第五章 双頭の鷹 --- 8

 金色こんじきの熱い滝が、盛大な破裂音と共に氷の張った王宮の池へと降り注ぐ。その様子を対岸の貴賓席から眺めてみて、コートミールとファンマリオは歓声を上げた。さらに次々と天空で華が弾け、冬の夜空に煌めく星々を霞ませるのに見入る。

「なんてキレイなんだろう。これが花火っていうのか……」

 夢心地のファンマリオに対し、瞳の中にその輝きを宿したコートミールは、ふいに上座から立ち上がった。

「オレ、あそこへ行ってくる!」

 言うなり庭へ飛び出そうとする少年の前に立ちはだかったのは、筆頭侍従のカレサスだった。

「ミール様、マリオ様。そろそろお休みの時間でございます」

「えーっ、もう!? オレ、あの打ち上げてるところへ行きたいんだ。どうなってるか見たいんだよっ」

 瞬間的に不平を鳴らすコートミールに、カレサスは静かに首を横に振った。

「ミール様、『オレ』ではなく『私』ですよ」

「なっ」

 一気に不機嫌になったコートミールを見て、ファンマリオは助け船を出した。

 大病から生還してひと月。ファンマリオと比べると、まだ幾分痩せているコートミールだが、その健康状態はすっかり回復している。それどころか、寝込んでいた間の分まで取り戻そうとしているかのように、公の場では特に、必要以上に元気に振る舞うことが多く、ファンマリオには兄が無理をしているのではと少し心配だった。――ひとつには、ファンマリオとの競射で負けたことも要因になっているのだろうが。

「カレサス、せっかくのお祭りなんだもん。もうちょっといいでしょう?」

 困惑顔のカレサスに、だが、それはあと一歩のところで叶わなかった。二人の母レイミアから制止がかかったのである。

「明日はいよいよ新年祭――ミール、あなたの即位の儀なのですよ。寝不足では乗り切れませんよ」

 それでなくとも、コートミールには倒れた前科がある。

 王子たちの反対側で果物に手を伸ばしていたエウリーヤが、さらに諫めるように顔を上げた。

「お二人とも、母上のおっしゃることは素直にお聞きになるものですよ」

 しかし、双子王子は食い下がった。

「でも、義姉上たちはまだ、お休みにならないんでしょ?」

「わ、私たちはもう大人ですもの」

「えー、でも、シャルラ義姉上は私たちと五つしか違わないのに」

 途端、聞き捨てならぬと声を上げたのは、第三王女のシャルラである。

「『しか』ではなくて『も』よ! 私はもう立派な淑女よ!」

 自分を挟んで交わされる会話に、王妃メルジアは目を細めた。

「このように皆に楽しんでもらい、祭礼官としては誉れですね、エヴェス殿」

 すると、後方に控えていた祭礼官長が恭しく頭を下げた。

「王子様方。明日はさらに楽しい趣向を御用意しておりますれば、今宵はもうお休みくだされ」

 エヴェスの言に、コートミールは天色の瞳を輝かせた。

「楽しい!?」

「私の部下たちが、お二人のためにがんばりましたゆえ」

 祭礼官の多くが宰相派だったこともあって、双子王子に対する彼らのもてなしは、非常に厚いものだった。

「わかった! じゃあ、もう寝るよ!」

 コートミールとファンマリオは、申し合わせたように母を囲むと、その頬に優しく接吻した。

「母上、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 二人にとっては習慣的な動作だったが、それは今宵のレイミアにとっては特別な意味を持っていた。

「二人とも……」

 レイミアは、まるで永久の別れのように、強く強く二人を抱き締めた。彼らの柔らかな梔子色の巻毛が頬をくすぐるのさえ、愛おしい。

「は、母上……」

「苦しいよ、母上」

 二人の喘ぐ声を聞いて、ようやくレイミアは我に返った。

「あ……ごめんなさいね」

 その様子を隣から眺めていたメルジアは、即位の儀を控え、レイミアが神経質になっているのだと思った。平民として生きた時間のほうがまだまだ長く、頼みの夫にさえ先立たれてしまったのだ。コートミール即位に対する不安要素も依然として排除できておらず、無理からぬことだった。

