第三章 混沌たる荒野 --- 11

 カイルはセフィアーナの帰郷に反対しなかったが、《光道騎士団》が何かを企んでいるとわかっている以上、彼女を正面から帰らせるつもりもなかった。青年はエルジャス山を下った後、往路で南下してきた街道を北上させることはせず、そのまま南下して、国境の関所を越えさせた。セレイラまで、カルマイヤ回りで帰ろうというのだ。

 サイファエールとカルマイヤは、二十四年前、サイファエールの王弟トランスのもとへカルマイヤの王族だったルアンダが嫁いできて以来、軍を率いての争いごとはなく、二国を結ぶ街道は隊商や旅人で常に賑わっていた。――もっとも、カルマイヤは王家と家臣の主導権争いでしばらく揉めていたので、隣国にかまってなどいられなかったのだが。

 カルマイヤは、砂漠の国である。国土の七割が砂の海に覆われ、人々は残りの三割にひしめき合うように暮らしていた。年中強い日差しのせいで、人々は冬でも外套を羽織り、頭部には布を巻いたり頭巾をかぶったりしている。それでも、肌の色が褐色に焼けている者が大半だった。

 関所のカルマイヤ側の町ビエーラは、大地と同じ色の煉瓦で造られた家々が並んでいた。それだけでは殺風景だとでも思ったのか、そこに住まう人々は、戸口や窓に極彩色の布をはためかせ、それはまるで商いの活気を反映しているかのようだった。飛び交う言葉にもやがて聞き慣れぬものが多くなり、食事時に漂う匂いも、今まで嗅いだことのない種類の香ばしいものだった。

 初めて目にした異国の風景に、カイル以外の三人は――セフィアーナ本人さえ自分の置かれた状況を忘れ――色めき立った。おかげで度々カイルにあまり顔を見られぬよう注意されることとなった。

「ただでさえ、狼を二頭も連れて目立ってるんだ。この状況で捕まったら、邪教徒の残党と異教徒が手を組み、《太陽神の巫女》を誘拐したとされて即刻処刑台行きだぞ」

 カイルの用心はまだ続き、途中、ラスティンのみを連れて衣服問屋へ赴くと、そこで男物の服を一着と、外套を四着仕入れて来た。男物の服はセフィアーナに着せるため、外套は無論、顔を隠すためと、それから暑さ対策だった。

「……やっぱり姉さんは姉さんだね」

 セフィアーナの男装を見て、ラスティンは困惑した顔をカイルに向けた。

「……遠目で男に見えればそれでいい」

 十代の乙女――それも《太陽神の巫女》を名乗る少女の華やかさは、布きれ一枚で隠しおおせるものではなかった。

「それよりも」

 そこでカイルは胡散臭そうな表情で、狼族の二人を見た。

「その背中の得物、どれほど扱えるんだ?」

 カイルの視線を追っていって、ラスティンとアリオスはお互いの背中を見た。そこには臙脂色の多節棍が差してあった。ラスティンは二節棍を一本、アリオスは二節棍を一本、三節棍を一本だったが。

「うーん、何というか……」

 首をひねる二人に、カイルは眉間を寄せた。

「命が懸かってるんだ。当てにできないならはっきりそう言え」

 途端、アリオスが明るく言い放った。

「じゃあ、はっきり言おう。わからん」

「わからん?」

「なんせ実戦で使ったことがないからな。村の中ではまあ扱えたほうだが」

 口から先に生まれたようなアリオスの言い分に、カイルがいっそう胡散臭げにしていると、それまで黙っていたラスティンがおずおずと言った。

「今のはホントだよ。オレは……棍より弓が好きだけど」

 それを聞いて、カイルは馬上で天を仰いだ。異国の地で大所帯――それも世間知らずばかりの――を抱えながら、頼りになるのが自分の懐と腕だけだとは! カルマイヤもテイルハーサ信仰国のはずだが、いったい太陽神はどこにおわすのか。――いや、そもそも眼前の二人は太陽神の僕ではないので、神には見えていないのだろう……。

