独りで歩かせちゃダメなんだって」

 どうやら父から伝授された「男性としての嗜み」を、彼なりに実践しているらしい。

 ところが少女は納得するどころか、腑に落ちないといった顔になる。チラリと肩越しに、二人の後ろをついて歩いている若者を盗み見た。

 すれ違う着飾ったカップルを目で追っていた青年は、ハズリットの視線に気づくと人懐こい笑みを見せた。エビネ准尉だ。

「あ、大人は子供だけで夜歩きさせちゃダメだから」

 土星訛りのある太陽系共通語で答える准尉を、ハズリットは小首を傾げながら見上げた。

「でもお仕事中だったんでしょう?」

 基地司令官直々に二人の護衛を頼まれた准尉は、少女の気遣いにいっそう表情を和らげ、「これも任務の内だ」と口を開きかける。しかしヴァルトラントが、彼が答えるより早く横から茶々を入れた。

「仕事って言っても、准尉は先任たちの雑用と中佐の猫の世話しかしてないから、全然気にしなくていいよ」

「他にもやってるよっ!」

 土星から赴任してきて二ヶ月にも満たない士官は、身も蓋もない少年の言葉に抗議する。

「じゃあ、そういうことにしといてあげるよ」

 意味深にニヤリとするヴァルトラントに、エビネはもう返す言葉がなかった。まだまだ駆け出しの新米士官の仕事といえば、少年が挙げた他には〈森の精〉ヴァルトガイストの隊員たちから寄せられる〈グレムリン〉に関する苦情の処理ぐらいだったのだから。

「あっ、アイスクリーム食べたくない?」

 形勢不利を悟った准尉は、ちょうど前を通りかかったアイスクリームショップを示して少年の気を逸らそうと試みた。

「わーい、食べたーい! 俺、チョコチップミント、クリスピーコーンで!」

 准尉の撹乱戦法は功を奏し、少年は見事彼の術中に嵌った。だがそう思ったのはエビネだけで、ヴァルトラントにしてみれば「嵌ってやった」のであるが。

「はいはい、チョコチップミントね。ハズリットは? 子供は遠慮しちゃダメだよ」

 少女の口から辞退の言葉が出る前に、准尉は釘を刺した。

「えっ――と、じゃあバニラ……」

 遠慮がちにハズリットが答えると、准尉は子供たちに店の前で待つように言って店内へ消える。

 それを横目で見送ったヴァルトラントは、ハズリットに向き直って訊いた。

「ホントにバニラでよかったの? イチゴとかチョコとか、もっと他にもあるのに」

「アイスはバニラって決めてるの。店によって色や味が全然違うのがよく判るから」

「……通だね」

 子供らしからぬ少女の嗜好に、ヴァルトラントはしみじみと呟いた。

 ヴァルトラントはこの数時間のあいだに、ハズリットの考えや好みについて多くの情報を得た。そして彼女が年下でありながら、精神面では自分より遥かに「大人」であることを知った。

 ハズリットの心に一歩近づいたが、それによってまた別の意味で彼女との距離を思い知らされ、少年は行く手の険しさに途方に暮れる。

 軽い脱力感とともに一つ息を吐いた少年は、何気なく向かいのレストランに目を向けた。

 ちょうど食事を済ませたらしい一組の男女が出てくるところだった。親しげに男の腕を取る女に、ふとヴァルトラントは目を留めた。

「あ、マリーア?」

 見知った顔だと判り、思わず声をかけようとする。が、つき添っている男の顔を見るなり、慌ててレストランに背を向けた。

「どうしたの?」

 怪訝そうにハズリットが訊ねる。

 だが、ヴァルトラントはわざとらしく店内を覗き込んでごまかした。

「な、何でもないよ。准尉、遅いなぁ」

「……変なの」

 眉を顰める少女に、彼はぎこちない笑みを返すしかなかった。

 ヴァルトラントは動揺していた。

 見てはいけないものを、見てしまったような気がする。そして、いまの出来事は何を意味しているのか。

 詳しく分析したいという気持ちと、それを拒む気持ちが入り混じる。

 少年は何度か深呼吸して心を落ち着けると、今後の対応を検討した。

 そして彼がほとんど本能に近い部分で下した結論は、とにかく誰にも――特に「彼」には言わない方がいいということと、この一件は一時的に忘れる、ということだった。


 ハズリットの住む〈旧市街〉アルトシュタットは、〈ヴァルトマイスター〉の東南に位置するアウグスティーナ地区の外れにあった。

 中央駅でSバーンに乗り換えたヴァルトラントたちは、いまはアウグスティーナの地下街を足早に進んでいた。

 一応〈南部ズート〉の繁華街ということもあって、〈北部ノルト〉の中央駅近辺ほどではないが、この界隈もそれなりに賑わっている。だが行き交う者たちや街の雰囲気は、明らかに〈北部ノルト〉とは違っていた。