 前夜祭で集っていた人々に見送られながら、コートミールとファンマリオが侍従たちに連れられて宮殿内へと戻っていく。次第に小さくなっていくその背を、レイミアは必死で目に焼き付けた。

(さようなら、私の息子たち。しばらくのお別れです。どうか、私の罪を赦して。強く、強くおなりなさい……)

 そして、それをさらに離れた場所から見ていたトランスは、背後に控えていたフレイに視線を遣った。フレイは静かに頷くと、回廊の闇に消えていった。



 いくら双子とはいえ、国王となったコートミールと王弟となったファンマリオが同室で休むことは許されない。ゆえに、この夜は、幼い兄弟にとって枕を並べて寝られる最後の機会だった。

 しばらく興奮して広い寝台の上で騒いでいた二人だが、ややもすると急に静かになった。身体はばらばらの方向へ投げ出しながら、顔だけは突き合わせて眠る彼らに羽毛の上掛けをかけてやると、クレスティナはカレサスとともに寝室を出た。

「では、申し訳ありませんが、私も休ませていただきます」

 夜の間、侍従は必ずひとり、廊下と寝室の間の続き部屋で休むことになっている。壁際に、簡易の寝台が置かれてあるのだ。警備の近衛は、二名ずつ交代で、外の廊下の扉の前に立つのが常だった。

「どうぞ、おかまいなく。明日は貴殿も大変だ」

「ええ。やっと……やっと、ここまで来たのです」

 それを聞いて、クレスティナは廊下への扉を開けようとしていた手から、ふっと力を抜いた。後ろを振り返ると、カレサスは思い詰めたように寝台を見つめていた。

「カレサス殿……?」

 すると、カレサスは自嘲気味な笑みを浮かべてクレスティナを見やった。

「貴女のようにお強い方にはおわかりにならないでしょうが……――あ、いえ、無論、貴女が今日まで順風満帆だったとも思いませんが」

「……何をおっしゃりたいのです?」

 クレスティナが怪訝そうに眉根を寄せると、カレサスはしばらく逡巡した後、重い吐息を洩らした。

「実は、イスフェル殿に申し上げたことがあるのですよ。貴方と良い関係を築いていきたい、と。上の代の方々と同じように」

 クレスティナは紅蓮の瞳をわずかに見張ると、口元をほころばせた。

「素晴らしいお心がけではありませんか。私も近衛の小隊長を名乗る身。どうぞ、お仲間に加えて頂きたい」

 しかし、カレサスは小さく首を振った。

「あの言葉は、私の逃げだったのかもしれません」

「は……?」

「私は、年下のイスフェル殿に半ば丸投げする形で、筆頭侍従を務めようとしていたのですよ。でなければ、イスフェル殿が失脚なさった時のあの重圧感は……」

「カレサス殿」

「私は本来、筆頭侍従などというお役目を頂けるような人間ではないのです。たまたま母が亡くなり、たまたまダーズワールの村へ立ち寄った。そして、たまたま、レイミア様溺死の真相を知ってしまった……」

 クレスティナは、思わず吹き出してしまった。

「そこまで偶然が重なれば、もはや必然では?」

「そう思える強さが、私にはなかなかないのです。ですが、その弱さを見て見ぬ振りをして、今日まで必死にやって来ました」

「貴殿のミール様への手厚い看病は、近衛でも評判になっていましたよ」

 女騎士の気遣うような賛辞に、カレサスははっとして彼女を見た。

「あ……その分、貴女にしわ寄せが行ったのでしたね。今さらですが、申し訳ありませんでした」

 あの混乱の中で、必死だったのはみな同じなのだ。自分だけが悲劇の主人公になろうとしていたことに突然思い至り、カレサスは恥ずかしくなった。

「しわ寄せなどと。たまにはこちらにも仕事を回して下さらないと」

 イスフェルの反逆という罪は、多くの宮廷人の運命を変えた。カレサスもその例外ではなかったというわけだ。己の器の小ささを自覚している分、込み上げた万感の思いを誰かに聞いて欲しくなったのだろう。

