第二章 少女は森の息吹に触れる -2-

 彼に謝らなくては――。

 と、勇んで来たものの、〈森の精〉ヴァルトガイスト駅の検問所ゲートを前にして、ハズリットは急に怖気づいてしまった。

 検問所はホームから階段を一階層分上がった地下一階にある。一見、どこの駅にもある改札口のようだ。だが普通の駅と違って、二列の改札機の手前と向こうに、武装した警備兵の姿があった。

 Uバーンで〈森の精〉ヴァルトガイスト基地を訪れた者は、例外なくここで生体認証による身元確認が行われる。〈森の精〉ヴァルトガイストの隊員ならば何事もなく通過できるだろうが、ハズリットはそうはいかない。きっと認証を受ける前に止められて、訪問理由を根掘り葉掘り訊かれることだろう。彼らの任務は悪意ある侵入者から基地を守ることであり、相手が大人だろうと子供だろうと関係ないのだから。

 ゲートの前で小銃を抱えて立つ若い兵は、中空を睨みつけたまま微動だにしない。その姿は威圧的で、余所者を拒んでいるかのようだ。

 ハズリットはふと、時々〈旧市街〉へパトロールにやってくる警官と、数メートル先に立つ警備兵の姿を重ね合わせた。彼女は何度か、警官のねちねちした「訊問」を受けたことがあった。何もしていないのに頭から疑ってかかる彼らの態度に、ハズリットは後味の悪い思いをさせられたものだ。

 嫌な記憶を呼び覚まされ、ハズリットはのろのろと進めていた歩みを完全に止めてしまった。

 来るんじゃなかった。

 見えない壁に阻まれて先へ進めなくなった少女は、ここへ来たことを後悔しはじめた。

 少年には明日謝ればすむことだ。自分はもう一晩だけ、「もやもや」を我慢すればいい。

 そう考え直したハズリットは、諦めの吐息をつくと検問所に背を向けた。そして元来た道を引き返そうと、足を踏み出す。

 だが階下に目をやって、思わず足を引っ込めた。

 後続の列車で到着したらしい作業着の一団が、談笑しながら上ってくるところだった。ホームへ下りるには、階段いっぱいに広がった男たちのあいだをすり抜けていかなくてはならない。

 ハズリットはためらった。

 父親がいないハズリットは、無意識のうちに見知らぬ大人の男性に対して身構えてしまう。

 少女の目が検問所と階段を忙しく行き来する。どちらに進むか逡巡するが、思い切って一方を選んだ。

 ハズリットはすぐそばまで上ってきた隊員たちの動向を、隙を見つけたら一気に駆け下りるつもりで見守った。

 だが彼女が隙を見つけるより早く、何気なく顔を上げた隊員の一人に気づかれてしまった。

「お? どした、嬢ちゃん」

 オフホワイトの作業服にオリーブグリーンのジャンパーを羽織った中年の男が、立ち竦むハズリットに声をかけた。コルク色の髪の男は薄ら笑いを浮かべ、灰がかった青い瞳で少女をじろじろと見回す。

「嬢ちゃん?」

 同僚の声に、他の隊員たちが怪訝そうに顔を上げる。しかし階上に少女の姿を見つけると、珍しいものを発見したとばかりに目を輝かせた。その直後、彼らは堰を切ったように階段を駆け上った。

 少女はその妙な気迫に思わず後退る。だが数歩も行かないうちに、十数人の男たちに取り囲まれてしまった。検問所前のさほど広くもないスペースの半分が、男たちの輪で埋まる。

「基地に何か用事か?」

「お父さんかお母さんに会いに来た?」

「どこから来たんだ?」

「一人で来たのか?」

「おねーさんいる?」

 作業着の男たちは目を爛々と輝かせ、口々に質問を浴びせかける。ハズリットが答える暇もないほどだ。まあ、答えるつもりなどなかったが。

 これなら検問所で訊問される方が、まだましだったかもしれない。

 少女は選択を誤ってしまった自分を呪った。そして自分を覗き込むがさつな男たちの顔を、不安そうに見回した。

「どうしたんですか?」

 不意に、階段の方から若い声がした。男たちは、悪戯が見つかった子供のように飛び上がった。

「准尉!」

 一斉に振り返った作業着の隊員たちは、声をかけてきたのが自分たちより上官だと知ると、慌てて姿勢を正して敬礼した。そして少女の包囲網を解き、後からやってきた士官のために道をあけた。

