第六章 暗黒の谷の脈動 --- 10

「とにかく、相手を知らぬことには始まらん」

 逃げ足の速さだけでそう豪語するカルジンを連れてカイルが向かったのは、ルーフェイヤ聖山の西の麓にあるウォカップ神殿だった。そこは《光道騎士団》の本拠地であり、エルミシュワ遠征後は、警備隊が常時監視している場所でもある。彼らが到着した時、ちょうど午前の練兵が中庭で行われていたが、神殿の高い塀に阻まれて、外からは見ることができなかった。

「こういう時、利く顔が使えないのは不便だな……」

 エルミシュワからの帰参を警備隊にも隠しているので、詰め所に知り合いがいたとしても、融通を利かせるよう頼めないのだ。仕方がないので、警備隊の詰め所から少し離れた場所で塀よりも背の高い木を選ぶと、カイルは下枝に飛びつき、それから軽やかに上方を目指した。頂き手前で、未だ生い茂る葉の向こうに中庭が見えることを確認すると、下にいるカルジンに合図する。それを見たカルジンも、カイルのように鮮やかに幹の上の人となった。敵地の偵察ということで、ベーゼルはノルシェスタに預けてきたので、今その姿はない。

「あれが噂の《光道騎士団》か……。本当に黒ずくめだな」

 しばらく中庭を見つめていたカルジンだが、ふいに眉根を寄せ、カイルを見た。

「おい。あんなに人数がいるのに、異様に静かだな。剣の打ち合う音しかしない」

 一個小隊なのか、中庭には三十人ほどが一対二で剣先を合わせていた。

「セフィが言ってたが、私語厳禁らしい」

「気合いの声まで私語なのか? ……そう言えば、オレの後を尾けて来た奴らもだんまりだったな。まったく、己の声を消して何のために生きてるんだか。――何のために生きてるんだ?」

「……オレに訊くな」

 カイルは憮然として聖騎士たちを眺めた。《光道騎士団》とは、聖なる地を守るため、いにしえに組織された僧兵軍団である。近年は王都がその存在を危ぶむほど力を増強しているらしいが、警備隊も把握できていないその詳細を、一農夫たる青年が知るはずもない。

(何のために生きているか、か……)

 心の中で繰り返し、ふとカイルは隣人を見た。

「あんた、ラスティンに『何かあったら訪ねてこい』と言ったそうだが、巫女のことがあったからか?」

「……そうだ」

 カルジンは頭上の枝に手を掛けると、そこに頭を寄せた。枝が葉擦れの音を立てて、軽くしなう。

「セラーヌは、セフィアーナの出生の秘密を本人に知られることを当然、恐れていた。だが、自分の身に起きたことが巫女であるがゆえなら、セフィアーナを守らなければならないと思ったんだ。それが、彼女なりの娘への罪滅ぼしというわけだ。オレは散々、セラーヌに迷惑をかけたからな。だから、彼女の最後の望みくらい、叶えてやりたいのさ」

 男の吐息が、瞬く間に秋の風に攫われていく。

「……ところで、おまえは月光殿管理官とやらに会ったことがあるのか?」

 その微妙な質問に、カイルは一瞬、目を游がせた。

「いや……遠目に見たことが一度あるだけだ。だが、セフィの話や待遇を見た感じだと――温厚で、頭の柔らかい人らしい」

「そうか……」

 カルジンの告白によって、いまひとつの疑惑も明らかになった。彼の妻セラーヌとかつて想いを通じ合わせた《月光殿》のアイゼス・ホンテールという神官が、現在行方不明の月光殿管理官アイゼスその人ではないかということだ。とはいえ、ヒースの見解では、《複名》が神官同士で重複することは殆どないうえ、《複名》時代から《月光殿》にいるということは優秀な人物であり、年齢を考慮しても十中八九、本人に間違いないということだった。

「それなら、管理官が故意にセラーヌを捨てたという可能性はない、か……」

「カルジン」

 カイルが驚いて男を見ると、彼は嘲るように笑った。

「セラーヌの話では、管理官――当時は一介の神官だが、彼の方から神官を辞めると言い出したことになってる。だが、月光殿管理官というのは、神官の中でも上の上なんだろう? 十七年前のあの日、もしや野心のために……と、ふと、な」

