傘を盗まれる話

松岡清志郎

傘を盗まれる話

「聞いてくれよ」


 研究室に戻ったとたん、ついさっきまでは乾いていたはずの先輩が、なぜかずぶ濡れになっていた。


「お前が忘れ物取りに行ってる間、暇だしコンビニでも行こうかなと思ったらさ。無えんだよ」

「無いって、何がすか」

「このザマ見りゃわかるだろ、傘だよ傘」


 そう言いながら先輩がこれ見よがしに腕を持ち上げると、袖からポタポタとしずくが落ちた。

 ああ、その床は誰が拭くのだろうか。


「ありゃ、傘持ってこなかったんですか?ドンマイですね」

「ちげえよ、朝は持ってきてんだ。盗られたんだよ、誰かに」


 部屋中にできた水たまりへの抗議の視線には全く気付かず、先輩は鞄からタオルを取り出すと豪快に髪の毛を拭きはじめた。

 一挙手一投足でさらにしずくが飛び散るので、もう少しそっとやってくれはしないだろうか。

 そしてタオルがあるなら、なんで私が戻ってくるまでにさっさと拭いておかないんだ。


「俺がいかに可哀想か見せるために、お前が戻ってくるまで体拭かなかったんだけどな」


 なんだこの人は。いやわかっている、バカなんだ。


「コンビニ行くのやめればよかったのに。ずぶぬれじゃないっすか」

「馬鹿野郎、なんで俺が泥棒の都合で予定曲げなきゃいけねえんだよ。盗まれたからって被害者が外出んのを我慢してたらな、正義が育たねえだろ」


 そう言って先輩は戦利品を振りかざすように、これまたずぶ濡れのビニール袋から百円のパックジュースとストローを取り出す。まさかそれだけを買うのにこんなずぶ濡れになったのか。


「もちろん俺は走りもしなかったし、濡れないようなルートをわざわざ選ぶなんてこともしなかったね。傘を持っていれば通るであろう道をちゃんと歩いた」

「……なんでわざわざそんな事を」

「決まってるだろ。なぜなら俺が正義だからだ。屈するような真似はしない。そして当然、盗まれたからって他の傘を盗まない。いいか俺が、負の連鎖を断ち切ったんだ。わかるか?」

「はぁ、そっすか。さすがっすね」


 ひとしきり先輩の演説を聞き流して、私はスマホを取り出す。しかし先輩はこういう声に出さない意思表示をくみ取ってくれるような器では無い。黙っててほしそうな雰囲気、なんてものは、先輩の感覚器ではつかめないのだ。

 いいかそもそも、と一度紙パックに挿した後わざわざ抜いたストローで私を指して、教え諭すような態度で先輩が言う。


「他人の物でも要らねえもの盗むんなら別にいいんだ。俺ん家のでけえマガジンラックみたいに、処分に困ってるようなものを盗むならいいんだよ」


 件のマガジンラックは、美容室の待合室に置いてあるような木製の立派なもので、明らかに和室六畳の部屋には不似合いだった。

 リサイクルショップで衝動買いしたと、私を呼びつけて見せびらかしてきた時、ああこの人はセンスがないのだなと思ったが。やはり不要になったらしい。


「でも雨の日の傘ってのは、誰かが必要としてるのが明らかにわかってるだろ。そんなもの盗んでも許されるやつなんているのか?いねえだろ?」

「まあ、そりゃそうでしょうけど。でも先輩が怒ったって傘戻ってくるわけでも無いんですし、前向きに考えましょって。しょうがない場合ってのがあったんじゃないですか?わかんないですけど。のっぴきならない理由みたいなものが」

「ねえよそんなの」


 そう言って、先輩はストローの先端を私の顔からやっと紙パックの中に戻す。

 そこそこに不愉快だったので、ストローが本来の業務に戻ってくれた事は非常に喜ばしい。


「絶対濡れたくない理由でもあったんじゃないですか?」

「絶対?絶対ってお前、よっぽどの事だぞ。いいか、人間は濡れたくらいじゃ死なねえんだ」


 俺が現在進行形で証明してるだろ、と先輩がまた両手を広げる。さっさと帰って着替えればいいのに、と私は思う。


「いやもっと軽くてもあるでしょ。その……デートの、前とか」

「デートだぁ?濡れてけ濡れてけ。相手がずぶ濡れだからって態度変えるような奴なんて、ろくなもんじゃねえんだから」


 どうでもいいけどこの人寒さとか感じないのかな。


「それこそ暴論でしょうに。……まあ百歩譲って男の人はそれでもいいかもしれないですけどね、女の子はそんなわけにいかないでしょ。メイクもあんだし」

「大丈夫だって、メイクなんざしなくってもよ、すっぴんでいいじゃねえか」


 ……あーあ、言ってしまったなこの人は。


「メイクしないなんてありえないっすからね。その上デートだなんつったら。好きな人の前でノーメイクだの、雨で化粧はがれた顔晒すだの、私なら舌噛みきりますよ」


 まったくもってろくでもない先輩だ。何を考えてるんだこいつは。

 だいたいね、と続けようと思ってふと見れば、先輩が少しだけ震えている。なんだやっと寒さを感じるようになったのか。


「よ、よしわかった。デート前の女以外、傘盗んでいい奴なんかいねえ」


 よし、それでいい。世の女性たちに私は胸を張って生きていける。


「……さて、お前に一説ぶったし、濡れた服も気持ちわりいし、俺今日帰るわ」

「あ、先輩帰るんなら私も帰ります。ちょっとこれだけ提出してくるんで、先行っててください」


 正直今日は一人で研究室にいても何もやる気がしないのだ。録りためたドラマも消化しないといけないし。

 

 任務を終え、小走りに階段を駆け下りると、入り口で先輩が待ってくれていた。

手にはビニール傘。見えはしないが、柄にはきっと先輩が貼った悪趣味なステッカーがついてるはず。

 そして私の姿を見て、先輩はいかにも興奮した様子で。


「おいおい見ろよ。あったぜ俺の傘。犯人はこの建物の中にいんぞ」

「よかったじゃないすか。帰りましょ帰りましょ……あ、そういえば私傘忘れちゃったんですよ。入れてくれません?」

「なんだよもっと喜べって。……あん?でもお前さっき忘れ物取りにいってたよな」


 一瞬で先輩の目つきが剣呑になってきた。ヤバい。別にごまかす気もないが、めんどくさい。


「さっきはですね、知ってる人の傘があったからちょっと借りたんですよ」


 そう、勝手に借りたのは申し訳ないが、でもまさか戻ってきたらあんなことになってるとは思わないだろう。

 そう言ったとたん、先輩がめちゃくちゃに大げさなリアクションで私を見て驚く。

 小声で「お前……お前」みたいな声も聞こえてくるが、気にしない。


「いやいや、いやいやいやいや。デート前っすから。メイクもしてますからね。それなら盗んでもいいんでしょ」


 厳密には盗んでもいないが、それでもこっちは言質とってるのだ。


「彼氏もいねえのに適当なこというんじゃねえよ、お前ペナルティだからな。ぜってえ俺くらい濡れて帰れよ」


 は?何を言ってるんだこの人は。ほんの少し前の会話も覚えていられないのか。


「今濡れたら私、舌噛み切りますからね」



 今だけは絶対に濡れたくないのだ。

 絶対ってよっぽどの事なんですよ、先輩。



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