 クレスティナは、内心で溜め息を吐いた。こういう話は酒でも酌み交わしながらしたいものだが、互いの仕事上、それは不可能だった。

「やっと、ですね」

 代わりに、カレサスの想いに念を押してやる。

「……はい」

「しっかりなさって下さいよ、筆頭侍従殿。私も王子付きとして、しっかりしますから。近衛と侍従がしっかりとお二人を守っていくのです」

「そうですね」

 ようやくカレサスに笑顔が戻り、クレスティナはそっと胸を撫で下ろした。出仕歴はカレサスの方が数年ほど長いはずだが、これまでの交流の中で、彼が学者肌で出世欲のないことは知れていた。時として激しい権力闘争の巻き起こる宮廷だが、大志のある彼には是非生き残って欲しいところだった。

 その時、遠慮がちに廊下側の扉が開いた。顔を覗かせたのは、クレスティナ麾下のパウルスだった。時機の良さに、立ち聞きしていたのかと軽く睨むと、彼は首を竦めて見せた。

「では、私は仕事に戻ります」

「お引き留めして申し訳ありませんでした」

「愚痴でしたら、いつでも聞いて差し上げますよ。慣れていますから、ご遠慮なく」

 クレスティナの皮肉を装った励ましは、カレサスをひどく安堵させた。そして、なぜ彼女が近衛にいられるのか、小隊長を名乗れるのか、深く得心するのだった。

 クレスティナが扉を閉めて廊下へ出ると、パウルスが早速、口をへの字に曲げた。

「我々はそんなに愚痴ばっかり言っていますか?」

「たとえば今のそれとか? 私がミール様の寝室へ行く前には、振る舞い酒を飲めぬことでも何やら言っていたような気がするが」

「……もう結構です」

 パウルスは賢明な判断を下した。男が女に舌戦で勝とうなどと、そもそも無理なのだ。

「それで、何か用か?」

「あ、そうでした。兵団長閣下がお呼びだそうです」

「兵団長閣下? 大隊長ではなく?」

「……こんな初歩的なことで間違えませんよ」

「ふん、そうか。では、しばらくの間、ここを頼む」

 くすくす笑って手を振ると、クレスティナは近衛兵団の中央官舎に向かって歩き出した。



 深夜の凍てつく寒さは、官舎内に入ってもあまり和らぐことはなかった。かじかんだ手を擦り合わせてから扉を叩いたクレスティナが、近衛兵団長の執務室へ入ると、そこには直属の上司である第一大隊長ラルードの姿もあった。

「王太子殿下はお休みになられたかい?」

 ラルードの気さくな声かけに、クレスティナは笑みとともに頷いた。

「はい、マリオ様とご一緒に。今宵限りと致しますので、どうぞご容赦ください」

 すると、文机に着いていたトルーゼが小さく頷いた。

「致し方あるまい。だが今後、御寝所はともかく、昼間はできるだけお二人に同じ場所へ居て頂くことだ。せめて成人の日までは」

「承知いたしました。それで、御用というのは……」

「ああ、明日の式典の警備について、いま一度確認しておこうと思ってな」

「そう、でしたか」

 クレスティナは、内心で首を傾げた。明日の新年祭で執り行われる即位の儀は、サイファエール王国の誰もが待ち侘びる一大祭事である。二十五年ぶりに立つ新国王の警護には、わずかでも隙があってはならない。ゆえに、各部隊、各部署との連携が重要なはずだったが、呼び出されたのが、王子付きとはいえ小隊長の彼女ひとりだったからだ。まさか今さら、「女だから」という理由で念を押そうというのでもないだろう。

 だが、クレスティナは自分の疑問を口にしなかった。そんなことより重要なのは、やはり王太子コートミールと王子ファンマリオの身命だったからである。しかし、今まで築き上げてきた信頼や実績というすべてのものを打ち崩さんとする足音は、今にもそこに迫っていたのである。

