秘境ノ森
八島えく
秘境ノ森
その森に一歩足を踏み入れると、その時が来るまで決して出てこられないという。
その噂を聞きつけ、旅人のカナメはその森へやってきた。
青い帽子で茶髪が少しだけ隠れ、青いマフラーと濁った緑色のコートで防寒対策をきっちりと行っている。履き慣れた焦げ茶のブーツで地面を踏みしめると、湿っぽい足音が帰ってきた。
秘境ノ森。この森はそう呼ばれている。カナメの目の前には三ツ鳥居がたたずむ。その周囲を漂うように、赤色だったり青色だったりの光が雨に混じって泳いでいる。
人も獣も虫すら寄せ付けない、神の領域。噂の通りか否か、入り口前からすでに人の域を越えた世界であることは、カナメにもよくわかった。
さあさあと小雨が降ってきた。カナメは傘もささず、鳥居をじっと見上げている。
「恐ろしいですか?」
カナメの頭上から、男の声が降ってきた。男は黒髪を黄色のリボンで結い、白いYシャツに黒ズボンと黒い前掛けといういでたちで、体が透けていた。要するに幽霊の一種だが、カナメにはきちんと彼の姿が視えている。
「いや、別に。ただ鳥居の周りがきれいだから、もうちょっと見てたいなって思って」
カナメの声は、男と言うには高く、女というには低かった。
「左様で」
男の目元は長い前髪で覆われて視認できないが、口元は上がっていた。
「噂によると出られないらしいね。その時がこないと」
「『その時』とはどのような時なのでしょうねえ」
「わからない。けど、ここがもしかしたらオレの終着点なのかもしれない。入ってみようか、店主」
「良いですね」
店主と呼んだ幽霊を伴い、カナメは静かに鳥居に一礼したのち、秘境ノ森へと足を踏み入れた。
*
鳥居の中は石畳でそれなりに整っていた。ただ鳥居も目印になる灯籠もどこかひび割れ、苔蒸している。いくつか社が建っていたが、手入れもなされていない。手水舎には柄杓だけ置いてあって、肝心の水は空だった。
苔に覆われた賽銭箱に小銭を放り、カナメは手を合わせて先を進んだ。店主がふよふよついてくる。
古びた懐中時計の時刻を見やると正午をすぎた頃だった。が、小雨で空が厚い雲に覆われているのと、森林ゆえ木々が太陽を隠す立地上、全体は薄暗い。
その薄暗さを補うように、灯籠にぽつぽつと薄橙色の灯りがともった。灯籠は一定間隔で設置されており、目印にもなる。カナメは目印がわりに灯籠を伝って歩いていく。
「お」
ふと、カナメが間抜けた声を漏らした。ひたり、と足が止まる。
目の前には、灯りのともった民家が建っていた。何の変哲もない一軒家で、先ほど目にしてきた社の数々とは違う。
「人、いるかな」
「灯りがついているのならいる可能性は高いです」
「そうだよね。……ほかに泊まるアテもなし、訪ねてみよう」
カナメはドアを小さくノックする。インターホンはなかった。ほどなくして、「はあい」と子供の声が向こう側から聞こえてきた。
ドアを開いたのは、案の定子供だった。
カナメと同じ茶髪に、緑色の瞳。ぶかぶかの白い服を着て、上目遣いにこちらを伺っている。
カナメはつとめてにこやかに表情をゆるめ、子供に挨拶する。
「初めまして。オレは旅人のカナメと言います。もしご迷惑じゃなければ、一晩泊めてもらえますか?」
「旅の人……?」
「はい」
すると子供はそっと顔を輝かせた。
「ようこそ、秘境ノ森へ! 住人はボクしかいないですけど、どうぞ上がってください!」
とたとた、と子供は家の中に入り、カナメへタオルを差し出してくれた。
カナメは好意に甘えて、その家屋に踏み入れた。
*
民家の住人はツカサと名乗った。あれやこれやと忙しなく屋内を駆け回っている。「あれどこだっけ」「コーヒー豆は、えっと……」と慣れない手つきでカナメを迎え入れてくれた。
カナメはというと、木のテーブルと椅子にかけさせてもらい、受け取ったタオルで衣服を拭っていた。
「あとでお部屋を掃除しておきますね。コーヒーをどうぞ。この雨の中、大変でしたね」
「いえ、小雨程度でしたし、途中から降ってきただけなので、そんなにつらくもなかったですよ」
