第四章 波間に揺れる想い --- 3

 カイルが納屋へ帰ってきたのは、それから二日後の夕方のことだった。その間、幸いなことにセフィアーナたちに危害を加えようとする者は現れず、少女は悶々とカイルの身を案じ続けていた。ゆえに、その姿を戸口に見るなり立ち上がると、彼に詰め寄ったのだった。その振り上げられた手は、誰もが青年の頬を張るためだと想像する中、彼の腕を掴んだだけだった。

「心配、させないで……」

「……悪かった」

 大きく深く吐息する少女の頭を見下ろすと、カイルは素直に謝った。セフィアーナは、常々危険なことや無茶なことはしないようにカイルたちに言っていた。ただでさえ自分のために彼らに迷惑をかけていると思っているからだろうが、それゆえに、彼女に何も言わずに発ったのだった。

「それで、キースの街はどうだったんだ?」

 人心地付いた途端にかかった声に、カイルは眉根を寄せた。

「……まだいたのか」

 カイルがイスフェルに冷めた視線を向けると、その間にアリオスが割って入った。

「オレたちが頼んだんだよ」

「そうだよっ」

 握り拳でアリオスに続いたのはラスティンである。カイルと別れた直後、言われた通り、納屋に駆け込んだ彼だった。

「もしもの時、オレたちだけじゃ姉さんを守りきれないと思って! 先を急いでるのに……」

「急ぐ? どこへ――」

 言いかけて、カイルはイスフェルがこの地点にいる意味に思い当たり、口を噤んだ。仲の良い従兄のいるテイランへは、ここから馬でさらに二十日ほどの距離だ。そこへ逃げ込む気なのだろう――しかし、彼の予想は大きく外れた。

「アンザ島よ、カイル」

 セフィアーナの言葉に大きく目を見開いた時、イスフェルが一歩進み出た。

「オレのことはいい。それよりセフィだ。キースの街へ行ってきたんだろう? 《太陽神の巫女》が現れるという噂はいったい……」

 キースはシリア山地の西側にあるサイファエールの町で、カルマイヤとの国境にあることから頑強な砦を有する。先日、セフィアーナたちが通過したカルマイヤの関所の町ビエーラとともに「西のキース、東のビエーラ」と並び称され、サイファエール・カルマイヤ両国を結ぶ交易路上で栄える、比較的大きな町である。

 ラスティンには行き先を告げなかったカイルだが、少年から経緯を聞いたイスフェルにはすぐに知れてしまったらしい。そのことを忌々しく思いながらも青年が表情を硬くしたのは、街で見聞きしてきたことを告げるのが気が重かったからだった。そんな彼を、他の面々は固唾を呑んで見守っていた。

「……街は、《太陽神の巫女》が来るというのでお祭り騒ぎだった。着いた時、ちょうど巫女の馬車が神殿へ向かうところで――」

「デマじゃなかったのか」

 たまらず遮ったアリオスに、ラスティンが苛立たしげに地面を蹴った。

「何言ってんだよ。姉さんはここにいるんだから、何がどうでもデマはデマだよっ」

「それで!?」

 悲鳴のように先を促したセフィアーナに、一瞬、誰もが押し黙った。

「……馬車に乗っていたのはあいつだ、セフィ」

「あいつ……?」

「《月光殿》の廊下で擦れ違った……ほら、巫女の試験でジャネスト神殿に行った時、最後におまえの隣にやって来た女がいただろう。同じく巫女の審査を受けに来た――」

「えっ、エルティス……!?」

 頷く青年に、セフィアーナは瑠璃色の瞳を見開くと、両手で口を覆った。

 エルティスは漆黒の長い髪と緑玉の大きな瞳が特徴の美しい少女で、セフィアーナにとって、聖都でできた初めての友人だった。地元ツァーレンの神殿で厳しい修行を積んでいたにもかかわらず、自分が《太陽神の巫女》に選ばれなかったことを潔く認め、さらにセフィアーナを快く祝福してくれた尊敬すべき少女。

