第六章 暗黒の谷の脈動 --- 11

「オレたちが来たのは、ヴァースレン様に《聖典》を貸して頂きたいからなんです」

 つい先程まで生命を奪うことも辞さないと覚悟していた相手に、こちらの手の内を小なり明かさなければならないのは、一か八かの賭けだった。

「……《聖典》だと?」

 その意外過ぎたらしい理由に、の動きが止まる。

「カイル。おまえは日中、神殿の門が開いておるのを知らぬのか」

 ヴァースレンの眉間のしわに、思わず口の端を緩めたカイルだった。

「もちろん知ってます。だが、オレたちもどっかの誰かから見たら曲者のようで、最近、道を歩くのも命懸けで。だからこんな時間にお邪魔することになりました」

「なに?」

「ヴァースレン様こそ、いつから曲者に狙われているんです?」

 すると、ヴァースレンは困惑の表情で溜め息を吐き、はたきの先で二人に椅子を勧めてきた。

「そうさな……気が付いたのは、小半月ほど前だったか……。だが、姿を見たというわけではないのだ。何というか……そう、気が乱れておるとでも言おうか」

「気?」

「この神殿内の空気がな。こう……異質な気配があるというか……とにかく、違和感を覚えるのだ。ここにはもう長いが、こんなことは初めてだ」

 ヴァースレンが武術を嗜まないことは、はたきの構え方から一目瞭然だった。だが、神官としての長年の精神修行が、彼の心に警鐘を鳴らしているのだろう。その違和感というものに、カイルは興味を覚えた。

「……誰かに視られているような?」

「うむ、それもある。とにかく、存在していないものが異常に存在感を発揮しているような……すまぬな、神官長ともあろう者が、抽象的な喩えしかできぬ」

「いえ……。何か心当たりは?」

 すると、ヴァースレンは急に表情から色を抜いた。

「あるにはある」

「どんな?」

「……聖山でのことを、この私が容易たやすく口にすると思うのか?」

 警戒したのか、門を閉ざそうとする神官長にカイルが憮然としていると、椅子には座らず壁にもたれていたカルジンが声を上げた。

「死にたくないから、寝床の上に石なんか仕掛けたんじゃないんで?」

 痛いところを突かれたらしく、ヴァースレンが忌々しげに咳払いする。細かな石が散らばった床を見つめていたカイルは、ゆっくりと視線をヴァースレンに戻した。

「……聖山というと、つまり今は《月影殿》のことですよね? ということは、その曲者……《光道騎士団》じゃないんです?」

 その言葉に、夜目にも判るほど、ヴァースレンの瞳が見開かれた。

「カイル、おまえ……何を知っておる……?」

 ヴァースレンにとって、カイルは《太陽神の巫女》と同郷の者という認識しかない。それが、なぜ暗殺者のごとく自分のもとへやって来た挙句、《月光殿》が機能していないこと、今や《月影殿》と《光道騎士団》が深く繋がっていること、そして神官たちの間でも滅多と語られぬ《光道騎士団》の黒い噂を口にするのか。

「神官を襲うのは、《光道騎士団》の専売特許と聞いてます」

 ふいに、春先、青年の連れの女神官が、彼を村長の養子だと言っていたのを思い出した。だが、それにしても農夫にはありえない佇まいだった。

「……恐ろしいことを軽々しく申すでない」

 歪な気配の証拠は何もない。だが、もし曲者が実在するなら、おそらくあの集団なのではないか――当初からそんな考えが頭をよぎり、抜けない棘のようにヴァースレンの心に刺さっていたのもまた事実だった。

「ヴァースレン様」

 促されて、ヴァースレンはを卓に置いた。立ち上がり、窓布の隙間からそっと外の様子を窺う。

「……先日の国王陛下の葬礼に関して、総督府が慣例を破った。その件で《月影殿》へ行き、意見を申し上げた、ただそれだけだ」

「申し上げたとは、月影殿管理官に直接?」

「そうだ」

 ヴァースレンの答えに、カイルの隣へ立ったカルジンが呟く。

「こりゃ、《光道騎士団》じゃないだろう。あまりにも簡単に気付かせ過ぎだ」

 彼の言う通り、もし本当に《光道騎士団》が『気』の正体なら、そうと気付かせぬうちにヴァースレンを屍に変えていただろう。だが、《光道騎士団》――月影殿管理官以外の誰が、デスターラ神殿の神官長を消すことで得をするというのか。