「なんで不得手な物を背中にしょっているのか、オレには理解できん。みすみす死にたいのか」

 カイルはラスティンの二節棍を背中から引き抜くと、代わりに自分の弓箭を押しつけた。青年自身にはまだ剣がある。

「だって弓は狩りの時にしか使わないから……」

 ぶつぶつ言いながら矢筒を背負う少年を見ながら、カイルは苦々しい思いを禁じ得なかった。自分の人生は、彼らほど平穏ではなかったのだ――。

「オレには何を貸してくれるんだ?」

 目を輝かせて待っているアリオスに、灼熱の空の下、カイルはやはり冷たかった。

「おまえにはない。『まあ扱えたほう』に期待させてもらおうか。足下の砂粒ほどにな」

「………」

 絶対に安全ではないが、昼間の街道はそれでも安心できるはずなのに、なぜそこまで武器にこだわるのかと思っていた三人は、すぐに納得した。カイルが次に選んだ道は街道ではなく、シリアの山並みを遠くに見晴るかす荒野だった。



 ビエーラの街並みがまだ岩山の間に望める早々に、カイルの懸念通り、最初の敵はやってきた。それに気付いたのは、狼たちとカイルがほぼ同時だった。

「……尾けられてる」

 青年の言葉に、他の三人は一気に緊張した。

「ホント!? 相手は何人!?」

 落ち着きなく周囲の様子を窺うラスティンを、アリオスが早速引き抜いた三節棍で突く。

「バカが、キョロキョロするな」

「……五人だ。こっちに気取らせるあたり、盗賊だな」

「普通」の対極に《光道騎士団》の追っ手が脳裏に浮かんでいたカイルの後方で、それを知らないアリオスが困惑気味に顔を歪めた。

「『普通』って……」

「でっ、どうするの!?」

 慌てたラスティンの素っ頓狂な声に、カイルは、彼の前に座っていたセフィアーナを、アリオスが手綱を握る馬に移した。それも、馬を歩かせたまま。止まって乗り換えていては、その間に襲われる可能性があるからだ。アリオスの乗馬は、彼の好奇心のおかげで、かなり上達していた。

「オレに殺されたくなきゃ、死んでもセフィを守れよ」

 そうして三人を先に行かせると、独り残ったカイルは馬首を返した。しばらく戻った岩場で、案の定、馬に乗った盗賊風の男たちに取り囲まれる。まず独り者を倒し、その後で残りの三人を追うつもりなのだろう。

 ごつごつとした岩場に立つカイルの頬を大地を渡ってきた風がなぶり、枯葉色の髪を舞わせた。青年は何気なくしっかりとした足場を選ぶと、円陣の中心で首を巡らせた。

「何か用か」

 その人を喰ったような言い方に、男たちが余裕の表情で笑いさざめいた。

「男にしとくにゃもったいない顔だな」

 崖の真下にいた屈強そうな男がカイルを見て言い、さらに仲間の笑いを誘う。

「……どこかで見た顔だな。手配書にあった奴らか」

 それは、自身も盗賊だった過去を持つカイルが、関所で自分の手配書が貼られていないか確認した時に目にした顔ぶれだった。

「おお、我らのことを知っているとは、嬉しい限り」

 何を勘違いしたのか、谷側にいた男が自慢げに笑った。笑ったはいいが、大口を開けていたため、次の瞬間、カイルの手中から放たれた短剣を飲み込んでしまった。男はもんどりうって落馬すると、さらに谷底へ落ちていった。眉間を狙ったつもりだったカイルは、一瞬己の腕を嘆いた。が、残りの男たちの怒気を独りで買っている身である。すぐに気を取り直すと、谷底を背に無法者に向き直った。

 盗賊たちは仲間が呆気なく倒されたことに内心おののきながら、長剣や斧など各自の得意とする武器を振りかざし、一斉に襲いかかってきた。

 四方向から同時に凶器に見舞われ、唯一の退路が谷底への入口とあって、カイルに勝機はないかのように思われた。少なくとも暴漢どもにとっては。だが、彼らの標的は、白刃を意味ありげに煌めかせると、何を思ったか、いきなり鞍上に立ち上がった。次の瞬間、鞍を蹴って宙に舞う。盗賊たちが驚き見上げて仲間同士ぶつかる間に、カイルは頭上に伸びていた枯木の太い枝に掴まると、身体を思いきり振って、離れた場所に綺麗な受け身をとって着地した。しかし、彼は自分が馬を失って不利になったことをよく知っていた。再び攻撃されるまで、のんびり待っておくわけにはいかない。

