29話 心臓の鼓動(前編)

「いいなぁー、アンナマリー」

「なっ、なにが」

「私もあんな素敵な人にキスされたいなー」


 フィリップ様が浮かれてセシリーの目の前で私のおでこにキスしたせいで、午後はずっと私はセシリーに絡まれている。


「おでこよ、おでこ! それにセシリーは村中の男の子からモテモテじゃない……」

「大事なのは数じゃないわよ、質よ」


 そこは妙にきっぱりと言い切るのね。それはともかくとしてこの後フィリップ様と顔を合わせるの、すごく気まずいんですけど。

 そんな事を思いながら、掃除道具をしまっているとホークさんが慌てて駆け込んできた。


「お、若様はどこにいったんかね」

「さぁ? 散歩に行くって言ってましたけど」

「まったくこんな時に限って……」


 ホークさんは、イライラしながらため息を吐いた。


「どうしたんですか?」

「やっと届いたんだよ、家財道具が。お嬢ちゃん、悪いけど若様が帰って来たら伝えてくれないか?」

「ええっ、ちょっとホークさん!」


 私の返事も聞かずにホークさんは外に出て行ってしまった。ああ、今は顔を合わせたくないのにぃ。それより先に奥様に報告だわ。


「モニカ奥様、エインズワース子爵の屋敷に荷物が届いたそうです」

「あら、良かったわ。無事についたのね」


 あとは一人、残っているエメラインお嬢様にもお伝えしないと。私は客間のドアをノックした。


「私です、アンナマリーです」


 しばらく間を開けて部屋の扉がゆっくりと開いて、本を抱えたままのエメラインお嬢様が現れた。


「アンナマリー?」

「お屋敷の家財道具が届いたそうです」

「そうなの……ここから移らなくちゃいけないわね。はい、これ」


 そう言って、エメラインお嬢様は本を私に差し出した。え? ついさっき差し入れたばっかなのに早くない?


「それ、まだ読み終わってないんじゃないですか?」

「でももうここにはお世話にならないもの」

「いいんですよ、読み終わったら返しに来て下されば。だって……私たち、ご近所さんじゃないですか」


 私がエメラインお嬢様にそう言うと、お嬢様の顔がパッと輝いた。ふお、美少女のふいの笑顔が眩しい。


「本当? これすごくおもしろかったの」

「うちには他にも本がありますから、色々貸しますよ」


 どぎついロマンス小説以外はね。元々はあの屋敷にあったものだしこれも何かの縁だろう。


「アンナマリーは本が好きなの?」

「以前にある方からいただいて。私の宝物なんです」

「それを貸してくれたの? どうして?」

「どうしてって……」


 エメラインお嬢様はあんまり人から親切にされた事がないのだろうか……。ただ退屈だろうと思って持ってきたんだけど。


「そういう時は、そうですね……ただありがとうって言えばいいんですよ」

「……ありがとう、アンナマリー」


 頬を赤らめてそう言うエメラインお嬢様が可愛らしくて私はその頭を撫でた。ちょっと馴れ馴れしすぎるかしら。


「ふふ、お兄様もよくこうしてくれるの」

「優しいお兄様ですね」

「眠れない時はおでこにキスをしてくれるわ」

「……そうですか」


 そうよね、そうよね。向こうは二十歳そこらでこっちは十三歳。そりゃあ妹と同じ扱い……くっ。


「エメライン、荷物が着いたから仕度を……あ、アンナマリー来てたのか」


 私が現実にうちひしがれていると、ちょうどそこにフィリップ様がやってきた。ああ、出来れば会いたくなかったのに……。ちくしょう切り替えろ! 私!


「お支度のお手伝いをいたします」

「ああ……ありがとう……」


 私はエメラインお嬢様の手を引いて、寝間着や着替えの片付けをはじめた。ほらほら、見てのとおり私忙しいの。あっちいってちょうだい。


「アンナマリー」

「なんですか」


 そんな私の近寄るなオーラはフィリップ様には通じなかったようで。トランクに荷物を詰め込む私の顔を覗き混んできた。近い近い、近いってば。


「いろいろお世話になったね」

「いえ……」


 私はなるべくフィリップ様を見ないようにしながら答えた。これでもちょっと傷ついたんだからね。……ん? なんで傷ついてるんだろう。


「どうして不機嫌なの?」

「そんなことありませんよ」

「いやいや、ここに皺が寄ってる」


 フィリップ様の指がぴたりと私の眉間を押さえた。そのままほぐすようにグリグリやられて私は思わず声を上げた。


「ちょっとやめてくださいー」


 意に反して間抜けな声が出た。そんなささいな抵抗ではフィリップ様は止めるわけもなく彼が満足するまで眉間をもまれ続けた。なんなのよ、この状況。

 

「ほら機嫌直して」

「わかりましたってば!」


 もう、こっちの中身はいい大人なんだからね! そういう事されるとドキドキしちゃうのよ。自覚して欲しい。私はエメラインお嬢様の荷物を大急ぎでまとめると、そそくさとドアに向かって客間を脱出した。




「それではお世話になりました」

「またいつでも来て下さいね」

「はい」


 モニカ奥様と使用人一同でエインズワース子爵一行を見送る。騒がしい二日間だったな……。心臓にも悪かった。まぁ、もう次に来ても居間で旦那様や奥様が対応するだろうからあんな事はないだろう。ちょっと寂しい気もするけど……。寂しい? いやいや、何考えてるの。私。


「アンナマリー?」

「はっ、はい」

「エメラインがさっきからあなたに何か言いたそうよ」

「はいなんでしょう」


 私は少しかがんでエメラインお嬢様と視線を合わせた。


「新しいおうちに是非来てちょうだい。もっと本を持って来て欲しいの」

「あ、あのー……仕事もありますんで……」

「あら、アンナマリーと随分仲良しになったのね。行ってらっしゃいよ、アンナマリー」

「えええ……」


 モニカ奥様ー! 止めて、そこは援護射撃しないで。と思ったけど、フィリップ様が心臓に悪いからとは言いにくい。あわあわしているとエメラインお嬢様はそっと私に耳打ちした。


「本の代わりにお兄様を貸してあげるわ」


 エメラインお嬢様? お兄様を自分のおもちゃみたいに言っちゃダメですよ!? 私が呆然としている間にエインズワース子爵一行は屋敷へと移って行った。

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