 波が左右に割れるかの如く、ハズリットの目の前がひらける。すると、まだ新しい濃紺の制服とアイボリーのハーフコートを着た青年の姿が現れた。「士官学校を卒業したばかりの准尉」を表す紺一色の階級章が、コートの肩口に認められる。

 新米准尉はハズリットの姿を認めると、「おや?」とばかりに目を丸くした。そして、気まずそうに萎縮する隊員たちを軽く睨みつけて言う。

「むさっ苦しい顔をそうやって突きつけるから、怖がってるじゃないですか」

 憤然と隊員たちをたしなめる士官の風貌に、ハズリットは目を奪われた。

 といっても「美形だから」というわけではない。あまり〈ヴァルトマイスター〉では見かけることのない顔つきだったからだ。

 心持ち角張った顎に起伏の少ない目鼻立ち、そして茶色がかった黒い瞳は、彫りが深く色の薄い木星人の特徴からは外れている。背もハズリットを取り囲んでいた男たちに比べると、頭半分から一つ分は低い。そして彼の階級からはありえないが、ハズリットの目には彼がまだ一五、六の少年のように見えた。

「准尉、『むさっ苦しい』はあんまりですな」

 一番初めにハズリットに声をかけた中年隊員が、目の前までやってきた士官に抗議した。

「すみません。単なる言葉の綾ですよ、コハネッツ曹長」

 士官は苦笑しながら、無精髭の曹長に謝る。

 新米士官は階級を笠に着ず、丁寧な口調で経験を積んだ下士官を立てた。自分がまだまだヒヨッコだと自覚しているのだろう。そんな士官に、少女は好感を覚えた。

 准尉はハズリットに向き直り、ゆっくりと腰を落とすと、彼女の目の高さまで自分の視線を下げた。どうやら彼は子供との接し方を心得ているようだ。

「びっくりさせたみたいでゴメンね。このオジサンたち、ガラ悪そうに見えるけど、中身はそれほど悪くないなんだよ。こんなところに可愛い女の子がいたんで、年甲斐もなく浮かれちゃったようだね」

「……ケンカ売ってんですかい?」

 煽りとも取れる准尉の言葉に、コハネッツ曹長が凄んだ。だが、目は笑っているところを見ると、本気で怒っているわけではないようだ。

 若い士官はハズリットに向かって「怖いオジサンだね」と囁くと、おどけるように肩をすくめる。

 唐突に、緊張していたハズリットの肩から力が抜けた。男たちに対する恐怖心と、警戒心が薄れていく。

 呆けたように自分を見つめる少女に、若い士官は穏やかな口調で名乗った。

「ところで、俺は広報部のエビネ准尉。何か用事があって基地に来てくれたのかな?」

 エビネ准尉と名乗った士官は小首を傾げ、ハズリットの大きな目を覗き込む。

 反射的にハズリットは首を横に振った。癖のないくすんだ金髪が小刻みに揺れる。

 彼らの包囲が緩んでいるいまなら、逃げ出すことも可能だ。しかし彼女は逃げなかった。いやどういうわけか、逃げようという気も失せていた。

 どうやらまだ、「少年に会わねば」という気持ちが残っていたのだろうか。自分がどうしたいのか、よく解からなくなった。

 少女は迷いを悟られないよう、青年士官から顔を背けた。

「准尉も警戒されてますなぁ」

 ハズリットの態度をそう捉えたのだろう。コハネッツ曹長がニヤニヤしながら、無精髭の浮いた顎を撫でた。先ほどたしなめられた「むさ苦しい顔」の男たちも、年下の上官に揶揄するような目を向ける。

 エビネ准尉は彼らの視線を気にする風もなく、困り果てたように呟いた。

「うーん、子供の扱いは〈グレムリン〉で慣れたつもりだったのになぁ」

「――!」

 〈グレムリン〉という単語に、ハズリットは思わず反応した。弾かれたように顔を上げると、「まだまだ修行が足りませんな」と曹長に笑い飛ばされて頭を掻くエビネ准尉に、深いみどりの目を向ける。

