修羅の章

第1話

――西暦2035年7月第3週 日曜日 午後4時半頃 【忘れられた英雄の墓場 28階層】――


「やべえ! こりゃ、もうもたねえ! マツリ、逃げろっ! お前だけでも逃げるんだっ!」


「そんな……。あたし、皆を置いて、ひとりだけ逃げるなんて出来ないっ!」


「26階層に入った時に、最初に説明しただろうがっ! マツリが逃げ切ってくれなかったら、この5日間が全部、無駄になっちまう!」


 デンカ(能登・武流のと・たける)はスカイペ通話を通して、彼としは珍しく声を荒げて、マツリに自分の感情を乗せた口調で、マツリに指示を出すのである。


「デンカ。ヤツハシ。それにダイコン……。ごめんねっ! あたしだけ逃げさせてもらうねっ!」


「よっし、良い子だ、マツリ……。あとで入り口にて合流な? 絶対に生きて、この戦闘から逃げ延びれよっ!」


 デンカはマツリを逃がすべく、ゲームパッドを素早く操作し、次のターンへの行動入力を完了する。マツリがおこなった入力はもちろん【逃げる】であった。彼らの徒党パーティは28階層のボスNPC:ベルゼブブとの戦いの真っ最中であった。


 ベルゼブブはノブレスオブリージュ・オンライン:シーズン3.5で追加された最強ボスたちの内の1体であった。当時の一般プレイヤーたちは、このベルゼブブを含め、最強ボスたちにはまったく歯が立たなかった。廃人プレイヤーの中でもさらに廃人と言われたモノたちが集う一握りの徒党パーティにしか倒せなったのである。


 その3カ月後のシーズン4.0、さらにはシーズン4.1を経て、最上級職や新生産品が実装され、なんとか一般プレイヤーでも互角に戦えるほどに、プレイヤー側も強化されたのであった。そのため、ベルゼブブたちは、シーズン4.0及び4.1の先行実装とまで揶揄されるほどであった。


 そのノブレスオブリージュ・オンラインの過去最強と言われたベルゼブブに、マツリたちは果敢に挑み、あっけなく全滅に追い込まれそうになっていた。


 強化を施したマツリの従者:ヤツハシは地に伏し、デンカの従者:ダイコンの残り体力も尽きかけていた。その中でもかろうじて、マツリの体力に余裕があったのは僥倖としか言えない状況にまで追い込まれていた。


 入力受付時間の10秒が無情にも過ぎ去る。まず、動いたのはマツリであった。マツリの【逃げる】が開始される。しかし、ノブレスオブリージュ・オンラインにおいて、【逃げる】が成功するのは、次のターンまでに戦闘不能になったり、行動阻害系スキルを喰らわなかった場合においてだ。


 マツリに続いて行動を開始したのはデンカの従者:ダイコンであった。デンカは全滅を避けるために従者:ダイコンの行動設定に【逃げるをおこなうキャラをかばう】を組み込んでいた。そのダイコンが、デンカの思惑通り、マツリを【かばう】。


 そのデンカの試みは功を奏すことになる。ベルゼブブがおこなった全体痺れ攻撃【幾千の風切り音】はマツリには届かず、ダイコンにヒットすることになる。ベルゼブブの厄介なところは、この特殊攻撃にあるといって過言では無かった。戦闘開始から5ターン、10ターン、15ターン……と、5ターン毎にこの攻撃を行ってくる。


 そして、全員が行動不能に陥ったところで、ベルゼブブのお供がプレイヤーの徒党パーティを確実に壊滅へと追いやるべく攻撃をしかけてくるのだ。


「マツリ。上手く逃げ切ってくれ! 俺の行動はベルゼブブの全体痺れ攻撃でキャンセルされちまった!」


 デンカ(能登・武流のと・たける)は苦虫をつぶしたかのような表情になる。しかし、マツリたちにとっての幸運はまだ残っていた。ベルゼブブのお供たちが一斉にSP(スキルパワー)回復スキル【喜びの舞】をしだしたのである。


「やった! さすがノブレスオブリージュ・オンラインの謎のアルゴリズムだわっ! これであたしの【逃げる】は成功したも同然よっ!」


 マツリは偶然訪れた幸運に助けられ、からくもベルゼブブから逃げ出すことに成功するのであった。しかしながら、残されたデンカと従者:ダイコンは、続くベルゼブブとそのお供の凶刃に倒れることになる……。