「それは……本人にしかわからないことだな」

 言われてみれば、と、カイルは沈黙した。《太陽神の巫女》の推薦試験の日から、巫女たるセフィアーナと、それを預かる月光殿管理官たるアイゼスは、幾度となく面会しているはずだ。セラーヌとセフィアーナは実の母娘だけあってよく似ており、セフィアーナは二人の恋の形見である竪琴まで持っている。聡い彼が気付かないはずがない。だが、カイルは、セフィアーナからアイゼスの過去については何も聞かされていない。そんな重大なことを、少女が青年に対して秘密にしているはずはなく、彼女自身、何も知らないのだろう。

(では何故、管理官はセフィに母親のことを訊ねなかったのか……。ただ本当に気付いてないだけなのか、《正陽殿》の対を預かる者の立場が口を閉ざしたのか、単なる人違いか、それとも――)

 カルジンの言う『故意』のゆえなのか。アイゼス自身が拉致に関わっている可能性など、もはや考えたくもない。

(ちっ。ここへ来て管理官まで鍵になるとはな……)

 青年が内心で溜め息を吐いた時、

「皮肉なものだな。彼がセラーヌを見失わなければ、セフィアーナもラスティンも、この世に生まれなかった」

 カルジンの声に我に返ると、カイルは再び《光道騎士団》の練兵を眺めた。

「……もしそうなってたら、オレもあんたも、今頃ろくな生き方してない」

「ハッ。違いない」

 二人は声を出さずに笑うと、あまり長居もしていられない場所なので、顔を見合わせた。

「さて、他に行く所はあるのか?」

「そのことだが、あんたが来てくれたおかげで、やっと判ってきた。――いや、判らないことばかりなんだが、その判らないことの本質が見えてきた気がする」

「と言うと?」

「少なくともオレが、太陽神のことを知らなさ過ぎるということだ」

 言うなりカイルは身を屈め、そのままするすると下に降りた。

「――自分の神なのにか?」

 青年からやはり僅差で着地したカルジンが、訝しげに眉根を寄せる。いくら放蕩しているとはいえ、常に白狼神からの授かり物を連れている彼には、理解しがたいことのようだ。

「オレが生きるために、神はそんな必要じゃなかったからな」

 だが、それもこれまでの話だ。《光道騎士団》の闇を暴くには、神学に首を突っ込まなければならないのは明白だった。

(それに、おそらくすべてが繋がってる。すべてが……)

 セラーヌの拉致が《太陽神の巫女》ゆえなのか訝しむ意見もあるが、それを偶然だと考えるのは楽観に過ぎるとカイルは思う。昨年の巫女エル・ティーサの所在不明を考慮すれば尚更である。そのエル・ティーサの件で動いていたリエーラ・フォノイが消えた。そして、彼女から報告を受けていた月光殿管理官も。さらに、それを誤魔化すため、おそらく有史以来初めて、《光道騎士団》がセレイラの地から出るという禁を犯した。――何か、根底に流れる一筋の河のようなものがあるのだ。

(それを暴くには、やはりあの『フラエージュ』という言葉が鍵になる……)

 エルミシュワの地で対峙したガレイド・エシルが、忘我するほど動揺した謎の言葉。神学に通じているセフィアーナもノルシェスタも耳に覚えぬ単語だったが、聖騎士の中でも特異な存在の彼が発したものだ。《聖典》を紐解けば、きっとどこかに手がかりがあるはずだ。

(とはいえ、よりにもよって、あの《聖典》か……)

 ダルテーヌの谷で、院長から壊れた本棚を作り直して欲しいと頼まれたことがあるが、その原因こそ膨大な量の《聖典》だったのだ。それを今から読破しなければならないと思うと、さすがの青年も気が滅入った。

(――とにかく、これについての問題は、この聖都のどこで《聖典》を調達するかということだな……)

 だが、片手で数えられる程しかいない神官の知り合いの中に、数多の神官の中でも打って付けとしか言いようのない人物を見付けると、カイルは眉間の皺を緩め、カルジンを振り返った。