 洗練された感のある〈北部ノルト〉に対して、ここはいささか猥雑であった。品のない言葉を喚き散らす酔っ払いや客引きが目立ち、飲食、各種商店の店構えも野暮ったく見える。

 ほとんどの用事は〈北部ノルト〉で事足りるため、ヴァルトラントはこの辺りに来たことはなかった。最近木星に来たばかりのエビネ准尉に至っては言うまでもない。

 好奇心旺盛な二人にとって、初めての土地は「新鮮」な光景なのか、二人は物珍しそうに辺りを見回す。ハズリットだけが平然とし、忙しく首を動かす男たちの前を悠々と歩いていた。

 しかし、けばけばしいネオンが減り、人通りも疎らになってきたころ、少女は足を止めた。

「ここでいい。送ってくれてありがとう」

 彼女はヴァルトラントとエビネを振り返ると、別れを告げた。少女の突然の言葉に驚いた男たちが、同時に声をあげる。

「え、何でっ!?」

「家まで送るよ」

 しかし少女は顔を曇らせた。「余所者」である二人に対し警告する。

「でも、この先はあまり治安がいいとは言えないし……」

「だからだよ!」

 男たちは見事にハモる。ここまで送ってきておいて、一番危険だと思われるところで「ハイ、さよなら」とは、男の面子と命令を遂行する軍人のプライドに懸けてもできるわけがない。

「何がなんでも、ハズが玄関入るところを見届けるから!」

「そうそう」

 一歩も引かない構えの男たちに、ハズリットはそれ以上説得するのを諦めた。「何が起こっても知らないぞ」といった顔で、再び歩きはじめる。ヴァルトラントとエビネは、勢い込んで後に続いた。

 先に進むにつれ通路は細くなり、暗くなってゆく。飲み屋街の喧騒が遠くに響く。大小のゴミが目につくようになり、それらや傷んだ舗装で足を取られそうになる。

 道端にうずくまっている者や、足元の覚束ない者たちは、繁華街の酔っ払いとはまた違うようだ。

 彼らの眼は何も見ていないか、あるいは獲物を狙う獣のように血走っている。普通の精神状態にないのは明らかだ。

「この恰好はマズかったかな」

 制服の上に〈森の精〉ヴァルトガイストの部隊章の入ったハーフコートを着たエビネは、眉を寄せながら自分の姿を見下ろした。

 すれ違う浮浪者たちが、胡乱そうな目でこちらを見ていた。エビネの制服に反応しているようだ。

「いえ、牽制するという意味では、その方がいいと思う。ここの人たちは、余所者には『迷惑なぐらい人懐こい』から」

 ハズリットがわずかに口元を歪めて答えた。

 エビネは目を丸くすると、わざとらしく大袈裟に身を震わせた。彼が私服だったら、今頃は「人懐こい住人たち」によって身包み剥がされていたかも知れないのだ。

 しかしジェスチャーほど深刻には受け止めていないのか、准尉はのほほんとした調子で独りごちる。

「しかし、木星にもまだこういうところがあるんだなぁ。てっきり開発し尽くされているもんだと思ってたよ」

「土星にも〈旧市街〉ってある?」

 黒い瞳で興味深げに辺りを見回す新米士官を、ヴァルトラントは振り仰いだ。

「そりゃ、もちろんあるよ。開発の第一歩として作られる街だからね。雰囲気もこことあまり変わらないかな」

「へぇ」

「と言ってもタイタンは地下都市だから、ちょっと裏道に入るとこういうところばっかだったりするんだけどね」

 土星出身の准尉は自嘲気味に顔をしかめ、小さく肩をすくめた。

「再開発したりはしないの?」

 珍しくハズリットが自分から質問する。この街を憂える少女には、他星での対応が気になるのだろう。

「いずれされるだろうけど、いまはそんな余裕ないんじゃないかな。『まずは地上を目指そう』とか言ってるぐらいだから」

 大気の変換が遅れているタイタンでは、地上進出を最優先に開発が進められている。しかも己が勢力を増さんとして、都市同士はその版図を広げようと躍起になっていた。一度手をつけたところに、再び手を入れる余裕などないのだ。