カナメはコーヒーに砂糖を大量にそそぎ込んでからちびちび飲んだ。
「それにしても、旅人の方がいらっしゃるとは思わなかったです。ボクずっとここに住んでますけど、外から人が訪れることがまるでないので」
「まあ、旅人ってそこに世界があれば向かうみたいなとこありますからねえ」
「そうなんですね……。旅人は好奇心が強いと聞いたことがありますけど……。そちらの幽霊さんは、失礼ながらお供ですか?」
カナメはコーヒーを運ぶ手を止めた。カナメの背後に浮いている幽霊が、この子供には視認できているのだ。目を見開く。
「驚いた。店主が視えるんですか」
「はい、うっすらと」
「なら、静かにしている必要もありませんねえ」
くく、と店主は笑う。
*
カナメは旅人という種族の生まれである。
旅人というのは、人間に酷似しており、種族名通り各地を旅する生き物とされている。
この世界、宇宙には数多の世界が存在しており、旅人はその世界をいくつも渡り歩く。
そして好奇心が旺盛であり、旅をする習性上体力と下半身の筋肉は人よりも強い。
あまりの好奇心から危険を呼び寄せることも多く、そんな旅人のストッパーの役割を果たすのが、お供というわけだ。
お供は種族に限りがない。旅人がこの者をと決めたら、その時点で誰もがお供になる。猫や犬もそうだし、妖精や魔物もそう、幽霊だってお供になり得る。店主は幽霊という種族のお供であった。
「お部屋、掃除してきますので、どうぞごゆっくり!」
ツカサはそういって、ととっ、とリビングを後にした。ほどなくして2階の部屋の掃除を終えた。
案内してもらった部屋は、掃除してはあるものの、まだ埃がわずかに残っていた。だが泊まらせてもらう身分ゆえ、贅沢は言わない。
窓を開いて、カナメは外を眺めた。
どこまでも果てしなく、深い緑色の木々が広がっている。時々ぽつぽつと視界に入るのは、灯籠の灯りだろうか。
「人も獣も、虫すら寄せ付けぬ。神の領域、ね」
「何か」
「ん、いや。人、いたよなって」
「ああ、この民家の主人ですね。主人という割にはいささか幼く見えますが」
「オレより小さかった。……まあ、ツカサ君のことはいいとして、明日はちょっと境内をまわってみようと思う」
「良いですねえ」
カナメは窓を閉めた。
数時間後、ツカサがカナメを夕食に呼んだ。やや味の濃いビーフシチューだった。空腹で何でも美味しく感じられるためか、カナメは何度かシチューをお代わりした。ツカサはそのたびに、嬉しそうに顔を輝かせて器を受け取る。シチューの傍らにパンが切って並べてあったが、妙に不揃いだった。
(料理、上手くないのかな)
カナメは口には出さず、3杯目のシチューを食べた。
*
翌日、カナメはツカサの用意してくれた朝食を平らげ、帽子をかぶり直して外へ出た。境内の探検だ。
ツカサが言うには、この森では迷うことなく最後にはきちんとこの家に戻って来れるらしい。その言葉を信用し、カナメは店主を引き連れてそこかしこをうろつきまわる。
昨日訪れた社は、昨日よりも磨きが掛かっていた。手水舎に水がしっかり張られていたし、社や賽銭箱の苔は消えている。鈴も錆がなく、赤白の太い紐は新品のように艶やかだ。
社を守っている狛犬は小雨に濡れながらも、凛とお座りしていた。
カナメは賽銭箱に小銭を入れ、また手を合わせた。
さらに奥へ行くと、舞殿が現れた。
「うわ」
カナメは感嘆の声を漏らした。
そこからは霧が濃く、外の世界が遮られている。霧は世界を覆いつくし、反抗するように木々が抜きんでている。鮮やかな新緑と白色がまざる。白色は霧だけでなく、雲もそのうちのひとつだろう。
いつの間にか自分は、これほどまでに高い場所まで訪れていたのだ。
霧が木々も山をも隠してしまうこの風景を俯瞰して、カナメは神の領域といわれるこの森の意味をようやく理解した。
「店主、視える?」
「いいえ。霧に隠れてよくわかりませんねえ」
「店主に見えないなら、オレにも見えない」
「わかりませんよ、旅人は目が良いですから」
