第五章 双頭の鷹 --- 3

 クレスティナは、憮然として眉根を寄せた。ファンマリオの弓の稽古の時間となり、いつもの的場へ向かったのだが、待てど暮らせど王子が現れない。そして、三つあった木製の的が、すべて土台から外されて無くなっていることに気付いたのである。

「もしや、前回の一件をお怒りなのでは……」

 クレスティナの背後で、部下のパウルスが困惑気味に口を開いた。

「……だとしても、私は間違ったことを言っていない」

 大きく息を吐くと、クレスティナは王宮の方へ踵を返した。

 ファンマリオの双子の兄で、王太子たるコートミールの病は重篤化し、昏倒から既に十日が経っていた。侍医長の診断で、病名はベイル熱と知れていた。ひと昔前に隣国ルタリスクのベイル地方で広まった、蚊を媒体とする熱病である。数日間、高熱が続いた後、通常は快方へ向かうが、体力のない子どもや高齢者は、別の病を併発して死に至ることも少なくないという。

 コートミールとは生まれて以来、三日と離れたことのないというファンマリオだが、万一の伝染を危惧した侍医長により、その寝室への入室を固く禁じられ、十日もの間、一度も兄の顔を見られずにいた。心配と不安に苛まれ憔悴しきった少年は、自分に課せられた日々の諸々を拒否し、彼ら兄弟を分かつ扉一枚に背を預け、日中を過ごしていた。最初の数日は致し方ないと目をつぶって来た教師陣だが、コートミールの病が長引くにつれ、そう甘いことも言っていられなくなった。王太子の王位継承について、宮廷内で懸念する声が上がってきたのである。

 きっかけは、コートミールが倒れて五日目に届いた、ルタリスクの国境侵犯の報だった。

 ベイル熱発祥の地でもあるルタリスクは、サイファエールの北西に位置する大帝国である。国の歴史としてはサイファエールの方が長いが、今や国土国力ともルタリスクの方が遥かに勝る。ルタリスクとの国境を守るモーザ城塞での戦闘は、小部隊同士の小競り合いならほとんど毎年のように起こっていたが、それが近年、頻発し、被害も徐々に拡大しつつあった。そして今回、退けはしたものの、モーザ城塞の城司将軍エンディズまでが矢傷を負うという、過去に類を見ないほどの激闘が行われたという。

 敵国にとって、国王を失ったサイファエールは現在、攻め込むには絶好の機会である。そして、もしそれが現実となった場合、幼年の王太子では国を守りきれないというのが、一部の貴族たちの意見だった。

(幼い国王など、どの国でも例があること。まして、亡き陛下が病を押してまで王族会議で念を押されたと言うに、馬鹿なことを!)

 王太子の寝室へ向かう長い廊下を歩きながら、クレスティナは内心で唾棄した。幼年の王太子が駄目なら、いったい誰であればいいというのか。浮かび上がる人影は、ひとつしかない。

(シダを異動させたのは正解だったというわけか……。とにかく今は、マリオ様を何とかしなくては)

 ファンマリオまでが鬱ぎ込んでしまったことで、相次ぐ不幸にただでさえ暗くなっていた王宮内は、いっそう陰鬱となっていた。王子としての本分を蔑ろにしては、広がる懸念に対抗できなくなる。コートミールの身に何かあれば、次に矢面に立たなければならないのは、ファンマリオなのだ。

(ああ……こんな時、あの騒々しいシダがいれば、マリオ様も多少はお元気になられるだろうに)

 クレスティナは少し苛ついて、額の黒髪を掻いた。そもそもファンマリオを導くべきは侍従の仕事だったが、双子侍従のサウスとクイルは、王太子の病を自分たちのことのように受け止めて動揺しているため、強制力のある指導をできずにいた。頼みの筆頭侍従カレサスは、コートミールの看病にかかりっきりになっている。そこで、前回の稽古の際、連日のごとくすっぽかしたファンマリオを彼女が諫めたのだが、少年の表情は至って硬かった。

(――いや、硬いと言うより、あれは……)

 クレスティナは、その時のファンマリオの天色の瞳を思い出して、唇を引き結んだ。それはまるで、彼女に双子の姉妹がいないことを責められているような気にさせるものだったのだ。双子の姉妹が病気で苦しんでいたら、そんなことは絶対に言えないよ――と。