「そんな、どうしてエルティスが……」

 最後に彼女と会ったのは、確かセフィアーナが王都へ発つ間際のことだ。どちらが先に自分の理想通りの神官になれるか、競争しようと約束した。そんな彼女が、なぜ《太陽神の巫女》を騙っているのか――。

「セフィ、問題はそこじゃない。誰が、ではなく、どうして巫女の偽者が彷徨いているか、だ」

 イスフェルの静かだが不気味な指摘に、セフィアーナは我に返った。

(――そうよ、あのエルティスが自分から《太陽神の巫女》を騙るわけないわ……)

 おそらく、また月影殿管理官デドラスの指示なのだろう――そう思った。

「そりゃ、ある意味、隊商の女たちが答えだな」

 あっけらかんと言って肩を竦めたアリオスに、ラスティンが首を傾げた。

「どういうことだよ?」

「オレはまだセフィがちゃんと歌ってるのを聞いたことはないが、こんな異国の辺境でも口に上るほど評判らしいじゃないか。セフィの――巫女の歌を聞いてない奴らが聞きたがって、是非にとフィーユラルに要請したんだろ。だが、当の本人は、ここだ。聞いた限りでも、《太陽神の巫女》ってのはテイルハーサ教にとって重要な役回りらしいし、それが所在不明となったら大変なことになるんじゃないのか? 仮病を理由にするにも限界があるし、だから代役が立てられたのさ」

 アリオスの説明にイスフェルが頷く。

「その通りだ。だが、おそらくそれだけじゃない」

「他に、何があるの……?」

 セフィアーナがおそるおそる尋ねると、イスフェルはカイルを見た。

「カイル。偽巫女の周囲にいたのは、《光道騎士団》じゃなかったか?」

 カイルの険しい表情は、肯定の証だった。セフィアーナは焦燥感を覚えた。

「どういうこと?」

「おそらく偽巫女は囮さ。きみをおびき寄せる――……餌だ」

「餌って、そんな……」

「《光道騎士団》はきみに追っ手を放ったのだろう? それは、彼らにとって、きみが重要だからだ」

 エルミシュワを発ってからも、時折、周囲にちらついていた漆黒の騎影。カイルの機転で難を逃れてはきたが……。イスフェルの言葉に、セフィアーナは美しい顔を歪めた。

「重要って言っても、私、エルミシュワで何もさせてもらえなかったわ。ただ祭殿に閉じこめられていただけ。《鎮魂歌》を歌うばかりで、誰も救えなかった……」

「どう重要なのかは、オレにもわからない。ただ、《太陽神の巫女》を掌握していたいというだけなら、わざわざ追っ手を放つ必要はないはずだ。また聖儀があるわけでもなし、《秋宵の日》までそう日数があるわけでもなし、それこそ偽巫女を立てれば済む話だ」

 しかし、セフィアーナにはなぜ《光道騎士団》が彼女に――《太陽神の巫女》に執着するのか、まったく思い当たる節はなかった。

「なあ、イスフェル。偽者がよりにもよって今から向かうキースの街に現れたってのは、つまりオレたちがここにいることがバレてるってことか?」

 脳裏の地図を辿るように指を北上させたアリオスに、イスフェルは眉をひそめたまま首を振った。

「それもわからない。だが、エルジャスへ向かうあたりから追っ手の気配はないのだろう? おそらく偶然だろう」

「うわー、ヤな偶然」

 他の者たちが話している間、カイルはひとり、険しい表情で思案に耽っていた。イスフェルの話を聞いていて、あることに気付いたのだ。それは、《光道騎士団》の標的が、セフィアーナではなく、実はカイル自身ではないのかということである。彼はガレイド・エシルの失態から、《光道騎士団》の秘密の一端を握っている。『フラエージュ』とは何かと問うたカイルに、ガレイド・エシルは死闘の最中、我を忘れるほどに動揺したのだ。

(もしそうだとしたら――)

 しかし、その先に浮かんだ考えに、カイルは自ら首を振った。セフィアーナと別行動したところで、自分たちが秘密を共有していると《光道騎士団》に判断されれば、どのみちセフィアーナも危ないのだ。

