第五章 双頭の鷹 --- 9

 新年を迎えた深夜、風雪が止むことのないその白い街道は、血も凍りつくような寒さだった。時折、一度は着地したはずの雪が、獰猛な獣の咆吼のような強風に煽られ、再び宙に舞い飛んでいく。その様子を、何度もかき消されそうになる松明の炎でかすめ見て、フレイは厚く巻いた襟巻きの中からくぐもった声を発した。

「まだ橋は見えぬか」

 すると、先鋒の騎士が大振りに前方を指さした。

「すぐそこです!」

「では、監獄まであと少しだな……。気を付けろ。橋の上が凍っているやもしれぬ」

 周囲の騎士たちに注意を促すと、フレイは真後ろから粛々と付いてくる黒檻車を振り返った。中には、つい先刻までサイファエール王国の王子を名乗っていた少年たちが乗っている。

 豪奢な寝室で二人の細い腕に縄をかけたのは、フレイ自身だった。最初は寝惚け眼だった彼らも、物々しい雰囲気にすぐに異変を察したようだった。侍従や顔見知りの近衛兵が武力で退けられるのを間近で見てからは、不信感を剥き出しにして喚き散らしていた。その態度は、叔父である――と信じていた――王弟から王位継承権の剥奪を宣告されても変わらなかったが、母レイミアの裏切りを聞かされた途端、急に大人しくなった。慕っていた父王が本当の父親ではなかったということが、母が自分たちに嘘をついたということが、彼らの幼い心を沈黙の世界へ閉じ込めてしまったらしい。

 処刑までの仮住まいと密かに定まったサイエス監獄へ行く黒檻車に乗せられてからは、物音ひとつ立てないほど静かで、彼らを護送する重大な任務を負ったフレイたち十名の親衛隊士は、まるで虚無の潜む箱を運んでいるようでひどく気が重かった。

 そうこうしている間に、橋を渡り終えた一行の前に小高い丘が見えてきた。それを巻くように伸びる道を行けば、監獄はもう目前である。月の明るい晩なら、その無骨な佇まいが浮かび上がって見えるはずだが、この夜にそれは望めそうもない。通常なら王都から二ディルクほどで辿り着ける距離を、既に三倍の時間を要してしまっているほどの悪天候なのだから。

「もう少しだからな。がんばってくれ……」

 フレイが防寒用の覆いをすっぽりと纏った愛馬のたてがみを軽く撫でてやった時だった。突如、丘の上の方で凄まじい爆発音がし、頭上が昼間ほどにも明るくなった。驚いて顔を上げると、橙色の火の華が吹きすさぶ雪の向こうに流れ咲いていた。

「な、に……」

 その一瞬が命取りだった。次の爆発音が鳴り響いたと同時に、フレイは馬もろとも何かに吹き飛ばされた。そのまま雪の上に叩きつけられ、意識を失う。その間にも轟音が途絶えることはなく、隊長を欠いた一行は恐慌状態に陥った。

「しゅ、襲撃だ! 固まるな! 展開しろ!」

 無秩序に襲い来る火の玉から逃れようと騎士たちは躍起になったが、爆音に怯え興奮しきった馬が言うことを聞かず、被害は拡大する一方だった。その時、

「ぐわっ!」

 ふいに監獄側にいた先鋒の騎士がもんどり打って落馬した。驚いて振り返った騎士が、次の犠牲となる。二人の間から駆け出たのは、漆黒の出で立ちをした一人の騎士だった。顔は、覆面で見えない。

「き、貴様、何者だ!」

 その姿を捉えた騎士がやっとの思いで剣を抜いた時にはもう遅い。既に眼前に迫っていた敵に剣で胸を殴打され、馬から転げ落ちた。

「こンの……!」

 残された三人の騎士に追い回され、黒衣の騎士は逃げまどった。ひたすらに黒檻車の周囲をまわり続け、しびれを切らした三騎が挟み撃ちしようと分かれたところで、一騎の方に狙いを定め、さらに各個撃破していく。

「相手はひとりだぞ!? 何をやってる! 早く仕留めろ!」

 だが、黒檻車の御者をしていた親衛隊士が焦って叫んだ時には、仲間の騎士はもはや誰も雪の上に立ってはいなかった。自分の喉元へ不敵に向けられた剣を見て、その隊士は浮かせかけていた腰をどかっと御者台に下ろした。徐々に黒衣の騎士が間を詰めてくる。あと一ピクトというところまで迫った時、隊士はいきなり手綱と鞭を打って黒檻車を急発進させた。