「行くところを思い付いた。ある意味、賭だが、上手く行けば、色々と判ってくるかも知れない。来るか?」

 カルジンにとって、この聖都に今回の件で宛があるのは、セラーヌが巫女として過ごしたルーフェイヤ聖山と、拉致された『白蛇亭』、そして幽閉場所の洞窟だけである。しかし、今や追われる身でいたずらに聖なる山へは行けず、客として何泊かした『白蛇亭』はごく一般的な宿屋で、洞窟に至ってはその場所さえ掴めていない。よって、彼に否やのあろうはずもなかった。



 できれば彷徨うろつきたくないと思っていた深夜、カイルとカルジンは、今度は《太陽の広場》に程近いデスターラ神殿の礼拝堂にいた。神殿の門扉は夕刻に閉ざされてしまうため、ただでさえ連続殺人事件で聖都中に緊迫感が漂う中、捕まれば警備隊に――運が悪ければ《光道騎士団》に――突き出されてしまうのは間違いない。しかし、「神官は敵じゃないのか?」と問うたカルジンに、カイルはこう答えた。

「かもしれないが、いつまでも手をこまぬいているわけにもいかない」

 そして、祭壇の物陰に身を潜めて数ディルク、ようやく青年が動いた。

「明かりが消えてそろそろ一ディルクだ。行くぞ」

 彼の言う明かりとは、この神殿の神官長を務めるヴァースレンの部屋のものだ。《尊陽祭》の折、青年とシュルエ・ヴォドラスに部屋を提供してくれた恩人である。

「カイル。もし黒だったら、本当にるのか?」

 カルジンの物騒な物言いに、カイルはためらうことなく頷いた。

「お互いまだ死にたくないだろ」

「だが、信頼に足る人物なんだろう?」

「だからこそ、もしもの場合は生かしておけない」

「いやしかし、そもそもこの事をヒースに相談しなくていいのか?」

 すると、青年の足が、廊下へと続く扉を前に急停止した。

「……警備隊の副長あいついいと言うわけないだろうが!」

 カイルは、やる気を削ぐことこの上ない男を勢いよく振り返った。まったく、この父にしてあの息子あり、である。

「言っただろう、ヴァースレンはただの神官長じゃない。巫女試験の責任者なんだ。だから、あんたが訊きたいことには、一から百まで答えてくれる。ついでに大神殿神官長としての知識でオレの疑問にもな。それがもし《光道騎士団》側の人間なら、通報される前に殺るしかないだろうが。他に現状の打開策は? 当然あるわけない。これ以上つべこべ言うなら、あとは自分で何とかしろ」

 言い捨てて扉の向こうに消えた青年を、カルジンは首を竦めて追いかけた。もしもの時は仕方ないとしても、殺人を、それも聖職者の生命を奪うことに躊躇ない青年の姿勢が、ただ気になったのだ。



 その両端にしか灯火のない暗く長い廊下を、二人は足音を立てぬよう細心の注意を払いながら進んだ。ヴァースレンの部屋がどこにあるかは春の滞在で知っており、カイルの足に迷いはない。やがて、二人は本棟三階唯一の部屋の前で立ち止まった。扉を挟んで並び立つと、そこに耳を着けて室内の様子を窺う。物音がしないことに頷き合い、扉をゆっくりと開け、まずはカイルが侵入した。カルジンは廊下に人の気配がないか再度確認してから、部屋に入る。すると、闇の中に椅子や長椅子の影が浮かび上がった。どうやら応接間らしい。カルジンが探し物を求めて目を凝らす中、青年は真っ直ぐと左手奥の扉へと向かっていた。そここそヴァースレンの私室なのだ。閉ざされた窓布からわずかに漏れる夜の光の中で、この晩幾度目かは既に知れない頷きを交わすと、二人はふたつ目の扉も開いた。

 天蓋の付いた寝台は、廊下側の壁に沿うように置かれてあった。いま、その中で一人の人間が密やかな寝息を立てている。ふいにカイルが抜剣し、カルジンもそれに倣った。そのまま寝台へと忍び寄り、カイルが側面に、カルジンが足元側に立って、もしもの時の逃げ道を塞ぐ。