「どうだろうね」
カナメはふっと笑って、舞殿から下界を眺めてみた。霧のせいでよく見えなかったが、わずかに木々や民家らしき屋根は目に入った。
「屋根は見えた。ってことは、この辺近くに誰か住んでるのかな」
「かもしれませんね。ただ、ここへ来るときは誰もいませんでした。妙ですね」
カナメはここまでの道中を思い出す。
秘境ノ森までの道のりは、1時間にあるかないかの鉄道に乗って、そこからダムやお山を越えるためにバスで40分揺られてようやく着いた。
そこまでの道のりに、民家は確かにあったがどの家も灯りはついていなかった。腹ごしらえにと食事処をいくつか回ったが、どの店も扉は開けど誰もいなかった。
「……この風景はきれいだ。でも、もう次の場所へ行こう」
カナメは踵を返す。はい、と店主はあとに続いた。
*
舞殿からさきほどの社のところまで戻り、さらに最初の三ツ鳥居に向かって歩くと、大きな宿泊施設があった。この社目当てに訪れた観光客の、憩いの場所なんだろう。
カナメは宿屋に入ってみた。小雨と分厚い雲に覆われて薄暗いというのに、宿屋に灯りがともることはなかった。観光客どころか、宿泊施設のスタッフさえいない。
ためしに宿内を好き勝手うろついてみたが、誰ともすれ違うことがなかった。フロントも部屋ひとつひとつも回ってみたが、誰もいなかった。
これ以上収穫はないと悟り、カナメは店主を伴ってその宿を離れた。
宿からツカサの家に戻る道中、カナメは一度足を止めた。本来いるはずのないものを見つけたからだ。
灯籠が目印になっている石畳をとんとん歩いていると、その者たちに出くわした。
「あれ」
「どうしました?」
カナメが歩を止める。
そこには、黒と白の犬が一頭ずつ静かに座ってこちらを見つめていた。
小雨に濡れながら、その黒い目はしっかりとカナメをとらえている。
だが犬二頭は、カナメを見るや満足したのか、さっさと森の奥へ消えてしまった。
「……人も獣も、虫すら寄せ付けない」
「神の領域、ですか?」
「うん。その割に人も獣もいたな、って」
「では次は虫もお目見えできるかもしれませんねえ」
「そうだねえ。……旅の疲れがたまったのかな。見間違えたのかもしれない」
「あなたの目が何かを見間違うはずはありませんよ」
「そらどうも」
カナメはツカサの家を目指した。
*
ツカサの家に戻ったカナメを、ツカサは暖かく迎えてくれた。小雨続きで濡れていたカナメにタオルを渡してくれたり、暖かい紅茶を淹れてくれた。濡れた服の代わりに着替えを持ってきてくれ、風呂まで沸かしてくれた。カナメは好意に甘えて風呂で体を温めてから紅茶を飲んだ。
「この雨の中の散策は大変だったでしょう?」
「ええまあ。でも雨はそんなに強くなかったので、言うほど大変でもないです。世界によっては大嵐の中を歩いたこともありますから」
「うわあ……旅って大変なんですね……」
「そうでもないですよ。嵐のあとに見る旅先の風景とか名物とか最高ですから」
「へえ……。もしご迷惑でなければ、夕食の時間まで旅のお話を聞かせてもらえませんか?」
ツカサは身を乗り出した。いいですよ、とカナメは快諾した。
旅の話は紅茶五杯にも及んだ。今までカナメが旅してきた世界、店主との出会い、自分が心に残った風景、いろいろなものをツカサに話して聞かせた。中には危険な目に遭った話もおりまぜた。というより、カナメの旅は常に危険と隣り合わせのようなものだ。
旅人というのは幸運にも恵まれている。旅のお供というストッパーがいるから、旅をする上でさほど危険に遭うことはない。カナメはそんな旅人の中では珍しい例だった。
にも関わらず、ツカサはそのどれにも興味を示し、自分の紅茶が冷めるのも忘れてカナメの話に聞き入ってくれた。
というのも、ツカサは生まれてこの方、この森の外へ出たことがないらしい。ゆえにか、外への渇望があるようだった。もっと聞かせてほしい、と。カナメの話のタネがなくなるほどに、ツカサは旅の話をねだった。
「参ったな。もう話すことがなくなりそうだ」
