恋をするだけが能じゃない

オトギバナシ

第1話 はじまりのはじまり

 大学の頃から住み続けた街から心機一転、春を待たずに引越しをしてから早いもので3回目の春を目前にしたある日、僕はいつもの電車を待つホームで彼女に出会った。

 僕は小さな出版社の編集部に所属する、もうすぐ28歳になる会社員。会社ではそれなりに仕事をこなし、上司や後輩からそこそこ好かれ(ていると思う)、たまの飲み会にも参加し、場を白けさせない程度にはテンションを上げる、といった感じのごく平凡に働いている男だ。

 そして、そのホームで出会った彼女は恐らく20歳前後の大学生、もしくはフリーター。春もののベージュの薄手のステンカラーコートに、ボーダーのシャツにジーンズとスニーカーという出で立ち。ごくありふれた格好だったけど、かなり大きくて年季の入った革製のトートバッグが目を引いた。彼女はとても意志の強そうな目をしていて、凛としてその場に佇みながら、同時にとても柔らかで穏やかな印象を僕は受けた。それは全体としてとても美しい姿だった。彼女は上りと下りの線路を挟むようにあるホームの反対側、僕から見て右手の方に立っていた。周りの人たちがスマホを片手に朝の気だるい空気に包まれている中、独りすっと前を向いて立って僕の方を見ていた。ちょうど僕がいる上りのホームに沿って走る歩道に樹齢を重ねた桜の大木があって、その枝がこちらのホームに張り出している。彼女はその桜の木を見ているようだった。まだ咲くには早く、蕾もまだ膨らむ前のその桜を眺めていた。風はまだ肌寒いが、明らかに冬が終わりを告げ、季節が移り変わろうとしていた。彼女はやって来る春の気配を桜の木から読み取ろうとするかのように、ゆっくりと視線を巡らせていた。そしてその途中、ふと僕と目が合った。僕は桜を背にして立っていたので当然の成り行きだったけど、僕は勝手に運命的なものを感じた。いや、感じようとしたのだ。何気ない日々を刺激のあるものに作り変える、僕のしょうもない妄想なのだ。


 そう、春を前に僕は遂に彼女と出会ったのだ。しかし、僕らの間には上りと下りの線路が走り、遠くはないが手を取り合うには今のままではけして届かない距離がある。それは僕らが本当の意味で出会うことの困難さを象徴するかのようだった…。


 彼女と目が合ったほんの僅かな瞬間、僕の頭でこんな妄想が駆け抜けていった。


 しかし実際は、そうではなかった。僕を見た彼女は、視線を外した目の隅にはっきりと僕は見たのだ。


 彼女は微笑んだのだ。

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