「わざわざ古い街に予算や時間をかけてられないのは、どこも同じというわけね」

 いささか落胆したように、ハズリットは溜息を洩らす。

 彼女の「野望」を知らないヴァルトラントとエビネは、不思議そうに顔を見合わせた。

 が、不意にひらけた視界に、〈森の精〉ヴァルトガイストの二人は思わず息を呑んだ。

 目の前にホールがあった。ざっと目測して、直径三〇メートルはあるだろうか。地下六階分ほどをぶち抜いた吹き抜けになっている様は、ちょうど円柱形に地面をくりぬいた跡のように見える。

「ここは〈ヴァルトマイスター〉が造られるときに初めて掘られた穴の一つ。ここから横穴や、さらに縦穴を掘り進め、他の基礎穴と繋いで都市の地下街が造られたの」

 ハズリットは説明しながら、周囲を指差す。

 円周に沿って聳える壁面には階層ごとに回廊が設えてあり、処々に横穴が確認できた。近くにエレベータシャフトはなく、各階へは階段やはしごで移動するようだ。

 横穴は街へと続くものがほとんどだった。それはつまり、ここが〈ヴァルトマイスター〉を収めるクレーターの外縁リムの近くであることを物語っている。地上に出れば、〈ヴァルトマイスター〉をリング状に取り巻く人工樹の森を間近に見ることができるだろう。

「え、天井が無い?」

 何気なく天井までの高さを測ろうとしたヴァルトラントは、在るべきところに在るはずのものを発見できずに絶句した。

「温室なんかで使う特殊ガラスで覆われてるの。〈昼間〉は太陽の光が差し込むので、ここは〈光の広場〉リヒテンプラッツって呼ばれてる」

〈光の広場〉リヒテンプラッツ――ねぇ」

 ヴァルトラントは頭上の暗闇を見上げて首を傾げた。回廊の照明だけでホール内を照らしている現在いまの状態からは、あまりピンと来ないようだ。

 だがエビネは思い当たるものがあるのか、懐かしそうに目を細めた。

「タイタンの浅い部分にある地下広場なんかは、どこもこういう造りになってるよ。少しでも自然の光に触れたくて考えた『苦肉の策』ってやつなんだろうね」

 思いがけず故郷に似た場所を見つけて、エビネは嬉しそうである。

「大抵、ホールの中央やあちこちに本物の木が植えられていて、ちょっとした公園みたいになってるんだけど、ここはちょっと寂しいね」

 広いだけでごみごみとした空間を見渡して、エビネは残念そうに言った。

 ハズリットは「その通り」とばかりに肩をすくめかけたが、准尉の言葉に何やら閃いたらしく、小さな声をあげた。

「公園――そうか!」

 少女はぐるりとホール内を見回しはじめた。頭の中で描いた絵と見比べているのか、時間をかけて隅々まで観察する。

 しかし彼女の視線は、彼女たちの立つ最下層からその上の階、さらにその上の階へと進んだところでぴたりと止まった。

「ライアン!」

 ハズリットの口から、かすかな驚きの声が洩れる。

「ハズ?」

 じっと彼女の様子を見守っていたヴァルトラントは、少女の異常な表情の変化に気づいて声をかけた。そして少女の視線を辿って彼女の見ているものを確認する。

 回廊の手摺の上に少年が立っていた。年の頃はハーラルトぐらいだろうか。あちこち擦り切れ、体とサイズの合っていない服という、いかにも〈アルター〉の子供らしい恰好をしていた。

 少年は瞬きもせず、鋭い視線をヴァルトラントたちに投げつけている。

「知り合い?」

 訊ねつつ、ヴァルトラントはハズリットを庇うように移動する。階上の少年からは目を離さない。

「ライアン・キーツ。この地区の悪ガキたちのボス」

 ハズリットは〈森の精〉ヴァルトガイストの少年に身を寄せ囁いた。

 距離的に彼女の声が少年に聞こえるはずはない。だが雰囲気であまり良い紹介のされ方ではないと悟ったのだろう。ライアンの眉間がさらに険しくなった。敵意を剥き出しにした目が、すっと細められたかと思った瞬間。

