第23話 明日香の進学希望校

episode 23 明日香の進学希望校。


春の雨がしとしとと降りだしていた。

教室の窓ガラスがすっかり濡れている。

芽のふくらんできたバラが霞んでしまった。

窓を細めに開ける。

雨のにおいのする夜風がそっと吹きこんできた。

「先生、わたし栃南高校に進学決めたよ。学校の先生が、新しい高校だから受験希望者も少ないから、合格できるって」

「えっ、どこにあるの」

「やだあ、先生、知らないの。駅の南だよ」

明日香ちゃんはにこにこ笑ってこたえた。

木村は動揺した。

ソンナ高校の名前は聞いたこともない。

明日香はかわいらしく、首を傾げていた。

英語の問題集に黒板の解答を記入している。

いくら注意しても、ただ自動的に回答欄を埋めているだけだ。

なにもかんがえない。

発音もしない。

――音読しなければ英語は身につかないのにな。

穴埋だけの授業をしているプリント塾から移って来た生徒だ。

一対一の個人指導と宣伝している。

実態は机を仕切り板で、間仕切りしただけの。

「バタリー鶏舎方式」の塾に長いこと在籍していた。

いくら注意しても穴埋め作業をせっせとやっている――。

「栃南高校ってあるの」

木村は次の中二の時間に生徒たちに訊いた。

みんなキョトンとしている。

――そうだよな。あるはずがない。

わたしの知らない新設校がこの街にあるわけがない。

おそらく、あまり成績がわるいので、どこも県立高校は受験させてもらえないのだ。

それで、かわいそうに苦し紛れに、空想上の新設高校をつくりあげたのだ。

かわいそうに。

外では雨足が激しくなっている。

春の雨にしては激し過ぎる。

木村はそっと胸のポケットからメモをとりだした。

明日香ちゃんが、教室を去る時、手渡してくれたものだ。

「先生、ながいこと、お世話になりました。さようなら」

そう書いてあった。

――これで明日香ちゃんの笑顔がもう見られない、寂しくなるな。

やるだけのことは、やった。

明日香ちゃんだって、せいいっぱい努力した。

勉強のやり方は、はじめて教わった学校や塾の先生の影響をうける。

勉強態度がわたしの意に添わなかったのは仕方ないことだ。

明日香が受験の当日。

消えた。

元気に家を出たというのだ。

でも、どこの高校を受験したというのだ。

まさか、ありもしない、空想上の栃南高校を受験するために、出かけたのではないだろう。

警察の必死の捜査にもかかわらず三日が過ぎた。

マスコミが東京から駆けつけた。

誘拐事件として大騒ぎになった。

木村は明日香に聞いた、駅の南にあるという高校の場所にいってみた。

路肩に明日香のピカチュウの鉛筆ケースが落ちていた。

雨にぐっしょりと濡れていた。

ほとんど原形をとどめていなかった。

ここに次元の割れ目がある。

そのスリットから明日香は向こう側に行ってしまったのだ。

木村らはようやく咲きだした街路樹、彼岸桜の梢を見上げていた。

明日香のこころを思うと桜の花がくもって見えなくなった。

春の雨が、明日香が教室を去った時のように降り出していた。

遠望する駅の明かりが影った。

霞んでしまった。

雨のためではなかった。

木村は明日香ちゃんを想い、その場に立ち尽くしていた。

塩辛いものが唇にたれてきた。

雨水ではない。涙だった。

「なにも……力になってあげられなくて……ゴメンナ」

木村は、泣いていることにも気づいていなかった。






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