1996年 錯視艶夢 陸

繋がる線と線。


それが編み上げるは、ひとつの答。


線が辿り着くは、ひとつの概念。


流れを止める術は無く。


賽は錯覚を迎えいれる。

 


「何ですかこれ。」

 入った途端、言葉が漏れた。


「前来た時と全然変わってないじゃないですか。」

 賽の館に前に来た時は多分一週間前。あの時もごちゃごちゃしていたがそれと全く同じ光景が広がっていた。いつものように机の周りは書類でいっぱい、来客用の席も物置でとても座れるものではないし、掃除した形跡すら残っていない。



 ───何処が綺麗なのだろう?

「何を言っている、綺麗でしょ。これでも頑張った方だよ。」

 コートを掛け終えた雫さんは、コーヒーポットに手をかける。

 ───その言葉は冗談に聞こえなかった。

 本当に片付けたと思ってるんだこの人。

 顔から苦笑いがこぼれる。

「なんだその顔、この私が嘘をついてると?」

「だってそうじゃないですか。何処片付けてるんですかこれ。」


 それを聞いた雫さんはなんだか顔が曇った気がする。


 .....何故皆私が掃除した事に分からないんだ。雫さんに似合わない細々しく呟く声が聞こえた。


 ■

 雫さんはコーヒーを二つ注ぎ自分のデスクに置くと僕を呼んでくれた。デスク近くの椅子に座りコーヒーを貰う。

「それで?何の用で来たの?」


「そういえば、この部屋に驚き過ぎて忘れてましたね。えぇ・・・と、ですね。雫さんはあの夢の事件の事知っています?」

「あぁ、最近多いよね。夢で人を殺したのなら、それが現実へと昇華するなんて面白い事件だ。」


 ・・・・・やっぱり。あちらでは情報はもう出ているのか。


「───だけど、その犯人は下の下の下に近い。夢という精神が無防備である非感覚的領域に頼るとは、素人にも程があるし。」

「...ゆ...夢に頼る?」


「なんだ、そんな事も分からないんだ?

 第一。人が観る夢っていうのはね、脳内の記憶を再認識する為に行われるものだ。記憶したテープがなければ人は夢など観ない。

  昔の身体と心が体験した記憶の断片から一つ一つ選び取られ合わさり、それが夢となるんだ。


 例えば・・・そうだな。ホラー映画で人が殺されるシーンを観たとしよう。

 見た対象は殺人、死への恐怖が、魂。又は脳内に刻まれる。その体験は、脳の中で映像に写し取られ記憶となる。

 人間の身体はね、無意識下で忘れてはならない記憶がある事を知っているから、夢は記憶の再認の為に観させられるんだよ。」


 カップをデスクに置くと、雫さんは眠気が残る顔で説明する。


「・・・・・だがね、今回の件はそれに当てはまらない。何度も同じ夢、しかも夢で殺したら現実でも殺していると聞いた。ならばそれは夢ではない。


 ──────ただの暗示だ。


 そして、この事は一種の催眠術師が関わってる事に他ならない。

 前にも言ったが、その記憶(テープ)が無ければ人は殺す夢(ムービー)など観ない。

 ─────誰かが、記憶を弄って夢を観させるようにしたんだな。

 おかしな話だ、夢と現実の境界を失くして一体何になる?ただ、単にそいつを殺せばいい話なのにな。人を殺す夢を観させて人を殺させる、滑稽だ。そいつの気が知れんな。」


 雫さんはそう言い切って珈琲に口をつけた。

 いつもそうだけど、雫さんの話は難しすぎて僕には理解し難い。



 でも夢が、人を殺すだなんて、そんな事が有り得るのか?

 夢で人が操られるという事なのか?

 いや、待て────それは違う。

「ちょっと待ってください、被害者は殺していないんです。指紋も物的証拠もありませんでした。」



「あぁ、殺していないよ。被害者は全員殺した夢をずっと観ているだけなんだ。何度も何度もね。」

 殺した夢?──────────


 「観続ければ観続ける程、夢で起こった死という色は段々と濃くなっていく。死という決定的な結末は、現実の肉体にさえ影響を及ぼす。

 ───────被害者は、殺していない。

 人を殺す夢を観続けた。ただ、それだけなんだ。」


 雫さんの言っていることが分からなくて数秒間ぽかんとなる僕だった。


 ■


「智大、『錯覚』って知ってるか?」

 コーヒーが半分ぐらい消えたあたりに雫さんはそんな事を切り出した。

「理科の授業で、光のなんちゃらは習ったことはありますけど」


「───馬鹿者、光の錯覚ではない。私が言っているのは『心の錯覚』だ。

 何度も同じ映像、場面を観ていると自分がその場の中にいる様な感覚のことで、簡単に言い換えれば『感情移入』とも言える。


 例えるなら───人が首を切られるムービーを観れば、無意識に首を触ってしまう。それの延長線上、それが心の錯覚。

 身体には、なんの変化も訪れていない筈なのに頭が錯覚して、切られていると思い込む。

 それを何度も観てしまえば、確実に夢は現実を呑む。現実と夢の境界は壊され、結果夢でしか起こりえない事が現実でも起こってしまう。」


 今回のトリックはそれ。雫さんは欠伸混じりに教えてくれた。

 .....半分以上分からなかったけど。


「でも、そこまでは分かるんだがね。被害者が一体どこで催眠を掛けられたかが分からないな。」


 椅子に背を預けると、雫さんは背伸びをした。ぎぃぎぃと背もたれが音を出す。


 ここまで聞いて僕は一つ気になったことがあった。

「・・・あの」

「ん?」


「.....非特定多数の人間に、その「催眠」を掛ける事は可能ですか?」

 今まで黙っていた僕からいきなりの質問に雫さんは目を丸くして驚いた顔をする。

 こういう事件は前例がなかった訳では無い。こちらとしても理解しなければならないこともある。


 彼女は少し考えた後、手に顎を乗せて答えた。


「えっと・・・私なら・・・まぁ出来るけど。そこら辺の催眠術師なら道具を使わないと暗示を掛けることは難しいよ。

 ほら、紐を通した指輪とかさ『何かに書く』とかそういうもの。」


 片手で、何かを書くジェスチャーをする。


 え。


「雫さんもそんな事出来るんですか!?」

 夜中なのに僕はいきなり声を荒らげてしまった。

 雫さんは、耳を抑えながら。そうだと応える。


「ええぇぇ!?」

 雫さんがそんな事出来るなんて初耳だったし、驚かないのが逆におかしい。


「なんだ、そんなに驚くことか?すっごくうるさかったぞ、明日お隣さんに怒られたらどうする。」

「あっ・・・すいません・・・。」

 上がった腰を椅子に戻す。


「はぁ・・・というかお前も疲れているだろう。今日の所は帰った方がいい。すまんがこちらも疲れているんだ。」


 飲み終わった二つのコーヒーカップを持つと、雫さんは奥のキッチンへと消える。


 それもそうだ。心の中で反省する。

 遅くに来てしまった事を謝っておこう。

 コートを羽織ると、雫さんに謝るために待つ。数秒後雫さんが奥から出てきた。


「今日は夜遅くにすいませんでした。また来ます。」

 この上ない程に深く頭を下げる。お隣さんにもの意味だけど。

「いやいや、一人で寂しかったのもあるから・・・。───おい、なんだそれ。」

 いきなり雫さんの口調が変わる。


 見ると、僕のポケットから小説が零れ落ちていた。

「お前・・・何故そんな物を持っている。」


 彼女は否定を許さない重い言葉で訊いてきた。

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