「監獄はすぐそこなんだ……!」

 丘を越えさえすれば、サイエス監獄の夜警に立っている兵士が見付けてくれるかもしれない。その一心で、隊士は鞭を振るった。だが、黒衣の騎士の執念の方が、彼より遥かに強いものだったようだ。

 吹雪の中を失踪する黒檻車に横付けした黒衣の騎士は、何のためらいもなく鞍上を蹴り、御者台に飛び移ってきた。その勢いのまま、台から蹴り落とされる。

「貴様……!」

 隊士はかろうじて掴んでいた手綱にぶらさがり引きずられていたが、路傍にあった雪塊に直撃し、ついに手を離してしまった。

「くそっ」

 隊士が白い地面に拳を叩きつけた時、その眼前で、黒檻車を乗っ取った黒衣の騎士は挑戦的にも悠然と方向転換し、こちらへ戻ってきた。

「このまま虚仮こけにされてたまるかっ!」

 隊士は勇敢にも御者台への復帰を図ろうとしたが、台を掴んだ手を剣の束で強打され、再び雪原に沈んだ。



 苦しいほどに打ち鳴らされる心臓を、深呼吸で何とかやり過ごしながら、クレスティナは奪取した黒檻車の御者台で必死に鞭を振るっていた。顔に当たる雪は石つぶてのように痛いはずだが、今は気にもならなかった。

(ここまでは、どうにか上手く行ったようだな……)

 何とか襲撃現場まで戻り、半ば雪に埋もれつつある護送隊の騎士たちをさっと見渡して、冷めやらぬ興奮におののきながらの溜め息を吐く。

 王宮を出てからクレスティナが真っ先に向かったのは、宮廷御抱えの花火師の家だった。新年祭の準備に追われ、ようやく寝付いたばかりのところだったらしい親方を叩き起こすと、王都の郊外へ花火を仕掛けるよう依頼した。吹雪の深夜ということで、無論、親方は「冗談じゃありませんぜ」と断って来たが、「天下一の花火師が、まさかできぬとは申すまいな」「花火師は他にもいたな」と言葉尻を攻め、最後には「王太子殿下の御所望である」という一言の下、弟子ごと夜の闇に引っ張り出すことに成功したのだ。彼らは、クレスティナが王子付きの近衛兵であることは前夜祭の間に知っており、また王子たちが彼らの花火をたいそう喜んでいたということを聞き及んでいたこともあって、結局は「滅多にない機会」と、嫌みたっぷりにも従ってくれた。――まさか、彼女や王子たちの境遇が激変しているとは、思いも寄らなかっただろう。

 その花火師一行は今頃、丘の陰に作った天幕で震えているはずである。上を向いていた花火の筒を、クレスティナが街道に向けて蹴倒した時の、彼らの寒さによってではない蒼白な顔を、クレスティナは唇を噛みしめながら思い浮かべた。そんな親方に一通の書状を押しつけ、自分は愛馬に跨って丘を駆け下りたのである。

(とにかく、早く橋まで戻らなくては……)

 護送隊の者たちは、元を正せば仲間だった近衛兵である。すべて当て身を喰らわせただけなので、いつまた意識を取り戻して追いかけてくるかも知れない。そこで、クレスティナは、木製の橋を落とす気だった。そうすれば、王都へ急を告げる使者を遮ることにもなり、自分たちが逃亡するための時間稼ぎもできると踏んだのだ。

 と、クレスティナの耳に、弱々しい声が聞こえてきた。

「ねえ、あなたは誰……? 僕たちを、どこへ連れて行くの……?」

 それは、黒檻車の前上部に取り付けられた鉄格子の小窓から発されていた。盛大な爆音に度重なる乱暴な手綱捌きとくれば、何事かが生じたと気付いても無理はない。

(マリオ様……!)

