番外編2 君影草譚

 その日、ルシエンは屋敷の北側の庭を見下ろす斜面の上にいた。そこは愛する屋敷の中でも特に、彼女のお気に入りの場所だった。藤色の絹服が汚れぬよう静かに腰を落とし、下方からの風に耳を澄ませる。

 しばらくして、ふと背中に温もりを感じた。彼女が振り返ると、いつの間にやって来たのか、八つになる娘のエンリルが、日溜まりの猫のような表情で頬を寄せていた。

「まあ、エンリル。どうしたのです?」

 肩越しに尋ねると、幼い娘は大きな灰色の瞳で彼女を見つめてきた。

「だって、母さまがとってもうれしそうなお顔をしてたから……だから、エンリルもなんだかうれしくなったの」

「まあ……」

 ルシエンは屈んだまま娘に向き直ると、その柔らかい頬に触れた。

「ええ、私は嬉しいのです。貴女のような優しい娘がいて……」

 すると、エンリルはぱっと顔を輝かせ、彼女に抱きついてきた。

「母さま、大好き……!」

「私もですよ」

 言いながら、小さな背を二、三度撫でてやる。顔を見合わせて微笑み合った時、母の背後の景色を視野に入れたエンリルが歓声を上げた。

「お花がいっぱい! 母さま、これを見ていたの!?」

 眼下の斜面には剣状の葉が無数に伸び、その間を小さな白い花が連なるように咲き誇っていた。

 ルシエンは静かに頷いた。

「ええ。君影草というのですよ」

「きみかげそう……?」

 しばらくの間、一心に花を見つめていたエンリルだったが、にわかに振り返り、にこっと笑った。

「母さま、まるで鈴みたいなお花ね。リンリン、リンリン」

 その言葉に、ルシエンの藍玉の瞳が見開かれる。ずっと昔、彼女も同じように言ったことがあったのだ。

「――ええ、そうですね。リンリン、リンリン……」



 今は斜面に群生するその花も、もとはひとつの籠に入っているだけだった。


     ***


 二十年前のある日の夕方も、ルシエンはひとり、屋敷の庭を歩いていた。しかし、その歩みに力はなく、故郷テイランの海を凝縮したような藍玉の瞳は、くすんだ膜を張り付かせていた。

 それよりひと月前、彼女は初めて身籠もった子を流産した。そして、医師から二度と子を産めぬ身となったことを宣告されてしまったのだ。

 大恋愛の末、一も二もなく嫁いだサリード家は、サイファエール王国の宰相職を代々任されている、名門中の名門だった。ひと月前まで信じて疑わなかった愛する人との幸福な生活が今、音を立てて崩れていこうとしている。しかし、彼女に為す術は何ひとつなかった。

「若奥様」

 ふいに背後から呼ばれた。振り返らずとも、心優しき家宰セルチーオの声だとわかる。

「……独りに、しておいて下さい……」

 口を開くのも億劫だった。屋敷の者がみな、彼女に気を遣ってくれていた。しかし、それがかえって煩わしくもあった。

(世継ぎを成せぬ女など、いっそのこと離縁状でも突きつけて追い出してくれればよいものを――)

 かつて覚えたことのない醜い感情が、彼女の心をいっそう荒れさせた。そして、そんな彼女の思いを承知しているセルチーオの声は、なお言を次いだ中に、どこかやるせなさを滲ませていた。

「それが、その……トランス殿下の御使者がお越しになり、若奥様にお会いしたいと……」

 藍玉の瞳に、はじめてわずかな光が宿る。

「殿下の……?」

 王弟トランスは、夫ウォーレイの親友だった。ルシエンの作る故郷の茶菓子を唯一美味しいと言ってくれた人物でもある。しかし、この数年、その交友は途絶えがちになっていた。

 ゆっくりと振り返ったルシエンは、ひとりの老人が遠巻きに立っているのを認めた。と、同時に、その姿に呆気に取られた。王弟の使者というので騎士風の男を想像していたのだが、老人は農夫のような格好をしていたのだ。