「……それにしても、的を壊すなんて、マリオ様らしくないよな」

「ああ、確かに」

「いや、待て。あの双子侍従の入れ知恵かも知れぬぞ。あやつら、学院では相当名の通った悪ガキだったらしいではないか」

 後方で部下たちが話しているのが聞こえ、クレスティナはふと腑に落ちないものを感じた。確かにサウスとクイルの悪童ぶりは、イスフェルから――いや、シダから積極的に聞かされていたが、今のところ彼らは鳴りを潜めている。むしろ潜めすぎだと思うくらいに。ゆえに的を壊したのは彼らではないような気がしたのだ。もっともクレスティナとしては、こんな時期にこそ、彼らの能力が発揮されるべきだと思った。それで近衛が手を焼かされることになっても、鬱々とした日々を過ごすよりはましなはずだから……。

(たまには良い知らせのひとつもお知らせしようと思っていたのに、まずはまた説教から始めねばならぬとは)

 装飾の施された扉の前で立ち止まったクレスティナは、再び大きく息を吐くと、それを押し開けた。しかし、そこにも、そして王太子の寝室の扉の前にも、ファンマリオの姿はなかった。



 ファンマリオは恐ろしかった。

(今まで、病気になる時はいつもいっしょだったのに、なんでボクはならないの……!? ボクもいっしょだったら、きっと苦しいのも半分になるのに……!)

 寝台の上で独り病魔と戦っている分身のことを思うと、心がもがれそうだった。そして。

(もし……もしこのままミールに会えなくなっちゃったら……)

 身の竦む予感が、少年の小さな身体を襲う。まるでそれは、足下に地面を感じられないような、漆黒の巨大な穴を落ちていくような感覚だった。

 その時、

「マリオ様、墨が……」

 気遣うような声がして、少年がはっと顔を上げると、両側から双子侍従が心配そうに彼を見ていた。

「――あ、しまった。たれちゃった……」

 筆を持つ自分の手元を見て、ファンマリオは舌を出した。画布代わりの板に大きな黒い染みができていた。すると、向かいに腰を下ろしていた男が、髭の奥で大きく笑った。

「マリオ様、絵師の腕の見せ所ですぞ。その染みを如何に絵に生かすか」

「そ、そんなこといっても、こんな大きな染み、どうやって……」

 男が見本に描いてくれた絵を見ても、できた染みほど大きな部分はない。

「これは失敗ってことで……」

 呟いて板を交換しようとする王子に、髭の男はぎらりと目を光らせた。

「王子様はもう贅沢に慣れてしまわれたのですかな。テフラ村にいらっしゃった頃、母君から物を大切にと言われておられませんでしたか」

「そ、それはもちろんだよ。でも、これじゃあ……」

 肩を落とすファンマリオを見て、サウスが助け船を出した。

「では、まずウィヌエ殿が『腕の見せ所』とやらをマリオ様にご披露ください」

「お、そりゃいいや。よっ、当代一の宮廷絵師!」

 合いの手を入れたのは、言わずと知れたクイルである。祭り上げられた男は、双子侍従をじろりと一瞥した後、にやっと笑った。そして、王子の前から板を引き取ると、そこにさらさらと自分の筆を滑らせた。