 たった数ディルク前に別れたばかりなのに、その声がひどく懐かしく思えた。胸にこみ上げる想いを何とかやり過ごすと、クレスティナは返事をしようと前方が見られる程度に首を巡らせた。その時、彼女の耳が、今度は軍旗のはためくような異音を捉えた。はっとしてクレスティナが後方を見上げると、黒檻車の上に人影があった。左右の灯火に照らされて浮かび上がった姿は――フレイのものだった。その外套が、風で激しく翻っている。

「………!!」

 雷の落ちるがごとき斬撃を、クレスティナは背中越しにあわやのところで回避した。体勢を立て直すため、振り向きざま、牽制の剣を繰り出す。だが、それはいとも簡単に薙ぎ払われ、結果、クレスティナは剣を手放してしまった。宙に放られたそれは、一瞬にして闇に呑まれ、見えなくなる。大いに舌打ちしたクレスティナは、第三撃を御者台に上がる足掛けにまで身を引いて躱した。同時に黒檻車の角に付いている持ち手を掴み、それを支えにフレイの肩に跳び蹴りを喰らわせる。フレイは尻餅をついたが、御者台を掴んで落下することは免れた。

 二人は互いに荒く呼吸しながら、狭い御者台の左右で対峙した。

「……貴様、何者だ。よくもナメた真似をしてくれたものだな」

 フレイは憤怒の表情でクレスティナに剣を突き付けてきた。実直で知られる彼である。任務の遂行を邪魔する者に容赦などするはずがない。その時、ふいにクレスティナは閃いた。思わず、その口から笑みがこぼれる。

「ああ……そういうことか」

 その、低いが明らかに女のものである声にフレイが瞠目するのと、クレスティナが覆面を取り払い、正体を晒すのが同時だった。今はひとつに結ばれた漆黒の長い髪が、風に嬲られて宙を舞う。

「なぜシダをドナス神殿へ使いに出したのか……事を成すのには邪魔だったというわけですね」

 言いながら、クレスティナは内心で歯軋りした。

(今頃気付くなどと……!)

 そこへ、黒檻車から歓喜の声が上がる。

「クレスティナ! クレスティナなんだね!? 僕たちを助けに来てくれたの!?」

 その方へ一瞬、視線を遣った後、フレイは不敵な笑みを浮かべてクレスティナを見た。

「クレスティナ。貴様、乱心したか」

「それは貴方では? フ……番犬は所詮、番犬。王弟殿下に美味い餌でも放られたので?」

 だが、目を細めただけで、フレイがその挑発に乗ることはなかった。

「このやり様、女の分際で小隊長を名乗っているだけのことはある。――いや、名乗っていた、だな。案ずるな。その首、新王登極の祝いに晒してやろう!」

 次の瞬間、フレイが剣を突き込んできた。それを予想していたクレスティナは、身を低く屈めてそれをやり過ごすと、懐の短剣を繰り出した。

「御免!」

 クレスティナが苦々しい勝利を確信した瞬間、突如、天地がひっくり返った。間髪入れず、膝で胸元を踏みつけられ、片腕で首を絞められる。――どうやら見事なほどに避けられたらしい。これが小隊長と大隊長の格の違いということか。

 クレスティナは逃れようと必死になったが、御者台の足場にはまり込んだせいで身動きがまったく取れなかった。そうこうするうちに、再びフレイの剣が振り上げられる。――絶体絶命だった。

(フゼスマーニ……!!)

 死を覚悟して、クレスティナは目を強く綴じた。その時。

 ガンッと金属を打つような音がして、クレスティナの顔に細い棒のような物が落ちてきた。まさに眼前、近すぎて彼女にはそれが何か判らなかったが、それを見たフレイの目の色が変わったのは解った。弾かれたように前方を見たフレイが、何か大きなものが飛んできたと思った次の瞬間、クレスティナの上から消えていた。慌てて起き上がると、膝の上に落ちたのは一本の矢だった。

「クレスティナ!? クレスティナ、大丈夫か!?」

 今度のは、口調からコートミールの声だろう。それで我に返ったクレスティナが後方を見ると、御者台の背もたれに男の手が引っかかっていた。すかさずその手を蹴り剥がしにかかる。何が起きたのかまったくわからなかったが、フレイを振り落とす千載一遇の好機であることには違いない。しかし。