 ルシエンが立ち竦んでいる間に近寄ってきた老人は、深々と彼女に礼を施した。

「お初にお目にかかります、ルシエン様。私は、トランス様の北の館で執事をしております、オーエンと申します」

「執事……?」

 思わず反問すると、オーエンと名乗った老人は、後方に控える身綺麗なセルチーオをちらりと見遣り、また頭を下げた。

「このような姿で申し訳ありません。その、日が落ちる前にと慌てておりましたので、着替えるのを忘れてしまいまして……」

 高潔な騎士として知られる王弟にしては、随分と変わった執事を雇っているものだとルシエンは思った。そもそも、トランスの北の館と言えば、彼の妻にさえ立ち入りを禁じている場所ではなかったか。ルシエンは老人の訪問理由がいっそう気になった。

 最寄りの四阿に誘われた老人は、勧められた席に着く前に、持っていた鳥籠のようなものを彼女の前の卓に置いた。それにかけられた青色の絹布には、農夫の格好の老人が唯一、王弟の関係者であることを示す紋章が縫い取られてあった。

「本日はトランス様よりルシエン様への贈り物を持って参りました。どうぞ、お受け取り下さい」

 しばらく目を瞬かせていた彼女は、内心の溜め息とともに納得した。よく考えれば、考えるまでもないことだった。親友が子を失ったと聞けば、誰だってその伴侶へも気遣いを向けるだろう。勧められた物は、贈り物と言うよりはお見舞いの品なのだ。そして、この時になってようやく、ルシエンはサイファエール王宮の華やかな社交界に思い至った。

(――きっと、私たちの話で持ちきりなのだわ……)

 ウォーレイの求婚を受け入れ、故郷のテイランから初めて王都へやってきた時もそうだった。宰相家は貴族の筆頭であり、その権威は王家に次ぐものである。その次期当主の結婚となれば、社交界の興奮は政界のそれを遥かに凌ぐ。まして、夫となるウォーレイは、宮廷中の女性から熱い視線を送られていた好青年だった。今でこそ仲の良い友人たちもできたが、当時は陰で「西の田舎娘が」とよく蔑まれたものだった。

(流産しただけではなく、子どもを産めぬ身となったことが知れたら、いったいどんな騒ぎになるのだろう……?)

 そう思うと、身が竦む思いだった。

 俯いたまま黙り込んでしまったルシエンに、王弟の執事オーエンは、自ら贈り物に掛けられていた布を取り払った。現れたのは鐘楼型の鳥籠だったが、その中に捕らわれていたのは鳥ではなかった。

「――これ、は……?」

 ルシエンは思わず手を伸ばし、金色の金網に触った。彼女が興味を示したことが嬉しいらしく、老人の口の端に笑みが滲む。

「南方地域の原産で、君影草と申します」

「君影草……」

 鳥籠の中には、土が敷き詰められていた。そして、そこへ環状に植えられた花は、まさに今が満開の時だった。

「なんて可愛らしい。まるで鈴が連なっているよう……」

 ルシエンは出入口の掛金を外すと、中に指を差し入れた。小鳥の頬をくすぐるように、白い釣鐘に触れる。リン、と音がしたように思った。

「……いつの間にか、トランス様のお庭に根付いておりまして――おそらく、南方から取り寄せた他の草木に混ざっていたのでしょう――満開なのをご覧になったトランス様が、今日中にルシエン様へお届けせよ、と」

 それで飼っていた鳥を逃がし、即席で鳥籠の植木鉢を作ったのだという。「器用なこと」と目を丸めたルシエンに、老人は実は庭師が本職なのだと語った。

「私のために、わざわざありがとうございます。きっと……きっと大切に致します。殿下には、ルシエンは元気にしていると宜しくお伝え下さい」

 目を潤ませてそう言うルシエンをしばらく見ていたオーエンだったが、ふいに呟くように口を開いた。

「そのうち、必ずや音が鳴りましょう」

「え?」

 ルシエンが怪訝そうに問い返すと、老人は温かな微笑みで彼女を見つめてきた。

「……その花には、幸福を呼び寄せる力があるのだそうでございます。いわばその花は『幸福の鈴』――」

「!」

 なぜトランスが彼女にこの花を贈ってきたのか。なぜ「今日中に」とオーエンを急かせたのか。ルシエンはようやく悟った。と同時に、トランスの気遣いが胸に沁みた。再び目頭が熱くなる。