 勢いよく向けられた少女の視線に、准尉は気づいた。何か言いたげなハズリットの目を見つめ返すと、ほんのわずかだけ首を捻る。だがすぐに晴れやかな顔になって手を叩いた。

「ああ、〈グレムリン〉たちに会いに来たんだね。一緒に遊ぶ約束でもしてたのかな? いいよ、おいで。彼らのところへ案内したげる」

 そう言って立ち上がると、エビネ准尉はハズリットの肩を取った。軽く力を入れて彼女の身体を検問所の方へ向けると、進むように押し出す。

「え――」

 少々強引な准尉の行動と、こうもあっけなく基地に入れることになったことに、ハズリットは戸惑った。俄かに基地のどこかにいるであろう少年の気配を感じ、少女の鼓動が早くなる。

 検問所を越えれば、ヴァルトラントに会わなければならない――。

 ここへ来ようと思った瞬間の気持ちが甦り、押し出された拍子に数歩たたらを踏んだ少女は、やがて自発的に歩きはじめた。准尉と隊員たちがその後に続く。

 若い士官と十数人の作業着の一団を従えた少女は、「潔く少年に会う」と腹を据え、近づいてくる検問所に決意の目を向けた。


「ふぅ……」

 かすかな吐息が、基地司令官の耳に届いた。

 司令官機専用の格納庫内は、これから始まる通常整備の準備で賑わっていた。

 だがそんなざわめきの中でも、司令官は息子の小さな溜息を聞き逃さなかった。我が子の様子を気にかける親なら、子供の溜息は嫌でも耳につくものだ。しかも一度ならまだしも、先ほどからずっと繰り返されている。気にならないはずはなかった。

 愛機〈オーベロン〉の鼻先でマルロー軍曹の報告を受けていたウィルは、整備要項の表示されたタブレット型端末から顔を上げた。わずかに眉を顰め、常に活力的な光を放つ樫色の瞳を吐息の主へと向ける。

「さっきから溜息ばかりだな」

 ウィルは張りのあるバリトンの声で、コクピットに架けられたタラップの下段に腰掛けている息子に声をかけた。

「んん……」

 しかしヴァルトラントは生返事を返しただけで、物思いに耽っている。

 ヴァルトラントが考え込んでいる姿はそう珍しくもない。悪戯の計画を練っているときなどはしょっちゅうだ。そんなときの彼の目は、実に活き活きとしている。

 だがいまの彼の目は、どんよりと曇っていた。

 それにここ数日、ヴァルトラントの口数が減っていた。

 おしゃべり好きの息子は、いつも学校から帰るとその日の出来事を報告してくれる。ウィルに聞く気がなくても、級友や先生たちのことから授業の内容、流行っている遊びまで、事細かに話してくれるのだ。ただ、悪戯をして先生からお目玉を食らったことなどは、省かれることが多かったが。

 ところが今日は、その報告がまだだった。

 ふと嫌な予感がして、ウィルは額を曇らせた。

「どうした? 学校で何かあったのか?」

 また何かしでかしたのか――と、気が揉める。ヴァルトラントはどちらかと言えば乱を好む。また余計な揉め事に首を突っ込んで、身動きが取れなくなっているのではないか。

 ウィルは内心冷や冷やしながら、生返事さえもしなくなった息子に、語気を強めてもう一度呼びかけた。

「ヴァルトラント!」

「……え?」

 数秒の間をおいて、ようやくヴァルトラントは我に返った。驚いたように跳ね起きると、ウィルに向けた目をぱちくりさせる。

「何か言った?」

 どうやら父親の声は、息子にとっては周囲のざわめきの一部でしかなかったようだ。ウィルは自分の存在を否定されたように感じ、肩を落とした。

「……いいや、何も」

 力なく呟いて自分の言葉をなかったことにする。この様子だと、問い質したところでそう簡単には口を開かないだろう。しばらくそっとしておく方がいい――ウィルはそう判断した。そして彼自身も溜息をつくと、報告を中断されて手持ち無沙汰になっていたマルロー軍曹に肩をすくめてみせた。

「なんだか、溜息の大安売りですね。ヴァルティといい、少佐ツァウといい――」

 〈オーベロン〉の整備責任者「代行」は苦笑した。

「アダルも?」

 息子の名とともに出てきた名に、ウィルは興味を示した。

 〈ツァウ〉とは、〈魔術師〉ツァウブラーというコールサインを持つ、〈森の精〉ヴァルトガイスト基地の副司令官、アダルベルト・クリストッフェル少佐のことだ。天王星時代からアダル機の整備を担当しているマルローは、親しみを込めて〈ツァウ〉と呼んでいる。