(――いや、神官長に覚えがないと言っても、神官同士の権力争いかもしれないし……オレの気にし過ぎか……)

 セフィアーナたちと別れてからひと月半、何ひとつ手がかりを得られぬ状況に焦っていることを、カイルは自覚していた。

「で、おまえたちは誰に曲者扱いされているというのだ?」

 外の様子に特に変わったところはなく、ヴァースレンが再び席に着く。

「その事と《聖典》を読むことに何か関係があ……――まさか、おまえたちの相手こそ《光道騎士団》だというのか……!?」

 カイルたちが来た理由と、ヴァースレンが曲者に狙われる理由が重なるかもしれない――青年の最初の言葉に思い至って、ヴァースレンの表情が険しくなる。

「オレたちも証拠があるわけじゃありません。ただ、ちょっと身に覚えがあって」

「ただの信徒と《光道騎士団》にどんな接点があると――」

 そこで突然、ヴァースレンが青年を睨み付けた。

「……巫女に、何かしたのか」

「は?」

 急に低くなった神官長の声音に、カイルは怪訝そうに眉根を寄せた。

「巫女は近年、稀に見る才の持ち主で、且つあの美貌だ。同郷のおまえが離れていく彼女を見て思い詰めるのも無理は無い。だから《光道騎士団》の怒りを買ったのではないのか」

 途端、カルジンが声を殺しながら大笑いする。カイルはそれへ鋭い眼光を飛ばすと、深く溜め息を吐いた。

「ヴァースレン様……。仮にそうだとして、なぜ《聖典》なんかを借りに忍び込む必要が?」

「――無いな」

「早々に御理解いただけて、非常に助かります」

 カイルが軽く会釈すると、ヴァースレンは釈然としない様子で言い募った。

「だが、そうでないと言うなら、おまえたち、何をやらかして《光道騎士団》などに」

「いや、待ってくれ。オレは何もやってない。やったのはこいつらで、オレはこいつらの仲間と勘違いされて困ってるんだ」

 カルジンの言い様に、カイルが冷ややかな声を投げつける。

「自分から足を突っ込んで来たんだろうが。だいたい、やらかしたのはあっちだ。逆恨みされて、オレたちこそいい迷惑だ」

 二人がいがみ合っていると、ヴァースレンがもはや面倒臭そうにを払った。

「何を知りたいのだ」

 振り回されるそれが、侵入者たちの視界に割って入る。

「《聖典》を借りると言って、読破するのに机にかじりついても何年かかると思っておる」

 言うと、ヴァースレンは本棚から古びた一冊の本を持ってきた。表紙が革張りの、指二本分ほどの厚さのそれを、青年の前の円卓に置く。それは《聖典》の最初の巻だったが、明るい表情を浮かべるカルジンとは対照的に、カイルの表情は強張っていた。そこに並ぶ文字が全て《神聖文字》だったからだ。

 以前、セフィアーナが修行を始めて三年で何とか理解することができたと言っていたが、彼女の養母は神官であり、十数年の素地があってからの三年なのだ。その点、カイルは開き直って叫べるほどに無知だった。

「何だこれは。サイファエールの文字じゃないぞ」

 脇から覗いて眉を顰めるカルジンに、ヴァースレンが当然とばかりに言い放つ。

「これは《神聖文字》だ。《聖典》を読みたいのなら、まずこの《神聖文字》から修めねばならぬ」

「読み終える前に死んじまう」

 天井を仰ぐカルジンの横でカイルは《聖典》を綴じると、ヴァースレンを見た。

「さっき、何を知りたいか訊いて下さいました。教えて頂けるんですか?」

 すると、神官長はでカイルの腰を指し示した。

「その剣で脅さぬのか」

「これは……」

 一瞬、カイルは言葉に詰まった。ヴァースレンの知識は脅してでも手に入れなければならないが、やはり彼の為人が青年に迷いを与えていた。

「まぁよい。おまえが曲者であろうとなかろうと、神官が《聖典》を説くことを放棄する謂れはない。何が知りたいのだ」

 その言葉に、ヴァースレンが信頼に値する神官であることを一層感じ、カイルは内心で安堵した。

「……何もかも。いにしえの頃、セレイラ地方が聖セレイラ国と呼ばれていたことは知っています。ですが、あとは太陽神テイルハーサを崇め、まつりごとは十二人の神官によって執り行われていたということくらいしか……」