カナメは紅茶に砂糖を注ぐ。後ろで店主がおかしそうに笑っている。
「あっ、すみません。ボクがわがまま言ったから……」
「いえいえ。オレも旅先のことが思い出せて良い経験になりました。
……そうだ、オレからも一ついいですか?」
「良いですよ。何でしょう?」
「ここ、人も獣も虫も寄せ付けないことで有名ですよね」
「はい。そう謳っています」
「ここへ戻る途中、二頭の犬に出くわしたんですが、この森には犬が生息してたりします?」
「いいえ、そのようなことは……。物心ついたときからずっとここにいますけど、ほかの生物を見たことはないですねえ」
「そっか。じゃあ見間違いだったのかな……」
「ごめんなさい、お力になれず」
「いや、確かめたかっただけなので。お気になさらず」
その日の夕食は鍋だった。白菜に出汁がしみていて、カナメは肉よりもそちらの方を頬張っていた。
*
次の日も小雨が降っていた。カナメはのんびりと出発の支度を整えている。といっても荷物は肩に提げる鞄と帽子とコートくらいのもので、準備にはそれほど時間はかからない。
「出発日は雨か」
「晴れをご所望で?」
「どうしてもってほどでもないけど。どうせ次の世界に向かうなら、晴れの方が心情的にはいいかなって思ってるだけだよ」
「左様で。幽霊の私には天候の善し悪し関係ありませんので、カナメの気持ちがあまり理解できないのですよねえ」
「透けちゃうもんね」
「そうそう」
冗談を言いながら、カナメは一階に降りる。出立することをツカサに告げると、ツカサは残念そうに眉尻を下げた。
「そうですか……。ボクとしては、長い滞在でも問題ないのですけど」
「ありがとうございます。でも、次の世界へ向かいたいので」
「無理にお引き留めするのもだめですもんね。良い旅を」
「ありがとう」
カナメは小雨のなか、森を歩く。
*
「……あれ」
カナメは間抜けた声をあげた。灯籠に従って三ツ鳥居の方へ向かっていたはずなのに、目の前にはツカサの家が建っている。
道を間違えたか? とカナメはもう一度きた道を引き返す。だが同じことだった。
いくら道を少し変えて鳥居へ向かおうとしても、決して鳥居にたどりつかないのだ。社や宿泊施設に到着することはあるが、鳥居となると必ずツカサの家の前に来てしまう。
「何だこれ」
「妙ですね。一度来た道は忘れないあなたが」
普段から笑っている店主も、さすがに神妙な面もちになっている。
「オレ、存外方向音痴だったのか」
「そんな新発見要りませんでしたねえ」
「ここで発覚するオレの得意技。……っていう冗談は抜きにして、行きは灯籠を頼りに民家まで来たから、灯籠をたどれば鳥居に戻れると思ったのに」
もう一度、と灯籠を頼りに鳥居まで進んでみた。しかし結果は同じで、いくら灯籠に沿って歩いてもツカサの家に戻ってきてしまう。
「うーん……」
「紙に地図でも書きますか?」
「オレ、絵とか上手くないんだけど。それにこの雨の中で紙とか広げたら濡れちゃう」
「それもそうですね。言ってみただけです」
「知ってる」
道を変えても素直に灯籠に沿って進んでも、カナメは鳥居にたどり着けなかった。ポケットの懐中時計で時間を確認する。もう日が暮れる時間帯だ。そのうち森全体が今よりも暗くなるし、雨もより冷たく刺さるだろう。
「提案なのですが、いっそのことツカサの家に泊めていただくのは?」
「やだ」
「その心は」
「オレが次の世界に今日中に行きたいだけ」
「旅人らしい」
「知ってる癖にさ」
「もちろん」
カナメは半ば意地になって鳥居に着こうとする。だがいくら進んでも最後はツカサの家に戻ってきてしまう。このやりとりも十回以上繰り返された。
それでも冷静さを失わず、カナメは首を傾げる。
「何か、人智を越えた力でも働いてんのかな?」
「可能性はありますねえ。何せ幽霊が存在しているような世界ですから」
「それこの森関係ないじゃん。……でも、力が働いてるとしたら、誰が? っていうか何が?」