「はい。理由は知りませんが、数日前からヴァルティみたいに考え込んでは、溜息をついてますよ。少佐のあんな様子は珍しいを通り越して、ちょっと不気味です。何かあったんでしょうか」

 マルローはそう言って鼻にしわを寄せた。

「おまえがそこまで言うぐらいだから、よっぽどなんだろうな。俺の方から、それとなく訊いてみる」

「お願いします」

 心配そうだった軍曹の顔がほっととする。

「――で、ここでウキウキなのは、ミルフィーだけか」

 辛気臭い空気が嫌いなウィルは、明るい話題を求めて格納庫内と〈外〉とを隔てている大扉を振り返った。そこには、扉にへばりついて外を見ているミルフィーユ少年の姿。

 少年は今日学校から戻ると、ずっと扉の前で過ごしていた。ようやく父親が数日間の出張から戻るのだ。待ち遠しくて仕方がないのだろう。

「ミルフィー、そこは寒いだろ。こっちに来なさい」

 ウィルは、暗い飛行場に目を凝らしている少年に声をかけた。

 居住性を求められる司令部ビルなどと違って、格納庫の気密性などないに等しい。一応、最低限の空調設備はあったが、駐機場に面した大扉の近くになると、すきま風が吹き込んでかなり冷える。

 イザークが留守のあいだミルフィーユを預かっている手前、ウィルは氷漬けになった少年をその父親に返すわけにはいかなかった。

「ふぁーい……」

 金髪の少年はウィルの呼びかけに気のない返事をすると、渋々その場を離れた。それでもまだ外の様子が気になるらしく、一歩進むごとに振り返る。

 そして何度目に振り返ったときだろうか。ピクリと少年が反応した。

「帰ってきたーっ!」

 ボーイソプラノで叫んだ少年は、軽い足音を響かせながら外へ飛び出していった。慌てて近くにいた整備士が、脱ぎ捨てられていた少年の防寒着を掴んで後を追う。

 ウィルとマルローは顔を見合わせて苦笑すると、自分たちも防寒着を着込み、〈森の精〉ヴァルトガイスト兵站群司令官を迎えに出た。

 ほどなくして、駐機場からの移動用カートが二台、格納庫の前に止まった。

 完全に止まるや否やというタイミングで前車の後部座席のドアが開くと、小さな男の子が勢いよく飛び出してくる。

「待ちなさいっ、ケティ!」

 続いて、男の子をたしなめる声とともに、ウィルと同年代ぐらいの女性が姿を現した。

 格納庫から洩れる光の中に浮かび上がった二人を見て、ミルフィーユとウィルが同時に声を上げる。

「母さん! ケティ!?」

「コリーン!?」

 コリーン・グラハム・ディスクリートは、ウィルの幼馴染であり、イザークの妻であり、ミルフィーユ少年の母である。そしてケティ――バルケットは、ディスクリート家の末子、つまりミルフィーユの弟だ。

「兄ちゃん!」

 キョロキョロと辺りを見回していた男の子は、捜していた人物に呼ばれて顔を輝かせた。そして歓声をあげながら、四つ歳の離れた兄の許へ走り寄る。

「ケティ!」

 ミルフィーユは飛びつく弟を受け止めた。その顔には、来週まで諦めていた母と弟との再会に、戸惑いと喜びの入り混じった表情が浮かんでいる。

「コリーン、何で?」

 驚いているのはミルフィーユだけではない。ウィルも予定外の訪問者に素っ頓狂な声をあげた。彼女たちがカリストに来ているとは聞いていない。

「あらぁウィル、元気そうね。ヴァルティも、ちょっと見ないまに大きくなってー」

 コリーンはウィルの声に気づくと、豆鉄砲を食らったような顔をしているウィルとその息子に笑いかけた。

「来てるんなら連絡ぐらいしろよ」

 ミルフィーユを抱きしめている彼女に、ウィルは口を尖らせて文句を言った。

 彼は普段、女性に対してこのような口の利き方はしない。だが幼馴染であるコリーンに対しては別だ。

 父親たちも〈機構軍・航空隊〉に属していた二人は、生まれたときから隣あった官舎に住んでいた。そんな赤ん坊のころからの知り合いであるコリーンを、一人っ子のウィルは妹のように思っている。妹と話すのに気取る必要などない。