 その後、デンカは幽霊ゴースト状態から生身の状態に復帰し、28階層の入り口に飛ばされることとなる。他の25階層までの場合、入り口からボスNPCが居る部屋までは数体の雑魚NPCとの戦闘は避けられない。


 しかし、26階層以降は、全滅するのが必然と運営側は言いたいのか、入口からボスNPCの居室まで一直線の通路だけであり、さらには雑魚NPCも存在しない。そのため、難なくマツリとデンカはボスNPCの居室前で合流を果たすのであった。


「ふう。しっかし、ベルゼブブの凶悪さはシーズン5.1の現在でも変わりないまんまだな……。マツリが逃げ切れたのは運が良かったとしか言いようが無いぜ」


「なんなの、あの全体痺れ攻撃って……。あんなの使うボスNPCって、あいつだけじゃないの?」


 マツリ(加賀・茉里かが・まつり)は不平不満をオープンジェット型・ヘルメット式VR機器に取り付けられたマイクに向かって、言い放つのであった。デンカ(能登・武流のと・たける)は、マツリがそう声を荒げるのも致し方なしと思うしかなかったのである。


「あいつはシーズン4.1で追加された最上級職徒党パーティが実装されてから、なんとか一般プレイヤーでも対抗できるくらいになったしなあ?」


「じゃあ、あたしたち上級職2人と中級職の従者2人じゃ、まったく歯が立たないってことになるじゃないのよっ! あの、団長……。こいつの存在を知っていたからこそ、あたしに『修羅属性』を取ってこいなんて無茶なことを言ったのねっ!」


 デンカ(能登・武流のと・たける)の耳にはマツリの怒りがこもった声が届く。デンカ(能登・武流のと・たける)はどうやってマツリの怒りを沈めようかと考え、あるひとつの事例を紹介するのであった。


「マツリ。無茶ってことはないんだよ。団長が言ってたじゃないか? このダンジョン【忘れられた英雄の墓場】をクリアしたもう一組の徒党パーティが居るって。そいつらは俺たちとは変わらぬ上級職2人と中級職の従者2人なんだよ」


「えっ? それって本当なの? なんで、デンカはそんなことを知っているの?」


 マツリの疑問は当然であった。そもそもとして、一般プレイヤーでは知らない『天使の御業』の存在をデンカは知っている素振りを見せていた。マツリが自分で発した疑問はやがて、疑念となってマツリ(加賀・茉里かが・まつり)の脳内を駆け巡る。


「どういうことなの? デンカはなんで、このダンジョン【忘れられた英雄の墓場】をクリアした徒党パーティのことを知っているの? いいえ、そもそも、団長クラスでしか知らないはずの『天使の御業』について、デンカは知っていたの!?」


 マツリ(加賀・茉里かが・まつり)はデンカに喰いかかるかのように矢継ぎ早にデンカを質問攻めしていくのである。


「かつての俺の徒党パーティ仲間がこのダンジョンに挑んだんだ……。そいつは俺にとってはかけがえのない親友だったんだ」


 マツリ(加賀・茉里かが・まつり)は、デンカの【罪の告白】のような沈んだトーンの声に、はっとわれに返る。だが、デンカは続けて言う。


「そいつは今は、ノブレスオブリージュ・オンラインから引退しちまったよ……。全ては俺の至らない言動が招いた結果だったんだろうな……」


 マツリ(加賀・茉里かが・まつり)は、やめてデンカと声に出したかった。だが、マツリ(加賀・茉里かが・まつり)の声は音になることはなかった。


「ははっ。すまねえ。ここに来れば、何かが変わるような気がしてた。でも、そんなことは無いよな……。俺がこの【忘れられた英雄の墓場】をクリアしたからといって、あいつがまた再び、ノブレスオブリージュ・オンラインに戻ってくわけが無いのにな?」


 マツリ(加賀・茉里かが・まつり)はデンカにかける言葉がみつからなかった。まさか、自分の発した言葉がデンカの昔の傷をえぐることになるなど、予想していなかったからだ。


「俺は今でも【イングランドの恥部】で、【ノブオン史上、最悪の暴君】だ……」

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