「――特に、ハウルフォース広場での披露目の際には注意することだ。民に紛れ、どこに不埒者が潜んでいるやもしれぬ。――以上だ」

 一通りの確認作業が終わり、クレスティナが敬礼しようと背筋を正した時だった。

「閣下! 一大事にございます!」

 まるで押し入るように開けられた扉から入ってきたのは、トルーゼの懐刀を気取っている第三大隊長のバハールだった。

「何事だ、騒々しい」

「そっれが……!」

 バハールは大きな身体を乱れた呼吸で上下させながら、三人の前に凶報をぶちまけた。

「先ほどフレイが――トランス殿下の親衛隊が王太子殿下の御寝所に押し寄せ、王子お二人に縄を……!」

「な、何だと!?」

 日頃は暢気なことで知られるラルードが殺気だって目を剥く横で、一瞬の硬直を余儀なくされたクレスティナは、そのわずかな間に背筋を何かがじわじわと這い上がっていく感覚に襲われた。が、次の瞬間、脱兎のごとく床を蹴る。部屋を飛び出そうとした彼女を、だが、トルーゼが呼び止めた。

「待て、クレスティナ!!」

 まるで怒号のようなその声に、思わず室内を振り返る。しかし、トルーゼはそんなクレスティナを険しい表情で一瞥しただけで、再びバハールに顔を向けた。

「して、フレイはなにゆえそのような暴挙を?」

「それが、お出ましになられたトランス殿下がおっしゃるには、レイミア様が王子お二人の出生について、虚偽の申告をなさったからだと」

「虚偽の申告?」

「つまり、コートミール様とファンマリオ様は、亡き陛下の御子ではなかった、と……」

 それを聞いたクレスティナは、風のように室内に取って返すと、トルーゼの向かい側から文机に両の拳を打ち付けた。

「嘘です!! そのようなこと、あるはずがありません!!」

 だが、トルーゼが口を開く前に、バハールが投げやりな口調で言を次いだ。

「嘘なものか。その証拠に、証人とされた神官と隊商の女将は、偽証罪で投獄済みだそうだ。何より、レイミア様御自身が罪をお認めになっている」

「………!!」

 紅蓮の瞳をこれ以上ないくらい見開くと、クレスティナはゆっくりとバハールを振り返った。

 言葉も、なかった。言葉など、そう、あるはずがない。つい先刻まで、レイミアは前夜祭を楽しんでいたではないか。王子二人に寄り添って、明日はいよいよ即位の儀だと。

(明日は、いよいよ、と……)

 ふっと、クレスティナの胸に先刻のカレサスの顔が浮かんだ。

「バハール。それで、トランス殿下は今どちらに?」

「閣下に、蒼の間に来るようにとの仰せです」

「あいわかった。おぬしは他の大隊長にも蒼の間へ来るよう知らせてくれ」

「御意」

 大任を終えてほっとしたのか、バハールはやたらと軍靴を鳴らせて部屋を出て行った。そして、室内に、外よりも凍てついた沈黙の帳が降りる。

 両の肩からこぼれ落ちた漆黒の髪が、己の動揺を示すかのように揺れる。それを見て唇を噛みしめると、クレスティナはゆっくりとトルーゼを振り仰いだ。

「閣下は――」

「待ちなさい、クレスティナ」

 またしても制され、クレスティナが忌々しげに振り返ると、彼女の隣に歩を進めたラルードがトルーゼに厳しい表情を向けた。

「閣下。閣下はこの件について、何も御存知ではなかったのですか?」

 それこそクレスティナが訊きたかったことであり、彼女は油を得た炎のように勢い込んで、近衛兵団長に視線を戻した。

「なぜに、私とこの者をお呼びになったのです?」

 すると、しばらくの沈黙の後、トルーゼは二人を交互に見据え、淡々と言い放った。

「……証人の女二人を投獄したのは、この私だ」

 クレスティナは、先ほど背筋を這い上がったものの正体を掴んだ。怒りだ。憎しみや妬みという負の感情から解放された、ただ単純な怒り。

(なぜ、あのお二人がこんな目に……!!)