 少年の身体がぐらりと傾いた。

「危ない!」

 階下にいる者たちが息を呑む。

 いくら低重力とはいえ一〇メートル近い高さから落下すれば、それなりの速度は出る。着地に失敗すれば、捻挫どころではないだろう。

 だが少年は空中で身を翻すと、足腰のバネを最大限に活用して見事な着地を決めた。そして何事もなかったように立ち上がると、三人の前へと歩きはじめる。その間、剣呑に光る青灰の瞳は、まっすぐヴァルトラントに向けられていた。

 ヴァルトラントはその瞳を真っ向から受け止めた。ハズリットが言うところの「へらへら顔」が、警戒心で引き締まる。

 余所者の少年を睨みつけていたライアンは、幼馴染の少女の前まで来ると、ようやく彼女に目を向けた。

 険しい表情を一転させ、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべた少年は、威嚇するようにハズリットを見下ろして言った。

「これはこれはお嬢さま、〈新市街人ノイアー〉のお坊ちゃまと、こんな時間までナニしてたんだ?」

 ハズリットはライアンの挑発に一瞬不快そうな表情を見せたが、口を開かなかった。〈旧市街人アルター〉の少年から目を逸らし、むっつりと押し黙る。

 そんな少女の態度に、ライアンの顔が再び険しくなった。

「何とか言えよ。それともなにか、〈新市街人ノイアー〉と付き合うようになったお嬢さまは、俺たち〈旧市街人アルター〉なんかとは口もきけないってか」

「……」

 ライアンがさらに煽るが、それでもハズリットは言葉を返さない。

 この場が沈黙に支配されようとしていた。

 そこへ、少女の代わりにヴァルトラントが口を開く。

「基地の温室を見学して――」

「おまえには訊いてない、〈新市街人ノイアー〉っ!」

 ライアンが大声で遮る。そろそろ変声期なのか、少しかすれた声がホールに響き、広場の隅でうずくまっている〈旧市街人アルター〉たちの注目を集めた。

 ヴァルトラントはというと、少年の剣幕に恐れた様子もなく、きょとんとした顔をライアンに向けている。彼は二、三度長い睫を上下させてから、おもむろに反論した。

「〈新市街人ノイアー〉じゃないよ、俺。〈森の精〉ヴァルトガイストだ」

 ライアンの目が一瞬見開かれたと思うや、不意に彼のまとっていた敵意が消えた。

「ヴァルト……ガイスト――」

 〈旧市街人アルター〉の少年は喘ぐように呟くと、〈森の精〉ヴァルトガイストの少年ををしげしげと眺める。そしてその頭上にあるベレー帽に〈森の精〉ヴァルトガイストのエンブレムを認めると、ヴァルトラントには読み取りきれない複雑な感情を、まだ幼さの残るその顔に浮かべた。

 このまま穏やかに、ヴァルトラントは少年との和解を成立させたかった。

 だがライアンの敵意が失せたのはほんの数瞬だった。彼は憎々しげに顔を歪めると、何かを吹っ切るかのように声を張り上げた。

「〈旧市街人アルター〉じゃなかったら、〈新市街人ノイアー〉だ!」

「だーかーらー、何で他の選択肢はないんだよ」

 頑なに否定の言葉を受け入れようとしないライアンに、〈森の精〉ヴァルトガイストの少年は呆れ果てて首を振る。そしてハズリットとエビネ准尉の同意を得ようと、苦笑を浮かべながら首を回した。

 ヴァルトラントの視線が、〈旧市街人アルター〉の少年から外れる。

 刹那、ライアンが動いた。

「――っ!」

 目の端に振り上げられる腕を捉えたヴァルトラントは、反射的に上体を大きく反らせた。

 鼻先をライアンの指先がかすめる。

「何すんだよっ!」

 ヴァルトラントが抗議の声をあげた。

 しかしライアンはさらに、バランスを崩してよろめく少年の懐に飛び込んでくる。

「そいつをいただくっ! マニアに高く売れそうだからな!」

 ヴァルトラントのベレーを顎で示して、ライアンは宣言した。その間も右、左と、腕を交互に突き出す。

「悪いけどっ、気に入ってるのでっ、プレゼントできないなっ」

 そうはさせじと、ヴァルトラントも身体を捻った。

「ライアン! やめなさい!」

 ハズリットが二人のあいだに入ろうと飛び出しかける。だがエビネが彼女の肩を掴んで引き戻した。非力な少女に、少年たちを引き離すことなど到底できはしない。却って怪我をするのがオチだ。