「しょ、小隊長、やめてください!」

 そこから聞こえてきた意外な悲鳴に、クレスティナは紅蓮の瞳をこれ以上ないほど見開いた。

「パ、パウルス!?」

 クレスティナが血相を変えて御者台と黒檻車の間を覗き込むと、そこには見慣れた顔が厳しい表情でぶら下がっていた。

「か、勘弁して下さいよっ。せっかく助けたのに蹴り落とそうとするなんて!」

「パウルス、すまぬ。――やっ、おぬし、どうしてここに……」

 すっかり動転している元上官に、パウルスは膝を曲げた苦しい体勢から叫んだ。

「それよりも手綱っ。手綱を取って下さい! もうすぐ橋の前の曲がり道ですよっ」

 言われて、クレスティナは慌てて前を見た。迫る雪の壁に急いで手綱を取り、馬に速度を落とさせて左に曲がると、そのまま橋に進入する。その時、ようやく這い上がってきたパウルスが、クレスティナの隣に這々の体で腰を下ろした。

「まったく、死ぬかと思いましたよ……。で、次はどういう手筈で?」

「つ、次? 次は……そうだ。この橋の下に油の入った樽を置いてある。それに火を付けて――」

「橋を落とすんですね?」

「あ、ああ……」

 困惑するクレスティナの横で指笛を吹くと、パウルスは暗がりに向かって叫んだ。

「エザヤス、火矢だ! 橋の下を狙え!」

 すると、右手の土手付近に、まるで火の魔物が生まれるように、小さな灯が浮かんだ。それは、黒檻車が橋を渡り終えるのを見届けると、入れ替わりに明るい尾を引きながら橋へ向かった。そして、クレスティナが御者台から身を乗り出して後方を見た時には、炎の舌が橋を両の欄干から舐め始めていた。

「――さて。後はとんずらするだけですね、小隊長?」

 パウルスの声にクレスティナが身体を椅子の上へ戻すのと、彼がいつの間にか彼女から取り上げた手綱を打つのが同時だった。みるみる速度が上がっていく中、クレスティナは、パウルスを睨み付けた。

「……どういうつもりだ」

 すると、パウルスは相槌を打つように軽く首を竦めた。

「シャンブリの森で、フォルネオたちが待っているんです。そこへ向かいます」

「そういうことを訊いているのではない! どうして――何でおぬしらが!!」

 近衛兵団長から双子救出の密命を受けたのはクレスティナだ。双子が監獄へ護送されるという情報は大隊長から直接仕入れ、他には漏れていないはずである。ゆえに、もし失敗しても、死ぬのは彼女ただひとりで済む――はずだった。

 どんなに過酷な状況でも、小隊の者に声をかければ、全員ではなくとも何人かが付いて来てくれることはわかっていた。だが、そうしなかったのは、彼女に母や姉がいるように、彼らにも守るべき家族がいるのを知っているからだ。それなのに。

 だが、そんなクレスティナの想いを知ってか知らずか、パウルスはふてくされたように吐き捨てた。

「それはこっちの台詞ですよ。何ですか、さっきのは。花火ですか? まったく、女のくせに独りであんな無茶をして」

「なっ」

 今までに聞いたこともないパウルスの悪態に、クレスティナは容易に言葉を失った。そんな彼女を無視して、パウルスは不機嫌そうに黒檻車に視線を投げた。

「それよりも、中のお二人はご無事なんでしょうね!?」

 そこでクレスティナは、自分の憤懣をひとまず抑え込むと、御者台から立ち上がり、黒檻車に向き直った。と、その後方が視界に入り、唇を噛む。火矢を放ったエザヤスを筆頭に、身体中に雪を貼り付かせながら馬を走らせる元部下たちの姿が見えた。

「大馬鹿者どもが……」

 その呟きが聞こえたのか、パウルスが脅すように言った。

「小隊長、覚悟しといて下さいよ。皆、相当怒ってますからね」

 クレスティナは顔をしかめてパウルスの頭を見下ろすと、深く溜め息を吐き、まずは双子の鉄格子に向かった。



 一行がシャンブリの森に辿り着いたのは、護送隊襲撃から半ディルク後のことだった。吹雪はいっそう激しさを増したが、逃亡者たちにとっては馬蹄痕を消してくれる天の恵みだった。

「パウルス、こっちだ!」

 森の入口で待っていたのは、別働隊を指揮していたフォルネオ自身だった。二十九歳になる、クレスティナにとっては数多い年上の元部下のひとりである。

 フォルネオは、吹雪を避けるため、森の中の少し開けた場所まで黒檻車を誘導して行った。その後、パウルスから手綱を預かると、その肩を貸し、御者台から降りる支えとなってやる。