 王家と大人の勝手な都合で、あの二人の少年たちは、母との慎ましやかな生活を捨てざるを得なかった。鷹巣下りに同行した彼女は、そのすべてを目撃している。そして、王都へやって来てからの、父王との団欒。優しく微笑み合っていた、六つの天色の瞳――。

「閣下は陛下を……亡きイージェント王を裏切ったのですか!?」

 この時になって、クレスティナはイスフェルの気持ちが少しわかった気がした。たとえ身の破滅がわかっていようと、言わずにはおれない、この凄まじき衝動!

「トランス殿下にいったい何と言われたのです!!」

「黙れ、小娘!!」

 トルーゼは紺の外套から丸太のように太い腕を槍のごとく突き出すと、クレスティナの胸ぐらを掴んだ。あまりの速さに、さすがの彼女も避けきれなかった。喉元を締め上げられながら、凄みの利いた声が彼女の耳から入り、はらわたを抉る。

「私の忠誠は、イージェント王ただおひとりのものだ。だが、近衛兵団の忠誠は、サイファエール王家のためにある」

 瞬間、突き飛ばされ、クレスティナは床に倒れて噎せ返った。

「閣下、誠に申し訳ありませぬ。どうぞ、この者の無礼をお許し下さい」

 二人の間に割って入ったラルードが膝を折って詫びるのを、クレスティナは腹立たしげに、だが、何も言えずに見ていた。

「それで、レイミア様は――王子お二人は、今後どうなります……?」

「国を欺いた罪は、万死に値する。訊かずともわかっておろう」

 トルーゼはどさっと椅子に腰を下ろすと、拳で肘置きを打ち据えた。

「……だが、サイファエールの国王が御子とお認めになり、鷹の間で家臣に頭をお下げになってまで守ろうとなさった者たちを殺めるのは忍びない。そもそも、自ら王都に押しかけてきたわけでもない者たちを」

 その言葉に、ラルードとクレスティナは思わず顔を見合わせた。

「閣下……?」

 すると、トルーゼは薄笑いを浮かべ、クレスティナを見た。

「ラルード。ついにこの厄介者を近衛から追い出す時が来たぞ」

 ラルードは、眉根を寄せた。近衛初の女性騎士を自分の部隊に迎え入れた時から、彼の腹は据わっている。彼女も、麾下の他の者たちと同様、大切な騎士だった。

「閣下。お言葉ですが、私はこの者をそのようには思っておりませぬ」

「ふん。今のは先ほどの腹いせだ」

 トルーゼは立ち上がると、外套を翻してクレスティナの前に立った。

「クレスティナ、おぬしの忠誠とやらを見せてもらおうか。王子二人をトランス殿下の掌中から救い出し、どこぞへと落ち延びよ」

「か、閣下!」

「よいな。絶対にお二人を生きて逃がすのだ」

 トルーゼの瞳に宿る真摯な光に、クレスティナは心を打たれた。近衛兵団の長でありながら、王位継承者だと世を欺いた者を野に放つ。それが、彼のイージェント王への忠誠なのだ。彼の今後の動向やトランスの思惑などを考えると気が重いが、そこまで考えを巡らせる余裕は、今の彼女にはなかった。

「は、はっ……!」

 涙が滔々と伝う頬を床に擦らせるほど、クレスティナは深く深く頭を垂れた。



 クレスティナが王太子の寝室だった部屋へ戻ると、彼女の部下たちが至る所で呆然と立ち尽くし、また項垂れて座り込んでいた。その脇をすり抜け、彼女は双子の寝ていた寝台にそっと手を当てた。それは、期せずして、テフラ村で逃亡したレイミア親子三人を追いかける際、イスフェルがした動作と同じであった。