 王都で暮らした十三の頃までは、年に数度、神殿を訪れる機会もあった。だが、その後、ダルテーヌの谷に辿り着くまで、カイルが神殿の門をくぐることは一切なく、知識の更新もなかった。

「まあ、一般の信徒ではその程度であろうな。聖セレイラは小さい国ではあったが、昔も中央公路による富で栄えていた。だが、今と大きく異なることは、《聖王ハシュヴァール》が存在したことだ」

「ハシュヴァール?」

「聖なる王、という意味だ」

 カイルは、冴えた碧玉の瞳を見開いた。

「聖セレイラが、王国だった……!?」

「いや、厳密に言うと王国ではない。《聖王》は、元は十二聖官を束ねる大聖官だったのだ。それが、優秀な神官をよく輩出していたサウザウエルネシェス家出身の聖官が大聖官となった後、その超人的な能力によって《聖王》になったという」

 その驚くべき史実に、カイルとカルジンは思わず顔を見合わせた。

「超人的な能力とは……?」

「残っている僅かな史書によると、その者はめしいでありながら、恐ろしいほど予言の力に長けていたそうだ。加えて神々しいほどの美貌の持ち主でもあったらしく、神が憑依なさっているのではと言われた程らしい。それ以降、大聖官職は《聖王》という世襲職になった。世襲の存続は、おそらく一大勢力であったサウザウエルネシェスの力が働いたのであろうな……。とはいえ、政はやはり十二聖官とともに行われ、決して《聖王》による独裁的なものではなかった」

 ヴァースレンは卓から酒瓶を取り上げると、それを杯に注いで一気に飲み干した。

「だが、どんなに素晴らしい国であろうと、どんなに栄えようと、国には必ず終わりが来る。それが、クレイオス一世率いるサイファエール軍の侵攻だった。まあ、運の良いことに王はテイルハーサの信徒であったから、セレイラの地も民も害されることは全くなかったがな」

「それどころか、自治権まで保証された」

 カイルの相槌に、ヴァースレンは深く頷いた。

「そうだ。だが、その代償はあった」

「それが、《聖王》というわけか……」

 再び、ヴァースレンが頷く。

「聖セレイラが今後も聖地として時を刻むために、《聖王》とその一族はこの地から追放された。ひとつの国に二人の王は立てぬゆえな。たとえ俗称でも、そして聖職という観点からも。以降、《正陽殿》は、月光殿管理官と月影殿管理官の二神官によって、サイファエールやカルマイヤとの交渉や、散在するあまたの神殿を仕切っていくこととなった」

 村長の使いで聖都に通うようになってから、なぜ《正陽殿》に長が不在なのか不思議に思うこともあったが、ここへ来てカイルは得心した。権力が分散すれば聖山の足並みも揃わず、楯突くのも難しいと踏んだのだろう。《聖王》の存在が今の信徒に伝わっていないのも、箝口令が敷かれたからに違いない。聖地を擁することになったサイファエールが考えそうなことだ。

「《聖王》のその後については、詳しいことはわからぬ。国内では聞かぬから、カルマイヤに落ち延びたのか……」

 もともと個人的な魅力と能力によって立った《聖王》であり、聖職者が男女の契りを結ぶという禁忌を冒したことに対する潜在的な不信不満は、時代を経ても神官信徒問わず存在した。サイファエール侵攻の頃にはその権威も神聖性が薄れ、サイファエールの不審感を煽らないためにも、聖王家のその後はあえて放置されたのではないかと、ヴァースレンは考えていた。

「《光道騎士団》や……《太陽神の巫女》も、その頃から存在していたのですか?」

 カイルの本題たる問いに、カルジンもようやく椅子に腰を下ろした。

「《光道騎士団》は、そうだ。いくら神官の治める国とはいえ、周辺には蛮族が跋扈しておるし、国が大陸の要衝に在ることから、近隣からの侵略も受ける。だが、サイファエールの版図に組み込まれて以降は、専ら治安維持だけを行うようになり、規模は縮小され、あっという間にその力は失われていった」