「おまえの勘が当たったな。まさか本当に奪い返しに行っていたとは」

 にんまりと笑うフォルネオに、地面に降りたパウルスが相変わらず不機嫌そうに答えた。

「小隊長の性格から言って、どう考えても引き際が良すぎるでしょうが」

「まぁな。しっかし、意外に早かったな。もっと時間がかかると思ってたんだが」

「でも、私たちは何もしてませんよ。何っにもね。まーあ、派手にドンパパ打ち上げて、私たちが遠くで呆気に取られている間に、お独りでこの箱奪って来たんです」

「へーえ……」

 そこで初めて、フォルネオはまともにクレスティナを見上げた。

「『ドンパパ』って、何です?」

 返す言葉もないクレスティナが、ばつが悪そうに唇を噛んでいると、前方の森の中からと黒檻車の後方から、どやどやと元部下たちが集まってきた。その数、二十九。――全員だった。

「フォルネオさん、どうするんです?」

 馬を降り、雪を払いながらやって来たエザヤスが、クレスティナをちらと見て尋ねる。それへ、フォルネオは意味深げな笑みを口の端に浮かべた。

は後だ。コスティオ、あったか?」

 すると、森の方からやって来た体格の良い男が、フォルネオの前に一本の斧をかざした。

「少し錆びてるが、使えると思うぞ」

「そうか。じゃあ、急いで頼む」

 そこでコスティオは黒檻車の後ろへ回り込むと、そこに掛けられた大きな錠前に向かって斧を振り下ろした。何度か打ち下ろした後、凄まじい音がして折れ飛んだのは――斧の方だった。

「コスティオ……」

 皆の冷たい視線が集まる中、コスティオは雪の積もった黒い頭をがしがしと掻いた。

「す、すまん。しかし、何でだ? 呪いでもかかってるみたいに頑丈だな」

「斧が見かけより錆びてたんじゃないのか?」

「そうか……?」

「そんなことより、どうする? このままじゃ、中のお二人が出られないぞ」

 男たちが困惑している間を、御者台から飛び降りたクレスティナは縫うように歩いていくと、まるで城門のように閉ざされたままの黒檻車の扉の前に立った。

「あ、小隊長……」

 コスティオが場を譲るのと同時に、クレスティナはフォルネオを振り返り、今度は彼女が意味深げな笑みを返してやった。

「フォルネオ、『ドンパパ』の意味を教えてやろう」

「は?」

 訝しげなフォルネオにはかまわず、クレスティナは扉に口元を寄せた。

「ミール様、マリオ様。目一杯下がって耳を塞いでおいて下さい。――おぬしらもな」

 自分たちを見回す顔から笑みが消えているのを見て取って、パウルスは慌てた。

「ま、さか、小隊長!? やめて下さ――」

 仲間たちを押しのけ、前に出ようとしたが、彼の制止は間に合わなかった。クレスティナが錠前の鍵穴に何かを押し込み、松明をかざした次の瞬間、男たちが皆、腰を引くほどの爆発音と衝撃がして、頑丈な錠前が吹っ飛んだ。そして、乾いた音とともに、黒檻車の扉が開く。