「まだ、温かい……」

 すると、その周囲にのろのろと部下たちが集まってきた。

「小隊長、オレたち、どうすれば……」

「なんで……なんでこんなことに……!」

「お二人とレイミア様は、これからどうなるんですか!? 私たちも、これから……」

 口々に言い立てる彼らを、クレスティナは冷めた目で見回した。

「そんなことは新しい小隊長に訊け。私は近衛を辞める。おぬしらとも、今日限りでさよならだ」

 二十九人の男たちは、一斉に息を呑んだ。

「や、辞めるって……」

「おぬしらはともかく、私は王子付きの部隊の長を名乗っていたのだぞ。もはや近衛に私の将来はない。そもそも、未練もない」

 すると、入団三年目の血気盛んなエザヤスが、大きく足を踏み出した。

「では、小隊長はこのままお二人を見殺しにする気ですか!? たとえ、もう、王子ではなくても――」

「阿呆なことを申すな。おぬしらは近衛兵であろうが。近衛の仕事は、王家の方々を守ることだ」

 クレスティナはエザヤスを一蹴すると、背筋を伸ばし、腹に力を込めた。

「最後の命令を伝える。おぬしらは官舎の談話室へ戻り、指示があるまで待機。以上だ」

 それに応えたのは、情けない顔、泣きそうな顔、思いつめた顔、怒りを滲ませた顔、無気力な顔という様々な表情だった。クレスティナはふっと吹き出した。依然として近衛兵団の制服を身に付けたままではあるが、その上に纏った、目には見えぬ鎧が剥がれたように思った。

「今まで……本当にありがとう。女の小隊長ということで、おぬしらも肩身の狭い思いをしたこともあっただろう。だが、よく付いてきてくれた。おぬしらのような部下を持ったことを、私は本当に誇りに思う」

「小隊長……」

 真横にいたパウルスが何か言いたげなのを、肩を叩いて制すと、クレスティナは颯爽と踵を返した。

「では皆、息災でな」

 そのまま、暗い廊下へと出る。ほんの数ディルク前まで思いもしなかった展開に、もはや溜め息しか出なかった。

(こんな最後になるとはな。だが――)

 クレスティナはふと思った。もし、この夜の政変がなく、コートミールが無事に国王になっていたとして、彼女自身はいつまで近衛にいたのだろうか。戦死か、病死か、退役か。結婚という選択肢は、今の彼女にはない。

(刹那主義ではないつもりだが、自分に対して、恐ろしいほど展望がないな……)

 自嘲気味に笑った時、通り過ぎた柱の陰に人の気配を感じた。と、同時に名前を呼ばれる。

「クレスティナ」

 押し殺した声ではあったが、それが大隊長ラルードのものであることは、すぐにわかった。クレスティナが足を止めると、ラルードはすぐに言を次いだ。

「二人は今、王宮の地下牢にいるそうだよ。今宵のうちに、サイエス監獄へ移されるはずだ」

 クレスティナは小さく頷くと、正面の闇を見つめたまま囁いた。

「……ひとつ、お願いしてもいいですか」

「何なりと」

 そこで、ふいに震えそうになる唇を、クレスティナはぐっと噛みしめた。

「母と、姉を……。二人とも、身体が弱くて……」

 健やかなら、まだ放ってもおけるが、これまで二人の生活はクレスティナの双肩にかかっていたのだ。甘いと言われても、生まれ育った小さな家が、時を置かず彼女たちの墓場となるのは耐えられない。

「承知した」

 ラルードの簡潔ながら頼もしい返答に、クレスティナは心底ほっとした。そして、胸の奥がじんと熱くなっていくのに笑みをこぼす。

「貴方の部下で、私は本当に幸せでした。皆にも、守ってもらって……。どうか、ご武運を」

 その、近衛の小隊長を張るには細い肩が小刻みに震えるのを、ラルードは困ったように見つめた。

「武運は、きみが持って行ってしまうんだよ。近衛のシャーレーン殿。ケルストレス神に愛されし女性。……いつかまた、きみの絹服姿を見せておくれ」

 昨年の晩秋、ゼオラの私邸で行われた宴でのことを思い出して、クレスティナは軽く吹き出した。ゼオラの差し金で美しく着飾った彼女を巡り、ラルードがゼオラに楯突いたことがあったのだ。

「風紀はもう、関係ありませんからね」

 言うと、ラルードを残し、クレスティナは再び歩き始めた。漆黒の闇を行く黒豹のごとく、紅蓮の瞳のみを光らせて。

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