 まあ、末娘であるコリーンはコリーンで、同い年のウィルを「弟」だと思っているようだが。

「急だったのよー。それより、〈パック〉のシステムをちょっと弄りたいから、彼らを案内してあげてよ」

 ヴァルトラントにも挨拶の抱擁をしていたコリーンは、身体を起こすと、もう一台に分乗してきたらしい二人の若者を示して言った。

「システムを弄るって――何でまた急に?」

「それは中で話しましょ。ここ寒いんだもん。さあ、私の可愛い金色の子熊ちゃん! もっと明るいところで、かわいいお顔を、お母さんによーく見せてちょうだい!」

 ウィルの疑問をさらりと躱した彼女は、ミルフィーユとバルケットをつれ、スキップするような足取りで格納庫へと姿を消した。

「相変わらずだな……」

 ウィルは疲れた顔で呟く。「その道」に長けたウィルを振り回すことのできる同年代の女性はそうそういない。

「俺だって、〈ヴァルハラ〉で驚いたんだからな」

 一番最後にカートを降りたらしいイザークが、のっそりと現れてぼやいた。

「〈アルファズル〉社に行ってみれば、あいつがいるんだもんなぁ。『ミルフィーに会いたいから、来ちゃった!』ってさ。俺に会いたくて来たわけじゃないんだと……」

 コリーンの夫はボソボソと呟くと、一つ溜息をついた。妻が自分よりも子供を優先するのが不満らしい。

 ウィルは大人気なく拗ねている友人を嗤ってやろうとしたが、自分も身に覚えがあったため、複雑に口元を歪めるにとどめた。

 彼は慰めるように親友の肩を叩くと、カートを運転していた下士官を呼ぶ。そしてカートのそばで寒そうにしているコリーンの部下たちを、隣にある〈パック〉の格納庫へ案内するよう言いつけてから、〈オーベロン〉の格納庫へと戻った。

 格納庫では、コリーンが〈オーベロン〉のもとでミルフィーユを再び抱きしめ、キスの雨を降り注いでいるところだった。

 彼女は頭をすっぽりと覆っていたフードを外し、ポイントメイクだけを施した形のいい顔を露わにしている。ウェーブのかかった肩より少し長い金髪が、格納庫の照明に映える。ミルフィーユや彼の弟の髪が、彼女によって与えられたものなのは明白だった。

「くすぐったいよー」

 顔中にキスされているミルフィーユが、照れたように身を捩る。だが彼女は頑として我が子を離そうとはしない。

「やれやれ。三ヵ月分のキスをするつもりだぞ」

 人目を憚らない妻の行動に、イザークが苦笑する。そういう彼は、腰にまとわりついてきた下の息子を抱き上げ、髭面を少年の柔らかな頬に擦りつけているのだが。

「で、こっちは三ヵ月分の『すりすり』をしてるわけか。ケティのほっぺたが剥けちまうぞ」

 すっかり目尻を下げている親友に、ウィルは呆れたように呟いた。もちろんイザークに聞こえるようにだ。

 しかし三ヶ月ぶりに会う我が子との触れ合いに夢中の男は、ウィルの揶揄など聞こえていないらしい。

 まあ久しぶりに会ったのだから野暮なことはすまい――と、ウィルはヴァルトラントとともに一旦引き下がった。その間に飛行計画部に連絡を入れ、〈パック〉に搭載されている〈WW〉ヴェーヴェーシステムの変更を伝える。また、中断しつづけていたマルローの報告を受け、〈オーベロン〉の整備を始めさせた。この間約五分。

 ところがウィルたちがディスクリート一家のところへ戻ると、まだ連中はやっているではないか。作業の邪魔になっている親子たちに業を煮やした司令官は、声を張り上げた。

「感動の再会中に悪いが、用件を先に述べてから、他へ行ってやってくれると助かるんだがな!」

 さすがにディスクリート一家も、我に返ったようだ。父親と息子たちが気まずそうに顔を見合わせる。だが、サファイアの瞳を持つ母親だけは、無粋な友人に眉を顰めた。

「もう、せっかちねぇ」

 コリーンは不満げに鼻を鳴らす。だが〈森の精〉ヴァルトガイストへ来た目的の一つを思い出したのか、それ以上文句を言わなかった。

 彼女は大きく息を吐いて気持ちを切り替えると、背筋を伸ばして〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官と正対した。表情が「母親」から「技術者」へと変化する。