「ぶっは! 何だ、今のは……!」

 頭上の木から落ちてきた雪をまともにかぶって、フォルネオは目を白黒させた。その回りで、仲間たちが頭を振ったり、耳を押さえたりしている。

 一方、男たちの様子には目もくれず、クレスティナは黒檻車の中に浮かび上がった小さな人影に向かって手を差し伸べた。

「ミール様! マリオ様!」

「クレスティナ……!」

 駆け出てきた二人の少年は、そのままの勢いで自分たちを助け出してくれた女騎士に飛びついた。クレスティナは、そんな二人をしっかと抱きしめ、雪の中に倒れ込む。

「お二人とも、よくぞご無事で……」

 コートミールとファンマリオは、別れた時に来ていた夜着のままだった。黒檻車の中に毛布が落ちているのが見えたが、この吹雪の中、さぞや寒かったことだろう。

「クレスティナ、クレスティナ……!」

 不安と恐怖から解放され、安堵で泣きじゃくる二人の背を撫でてやりながら、クレスティナもいつの間にか涙を流していた。

「――まったく、うちの小隊長には敵わないぜ……」

 フォルネオの呟きも、男たちの憮然とした笑顔も、今のクレスティナには気付くべくもなかった。だが、再会の余韻に浸っている時間など、今の彼らにはない。

「さて……そろそろ次の行動に移るべきだな」

 フォルネオの言葉に、パウルスが深く頷く。

「ええ。追っ手がかかるのも時間の問題です。そうでしょう、小隊長?」

 そこでクレスティナは顔を上げると、赤くした目で男たちを見回した。

「そうだ。だが、今ならまだ間に合う。おぬしらは王宮へ――」

「あーあー、もう。それ以上は聞きませんよ、小隊長。『連帯責任』が口癖の人が抜け駆けするなんて!」

 大声でクレスティナの言葉を遮ったのは、血の気の多いエザヤスだった。

「フォルネオさん、さっきので一瞬、頭からブッ飛びかけましたけど、やっぱり制裁発動させた方が良いですよ」

「さっきから何だ、その『制裁』というのは」

 首を傾げるクレスティナへ、フォルネオが薄ら笑いとともに説明する。

「言葉通りですよ。つまり、抜け駆けのお仕置きです」

「さっき言ったでしょう? 皆怒ってるって」

 パウルスに念を押されて、クレスティナは押し黙った。その前で、フォルネオが嬉々として声を張り上げる。

「森で待ってる間、寒かったんで名案を思い付いたぞ。ひとりずつ、小隊長の熱い抱擁に接吻! どうだ!?」

 フォルネオの提案にも目を剥いたが、その直後に上がった歓声にも、クレスティナは蒼白になった。

「ばっ、馬鹿か、おぬしらは!! お二人の前で! だいたい抜け駆けと言ったって、私は近衛を辞めた身だぞ!? 何をしようと私の――」

「えっ、クレスティナ、近衛を辞めたの!?」

 途端、入った双子の追及に、クレスティナが口籠っていると、フォルネオが腰に手を当ててふん反り返った。もともと斜に構えたところがあるため、そうすると憎たらしいことこの上ない。

「……ほーら、やっぱりわかってない。それを抜け駆けと言うんです。勝手に辞めたことがね」

「見くびられたもんだな、オレたち」

 レジンという男のぼやきに、クレスティナは眉根を寄せた。

「そ、そういう、つもりでは――」

「とにかく、制裁が嫌なら、これ以上ごちゃごちゃ言わないことですよ、。だいたい、オレたちだって皆、貴女の後釜になって面倒背負い込むのは嫌なんです」

 普段とは逆に、エザヤスごときにバッサリと斬り捨てられ、クレスティナは何とも物悲しい気分になった。

「しかし……お二人はともかく、おぬしらまで抱えて、これから一体どうしたものか……」

「あれ、小隊長ともあろう御方が、この先無策で?」

 飄々と言い放つフォルネオを、クレスティナは軽く睨んだ。

「あの短時間で黒檻車を取り返しただけでも良しとしてくれ」

「とても褒められた方法じゃありませんがね」

 森に到着する前より輪をかけて不機嫌になったパウルスの言葉に、クレスティナは小さく溜め息を吐いた。その時、腕の中のコートミールが掠れた声を発した。

「……なぁ、クレスティナ。叔父上が、私たちは王子じゃないって言ったんだ。父上の……イージェント王の子じゃないって。それって……本当、なのか……?」

 少年の揺れる天色の瞳に、クレスティナは一瞬、言葉に詰まった。だが、言い繕ったところで、厳しい現実から逃れることは所詮、できないのだ。

「……私にはわかりません」

 頭を振る彼女に、コートミールは尚も縋るように言を次いだ。

「母上が……嘘をついてたって……。でも、そんなことあるはずないんだ。母上は、父さんを死んだことにしてたこと、泣きながら謝ってくれた。クレスティナだってテフラ村で見てただろ? それなのに、なんでまた嘘なんか。母さんは、母さんは嘘なんかついてないっ……」