「……オーエン殿、とおっしゃいましたか」

「オーエンで結構でございます、ルシエン様。ウォーレイ様にも、そうお呼びいただいております」

 ルシエンは小さく頷いた。

「では、オーエン。殿下に伝えて下さい。何があっても、ルシエンが夫を愛し続ける想いは永遠に変わりません、と――」

 ……それから二年後の霧深い朝、屋敷を去る支度もそこそこに、ルシエンは君影草をふたつに分けた。


     ***


『テイランへ……帰ることを許す』

 そう呟いた夫ウォーレイの顔が奇妙に歪み、今にも泣き出しそうだったことを、ルシエンは今でも鮮明に覚えている。

 夫は彼女が子を成せなくなっても、それまでと変わらず愛してくれた。しかし、ルシエンにはそれを素直に受け取ることができなかった。宰相家の嫁としての義務、貴族の妻としての責任、ひとりの男を愛する女としての誇り――それらとの激しい葛藤が、彼女の心から柔軟性を奪っていったのだ。

 その頃のウォーレイは、宰相補佐官として国内外を駆け回っており、傍目にも疲弊しているのが明らかだった。だが、サイファエール宰相家が世襲制である以上、彼はいずれ他の女性との間に子をもうけなければならない。嫉妬も手伝って、いつしかルシエンは、愛する人に儀礼的に振る舞うようになっていた。そしてついに、ウォーレイに離縁を決意させたのだ。

 王都を去り、ふた月をかけて、ルシエンは中継地の聖都まで下った。道中、馬車の窓辺では、王都から持ってきた君影草が青々とした葉を揺らせていた。既に花の時期は終わっていたが、彼女の瞳には純白の花が釣り下がっている姿が映っていた。そして今思えば、ずっと幸せの鈴は鳴り続けていたのである。

『おめでとうございます。身籠もっておいでです』

 聖都の医者の言葉は、まさにその音を具現化したものだった。頭で理解するより早く涙が溢れ、とうとうと頬を伝った。流産した時、彼女に問いつめられた王都の医者は何と言ったのだったか――もう、思い出すことができなかった。

 ひと月後、ルシエンは街道でウォーレイと再会した。もし許されるならもう一度やり直したい、と使者を送った彼女を、ウォーレイが政務を放り出し、迎えに来てくれたのだ。その時の彼は、既に泣き出していた。



(――殿下のおかげで、今ではこんなに鈴が鳴るのです……)

 ルシエンが君影草にそっと触れた時、同じようにしていたエンリルが彼女を振り返った。

「ねえ、母さま。イスフェル兄さま、いつレイスターリアから帰ってくる?」

 かつて夫婦の危機を救った息子は、数日後、成人の日を迎えるのだった。

「もう少ししたら、帰ってきますよ」

 すると、エンリルは頬をぷうっと膨らませた。

「『もう少し』はなかなか減らないから、エンリル、きらい」

「まあ、そのようなことを言って。イスフェルにあげる贈り物は、まだできていないのでしょう?」

 くすくすと笑う母親に、エンリルがいっそう頬を膨らませる。

「もう少しでできるもの!」

「『もう少し』、ね……」

 ルシエンは拗ねてしまったエンリルを抱き寄せると、その髪に口づけてやった。そして、再び君影草に視線を移す。

(……どうか、これからもたくさん花が咲きますように。そして、私の大切な人たちが、いつも幸せでありますように――)

 オルヴァの丘を上ってきた風が、優しく君影草を揺らせた。その鈴の音は、母娘の心にいつまでも響いていた。


【 了 】


※ 番外編競作企画「その花の名前は」参加作品(2003)

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