「もう『新型』のことは聞いてるでしょ。で、私がそのシステム開発を担当するんだけど、〈WW〉ヴェーヴェーの飛行技術がどれだけ向上するかを測るのに、最新のデータが欲しいのよね」

 彼女は航空機の飛行システムの電算技師システムエンジニアであった。航空機メーカー〈アルファズル〉社から〈機構軍・航空隊〉の研究所に出向して、戦闘機の頭脳を開発している。民間人だが、〈機構軍・航空隊〉では少佐待遇を受けており、それなりの発言力もある。

「というわけで、明日と明後日の午前中、ヴァルティに協力してもらうからね」

「明日って――どうしておまえは、いつも唐突なんだっ!? こっちにも準備ってもんがあるんだから、前もって連絡ぐらいしろ!」

 急なフライトを要請する彼女に、〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は思わず怒鳴り返した。

「だって急に決まったんだもーん」

 しかしウィルの怒りっぽさには慣れているのか、コリーンはしれっと答える。

「どうせミルフィーに会うために新型開発のデータ収集という名目をでっち上げて、無理矢理カリスト出張をねじ込んだんだろーが」

「あら、バレた?」

 そう言って彼女は無邪気に笑う。悪びれた様子など微塵もない。

「って……」

 ウィルと彼女の夫は絶句した。彼らだけでなく会社まで振り回しているらしい彼女を、畏怖の目で見る。

「――というわけでぇ」

 男たちの口を封じたコリーンは、明日のフライトの主役であるヴァルトラントの前にしゃがみ込むと、少年の目を見つめて言った。

「ヴァルティには無理させちゃうけど、ゴメンネ。できるだけ簡単に済むような実験プログラムを組んだから、二日間だけ手伝ってくれるかなぁ?」

「俺はかまわないよ」

 父親と違ってすんなりと了承してくれたヴァルトラントに、コリーンは優しく微笑みかけた。そして「母の手」で少年の頬に軽く触れながら、「ありがと」と囁く。

「じゃあ、詳しい段取を説明したいから〈雪組〉を集めてちょうだい。会議室は飛行部ね? 私は〈パック〉の様子をちょっと見てから行くわ」

 立ち上がってそう告げた新型機システムの開発責任者は、基地司令官の返事を待たず、二人の息子を伴って〈パック〉の格納庫へと向かう。

 颯爽と出て行く彼女の後ろ姿を、残された男たちはただ茫然と見送るだけだ。

 しばらくしてようやく我に返ったウィルは、格納庫内が静まりかえっていることに気づいた。どうやら〈オーベロン〉の整備士たちも、司令官たちのやりとりが気になって仕事どころではなかったらしい。

 見る見るウィルの顔が険しくなる。

 司令官二人が一人の女性に軽くあしらわれている場面を、部下たちに見られていたのだ。まあ彼女が来るたびの恒例であり、これぐらいで基地司令官としての権威が地に落ちるとは思わないが、それでもあまり部下たちに見られたいシーンではない。

「ショーは終わりだ」

 恥ずかしさをごまかすために不機嫌を装ったウィルが、ひとこと呟く。慌てて整備士たちは自分の仕事に戻った。格納庫内が再び活気を取り戻す。

「ったく、どいつもこいつもっ」

 苛立たしげにウィルは舌打ちする。樫色の瞳を鋭く光らせ、早速復帰したイザークの指示を受けて慌しく走り回るメカニックたちを見回すが、ふと地下通路へのドアのところで目を留めた。