「ミール様……」

 クレスティナは、今一度、少年たちを強く抱きしめてやった。

「お二人は、捕まった後、レイミア様にお会いになれたのですか?」

 途端、固く口を噤んでしまった双子へ、王宮から持ち出してきた彼らの外套を着せかけてやりながら、パウルスが暗い面持ちで口を開いた。

「一瞬だけ……。ですが、レイミア様はお二人の叫びに何もお答えにならず、親衛隊に連れて行かれました」

「なんたる……。では、侍従は――そうだ、カレサス殿は!?」

「彼は、私たちの目の前で捕まりました。今のところ、彼の第一報が発端とされていますし……。サウスとクイルのことは、わかりません」

 クレスティナは、ほつれて顔に纏わりつく髪を鬱陶しげに払った。

「どちらにしろ、粛清の嵐が吹き荒れることは間違いないな……」

「クレスティナ、シュクセイって何だ?」

「あ、いえ……」

 言葉を濁らせる彼女を見て、コートミールは着せてもらった外套の端を握り締めた。裏地に毛皮を張ってある高級なものだったが、今はそれが恨めしく見えた。

「オレ……オレ、母さんに会いたい」

「ミール様」

「母さんに会って、母さんが嘘ついてないってことを確かめたい! なぁ、クレスティナ。母さん、捕まってるんだろ!? だったら、だったら助けなきゃ!」

 コートミールは立ち上がると、必死で言い募った。だが。

「それは……できません」

 クレスティナの言葉に、コートミールは目を見開いた。ファンマリオも、顔を歪めて彼女から身を離す。

「できないって……ど、どうしてさ!?」

「レイミア様をお助けしようとすれば、お二人のどちらかが――いえ、もしかしたらお二人ともが、死んでしまうかもしれないからです」

「えっ、オレたちが死ぬ!? どうして!」

「レイミア様はきっと、トランス殿下の命で厳しく見張られているはずです。お二人が逃げたことが判れば、なおさらに。そんな場所へ、これだけの戦力で救出に向かうのは、自殺行為です」

「そ、そんな……」

 焦燥感を露わにして、コートミールが俯く。その小さな拳の震えが、頼もしくも痛ましかった。

「無論、私も皆も、レイミア様にお会いして、その口から真実をお聞きしたいと思っています。けれど、今は駄目です。今はとにかく、生き延びることが大切なのです」

「クレスティナは、母さんを置いて、オレたちだけで逃げろって言うのか!? オレたち、何も悪いことなんかしてないじゃないか!」

 そんなことは百も承知だ。だが、たとえ近衛兵団長の密命がなかろうと、二人を母親の近くへ連れていくことはできない。死に神の得物の柄の長さが計り知れない今は。

 クレスティナは、憤りのこもった目で、双子を見た。

「トランス殿下がお二人を監獄へ送ろうとしたのは、お二人を殺すためです。あの方が玉座へ就くためには、あなた方の存在がどうしても邪魔になるからです」

「!!」

「真実がどこにあるのか、今はまだわかりません。けれど、レイミア様にとって、お二人が大切な存在であることに変わりはないはず。私はレイミア様のためにも、あなた方お二人をお守りしたいのです。いつか、再びレイミア様にお会いする日のために」

 少なくとも、鷹の間で王族相手に誓ったというレイミアの言葉に心に、偽りはなかったはずだ。今後、どんなに身をやつそうとも、それだけは確かめなくてはならない真実なのだ。

「クレスティナ……」

 彼女の覚悟を感じ取ってか、天色の瞳にみるみる涙が盛り上がる。そして、それはとめどなく二人の頬を伝った。だが、この寒さでは凍傷になりかねず、クレスティナは慌ててそれを拭ってやった。

「さてさて、こんな大所帯でなければ、山に逃げ込むなり、海に――船に潜り込むなり、姿を隠すのも多少は簡単なのだが」

 クレスティナが行き先のことで頭を抱えていると、ふとファンマリオが顔を上げた。

「船……?」

「どうしたんだ、マリオ?」

 呆けている片割れの顔をコートミールが覗き込むと、ファンマリオはその肩を鷲掴みにして言った。

「ボク……母さんに会えないなら、テイランへ行きたい」

「テ、テイラン……?」

「テイランへ行って、イスフェルに会いたい! イスフェル、父上の命令でボクたちをテフラ村まで迎えに来たって言ってたもん。イスフェルなら、何か知ってるかもしれないでしょ!?」