 できあがった絵に、三人は感嘆して目を丸くした。

「すっげぇ……!」

「なるほどなぁ」

 下品な物言いで感心する者たちの間で、ファンマリオは目から鱗が落ちたかのようにウィヌエの絵に見入っていた。

「……そっか、なにもお手本の通りに描くことはないんだ……」

「そうですよ」

 ウィヌエは筆を置くと、今し方描いた絵と見本の絵を宙にかざして見せた。

「同じ人間が同じものを描いてもこんなに違うのですから、マリオ様が同じように描く必要などないのです。ご自分のお好きなようにお描き下さい」

「うん……!」

 宮廷絵師の励ましに、ファンマリオは深く頷いた。新しい板をサウスに机の上へ置いてもらうと、覚悟を決め、筆に墨を付けて一気に筆を走らせる。

「……おお、マリオ様。かなり大胆に描かれましたな。なかなかお見事ですぞ」

 唸るウィヌエに、ファンマリオは照れくさそうに頭を掻いた。

「ボクは下手くそだから、このくらい大きくないと退治できないと思うんだ」

「ほほう」

 そして、最後の一枚は、細筆に持ち替え、同じ絵を先ほどとは比べものにならないほど小さく描いた。ウィヌエは首を傾げた。

「大きくないと退治できないのでは?」

「あ、こっちは――」

 無礼なほど大きな音で部屋の扉が叩かれたのは、その時である。応対に出たクイルを突き飛ばしそうな勢いで入ってきたのは、近衛のパウルスたちだった。

「小隊長、いらっしゃいました!」

 険しい声に応じて室内に入ってきたのは、やはり表情を険しくした近衛の女騎士クレスティナだった。

「サウスとクイル、そなたらに話がある。表へ出よ。殿はこのまま」

 今までに見たことのない冷たい表情のクレスティナに、和気藹々と絵を描いていた三人は、全身総毛立った。彼女はファンマリオのことをいつも「マリオ様」と呼んでいたのに、それすら改まってしまっている。

「ク、クレスティナ。どうかしたの? 何かあっ……――まさか、ミールに何か」

「『何か』!?」

 クレスティナの鋭い視線が、容赦なく幼い王子を貫く。

「殿下。越権行為とは重々承知ですが、私どもは侍従長にこの二人の罷免を要求するつもりです」

 瞬間、サウスとクイルの二人が息を呑む。その間で、ファンマリオがひとり、怪訝そうに首を傾げた。

「ヒメン……?」

「辞めさせる、ということです」

 パウルスの硬い声に、今度こそファンマリオも瞠目した。

「え、えっ、どうして!?」

「料理場の皿洗い係が皿洗いをしなければクビになります。それと同じことです」

「え……それって、ふたりが侍従の仕事をしてないって言うこと!?」

「その通りです」

「そ、そんなことないよ! ふたりはちゃんとボクの相手をして――」

「相手をすることだけが侍従の仕事ではありません。――そうだな、サウスにクイル」

「は、はい……」

 戸惑いを隠せない様子で小さく頷く二人を見て、クレスティナは自分の耳に手を遣った。

「なんだ、今、『はい』と言ったのか? 蚊の鳴くような声を耳をそばだてて聞き取ってやったが、そう答えたわりに行動が伴わぬのはいったい何故だ。王太子殿下がお苦しみの今、そなたらが怠慢を働く理由はいったい何だ。ぜひ教えてもらいたい」

「た、怠慢……」

「そうだ。今、何ディルクだか知っているか? 我々が的場で過ごした虚しい時間と、何かあったのかと王宮中を駆けずり回って殿下をお探しした焦燥の時間を経た今がいったい何ディルクだか。さあ、答えてみよ」

 サウスとクイルは困惑気味に顔を見合わせると、壁側に置いてあった掛け時計を見た。すると、その視線を追っていったウィヌエが顔を歪めて言った。

「ああ……芸術に時の忙しさは無用のもの。すまんな、あれは止まっているぞ」

「えっ……!?」

 みるみるうちに青ざめた二人は、近衛の者たちの方へ恐る恐る、それは恐る恐る視線を戻した。そんな彼らに、クレスティナは追い打ちをかけた。

「そなたらが殿下と行方を眩まし、探す我々が駆けずり回る。いったい何度目のことかは、もはや神しかご存知あるまいな。機会があったら近衛兵団長に進言して、王宮の見取り図を描く大会を催してもらおう。さすれば、我が第三小隊は優勝間違いなしだ」

『近衛のシャーレーン』とも異名を取るクレスティナの凄まじいに、矢面に立たされた双子侍従は勿論、後方に控えていた近衛までもが顔を強張らせていた。物も言えず硬直してしまった双子侍従から目を反らすと、クレスティナは今度はファンマリオに向かった。

「殿下。近衛の仕事は王家の方々を――殿下をお守りすることですが、それは常に殿下のそばに在る侍従にも当てはまります。この非常時に、殿下の所在を不明にするなど侍従の務めにあってはならぬこと。ゆえに私どもは今後のことも考え、罷免という言葉を口にするのです」