 エビネは止めるどころか、そのまま少女を連れて少年たちから離れた。

 ヴァルトラントの動きに、エビネは惹きつけられていた。彼自身が武器の扱いよりも柔術に長じているせいもあったが、不思議な魅力を持つ〈グレムリン〉のまだ見ぬ一面を知りたいという気持ちもあった。

 准尉はいざとなったら自分が飛び込むつもりで、じっと少年たちの格闘を見守った。

 鞭のように縦横無尽に振られる腕と脚。それをギリギリのところで躱すしなやかな身体。「舞いを見ているようだ」と表現するには拙かったが、少年たちの動きは驚くほど素早く、軽快であった。

 背がある分、手足の長いライアンの方が一歩の踏み込みは大きい。それをヴァルトラントは、小回りのよさで回避している。また、パイロットであるヴァルトラントは当然のことながら、ライアンの動体視力も引けをとらず、ちょこまかとしたヴァルトラントの動きをしっかりと捉えていた。

 いまの状態だと互角である。しかしそれが長引けば、恐らく年下のヴァルトラントが先にへばるだろう。

 だが決着がつくのに、さほどの時間は要さなかった。

「おっと――」

 激しい動きを続けたことによって、ヴァルトラントのベレーがずり落ちそうになる。

 その瞬間をライアンは見逃さなかった。

 彼は素早く脚を振り上げる。ヴァルトラントが躱した。ところが、頭のあった空間にベレーだけが取り残された。

「おしっ!」

 ライアンは上げた脚を翻すと、ベレーを足先に引っかけた。さらに「獲物」を手の中へ収めるため、その脚をもう一度振り上げる。

 ベレーが宙に舞い上がる。それを逸早く掴もうと、ライアンは床を蹴った。

 高く跳び上がり、腕を伸ばす。その腕がもう少しでベレーに届こうとしたとき、ライアンの身体が急速に落下しはじめた。

「わあっ、やめっ――!」

 ヴァルトラントがライアンのジーンズに手をかけ、思い切り引っ張っている。

 大きめのジーンズが脱げそうになり、ライアンの手は獲物を断念してジーンズの救出に向かわなければならなかった。

 空中でバランスを崩したライアンは、そのまま床に叩きつけられた。ヴァルトラントはすかさず彼を床に組み伏せ、その胸の上に乗り上げる。

 マウントポジションを取った少年は、左手でライアンの喉元を押さえつけ、右手を振り上げた。

 が、ヴァルトラントは拳を振り下ろさなかった。

 勝利を悟って動きを止めたヴァルトラントは、ためらいのない、戦う者の眼で〈旧市街人アルター〉の少年を見下ろす。

 ライアンも、もう動かなかった。自分より体重の軽いヴァルトラントを押し返し、自分の有利な体勢に持ち込むことも可能だ。なのに彼は全身の力を抜くと、虚ろな目でヴァルトラントを見上げた。

 「敵の戦意は失われた」と判断したヴァルトラントは、ゆっくりと敵の胸から降りた。そして組み伏せた少年を助け起こすために、手を伸ばす。

「ふんっ」

 しかし負けた少年はその手を払い除けると、自力で立ち上がった。

 少年たちは肩で息をしながらお互いを見つめ合い――かすかに口元をほころばせた。

「ライアンっ。ヴァルトラント!」

 血相を変えたハズリットが駆け寄ってくる。少年たちは同時に振り向いた。

「ヴァルトラント、血が出てる!」

 ライアンの攻撃を全て避けきったつもりだったが、いつのまにか当たっていたのだろう。〈森の精〉ヴァルトガイストの少年は切れた口の端に指をやって、ようやく感じはじめた痛みに顔をしかめた。