「だが今は、気味の悪い集団だ。恐ろしいほど軍規が徹底されている」

 昼間の《光道騎士団》の演習を思い出し、カルジンは薄気味悪そうに首を竦めた。

「あのようになったのは、本当にこの十数年ほどだ。デドラス様が《光道騎士団》の団長となられてから……」

 それまでの《光道騎士団》は、『腐敗の魔窟』と蔑まれるほど荒れ果てていた。もともと地方出身の神官が大半を占める集団だったが、それが持ち前の腕っ節を必要とされない、生ぬるい聖都で時間を潰そうと思えば、供物の横領は当たり前であったし、巡礼者に対する嫌がらせも頻繁だった。その為、王都から《光道騎士団》の解団を迫られたことも一度や二度ではない。それが、デドラスの指揮の下、今や王国軍からも一目置かれる存在となった。その功をもって、デドラスは月影殿管理官となったのだ。

「そのことも不思議でした。《尊陽祭》の時に見かけましたが、月影殿管理官はまだ若いですよね? ついの月光殿管理官も。なぜもっと年嵩の神官に《正陽殿》を任せないのです?」

「……それは、イーヴィス様のお考えと聞いている」

「イーヴィス……?」

 ヴァースレンは、壁に掛けられた綴織に目を向けた。闇に不気味に浮かび上がる模様は、聖山の神殿群を縫い取ったものだ。その、麓から七番目の神殿を見つめる。

「システィ聖官殿長だ。聖山中最高齢、世が世なら、大聖官となられたのではと目されている御方だ。デドラス様の場合は、セレイラはともかく、地方の神殿には荒れておるところも多く、ゆえの抜擢ではないかと言われておる。確か三年ほど前だったか……。《月光殿》のアイゼス様も、管理官となられたのはやはり三年前だが、あれは先任の御方が病で急死されたからだ。サイファエールやカルマイヤと表立ってやりとりする部門ゆえ、先任者が後継にと育てていらっしゃったアイゼス様がそのまま職に就かれた」

「他の神官長たちに否やはなかったんです? ヴァースレン様も、貴方のほうが職歴はずっと長いはずだ」

 すると、ヴァースレンは無力感の滲む笑みを浮かべ、静かに首を振った。

「デドラス様による《光道騎士団》の更生は見事なものだった。まるで聖都――いや、セレイラ中が誇りを取り戻したような……。ゆえに、今の聖官殿長たちのデドラス様に対する信頼はかなりのものだ。一神官長の私など出る幕ではない」

「てことは、あんたの腹には一物あるってことか」

 椅子の上でふんぞり返るカルジンを、ヴァースレンは呆れたように見遣った。

「おまえはまた……。神官長である私に、遠慮をしてはくれぬのか」

「あー……すいませんね」

 カルジンは、大仰に首を竦めてみせた。テイルハーサ信徒ではない彼にそんなものがある筈もないが、いちいち説明するのも面倒だった。

「さっきも月影殿管理官に意見したと言われましたが……何か想いがおありなんですか?」

 ここぞとばかりのカイルの問いは、しかし、相手によってはぐらかされてしまった。

「おまえたちは、《聖典》のことを知りたくてここへ来たのではないのか?」

「それはそうですが、その先にあるのは《光道騎士団》との対決です。もしヴァースレン様の曲者もそうだった場合、他人事ではありません」

「ふん……別に、想いという程のこともない」

 ヴァースレンは、卓のを見た。

「ただ、その変化が急であればあるほど……自分のような老いぼれは、それに付いて行けず、恐ろしく思うものだ」

 デドラスは、今年の春先までの長い間、《月影殿》を留守にしていた。しかし、彼が戻るなり聖山の雰囲気は一変した。信仰心を煽られている神官、好戦的な威圧感を放つ聖騎士たち――。それが、ヴァースレンのはらわたをどうにも冷えさせるのだ。

「……それに、私には負い目があるゆえ、高みなど見ている場合ではない」

「負い目……?」

「《太陽神の巫女》の推薦試験だ。信徒たちの間で自由な雰囲気で行われていたものを、治安の不安から私が神殿で行うことを決めて以来、すっかり神官たちの野心が渦巻く場となってしまった……。だが、今年の試験の日、巫女がおまえたち信徒に連れられて神殿に来たのを見て、私も目が覚めた。来年からの試験の在り方を、いま考えているところだ」