「とにかく、《光道騎士団》が何を企んでいるのかわからない今、きみは聖都へ帰るべきじゃない」

 イスフェルの結論にカイルが顔を上げると、セフィアーナは青ざめた表情で頭を抱えていた。

「そ、そんな……」

「《光道騎士団》が動いたことで、王都は大騒ぎになっているはずだ。きみの巫女としての使命感は尊いものだが、今の状況ではあまりに無力だ。月光殿管理官のこともあるし、どう利用されるかわからないぞ」

 聖都へ帰り、真実を確かめたいというセフィアーナの想いを、イスフェルは聞いていた。だが、それは、自ら蜘蛛の巣に飛び込むも同然の行為である。

「じゃ、じゃあ、私はいったいどうすればいいの……!?」

「おまえの故郷は?」

 アリオスの提案は、カイルの厳しい却下の声によって押し潰されてしまった。

「ダルテーヌは聖都の目と鼻の先にある。すぐに噂が立つ」

 この時点で、カイルにもセフィアーナを聖都へ連れて帰る気はもはやなかった。

「そ、そんなことになったら、姉さん、連れて行かれちゃうよ! こっ、殺されちゃうかも!」

 カイルの誤算は、偽巫女の件や標的が自分かもしれないということだけではなかった。彼はキースの街で聞いたのだ。頼ろうと思っていたセレイラ総督ディオルト=ファーズが急死し、新しい総督が王都から派遣されたことを。そして、王都では国王が意識不明の重体であることを……。

 一方で、セフィアーナは事態の深刻さに絶句し、ただ《太陽神の巫女》たる証を握りしめていた。

(どうして? どうしてこんなことになってしまったの……?)

 自分がいけなかったのだろうか。神に仕えるのを怠り、神の地へ留まらなかったことが。恩ある人々を見捨て、神の子らを救えなかったことが。自分の願いだけを追い求めたことが。

 その時、ラスティンが満を持してセフィアーナに声をかけた。

「あのさ、姉さんさ、山へ――エルジャスへ戻る気、ない……?」

 皆の視線が集まる中、ラスティンはおずおずと続けた。

「母さんが死んじゃって、姉さんがあそこで暮らす理由がないのもわかるよ。でも、他に行くところもない、だろ……?」

 ラスティンの気持ちはとても有難かったが、セフィアーナは首を縦に振ることができなかった。

「ラスティン、ごめんね。エルジャスには……戻れない」

「姉さん」

「前にも言ったけど、あそこは私のいるべき場所じゃないの。それだけは、わかるのよ。私はテイルハーサと関わらないでは、きっと生きていけない。ごめんね、ラスティン……」

「………」

 ひどく哀しげに俯いてしまった弟分の肩を軽く叩くと、アリオスは腰に手を当て、背筋を伸ばした。

「さて、どうすっかなあ」

 重苦しい雰囲気の中、次に口を開いたのはイスフェルだった。

「……みんな、ちょっといいかな。ひとつ、提案があるんだが」

 言うと、イスフェルはセフィアーナを見た。

「セフィ、テイランへ行く気はないか?」

 それは、あまりにも唐突な提案だった。

「え……?」

「あそこには、オレの伯父がいる。勿論、オレは行けないが、理由を話せば、きっと助けてくれるはずだ。テイランで、聖都が落ち着くのを待ったらどうだ?」

 テイラン――その地名を聞いて、セフィアーナの身体が強張った。確認しようとは思わないが、おそらく隣のカイルもそうなったはず――いや、彼女以上の衝撃があったに違いない。テイランは、カイルが仲間も、そして心も捨てて、命からがら脱してきた地だったから……。