「それは私にもわかりかねます。ですが、昨日訪れた宿泊施設に人が誰もいなかった原因も同じところにあると考えられますね」
「この森に迷い込んで、力つきちゃったとか?」
「それはそれで愉快ですね」
くくっ、と店主は笑う。
「次はどうやって進んだものか……あれ」
ふと、カナメは足を止めた。
目の前に、先日見つけた白と黒の犬が控えていたのだ。
「あなたの見間違いではありませんでしたね」
「そうみたい。……何だろ、こっちに気づいてる」
カナメはしばし警戒の体勢をとっていたが、犬二頭はカナメや店主に危害を加えることはなかった。
というより、犬たちはカナメに何かを促すように目を合わせていた。
「何だろ」
犬は二頭ともお座りからすっと立ち上がった。くいくいと頭を上げ下げして、カナメに伝えようとしている。
「……着いてこいってことか?」
「わかりません。ですが他に打つ手もなし、試してみるのも一興では」
「それもそうか」
カナメは黒犬と白犬の後をゆっくり着いていった。
犬二頭のペースはとてもゆっくりしていた。時々カナメの方を振り向いて、まるでこちらがちゃんと着いてきているか確かめているようでもあった。
道中、あの社にすれ違った。どういうわけか、狛犬の像だけが消えていた。だがカナメはその不思議に好奇心を発揮せず、犬二頭の後を追うだけだった。
小雨が少し強くなる。カナメの茶髪が濡れる。店主は滴ひとつこぼさずけろっとしていた。
数分犬二頭に着いていくと、ふいに灯籠がとぎれた。行き先も同じだった。鳥居近くは灯籠がなかったのだ。
「あ」
犬が立ち止まる。
その目の前には、あの三ツ鳥居が荘厳と建っていた。
カナメは鳥居を見上げる。あれほど迷ってどうしてもツカサの家に到着してしまった自分が、こうもあっさりとたどり着けてしまうとは。
「やっぱり、キミ達はオレの方向音痴を見かねて助けてくれたんだ」
犬は二頭とも答えない。お座りの姿勢で、軽く頭を下げる。
「……ここ、鳥居くぐれば外に出られるよね?」
「疑ったところで何も始まりません。試してみては」
「まあ、店主の言うことも一理あるか」
カナメは頭を下げる目の前の犬二頭を越え、鳥居に足を近づけた。
とき。
「なんで!!」
後方で、聞き覚えのある声がした。
*
「ツカサ君」
ツカサは息を切らし、傘も差さずにここに来ていた。吐息が白く漏れ、頬が紅潮している。
「なんで、なんで……! せっかく来てくれたのに、どうして外にいっちゃうの」
「オレは旅人だから、ひとつの場所にはとどまれない。死ぬまでね」
「外に出ないようにって呪いをかけたのに、なんでここまで来れちゃったの……」
「そこの犬についてったら自然と。
……やっぱりか。外に出ていけない原因はキミだったか、ツカサ君」
ツカサは犬を凝視した。
「……そうか。今までの訪問客は、キミたちがこっそり逃してたのか」
「賢い犬だねえ。
そうそう。外に出れない原因だ。
これは推測にすぎないけど、キミはツカサ君じゃないんじゃない?」
「……」
「ツカサ君の姿に扮した何か。誰か、って言った方が良いかな」
「その根拠は……?」
「あの民家でのキミの行動がひとつ。物心ついたときからずっとあの家にいるって言った割には家の物がどこにあるかいまいち把握し切れてない。それに料理も掃除もあんまり上手じゃなかったからね。ってことはさ、そういう家事とは縁遠い環境に暮らしてたのかなって。
もうひとつはついさっき口走ったこと。呪いをかけたって言った。呪いって人が思ってる以上に難しいことだ。簡単なものもあるけど。でもこの森から外へ出られない呪いなんて大がかりなもの、誰にでもできる芸当じゃない。
キミはツカサ君本人じゃなく、この森の根幹に関係する人なんじゃないかな。世界の管理者とか、ね」
世界の管理者という言葉に、ツカサは黙った。
宇宙にあまた存在する様々な世界には、それぞれ管理者が存在する。彼らはそれぞれの世界を守るために、あらゆる策を弄している。ツカサもそのひとりなのだろう。
「それから決定打になったのが店主。