 カイルは上方から垂れる布を片手で繰ると、その隙間から眠っているのがヴァースレン本人であることを薄闇に確認し、その喉元に剣先を突き付けた。

「……ヴァースレン様」

 カイルがその名を低く呼んだ瞬間だった。寝ていたヴァースレンがかっと目を見開いた。と、カイルの肩先を何かが掠め、寝台全体が拳を突き入れられたような鈍い音と共に揺れる。飛びすさった侵入者二人が呆気に取られる中、さらに石床から硬い物が割れる重々しい音が派手に上がった。

「い、石……!?」

 それぞれが大人の握り拳ほどの大きさに割れた石は、もはや沈黙と共に在るだけだった。二人が視線をヴァースレンに戻した時、青年の刃から見事逃れた彼の大神官は、何か細い棒のような物をこちらに突き付け、寝台の上にしっかりと立っていた。

「おのれ、曲者め……! ついに姿を現しおったな!」

 その唸るような叫びに顔を見合わせると、カイルとカルジンは同時に剣を下ろした。

「……ヴァースレン様、で曲者は倒せませんよ」

「何だと!?」

 寝込みを襲われ、さすがに興奮しきっている大神官を宥めようと、とりあえずカイルは剣を鞘に収めた

「オレを憶えていらっしゃいませんか? ダルテーヌの谷のカイルです、春にお世話になった」

「……カイル?」

 訝しさを三重にも四重にも滲ませた顔のまま、ヴァースレンはの先で天蓋の布をめくると、カイルを睨むように見た。

「明かりを点ければよく見えるんじゃないのか?」

 カルジンの軽い物言いに、ヴァースレンが鋭く叫ぶ。

「ならん! 明かりはならんぞ!」

 そして再びカイルを凝視した大神官は、見覚えのある顔におもむろに頷いた。

「……確かにおまえはカイル。巫女と同郷の者よな」

「はい」

「して、何故おまえがこのような時間にそのような物をかざして私の部屋におる?」

「貴方がおっしゃった通り、『曲者』だからですよ」

 ヴァースレンが表情をいっそう険しくする前で、カイルは口の端に笑みを浮かべた。

「――とはいえ、我々は今日、曲者になったばかりの身です。ヴァースレン様はまたなぜ寝床にこんな仕掛けを? 打ち所が悪かったら死んでましたよ。大神官が殺人者になったら大変でしょうに」

「おまえがそれを言うか」

 見知らぬ男の突っ込みを横目に、ヴァースレンは裸足のまま寝台を降りた。彼の足の下で、小石の擦れる音がした。

「いくら知己と言えど、このデスターラ神殿を神から預かる者として、おまえの振る舞いは到底許されるものではないぞ、カイル」

 すると、青年は鼻で小さく笑った。

「そんなことはわかっています。いずれ必ずこの身に罰が下ることも。そんなことより、オレの馬鹿げた深読みが当たっていれば、我々がこうして聖域を侵した理由と、貴方が曲者に狙われている理由が重なるかもしれません。オレの話を聞いてもらえませんか?」

「カイル?」

 驚いたカルジンがカイルを見つめた時だった。おそらく廊下側の扉が激しく開く音がし、すぐに寝室の扉が音高く叩かれたのだ。

「ヴァースレン様、ナスウェル・エルグでございますっ。何やらこちらでひどい物音が致しましたが、大丈夫でございますか!?」

 緊迫した神官の声が、室内の三人の間に緊迫の糸を張り巡らせる。

「――………」

 睨み合い、誰もが身動きできずにいると、再び外のナスウェル・エルグが声を上げる。

「ヴァースレン様!?」

 今にも扉が開かれようかという時、ヴァースレンがふっと肩の力を抜いた。

「――いや、ナスウェル・エルグ。大事ない。すまぬな、温石を落としてしまっただけだ」

「……さよう、でしたか。代わりの物をお持ちしましょうか?」

 扉の向こうの籠もった声に、ヴァースレンは首を振った。

「いや、今夜はもう必要ない。騒がせてすまぬな」

「いえ。……それでは失礼いたします」

 彼の者の足音が完全に廊下側へ消えた瞬間、カルジンが盛大に溜め息を漏らす。一方のカイルは、内心では吐息しながら、ヴァースレンに向かって小さく頭を垂れた。そしてヴァースレンは、窓辺にあった椅子を二人の方へ向けて腰を下ろした。

「……さて、曲者の言い訳とやらを聞こうではないか」

 彼の掌中で、が乾いた音を上げた。

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