「おい、テイランってどこだ? ここから遠いのか?」

 セフィアーナやカイルの胸中など知るよしもないアリオスは、イスフェルから説明を受け、顔をほころばせた。

「じゃあ、安全なうえに聖都の様子も入ってくるってことか。良い話じゃねえか、セフィ」

 セフィアーナは荒くなった呼吸をなんとか整えると、声を絞り出した。

「そんな……ダメよ」

「セフィ?」

「私、テイランには行けないわ。ごめんなさい……」

 左頬にカイルの視線を感じたが、セフィアーナはそちらを見ようとはしなかった。彼に重荷に感じて欲しくなかったのだ。

「何でだよ、姉さん! それじゃあ、これからどこに行くのさっ」

 苛立ちの声を上げるラスティンを、イスフェルが制した。

「……まあ、他にもっと良い策があるかもしれないし、もう少し考えてみよう」

 しかし、代案もないまま、夜は更けていった。



 深夜、村の至る所で焚かれた篝火が、緑洲の水面に映って揺れていた。水辺に座ってそれをじっと見つめていたセフィアーナは、砂を踏む音に振り返った。カイルだった。

 青年は何も言わず少女の隣に腰を下ろすと、手に触った小石を無造作に水に放った。

「……まさかここでテイランが絡んでくるとはな」

 セフィアーナがカイルを見ると、その冴えた碧玉の瞳はいつになく戸惑っているようだった。やはり、カイルの衝撃は相当なものであったらしい。セフィアーナは努めて明るく振る舞った。

「カイル、気にしないで。私はテイランへは行かないんだから」

「じゃあ、これからどうする気だ?」

 意外にも手厳しく返されて、セフィアーナは容易に口ごもった。沈黙が二人を支配する。黒いさざ波が何度か彼らの足下に打ち寄せた後、カイルが静かに言った。

「セフィ、テイランへ行こう」

「カイル!?」

 セフィアーナが瞠目して青年を見ると、カイルは微かな笑みさえ浮かべていた。

「オレのことはいい。あいつも気付いてないみたいだし、杞憂ってこともあるからな」

「そ……そんなのダメよ、絶対にダメ! 私のせいでカイルを危険な目に遭わせるわけにはいかないわ!」

 危険な目どころか、盗賊は捕まれば縛り首だと聞いている。頼ろうとする先にいるイスフェルの従兄は、カイルがテイランを脱出する際、顔に傷を負わせた張本人なのだ。二年という月日が経っているとはいえ、王都にいたイスフェルにはない生々しい記憶が残っているはずだ。盗賊の残党と気付かれない方がむしろおかしいだろう。

「セフィ、聞いてくれ。オレは、決めたんだ」

 激しく首を振るセフィアーナに、カイルは信じられないほど穏やかな声で話し始めた。

「オレが昔、王都にいたことは話したな。母さんの死をきっかけに、あそこを出たことも」

 セフィアーナは頷いた。春、何度かのすれ違いの後、セレイラ総督府の庭でのことだった。

「オレは王都を出る時、『白き草原』を必ず見付け出すと心に誓った」

「『白き草原』って、あの……?」

 それはサイファエールの伝承のひとつで、人々がそれぞれ自分らしく生きられる地とされているもので、よく詩歌や物語の題材にもなっている。

「ああ。母さんがよく寝物語に話してくれたんだ」

「そう……。それで、『白き草原』は見付かったの……?」

 遠慮がちに尋ねたセフィアーナに、カイルはあっさりと答えた。

「ダルテーヌさ。もっと言えば、おまえや、じいさんやばあさん、かな」

「カイル……」

 驚いて言葉をなくしている少女の隣で、カイルには本当に珍しく自分のことを懇々と語っていた。

「おまえが《太陽神の巫女》の試験を受けると決めた時、オレもやっと見付けた『白き草原』を、命を懸けて守ると決めたんだ。だから、おまえを《光道騎士団》の手の届かないテイランへ連れて行く」

 その時、少女の瑠璃色の瞳から銀の波が伝っていることに気付いて、カイルは軽く息を呑んだ。

「セ、セフィ?」

「ご、ごめんなさい。でも、嬉しくて……」

 カイルは完全に死の影から立ち直っていた。彼の言葉からそれを十二分に感じることができて、セフィアーナは手放しで嬉しかった。――だからこそ。

「わかったわ。私、テイランへ行く」

 カイルが安堵の表情を浮かべると同時に、セフィアーナは「でも」と逆説の言葉を繋いだ。

「でも、カイルは来てはダメ」

「セフィ!」

「カイルの気持ちはとてもとても……とても、嬉しい。カイルがちゃんと前に向かって歩いてるってことがわかって……。けど、カイル、今言ったでしょ。『白き草原』はおじいさんやおばあさんでもあるって。カイルがテイランへ行ってもしものことがあったら、誰があの二人を守るの?」