店主は、まあ相棒のオレだったらまだしも、幽霊だから普通の人には本来見えないはずなんだ。なのにちゃんと見えてるってことは、普通じゃないんじゃないかって思ったんだよ」
俯いていた子供は、ようやく口を開いた。
「……そうだよ。ボク自身はツカサじゃない。この世界の管理者。秘境ノ森の神とか呼ばれてる」
「やっぱり」
「ツカサという子供は、ずっと昔にこの世界に住んでいたんだ。ボクはその子の姿に変身してこの場に立ってる。元の姿だと姿が見えないから」
「そのツカサ君本人はどうしたの?」
「わからない。黒い人が迎えに来て、森の外へ行っちゃった。きっと、その黒い人のお迎えが、ツカサ君にとっての『その時』だったんだと思う。……そうそう、ちょうど店主さんみたいな髪型だった」
カナメは半眼で店主を見上げた。生前は子供の誘拐でもやったんじゃないかと本気で疑った。店主ならやりかねないとカナメは感じていた。「私じゃありませんよ」と笑いながら当人は否定した。まあ店主が言うならそうなんだろう、とカナメはひとまず疑いを消した。
「オレを外に出さないようにしたのはどうして? これは単なるオレの好奇心だから、言いたくないなら黙っても良い。そもそも、一介の旅人が世界の管理者にあれこれ言える立場じゃないものね」
「良いよ。隠すことでもないから。
ただ、この森に人がほしかっただけ」
「人?」
「うん。カナメさんは聞いたことあるでしょ? 秘境ノ森がなんて言われてるか」
「……人も獣も虫すら寄せ付けぬ、神の領域。だっけ?」
「うん。実際その通りなんだ。この森ができた頃には、事情があって人の住む世界で暮らせない人たちがひっそり生きていくために逃げ込んでくることがたくさんあった。ツカサ君もその一人だった。
でも時代が経るに連れて、逃げ込んでくる人たちは減っていった。それはそれで歓迎することだし、ボクもそう思ってた。だんだん観光目的で訪れる人が増えてった。社もきれいになって、大きな宿もできた」
あの宿泊施設か、とカナメは思い出す。
「でも結局観光目的で、この世界に永住しよう、しばらく暮らそうって人はいなかった。
だからボクは、訪れた人々がもとの世界に帰らないよう、外に出られない呪いをかけた」
「……」
「でも呪いをかけたはずなのに、訪れた人々はみんないなくなった。森のなかで死んじゃったのかと思ったけど、死体はないし獣に食べられちゃったわけでもなかった。それがずっと不思議だったけど……そうか、キミたちが道案内してたんだね」
ツカサ……もとい、森の管理者は二頭の犬に視線を向ける。
「どうして邪魔するの。ボクはこの森に人が増えれば良いと思ったのに。なんで、よりにもよってキミたちが……」
「あの犬くんたちは、キミにとっての何?」
「狛犬だよ。ここにくる前、きれいな社があったでしょ。犬たちはそこの狛犬なんだよ」
「あー……」
社を守るはずの狛犬が先ほどは消えていたのを、カナメはようやく理解した。
道案内してくれていた白黒の二頭の犬は、あの狛犬達が実体化した姿だったのだ。
「キミはこの森を出るの?」
泣きそうな顔で、管理者はカナメをにらむ。カナメは飄々とした表情で、決めたことを答えた。
「うん、出る」
「ここに暮らすつもりはないの? ご飯の心配はないよ。ボクの力で食料も水も娯楽も減らない。雨がいやなら晴れにする。霧がいやなら晴らせる。ボクには森を管理する力があるから」
「残念だけど、オレはもう別の世界へ行くと決めた。
それに、この世界はオレにとっての旅の終わりじゃないから」
「旅の終わり?」
「うん。オレは旅の終わりを見つけに旅してる。この森がそうかもしれないって思ったけど、そうじゃなかった。だから次の世界へ行く」
言ってなかったけどね、とカナメは後出しした。
「何で! みんないなくなっちゃうの! ひとりはもういやだよ……」
「残念だけど、旅人をひとつの場所に縛り付けることは絶対にできない。やるなら人間相手にやるんだったね。運がなかったんだ」
「いやだ! せっかく久しぶりに来てくれた訪問客なのに! やっと、住人を増やせると思ったのに……」