 年々、己の失策を呪ってきたが、それから解き放たれる好機を彼は手にした。それを無にするわけにはいかない。

「来年の巫女は大変だ。セフィの後な上に、制度まで変えられたら」

「だが、今年のことがあった以上、もはや従来通りともいかぬ。神官信徒の中からも、少なからず声が上がっておることゆえな」

 たった一言、セフィアーナが総督府から神殿まで歩いて行くと言っただけで、長年の制度がひっくり返ろうとしているとは、本人が聞いたらさぞ驚くことだろうとカイルは思った。

「その、巫女のことも教えてくれ。《太陽神の巫女》とは一体何なんだ? 本当に太陽神に歌を献上するだけの存在なのか?」

 今まで黙っていたカルジンの矢継ぎ早な質問に、ヴァースレンは瞬きした。

「おや、おまえも興味があったとは。カイルの付き添いかと思っていたぞ」

「ああ、命懸けの付き添いだ」

 真顔のカルジンに、ヴァースレンは小さく笑った。

「ふん、そうか。だが、おまえが言った通り、《太陽神の巫女》は《尊陽祭》で《称陽歌》を奉納するだけの存在だ。――今はな」

 神官長の意味深い言葉に、カイルとカルジンは緊張した。

「と、言うと……?」

「さっきも言った、《聖王》の妃が由来なのだ」

 いくら《聖王》が神憑り的な人物だとしても、もとは一聖職者である。その者に妻を娶らせるという禁忌を冒す以上、その神聖性をできるだけ貶めない乙女が選ばれる必要があった。その白羽の矢が立ったのが、厳しい戒律の下で教育を受けた聖楽師だった。

「聖楽師もやはり聖職者には違いないが、信徒たちにとって、神官より神々しくも親しみのある存在だった。そこで、当時、稀代の歌い手と人気のあった乙女が、初めての《聖王妃》に選ばれたのだ」

 だが、世襲となった《聖王》には、代々《聖王妃》が必要となる。聖楽師から採り続けることは、彼女たちが政治的に利用される可能性を孕み、それはやがて《聖王》の神聖性にも関わる問題となってしまう。そこで新たに設けられたのが、《春暁の日》の聖儀で太陽神に《称陽歌》を奉納する乙女――《太陽神の巫女》だった。

「初代《聖王妃》に倣うことで、彼女を敬い讃えつつ、次代の《聖王妃》となる乙女の選別をし易くし、またその者の箔付けをする為――それが、旧時代の《太陽神の巫女》の内実だ」

「元は、《聖王妃》候補――」

 その真実に、神殿奥の黴びた空気のような澱みを感じ、カイルは息苦しさを覚えた。セフィアーナ、セラーヌ、そしてノルシェスタの顔が脳裏に浮かぶ。それはカルジンも同じ様で、彼もまた表情を固くしていた。

「サイファエールに組み込まれてからは、《聖王妃》が要らなくなったゆえ、神殿はその世話を怠った。したらば信徒たちが勝手に選出し始めたのが、現在の《太陽神の巫女》なのだ。思えば、現在の方がよほど神聖性があるやもしれぬな。……私が期せずして旧時代の制度に戻してしまったが」

 いつもは疾うに眠っている時間に長話をしているせいで、無性に喉が渇いた。ヴァースレンは二杯目の酒を呷ると、沈黙したままの侵入者たちを見遣った。

「……他に、何か知りたいことはあるか? そもそも《光道騎士団》と対峙するに、何故《聖典》の知識が必要なのかは知らぬが」

 最後は独り言のような神官長の呟きに、カイルは深く溜め息を吐いた。

「……『フラエージュ』という言葉を、御存知ありませんか?」

 その反応で、ヴァースレンが敵か味方か判るかもしれない。そう思って、カイルは彼の表情を注意深く見つめた。

「フラエージュ」

 その言葉を聞いた神官長は、暗闇に視線を放った。

「フラエージュ……」

 訝しげに首を捻り、果たしてヴァースレンは首を横に振った。

「いや、憶えぬな……。それは《神聖語》か?」

「多分、そうだと思ったんですが……」

 神官長が嘘を吐いているようには見えなかった。彼が知らないということは、『フラエージュ』とは《聖典》に関する言葉ではないということだろうか。てっきりここで判明するものと思っていたので、カイルはひどく落胆した。

