葬式の案内

おさく

葬式の案内

 会社からの帰り道。私は普段より仕事が早く片付いたこともあり、気分転換も兼ねていつもは通らない道を車で帰途についていた。


 四十キロ制限の道路。この道は数カ月ぶりに通る道だ。うねうねと細かいカーブが続く。距離としては少し遠回りにはなるが、普段は安全性を重視し直線でスピードが出せる国道を使っている。だが、今通っているこの道周辺には民家や木々が多く、より季節の移り変わりを感じられる。だから私は、時折この道路を使い家に帰る。出勤時と違い、帰りは急ぐこともないことから、帰り専用の道路とも言える。


 車を走らせていると、急に前方に見慣れない看板があるのが見えた。どうやら葬式の案内看板のようだ。近づいて見てみると「ジョナサン家 葬式」と書いてある。どうやら日本に住む外国人が、この近所で葬式をあげるらしい。珍しいこともあるものだ。いや。案外これは、今の日本においてそれほど珍しいことでもないのかもしれない。今や日本に住む外国人は、私が思う以上にたくさんいるのだ。だがやはり、葬式の案内看板に外国人の名が書かれているというのはこれまで見たことがなかった。そのような意味でこれは珍しいことに違いはない。そんなことを考えていると、また同じような看板が目に入った。やはり「ジョナサン家 葬式」と書かれてあり、葬式場への方向を矢印で示している。


 その後も、うねうねとした細かいカーブの道の先々には、やはり「ジョナサン家 葬式」の看板があった。そんな中、ふと私は、ジョナサン家は少し看板を置き過ぎなのではと思った。しかし同時に、ジョナサンの立場になって考えてみると、ある特定の文化圏で育った人間が、別の異なる文化を受け取った場合、その文化は異なった見方で捉えられ、異なった方法で用いられる。もしそうだとすると、今回のこの看板も、ジョナサンさんはカーブ一つに付き看板を一つというふうに捉えているのかもしれない。


 先ほどから車を走らせ、カーブを切ればジョナサン家というこの異常な状況。私はあきれ果てていたものの、一方で、ここまで看板を設置するジョナサン家といった家族は一体どんな人達なのだろうという小さな興味が、自分の中でふつふつと湧き出ていることに気づいていた。夕食まではまだ時間がある。そしてついに、私はこの妙な好奇心から、このジョナサン家の葬式場に行ってみようと思い立った。


 進めど進めど、やはりカーブごとに徹底的に看板が設置されている。先ほどから三十分ほど看板に沿って運転しているにも関わらず、一向に葬式会場には到着しない。直線の先、遠くに小さく看板らしきものが見える。どうやらあの国道に乗れということなのだろう。しかし、あの国道に乗るということは少なくとも隣の市に移動するということになる。しかし、私は先ほど決意したのだ。今さら諦めることなどできない。隣の市であろうがなんだろうが、ジョナサンに会いたい気持ちが今は勝っている。


 国道に乗って数分経つと、また前方に看板が見えた。しかしなんとその看板があるカーブは高速道路への順路だった。私はカーブまでに残された数十秒間、頭をフル稼働させ、行こうか行くまいか迷った挙句、ついに高速道路に向かうことを決心した。こうなったらもう今日はジョナサンと友だちになって帰ることにしよう。それくらいしないと、この大胆な行動に見合わない。


 高速道路をただひたすらに進む。だが一向に看板が現れない。もう何時間走っただろうか。時計の針はとっくに夕食の時間を指している。もしかすると看板を見落としてしまったのかもしれない。と、そう思ったとき、懐かしいあの看板が見えた。ついに高速道路を降りるときが来たのだ。私は意気揚々と高速道路を降り、次の看板を見つけカーブを曲がった。そこで初めて、ジョナサン家の葬式に対して一つの疑念が浮かんで来た。どうやらこの道路をまっすぐに進むと空港に着くらしい。

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