「そ、そんな……!」

「弓の稽古の前の時間は何をする時間でしたか? 少なくとも、絵師殿の部屋での用はなかったはず。殿下の我が儘をお諫めするのも侍従の仕事。つまり二人は何もやっていないということです。……まったく、

 明らかに挑発の言であったが、その者に思い入れの強すぎる三人は、見事に怒りで顔を赤くした。それを見たウィヌエが両手を強く打った。

「はい、そこまで。クレスティナ殿も、もうその辺で宜しかろう?」

 クレスティナがじろっとウィヌエを見遣ると、宮廷絵師はぽりぽりと額を掻いた。

「時間の件に関しては、私にも責任がある。それに、これを見れば、怒りも少しは収まろう」

 そうして王子の描いた絵を「よいせ」と持ち上げた。

「これは……」

 近衛の前に晒されたのは、見覚えのある無骨な板だったが、目を引いたのは、そこに大きく描かれた羽虫だった。

「蚊?」

 クレスティナは頬がひくつくのを感じた。近衛の面々も気味が悪そうに顔を歪めている。

「さよう。貴女は前回の稽古の際、マリオ様をお諫めしたそうですね。そこでマリオ様は稽古にやる気が出るように、そしてミール様の病の元凶に少しでも矢を当てて御快癒を引き寄せるように、的に蚊の絵を描かれていたのです」

「………」

「クレスティナ殿のお気持ちもわかる。そして、貴女が言っていることが実際、正しいことも。だが、マリオ様のお心意気が間違っているわけでも、決してない」

「……ええ。そうですね」

 クレスティナは長机に歩を進めると、ウィヌエの持つ板に手を伸ばした。

「あのように小さな虫が人間を蝕む様をよく捉えておいでです」

 クレスティナの胴以上に大きな的一面に描かれた蚊は、今やサイファエール王宮に君臨する悪の権化に見えた。クレスティナは長く息を吐くと、ようやく表情を和らげた。

「……マリオ様。小耳に挟んだのですが、ズシュール領主のデルケイス=ラドウェル様が、ミール様のお見舞いに王都へ来られるそうです」

 それは、シェラード=サリードからの情報だった。

「え、ズシュールって……テイランのある……?」

「そうです」

 途端、ファンマリオは勿論、双子侍従の顔色が明るくなった。

「じゃ、じゃあ……!」

「マリオ様がお召しになれば、デルケイス様も喜んでお越し下さるでしょう。そうすれば、彼の者の近況なども聞けるかもしれません」

「本当に……!?」

 久々に耳にする良い報告に、ファンマリオたちは手を取り合って喜んだ。そんな彼らに、クレスティナは静かに言った。

「サウスにクイル。彼の者を慕っておったそなたらのことだ。あれが王都に残した想いを知らぬはずはあるまい。今のそなたらの姿を見たら、きっと侍従に抜擢したことを後悔するとは思わぬか?」

「……思います」

「あれにこれ以上、汚名を着せてやるな。わかったな」

「はい。いっそう精進いたします」

 今度ははっきりと返事をした二人だった。

「ボ、ボクもみんなを困らせないようにがんばるよっ。ミールが起きたら驚いて慌てるくらいに、弓を引くのうまくなってやる!」

 発憤する王子に、誰もが笑顔を向けた。

「さあ、まだ日が沈むまで時間があります。早く的場へ戻りましょう」

 そうして四ディルク遅れで稽古を開始したファンマリオは、自分の描いた大きな蚊に二本、矢を当てることができた。小さな蚊はクレスティナが一射目で仕留めたが、宮廷絵師の描いたやたら目の大きな蚊は、その眼力で近衛の矢を逸らせ、小隊長クレスティナに怒号を放たせた。

「まったく、おぬしら、たるんでおるぞ! 近衛の的場にも蚊を描いたものを置くか!?」

 クレスティナは何の気なしに放った言葉だったが、果たしてそれは現実となった。翌朝、的場へ鍛錬に行った第一連隊の近衛兵が、二十ほどある的すべてに蚊が描かれているのを見付けたのである。調査の結果、王宮にある的という的すべてが被害に遭っていることが判明した。誰の悪戯か、無論、クレスティナたちは気付いたが、犯人の想いに口を割ることはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る