賽の流れの儘
愚っ痴ぃ
1994年。冬。
全ての始まりはあの場所。
頭をかすめるあの時の記憶。
「傷んだ私」は、まだそこに居る。
プロローグ
▪️
目覚めると無機質なコンクリートの天井が私を出迎えた。反射的に起き上がろうとしたが体は鉛のように重く起き上がる事が難しい。仕方なくゆっくりと横に顔を倒してみる。
私は古ぼけたソファの上に寝かされていた。ソファのかび臭い匂いが鼻につき、私は咳き込んでしまう。
「ここは...何処だろう」
ぼんやりとした意識で首を動かし辺りを見渡す。
暗く湿っぽくて生暖かい空間。見渡す限りコンクリートの死んだ灰色。割れた窓ガラスが辺りに飛び散り、ガラスの粉がきらきらと月光を反射していた。
.....部屋にしては酷く殺風景で寂しい。
多分ここは廃墟か何かだろう。
状況が読めない自分に無理に納得させる。
割れたガラス窓から、夜の綺麗な満月が顔を覗く。
まるでかぐや姫でも降りてきそうな大きな月は、夜を華々しく演出していた。
.....それにしても寒い。
夜の淡く冷えた気が私の身体に触れ身震いを起こさせた。震える身体に鳥肌が立つ。
.....私はこんな所でずっと寝ていたのか。
混乱が解けない儘の頭で起き上がろうとする。
だが、その時。
全身に力を入れた刹那、後頭部が痛みだした。
ズキズキと釘で頭を割られているかの様な激しい痛みに私はケモノみたいに呻いた。
気が引けるが頭の後ろを右手で触ると髪がどろりと何かで濡れている。察したくはなかったが、それだけで私に何が起こっているのかは容易に想像出来た。
何処かで頭でも打ってしまったのだろうか。
それとも誰かに殴られたのか。
.....いやその両方かもしれない。冷血な現実から逃げるように天井を仰ぎ見る。
だが変わりなくそこには死んだ灰色が佇んでいるだけだった。
■
何分その場にいたのだろう、覚えてはいないがこの場所では時間の進みでも遅くなっているのか数分でも何時間と思えた。
.....ふと、奇妙な感覚に襲われている事に気付く。
ぼんやりとした意識が麻酔代わりとなっていたのか、現在いままで気づくことすら出来なかった。
その奇妙な感覚は私の左腕から来ていて、麻痺しているみたいに左手は絶えずびりびりとした感覚を私に送っていた。
痺れたんだろう。
当時の私はそんな事しか思いつかなかった。
.....いや、思い込むしかなかったのかもしれない。
厭な違和感が私を襲い、その左手を試しに目の前に高く挙げてみる。
「えっ?」
私の驚く声が昏い空間に反響する。
厭な予感は現実へと変様してしまったのだ。
私は見ている光景を信じる事が出来なかった。
それもその筈、左腕がぴくりとも上がらないのだ。
「嘘でしょ.....?」
右手で左手首を持ち上げる。左腕に触られた感覚はなくまるで冷たい粘土を持っている様。
右手を離すと、左腕はぶらんと垂れる。それはもう動かないという事を証明させるには余る光景だった。
私の脳は左腕に何度も動かす指令を出すが反応がない。左腕はうんともすんとも言わず肩からぶら下がるモノに成り下がってしまった。
これは夢だと信じて、思いっきり頬を叩いたけど痛いだけだった。
夢じゃないと分かった時私は泣いていた。
何も考えられなかった。
何も考えたくもなかった。
.....独りのこの状況下でおかしくならない理由がなく。泣きたくなるような現実に、私は半ば半狂乱と化していた。私は自暴自棄になり、動く筈もないのに自分の左手を殴っていた。
左腕は殴られているはずなのに痛くもなく。だけど右手の皮が剥がれるだけで、痛くて。私は子供みたいに泣きじゃくった。
あの時思えば「叩けば直る」にしてはあまりにも阿呆らしかった。
数分の時が流れた。
気づくと、ソファは私の涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。.....多分私の顔も酷い有様になっているだろう。
正気に戻った私は青い痣が付いた左腕を見ると、今度は自分のした事が馬鹿らしくて笑みがこぼれる。
「.....はは.....」
──なんてことしているのだろう。本当に馬鹿みたいじゃない。
はたから見たら、こんなの狂人だろう────
「.....そんな事するより、助けを呼ばなければ」
狂った笑いが収まると、突拍子もなく私から、言葉が漏れる。
「───────?」
戸惑いを隠せなかったが、私の考えだと、ひとつも疑問も持たなかった。
それもそうだ。この儘ずっとは居られない。
痛いのを我慢して、起き上がる。
右手で、身体を起こし足で踏ん張り腰をあげる。
「.....っ!!」
ソファから脚に力を込め立ち上がった瞬間。私は膝から倒れ込んだ。
地を踏んだ瞬間脚にも電撃に打たれた痛みが走ったのだ。
「.....いったぁ.....」
駄目だ。とても歩ける身体ではない。
仕方ない。このまま、
這いずって出て助けを呼ぼう─────────
.....不意に。
目の前に、何かがあることに気づく。
それは月光の影に隠れよく見えない。
ぼやける視界に目を凝らすとそれは薄く四角いものだと分かる。
電撃が走る程の痛みに耐えながら、芋虫の様に床を這いずり四角いソレを持ち上げた。
「なに.....これ.....」
ソレはとある学生証だった。
顔写真は剥がされコンクリートに擦られ汚れていて、読むのにも一苦労かかる。
「晨乃あさの高校...一年...むら...し?.....紫堂しどう...れ.....怜れい.....?」
誰だろう。そんな名前、私の記憶にない。
そう思いたかったが、頭にひとつの疑問が浮かび上がった。私は、唇を震わせてそれを口にする。
「─────私の名前って.....」
自分の名前が思い出せない。
私はあの時。1994年の冬。記憶と左腕を失っていた。
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