「―――」

「おじいさんたち、カイルを養子にできたことをすごくすごく喜んでた。今やあなたはおじいさんたちの本当の息子よ。私はあの二人につらい報告をしたくない」

 セフィアーナはカイルに向き直ると、その手を握りしめた。

「カイル、お願い。あなたは谷へ戻って」



 翌朝、セフィアーナが宿の手伝いで井戸水を汲み上げていると、納屋の入り口にラスティンが姿を見せた。しかし、ラスティンは姉の姿に気付くと、すぐに納屋の中へ戻っていってしまった。昨夜のことを怒っているのだろう。セフィアーナが溜め息を吐いた時、今度は反対側から声がかかった。振り返ると、イスフェルが伸びた髪を掻き上げながらやって来た。

「気にしなくても大丈夫さ」

「え?」

 軽く首を竦めて見せる青年に、セフィアーナは首を傾げた。

「ラスティンはただ、きみの力になれなくて悔しいんだ」

 その言葉に驚いて、セフィアーナは再び納屋を振り返った。

(怒ってるんじゃなくて、自分を、責めてる……)

 しかし、どちらにしても自分が原因なのは紛れもない事実だった。その時、水音がして、セフィアーナは我に返った。イスフェルが彼女に替わって桶を引き上げてくれたのだ。水の満ちた桶を空のものと交換しながら、セフィアーナはためらいがちに口を開いた。

「あ、あの、イスフェル。昨日の、ことだけど……」

 すると、イスフェルは汲み桶を井戸の中へ落としてから、軽く笑った。

「ああ、あれか。ちょっと唐突過ぎたな。オレには良くても、きみには見知らぬ地だものな。気にしないでくれ」

「ううん、そうじゃなくて……」

 昨日、即座に断ってしまったので言い出しにくかったが、言わなければ何も始まらない。

「私、やっぱり、テイランへ行かせてもらいたいと思って……」

「セフィ」

 イスフェルは驚いて、桶を引き上げていた手を止めた。

「昨日は……これ以上、みんなに迷惑かけられないと思ったんだけど……でも、私がここでグズグズしてたら余計に迷惑がかかるし、グズグズしたところで行く当てもないし、だから……」

「わかった」

 その簡潔な了解にセフィアーナが顔を上げると、青年はただ優しく頷いてくれた。

「イスフェル……」

 胸がいっぱいになって、セフィアーナは頭を垂れた。

「ごめんなさい。あなたも大変な時なのに……」

 セフィアーナのことがなければ、疾うにアンザ島へ向かって発っていたはずの青年である。失ったもののこと、自分や家族の今後のことなどで頭がいっぱいだろうに、傍に付き添ってくれ、彼女の今後の世話まで焼いてくれようとしている。しかし、イスフェルの方はそんなつらさをおくびにも出さず、笑顔で返した。

「これを拾ってくれたお礼にもならないさ」

 その手が大切そうに当てられたのは、ボロドン貝の首飾りだった。

「伯父のことなら心配ない。母の兄で、立派な方だ。それに、従兄のアイオールは無類の世話好きだから」

 その後の朝食の席で、セフィアーナは皆にテイランへ行くことにしたと改めて報告した。

「太陽神も不幸な人間がバラバラで彷徨いてるのより、固まってる方に御加護を垂れやすいってもんだ」

 セフィアーナとイスフェルを苦笑させたアリオスは、口の中の物を噛み潰しながら明るく言った。

「オレも行くぜ。まだベイハールの海の色を見たことがねぇからな」

「アリオス……」

「オ、オレも行くよ!」

 音を立てて立ち上がったのは、ラスティンだった。

「姉さんの危機に、オレだけエルジャスに帰るわけにはいかないよ」

「さっすが狼族の男」

 自分を真っ直ぐと見つめる弟の明るい空色の瞳を、セフィアーナは今度こそ受け止めた。

「ありがとう、ラスティン」

 そうして皆の視線は、沈黙を守っているカイルに注がれた。一行の指揮官は、なんといっても彼だからだ。そのカイルは、何を思ったか、人の頭くらいの大きさに膨れた麻袋をイスフェルの前へ置いた。それは盗賊から奪った馬を売った代金だったが、それを知らないイスフェルにも、中身の音から貨幣であることは容易に察することができた。