ツカサが顔を覆い崩おれた。肩が少し震えている。
「ひとりじゃないんじゃない?」
「……え?」
「そこにいる犬君二頭は、少なくともキミをひとりにはしないと思う」
カナメの言葉に呼応するように、犬は管理者にゆっくり近づいた。そっと寄り添うように、濡れた毛皮をすりつける。
「キミたちは」
「訪問客を逃がしていたのは紛れもなくその犬君だろうけど、同時にキミのことをずっと見守っていたのかもしれないよ。社の狛犬で、こうして現実の犬になれて、なおかつ鳥居の外にまで行けるんだったら、その気になれば外に出られたはずだよ。
それにも関わらず、ずっと社の狛犬であり続けたのは、キミを本当の意味でひとりにしないためじゃないかな」
「……そうなの?」
管理者が問うと、犬二頭は恭しく頭を下げた。
「それに、ここは事情あって外の世界で暮らせない人の駆け込み場所だったんでしょ? そういう事情がある人って減りはしてもなくなることはないから、永住は無理でも長く暮らそうとするひとはまた出てくると思う。
永住する人がほしいなら、まず民家を増やさなきゃならないね」
「民家?」
「この森の中に家はキミん家ひとつだけだった。宿泊施設もあったけど、人ん家にご厄介になるしかないなら短期の滞在になる率も高い。少しずつ空き家を建てて、暮らしていける環境もつくってあげればいいかもしれない」
ただの助言にもならない助言だけどね、とカナメは言う。
「そうしたら、ひとりじゃなくなるの?」
「保証はできない。けど、何もやらないよりは良いんじゃないかな」
「……じゃあ、やってみる」
管理者の眼差しは決意に満ちていた。うん、とカナメは少し安堵した。
「ボクがこの世界をもっと良い方向へ変えてみる。キミにまた来てもらえるように。たくさんの人が来てくれるように」
「うん、その時を楽しみにしてる」
「……もう、呪いの必要もないかな」
管理者がそっと手を空にかざすと、森の空気が変わった。
小雨がだんだんと止み、霧が晴れていく。
木漏れ日が降り注いでいるのを見るに、雲は払われ太陽が出たんだろう。
「お」
「外に出れない呪いはもうおしまい。キミは次の世界へ行けるよ」
「出発日は晴れの日が良い、っていう、オレのわがまま叶えてくれた。やっぱキミは良い管理者なんだよ」
「わがまま?」
「や、こっちの話。
……じゃあ、オレはここを出発する。元気でね、ツカサ」
ひらひらと、カナメは管理者に手を振る。
ツカサであった管理者は、元気よく手を振り返した。足下で、狛犬二頭は頭を下げつつも尻尾をぶんぶん振るっていた。
「うん、またね! 次に来るときは、この森はもっと良い森になってるよ」
「楽しみにしてる」
カナメは晴れ渡った秘境ノ森の下、三ツ鳥居の端をくぐった。
その足は森の入り口にたどり着いた。
森を出るとよりいっそう強く、太陽が照っている。
鳥居の前を漂っていた赤色青色の光は、変わらずそのあたりを泳いでいる。
「人も獣も虫すら寄せ付けぬ。神の領域、だったんだよね」
「ええ。何か?」
「いや、虫いなかったなって」
カナメは店主を見上げる。店主は愉快そうに笑っていた。
「そういえば見つけられませんでしたねえ」
「ま、管理者がやる気出してたし、そのうち虫も増えるでしょ」
「楽しみにすることとしましょう」
太陽注ぐ入り口は、雨上がり直後のようだった。
地面はまだ湿っているが、ぽつぽつ見受けられる水たまりには太陽が映って眩しさを反射している。鳥居からもはっきりとわかる木々があちこち点々と煌めいていた。葉からしずくがこぼれ落ちていく。
雨上がりの匂いがあたりに漂っている。空気が澄みわたり、カナメと店主の肺を満たした。
さて、とカナメは伸びをする。
「次の世界へ」
「行きましょうか」
カナメは店主を伴い、秘境ノ森を後にした。
了
秘境ノ森 八島えく @eclair_8shima
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