 先月土星からやってきた新米士官が、遠慮がちに顔を覗かせていた。

「エビネ准尉!」

 ウィルが手招きして呼ぶと、新米士官はほっとした様子で会釈する。しかしそのまま入ってこず、一旦通路へ引っ込むと、今度は少女を伴って現れた。

 見覚えのある顔に記憶を辿ったウィルは、少女が「カリストの天才少女」であることを思い出した。

 今日二人目の意外な訪問者に、ウィルは思わず目を丸くする。

 少女の姿は映像でなら何度か見たが、実物は初めてだった。まじまじと華奢な少女を見つめながら呟く。

「変わったお客さんだな」

「ハズ!?」

 ウィルの声に、ヴァルトラントの声が重なった。

 ヴァルトラントは少女の訪問に驚いているらしい。目を瞬かせて立ち尽くしている。

「失礼します、大佐。この少女がヴァルティに会いたいとのことで、案内してきました」

「あ、〈緑の館〉の見学に来たんだね。ちゃんと研究所の方へは話してあるよ。見せられる資料は、何でも見せてくれるって」

 ウィルが答えるより早く、ヴァルトラントが応対した。さっきまでとは違って、心持ち声が弾んでいる。

 だが少女の方は、それほど嬉しそうには見えなかった。小さく「そう……」と呟くと、真剣な表情で切り出そうとする。

「それより、あの――っ」

「父ちゃん、彼女がハズだよ。ハズリット・ラムレイ」

 ヴァルトラントは少女が何か言いかけたのに気づかなかったのか、父と少女を引き合わせるために口を開いた。

「で、ハズ。これが俺の父ちゃん。ウィルドレイク・ヴィンツブラウト大佐」

 少女にしゃべる隙を与えない息子を気にしつつも、ウィルは紹介された少女に微笑んだ。

「こんにちは。よく来たね」

「……こんにちわ」

 ヴァルトラントの方を気にしていた少女は、ウィルを見上げると、消え入りそうな声で応える。

「父ちゃん、ハズはいま、植物学の論文を読んでるんだって。で、参考になるかもしれないから〈緑の館〉を見学させてあげたいんだけど、いいでしょ?」

「研究所がいいって言ってるんなら、俺がとやかく言うこともないだろう」

「やった! ありがと」

 ウィルがすんなり許可を出してやると、息子は嬉しそうに顔をほころばせた。だが、なぜか慌てたように真顔になると、少女に向き直って言う。

「案内してあげたいんだけど、俺、急な用事ができちゃったんだ。一時間か二時間ぐらいで行けると思うけど、ハズ一人でも大丈夫だよね。研究所の人たちも親切だから、遠慮しないで見たいものを見せてもらうといいよ」

 依然として何か言いたそうにしている少女は、どこか突き放すようなヴァルトラントの言葉に小さくうなづいた。

 少女のみどり色の瞳に失望の色が浮かぶ。

 それに気づいたウィルは、彼女が別の理由で〈森の精〉ヴァルトガイストにやってきたのだと悟った。

 少女は〈緑の館〉の見学に来たのではなく、息子に会いに来たのだろう。何か息子に言いたいことがあって、突然やってきたらしい。

 少女の目的を果たす手伝いをしようと、ウィルはヴァルトラントに水を向けてみる。

「別におまえは今日じゃなくてもいいぞ。約束してたんなら、案内してあげなさい」

 しかしヴァルトラントはウィルを振り返ると、目だけで拒否した。そしてエビネ准尉に声をかける。

「というわけだから准尉、彼女を〈緑の館〉に案内してくれる?」

「え、それはいいけど……」

 戸惑った准尉は、指示を仰ぐようにウィルを見る。

 息子と少女のあいだに流れる奇妙な空気を感じとったウィルは、それ以上息子に無理強いするのはやめた。彼は新米広報官にうなづいて、少女の面倒を見るよう頼む。

 准尉も怪訝な顔をしたが、突っ込んだことは訊かずに敬礼すると、〈緑の館〉へ案内すべく少女を促した。

 少女が訴えるような目をウィルに向けた。だが結局何も言うことができないまま、准尉に伴われて格納庫を出て行った。

「本当に案内してあげなくてよかったのか?」

 硬い顔で少女の消えたドアを見ている息子に、ウィルは問いかけた。

「いいんだ。俺、彼女に嫌われてるみたいだから……」

 唇を噛んで、ヴァルトラントが俯く。

 ウィルは息子の言葉が事実とは違っているような気がして、わずかに首を傾げた。

 少女の様子を見る限り、彼女は息子を嫌っているようには思えない。ただ意志の疎通がうまくいかず、二人のあいだにちょっとした溝ができたのだろう。

 少年時代にはよくあることだ。こういうことは、周りがとやかく言わなくても、本人同士で自然と解決するものである。

 数多くの経験と照らし合わせた末に、ようやく息子の溜息の理由を突き止めたウィルは、安堵の息を吐く。そして「息子はもうそんな年頃になったのか」と感慨に耽りつつ、苦笑を洩らした。

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