「これを使え」

「カイル……?」

「オレは、谷へ帰る」

 カイルの口から聞くはずもなかった言葉に、男たちは目を剥いた。ラスティンは今度は椅子を倒して立ち上がり、カイルに詰め寄ると、その胸ぐらを掴んだ。

「どういうことだよ、カイル! 姉さんを見捨てるの!?」

「ラスティン、やめてっ」

「姉さん!?」

 自分とカイルとの間に力ずくで割って入った姉を、ラスティンは興奮に任せて睨み付けた。しかし、セフィアーナはそれ以上の迫力で彼を説き伏せた。

「人にはそれぞれ生きる道があるの。自分の気持ちは大切だけど、時には犠牲にしなきゃいけないこともある。そうでしょ!?」

「ね、姉さん……」

 カイルが離脱するというだけでも驚きなのに、それをセフィアーナが既に納得しているとわかって、三人はいっそう言葉を失った。それは旅支度にかかった後も同様だったが、カイルがひとりになったところを見計らって、イスフェルは彼を呼び止めた。

「本当に谷へ帰ってしまうのか?」

 イスフェルの問いに、しかし、カイルは沈黙を守ったままだった。

「セフィやラスティンから、エルミシュワでのおおよそのことは聞いた。その後の道中のことも……。ラスティンやアリオスもだが、オレにもまったく理解できない。きみはなぜここで谷へ帰ってしまうんだ? テイラン行きを言い出したのはオレだが、オレも追われる身だ。もしもの時、誰がセフィを守る?」

 すると、カイルはようやくイスフェルの方に顔を向けた。しかし、その冴えた碧玉の瞳には剣呑な光がたゆたっていた。

「貴様、セフィを守るつもりもなく、安易にテイラン行きを言い出しのか」

「彼女を荒野に放り出そうとしているきみに言われる筋合いはない。それならきみは、セフィを守りきる自信がないから、谷へ帰ってしまうのか?」

 その返答に、カイルはいっそう表情を険しくした。しかし、どんな理由でも、彼自身がセフィアーナの傍を離れようとしていることには変わりない。青年は忌々しげに吐息した。

「……セフィは、今わかっている真実をすべて知っているわけじゃない」

「――どういうことだ」

 イスフェルが生真面目さの滲み出た深刻な表情を浮かべているのを見ているうちに、カイルはふと思った。彼にもしものことがあった場合、彼が地上から消えるだけではなく、彼が握っている《光道騎士団》の秘密までもが失われてしまう。そうなると、セフィアーナにそのことで危険が及んだ場合、誰も感知できなくなってしまう。カイルとイスフェルがこの荒野で出くわしたことは《光道騎士団》は知らず、アンザ島の囚人に秘密を握らせておくのは、いたずらに漏れる心配もないとあって、打って付けだった。そこで、カイルは納屋から離れた水辺にイスフェルを連れて行くと、リエーラ・フォノイの手紙のことからセフィアーナが『フラエージュ』と呼ばれていたことまでを簡潔に説明した。もしかしたら《光道騎士団》の狙いはカイル自身かもしれないということも。

「オレは聖都で《光道騎士団》の動向を探る。セフィには言うな。あいつはただ、オレを老いた養い親のもとへ返したいだけなんだ」

 カイルの話を聞いて、なぜ彼が今の状況で少女のもとを離れるのか、イスフェルはようやく得心した。そして、カイルがどれほどセフィアーナを大切に想っているかも、また再認識したのだった。