「……ヴァースレン様は最近、セフィに会われましたか?」

「いや。巫女が王都より戻ってからは、会っておらぬ」

「えっ。《秋宵の日》は……?」

 ヴァースレンは、《太陽神の巫女》の推薦試験を司る神殿の長だ。《秋宵の日》の儀式に臨席していない筈がない。

「ああ……あの日は、その以前から所用で聖都を留守にしておってな。だが無論、《秋宵の日》の前には帰参する筈だったのだが、道中で何度もあれやこれやと足止めを喰らって、結局間に合わなんだ。おまえは行ったのか?」

「はい。けれど、遠巻きにしか……」

「《秋宵の日》以降も、《光の庭》で巡礼者たちの心を慰めていると聞く。巫女の時よりも断然会い易いだろうから、行ってみればよいに」

 ヴァースレンの言う『曲者』が《光道騎士団》であることを、カイルはまさにこの時、確信した。彼はセフィアーナの顔を知っている。いくら薄布で顔を隠そうとも、今の巫女がエルティスの扮装であることを、ひと目で見抜いてしまうだろう。その為、巫女試験の監督者でありながら、《秋宵の日》を前に聖都から出る用を言い付けられたのだ。そして、巫女が偽者だという真実は、今現在、見事に露見せず守られているというわけだ。

(――ということは、やはり神官長は味方に引き入れておくべき人物だな)

 カイルは決断した。後手に回ると、ヴァースレンの生命を逸することになるかもしれない。

「今のこのこ聖山を登ったら、あっという間に聖騎士たちに取り囲まれてしまいますよ」

「それよそれ。おまえたち――いや、カイルだけか? おまえ、いったい何をしたのだ?」

 カイルは、静かに首を横に振った。

「ヴァースレン様はオレに言われました。巫女に何かしたのか、と」

「ああ?」

「したのは、それこそ《光道騎士団》なんです」

 途端、ヴァースレンの顔色が変わる。

「……何だと?」

「オレの言うことが嘘だとお思いなら、長年巫女の誕生を見守ってきたヴァースレン様こそ、セフィに会うべきだ。けれど、直接貴方が行ってはいけません。貴方が信頼し、且つセフィの顔を知っている者に、その任を」

「―――」

 神官長は、カイルの迫力に圧されたように黙り込んだ。だが、再び口を開くまでの時間は、そう長く掛からなかった。青年の言葉が、彼の矜持を揺さぶったのだ。

「……よかろう。では、近く神殿の者を巫女のもとへ遣わそう」

「では、折を見て、その頃にまた伺います」

 カイルは席を立つと、扉の元へ行きかけて、ふと足を止めた。

「……もしや、歴代の巫女の名前が判るものがあれば、助かるのですが」

「それなら隣の部屋に」

 足音に注意しながら隣の居間へ移動すると、ヴァースレンが奥の書棚から薄い冊子を持って戻ってきた。

「原本は神殿の壁だ。毎年その名が刻まれる。私が神官長となった時に書き写し、以降のを追加してきた覚書だ」

 カイルは受け取ったが、なにぶん暗くて文字を読むことができない。

「元巫女たちの居場所は判りますか?」

「それも私が職に就いてからのは一応、最初の赴任地を記してある。神官とならなかった者は、戻り先を。その後移っておった場合は、もう判らぬが……」

「十分です。しばらくお借りします」

 カイルはそれを懐に仕舞うと、ヴァースレンに一礼した。

「どうか、くれぐれも御注意を」

 そして、カルジンと共に神官長の部屋を後にする。戻った先は無論、最初に潜伏した礼拝堂だった。ここでまた、夜が明けるまで時間を潰すのだ。

「……なあ」

 祭壇の物陰に腰を下ろすなり、カルジンが声を上げた。

「セフィアーナの歌声とは、そんなに美しいものだったのか?」

 カイルは眉根を寄せて、男を見た。

「あんた……奥さんの歌を聴いたことないのか?」

「ラスティンへの子守唄ぐらいなら」

「………」

 カルジンは殆どエルジャス山にいなかったと言うから、それも仕方のないことかもしれない。もしセラーヌの歌を聴いていたなら、或いは彼女をよそ者と蔑んでいた村人の心も変わったかもしれないし、その娘の力量も想像が付いただろうに。

「……美しいに決まってる。だからこそ――」

 カイルは目の前に掛かる太陽神の旗を仰ぎ見た。

(だからこそ、取り戻すために戦うんだ)

 たとえ半歩に満たぬ前進でも、セフィアーナを無事ダルテーヌの谷に迎え入れるまで、青年は絶対に足を止めないつもりだった。


【 第六章 了 】

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