彼は空を泳ぐ夢に生きる

夏山繁人

彼は空を泳ぐ夢に生きる

 彼は毎晩眠りにつくと、まるで泳ぐように空を自由に飛ぶ、そんな夢ばかりをいつも見ていた。鳥も雲も、舞い散る木の葉も花びらも、彼の飛び去った後にはくるくると乱れた風に崩れてゆく。夢の中で彼は束の間の自由を堪能し、夢にしがみつきながら朝を迎える。目覚めれば監獄の暗澹たる壁に囲われているばかりだ。

 誰もここに入れられるまでの経緯は話さない。彼も話すつもりは無い。話したところで明るい事情とは限らない。そもそも他人の生き方に興味を抱いたことはなかった。くだらない会話を交わして鬱々とするくらいなら、それぞれ自らの仕事に没頭して日が経ち時が過ぎるのを待つのがよい。

 けれど、それでも彼は夢を見る。

 空を、海を、自由自在に泳げたら。どこまでだって飛んでゆけたら。

 看守は今日もいつも通りの時間にやって来る。ある時、彼は空を見上げて白昼夢に耽っていた。おい、と看守から声をかけられても彼の耳には入らない。おい、おい、としばらく呼びかけ続けていた看守は、あいつ、また空ばっかり見てやがる、と笑いながら去っていった。笑い声だけが彼の耳に入ってきた。嘲笑われた! それだけで、カッとなる。毎日毎日、薄汚れた服を着て同じ時刻に同じことばかりしているあんな奴に、俺は、俺の未来は、俺の夢は潰されるのか。

 チクショウ、今に見てろ。

 俺はいつか、ここから抜け出てやる。

 抜け出して見せる。

 空を泳いで。


 しかし脱走計画を練るような余裕など彼には無かった。時間も無い、頭脳も無い、彼のそのちっぽけな体にはただ空想力と想像力だけが詰まっていて、何事かを為すにはあまりにも力が足りなかった。

 この監獄で唯一彼が心を許す友は、真面目に日々の仕事をこなしている。淡々とただ現実を受け入れていく、そして目の前の一つ一つの現実に全身全霊をかけていく、その真面目さだけが友のとりえだった。友は夢や野望を持たない。空を見上げることもしない。だから、彼は友のことを愚鈍な奴だとバカにしていた。バカだと思っているからこそ、彼は心を許していたのだ。聡い奴や賢い奴に、自分の企みと野望をあえて語って聞かせることもない。バカな奴は何を言っても、うん、うんとただ頷いて聞いているだけだから、彼はいつもたった一人の友だけに自分の夢を語っていた。

「今日の飯も魚だったな」

 食事の後、彼はうんざりするように首を振りながら言った。

「魚の何が悪いんだい」

「別に悪いことなんて無いが、魚ばっかり食ってるとカルシウムが溜まりすぎて体に悪いだろう」

「ああ、そうかもしれないな」

 彼らにはカルシウムだとか健康だとかに対する知識など一つも無かった。

「今日も空を見てたのかい」

「ああ、見ていた」

「今日はどんな空だったんだい」

「青い空だった。でも、午後は曇るかもしれないな」

「今日の午後は、仕事が忙しくなりそうだけど、今日もお前は空ばっかり見上げるんだろうな」

「何が悪い」

「別に悪いことなんてないけどさ、」

 でもさ、と友が口を開いたとき、ごおごお、という音が響いた。彼らが空を見上げると、雲の出始めた青空の真ん中を縦に突っ切るようにして、ジャンボジェットが一機、飛行機雲を繰り出しながら西から東へ飛んでいった。彼らはジャンボジェットを見上げた。目が離せない。首が痛くなってもまだ、飛行機から目を離せなかった。ついに彼らは大地にぱたんと仰向けに倒れこんで、それでも大の字になったままで、海のように青い空を切り裂く一筋の雲を見つめ続けていた。

「出よう」

 彼が呟くと、友は驚いたように体を起こして、彼の顔をまっすぐ睨んだ。

「何言ってるんだ」

「ここから、出よう」

「なんでここから出るんだよ、ここにいれば飯も食えるし、別に悪いことなんてないだろう」

「それでもここから出よう」

「俺達は空なんて飛べないんだぞ」

「そんなことは分からない。ただ分かるのは、ここを出なきゃ何も始まらないまま終わっちまうってことだけだ」

 彼は立ち上がった。

「俺はここから出る。茂みに隠れながら、見張りの隙を狙って敷地から出て行くさ。そうしたら、俺は飛行場にいく。飛行機に乗って、海外へ高飛びだ。北へ、北へ、どんなになっても逃げ続けるさ。お前はどうするんだ。出ないのか。一生ここに閉じ込められていて満足か」

「でも……」

 友は口をわなわなと震わせていた。

「俺達にだって、空を飛べる翼があるはずだ。俺は行くぞ。お前はどうする」

 友は俯き自分の足元ばかり見ている。

「今日でこんな場所とはおさらばだ。お前とも、おさらばかな」

 彼は友に背を向けた。友は何も答えない。答えられないのだ。友には夢も希望も無い。ただ目の前にある現実を受け入れることにばかり覚悟を決めて、現実そのものを打ち破ろうという度胸は無いのだ。

 彼はせせら笑おうとした。けれど、看守の笑い声を思い出して、止めた。彼には夢があるから逃げる。ならば自分は友の夢になればよい。こんな場所から逃げ出せるのだと、この現実を打ち破れるのだと、自分が先駆けになって知らしめてやらなければならない。自分の存在が、いまここに燻っている他の連中にとっての、せめてもの夢になれたなら。

 彼には生きる夢があった。そして彼は夢になろうと心に決めた。それは彼がこれまで抱いた中で最も壮大で、傲慢で、そして最も高潔な空想だった。

「俺は一生こんなところでガキ共相手に見世物になってやるつもりはない。俺は、行くよ。無事を祈っていてくれ。はははっ、明日のトップニュースは俺が独占だな」



 彼の脱走は成功した。

 トップニュースとまではいかないまでも、地元新聞の三面記事には報じられた。

 それはこんな記事だった。




■町営動物園からペンギンが脱走


 18日午後、町営動物園で飼育されていたペンギンのうち一羽が、職員の作業中に飼育されていたスペースから逃げ出したとの通報があった。現在、園と警察が共同して行方を捜索している。

 町営動物園によると、18日午後、職員が餌をやるためにペンギンの飼育施設の扉を開けていたところ、職員が目を離した隙に一羽のペンギンが開け放たれていた扉から外に出て、そのまま逃げ出したという。脱走に気付いた職員らが後を追ったが、動物園の敷地内で姿を見失った。

 飼育担当者の話「まったく信じられない。いつもぼーっとしていておとなしく、まさか逃げ出すとは思っていなかった。見失ったことも想定外だ。ペンギンが町で餌を自然に手に入れることは難しいので、早いうちに捕獲したい」

 

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彼は空を泳ぐ夢に生きる 夏山繁人 @Natsuyama_Shigeto

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