 しばらく黙って水面を見つめていたイスフェルは、気を取り直して話題を転じた。

「ところで、キースの街へ行った時、王都の動向を聞かなかったか?」

「いや」

 即座に否定したカイルを、イスフェルは訝しげに見遣った。カイルが《太陽神の巫女》の正体を確かめるだけで満足して帰ってくるとは思えなかったのだ。しかし、カイルは打ち合った刀身を滑らせるように、その疑問の視線をかわしていった。

「街は祭の騒ぎで浮ついてたし、そもそもオレは王都に興味はない」

「……どうもオレはきみに嫌われているらしい」

「好く理由がない」

 とりつく島もない答えに、イスフェルは苦笑して肩を竦めた。

「最後にひとつだけ。どこで剣を?」

 カイルは思わず笑いそうになった。

(どこまでも不意打ちな問いが好きな奴だ)

 そして改めて自分の身の上を思い、真っ直ぐとイスフェルを見つめた。

「……いずれ、わかるさ。おまえが王都とテイランを知っている以上、な」

「それは、どういう――」

「そんなことより、セフィにもしものことがあったら、オレは必ずおまえを殺す。アンザの監獄の中だろうとな。覚悟しておけ」

 追われる身で、そう易々と約束を交わすわけにはいかなかったが、イスフェルは王都に残してきたものを想い、小さな声ではあったがはっきりと口にした。

「オレもこれ以上、失うのはうんざりだ。彼女を必ず守り抜く」

「その言葉、忘れるな」

 その後すぐ宿を引き払った一行は、街道へ出た。その街道をカイルは北へ、セフィアーナたちは西へと向かう。イスフェルは、一通の書状をカイルへ手渡した。それは伯父であるズシュール領主デルケイス=ラドウェルへ宛てたものだった。それをカイルがキースの街で郵便馬車に出し、その間にセフィアーナたちはアンザ島へ渡る船の波止場があるツァーレンへ行き、そこでテイランからの連絡を待つという手筈だった。

「セフィ、大丈夫か?」

 カイルが鞍上の少女に声をかけると、彼女は緊張した面持ちながらも深く頷いてみせた。

「ええ。イスフェルもラスティンもアリオスもいてくれるもの。私、平気よ」

「先に行け。見送られるのは趣味じゃない」

 セフィアーナはカイルに言いたいことがたくさんあったが、すべてを飲み込み、必要最低限のことだけを口にした。

「カイル、おじいさんとおばあさんによろしくね。村のみんなにも。私もラスティンも、アグラスも元気にしてるって。それから――」

 しかし、次の言葉は声にならなかった。カイルの後方に、遥かシリアの山が霞んで見えた。あの山の小さな谷にある小さな孤児院に居るはずの人物の姿が、脳裏に浮かび上がった。できることなら今すぐ会って、母と再会を果たせたことを報告し、この胸の内の不安を吐き出し、抱きしめてもらいたかった。

「わかってる。院長にも、ちゃんと伝える」

 セフィアーナは項垂れるように頷いた。自分で決断したこととはいえ、彼女にとって何よりもつらいのは、明日が見えない中、カイルと離ればなれになってしまうことだった。王都へ旅立った時のように、帰る時のことがはっきりしているわけではないのだ。

「カイル、また会えるよね……?」

 不安顔で馬を寄せてきたラスティンを、カイルは軽く睨んだ。

「当たり前だ。くれぐれも馬鹿をするなよ」

「……しないよ」

 少年の勝手な行動でセレイラ警備隊員が死んでしまった戒めは、今も彼の心にしっかりと残っていた。

「無事に着いたら、ティユーで知らせるから」

「わかった。早く行け。今の時間は貴重だ」

 こうして一行はふたつに分かれ、新たな旅が始まった。

 カイルはひとり、セフィアーナの馬が見えなくなるまで荒野に立ち竦んでいた。彼がイスフェルに王都の状況を伝えなかったのは、ひとえに少女のためだった。国王が重篤と知れば、イスフェルは我知らず馬の足を逸らせるだろう。結果、セフィアーナにそのしわ寄せが来るかもしれない。イスフェルの身の上を思い遣る道理も義理も、カイルにはなかった。

 一台の馬車と擦れ違った時、カイルは手綱を打った。ひとたび走り出すと、その心は完全に聖都へと向かっていた。

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