 その言葉に、クレスティナは過日、旧海上警備隊の詰め所でファンマリオと交わした会話を思い出した。テイランへ行ってみたいかと尋ねた彼女に、ファンマリオは深く頷いたのだ。だが、クレスティナには、今回の政変はイスフェルにも青天の霹靂なのではないかと思った。でなければ、聡明な彼が偽りの王子――それも双子――に、身命を賭すような真似ができたはずもない。

 そもそも簡単にテイランへ行くと言って、かの地は王都から千八百モワルも離れた、国内でありながら異国のように遠い場所である。通常、騎馬でもふた月はかかる。追っ手から逃れながらとなれば、その日数は計り知れないのだ。人馬が動くには、食糧が必要になる。三十二人と三十二騎のそれを、今から冬本番を迎えるというこの時期、一体どこから調達するというのか。

「あ、当面の食糧やらは心配ありませんよ。フォルネオさんたちが備蓄倉庫からかっぱらってきましたから。他にも色々――抜かりはありませんっ」

 クレスティナが沈黙する理由のひとつを、エザヤスがあっけらかんと言い当てる。大言壮語で付いてきた以上、厄介者にはなりたくないようで、男たちはエザヤスの言葉に大きく頷きながら、彼女を取り巻く輪をさらに狭めた。

「ま、斧は忘れたけどな」

 フォルネオの言葉に笑いが漏れる中、クレスティナはひとりで考えるのが馬鹿馬鹿しくなって、大きく息を吐き出した。

「……そうですね。ならば、こうなった以上、山車だしの最初の担ぎ手に責任を取ってもらいましょうか」

 厳密に言うと少し違うのだが、死者や敵の掌中にある人間に期待はできない。その点、イスフェルは牢獄暮らしとはいえ、母親の故郷にいるのだ。少しは融通も利くというものだろう。それに、テイランは諸外国への航路をいくつも開いており、いざとなったら外国へ逃げることもできる。その点は王都のイデラ港も同じだが、監視の厳しさを考えれば、テイランの方が事は難くないはずだ。お膝元のテイラン警備隊や、ひいては領主デルケイス=ラドウェルには申し訳ないことだが。

「――あ? 今、斧を忘れたと言ったか? では、さっきの斧はどうした」

 ふと引っかかってクレスティナが尋ねると、斧を折ったコスティオが、森の奥を指さした。

「この奥に古い木樵小屋があって、そこから拝借したんです」

「木樵小屋……」

 それが、ある想い出をクレスティナの胸に呼び覚ました。死んだ恋人と逢瀬を重ねた場所が、まさにそうだったのだ。

(……死んだ人間に助けを求めるなんて、私も焼きが回ったものだな)

 フレイに殺されると思った瞬間、彼女は心の中でその名を叫んでいた。とうの昔に気持ちの整理はついていたが、なにぶん死体を見ていないので、心の奥底ではいつまでも引きずってしまうのだ。そして、あることに思い至って、クレスティナははっとした。慌ててパウルスを振り返る。

「おぬしに大切なことを言うのを忘れていた」

「……何です?」

 パウルスは相変わらず無愛想だったが、クレスティナはかまわず言を次いだ。

「さっきの、親衛隊長のことだ。助けてくれて、ありがとう。おぬしには密かに結構、命を助けられているな。今後も頼む」

 以前、カイザール城塞へ遠征した際、《太陽神の巫女》が人質に取られる騒ぎがあったが、あの時も彼女を救ってくれたのはパウルスだった。暴漢の毒針に当たらないよう、かばってくれたのだ。

 クレスティナに屈託のない笑顔を向けられて、パウルスは困ったように視線をさまよわせた。

「べ、別に……当然のことをしたまでですから」

 しかし、素っ気ない言葉とは裏腹に、その眉間のしわが解けたのを、向かいに立っていたフォルネオは見逃さなかった。彼はおもしろそうに片眉を上げ、それから何事もなかったようにクレスティナを見た。

「小隊長殿。いい加減、命令を出してくれないと、我々、凍え死にそうなんですが」

 クレスティナは、覚悟を決めた。

「いざ、テイランへ!」

 その言葉に男たちはにやっと顔を見合わせると、漆黒の空に向かって拳を突き上げた。

「おおー!!」

 森の外の吹雪は相変わらずだったが、三十二人の絆は、その雪を溶かすほどの熱さで繋がれるものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る