「大丈夫。舐めときゃ治るよ」

 ヴァルトラントは痛みを堪えて、笑顔を作る。

 他人には無関心だった少女が、自分を心配してくれた。痛みより何より、それがとても嬉しかった。

 ハズリットを安心させるように、ヴァルトラントはうなづいた。そして彼女が拾い上げてくれたベレーをかぶり直すと、ライアンに終戦を告げる。

「これは基地祭なんかで一般人に売ったりしてるやつで、ミリタリショップにも置いてるから、そんなに高く売れないよ。本物が欲しいなら、准尉のを狙わなくちゃ」

 そう言ってヴァルトラントは、エビネを指し示す。

「え、ええっ!?」

 突然名指しされ、エビネが素っ頓狂な声をあげた。ヴァルトラントの目が可笑しそうに細められる。

 ヴァルトラントは、先ほどの争いを単なる「じゃれ合い」で済ますつもりだった。その意図を察したライアンは気まずくなって、ふて腐れ、無言で目を逸らせた。

 そこへ、階上から複数の声が聞こえてきた。

「あ、いたいた」

「ライアン!」

 ライアンの仲間らしい少年たちが、手摺から身を乗り出して手を振っている。

「どうした?」

 ライアンが応えると、少年の一人が強張ってた表情で訴える。

「すぐ来て。ルカが!」

「ルカがどうしたって!?」

 ただ事ではない少年たちの様子に、ライアンの顔色が変わる。ヴァルトラントやハズリットのことなど、どうでもよくなってしまったらしく、ひとこともなしに駆け出した。

 剥き出しのパイプを伝って易々と階上に到達した少年は、そのまま仲間たちとともに通路の奥へと走り去った。

「何かあったのかな?」

 エビネ准尉が眉を顰める。

「また、他の地区の連中とケンカでもしてるんだと思う」

 ハズリットがぶっきらぼうに答えた。

 そんな少女を、ヴァルトラントはじっと見つめて訊ねる。

「ねぇ、ハズ。ハズは彼に苛められてるんじゃないの?」

 触れてはいけないことだ、とヴァルトラントは理解わかっていた。

 こういった閉鎖的なコミュニティでは、仲間意識が強いものだ。だからヴァルトラントが異端の目で見られるのは理解できる。

 しかし、ここに住むハズリットが疎外されているのはおかしかった。

 恐らくライアンは、ハズリットが〈北基幹学校〉に通っているのが気に入らないのだろう。

 仲間意識が強いために、自分たちと少しでも違う者は力任せで排除しようとするのも、こういったコミュニティにありがちなことだ。

 ヴァルトラントは、ハズリットが困っているなら彼女を助けたいと思った。

 ところがハズリットは肯かず、目を伏せるとヴァルトラントの言葉を否定した。

「苛められてなんかない。ライアンは……ライアンは……」

 少女は言い淀む。だが一度深呼吸すると、息とともに言葉を吐き出した。

「ライアンは、友達――」

 自分に言い聞かせているような――少女の声は、そんな響きを帯びていた。

 ヴァルトラントの胸がチクリと痛んだ。それと同時に怒りが込み上げてくる。

 ハズリットは、苛められてもライアンを「友達」だと庇う。そんな彼女の気も知らないライアンに、ヴァルトラントは腹が立った。

 しかしそんな感情は面に出さず、ヴァルトラントはただひとこと、

「そう、友達……」

と、呟いた。

 せっかくお互いへの理解を深めるための一歩を踏み出したところなのに、それを無に帰すことはない。ライアンのことは、もっと後で話し合ってもいい。

 そう心の整理をつけた少年は、さも「いま思い出しました」とばかりに声をあげる。

「あ――っと。これ以上遅くなったら、お母さんに怒られるね。さあハズ、家はどっち?」

 そしてとってつけた笑顔を少女に向ける。

「……こっち」

 呟くように答えたハズリットは、少年の顔を見ようともせずに答えた。

 ヴァルトラントは進むべき方向へ導くハズリットの後を、エビネとともに黙って歩きはじめた。

 が、ふと視線を感じて振り返る。

 物陰から一人の男がこちらを見ていた。

 暗がりではあったが、鍛えられたヴァルトラントの目には、男の姿形がはっきりと見えた。

 一見、その辺にたむろしている〈旧市街人アルター〉に見えた。だが、彼らと違って男には隙がない。それに小脇に抱えた最新機種のノート型端末が、男の身なりにはそぐわなかった。

 男はヴァルトラントと目が合うと、何気ない動作で物陰に隠れた。

 〈グレムリン〉である少年は何か引っかかるものを感じたが、それ以上深くは追求しなかった。

 いまの彼には、考えなければならないことが山積みだった。

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