 青年は剣にしばらくの休息を与えると、素早くラスティンの二節棍を棒状にし、続けざまに突きを繰り出した。それは矢のように鋭く、最初のひと突きは地獄への招待状となって黒髭の男の喉を潰した。もうひと突きは、カイルを女扱いした男に向かったが、男は棍を避けようとして思わず手綱を引き、馬を盾代わりにしてしまった。棍の先端は吸い込まれるように馬のつぶらな瞳を潰し、馬は驚愕と激痛に両前脚をさおだたせて横転した。屈強であると思われた男は、鐙から太い足を抜くことができないうちに、馬とともに砂塵を巻き上げて地に倒れた。そのとき響いた不気味な音は、おそらく彼の下敷きになった方の足が折れたためであろう。その間に、カイルは離れていた自分の馬に乗ることに成功した。

「おのれ……!」

 相手に一撃も与えぬ間に三人の仲間を失って、残った二人の男たちの怒りは頂点に達した。黒い外套を翻し、猛然と突っ込んでくる。

 カイルは長剣を抜き放つと、まず頬傷の男と激突した。若者の二倍は肩幅があろうかと思われる、それは立派な体躯の男である。

「貴様、ただの下民ではないな!」

 カイルは嘲笑した。

「そうだと判っていたら襲わなかったのに、か?」

 頬傷の男は、先に死んだ仲間よりは自分の方が遙かに強いと信じていた。それはまんざら彼の思いこみというわけでもなく、それなりの実力はあった。それを、年の差からいって、自分よりは戦いの経験がないだろうと思っていた細っちょろい子どもから豪語されていきり立った。

「その減らず口、オレ様が叩っ斬ってくれるわ!」

 言うなり、大剣を疎ましい敵の懐に突き込んだ。だが、あともう少しのところで、それは相手の剣によって阻まれてしまった。

 立て続けに剣が打ち交わされる。弱者を相手に仕事をしているとはいえ、盗賊と名乗ることはあり、カイルも先刻までのようにはいかなくなった。もっとも負ける気などはさらさらない。ダルテーヌの谷ではセフィアーナ以外誰も知らぬことだが、彼はこんな下級盗賊にやられるような、半端な人生を送ってきてはいなかった。――そう、常に危険を死を意識し、武器を携えておくような。

 十度ほど摩擦音を響かせただろうか、それでもまだ決着はつかなかった。仲間の苦戦を目の当たりにして、もうひとり、頭に黒い布を巻いた男は、頬傷の男を援護しようとしたが、断念せざるを得なかった。既に自分の入り込む余地を見いだせなかったのである。

 ところで、頬傷の男の最も苦手とするものは、足もないのに大地を這うもの――蛇だった。幼い頃、誤って蛇の巣に落ち、噛まれてひと月近く生死の境をさまよったことがあるのだ。その最も忌むべきものが頭上の枝を通過しようとしていることを、幸運にも彼は知らなかった。そして、眼前の敵の弱点を知るわけもない、冴えた碧玉の瞳の若者は、まさにその幸運を潰そうとかかったのである。

 カイルは、下界の人間の喧噪をうるさそうに見ている蛇の姿を鞍上から認めた。それほど大きくはなく、長さは一ピクトほどだったが、その美しさから毒を持っているものと推察できた。彼は数的に自分の味方を欲して、再び手にした棍を使って蛇を巻き取ると、直後に敵をめがけて放った。勝手に仲間にされた蛇は、美しい放物線を描いて飛ぶと、頬傷の男の顔の上に落下した。

 一瞬、頬傷の男の顔に美しい笑みが浮かんだ。それが愛情と全く異なるものであることを、少なくとも仲間の男は理解した。

 不当な扱いを受けて攻撃的になっていた蛇は、しっとりとした黒い瞳で男を見つめると、次の瞬間、美女が姥妖に化けるように鋭い牙を剥き、硬直した男の喉に食らいついた。短い絶叫が辺りの岩壁にこだまし、哀れにも頬傷の男は最大の憎しみを費やしてきた相手とともに地面に叩きつけられたのだった。

 ついに味方が自分一人になってしまった男は、情けないことに顔を真っ青にして震え始めた。カイルの予想を遥かに上回る下級の盗賊らしい。いや、今となっては盗賊と呼ぶに値するかどうか。

「きょ、今日のところはこれくらいで引き上げてやる! 今度会ったら、ただじゃおかねえからな!」

 周囲に仲間がいないと何もできない弱者の常套句を放つと、額に黒い布を巻いた男は、慌てて馬首を岩山のほうへ巡らせ、一目散に逃走を開始した。

「カイル!」

 そこへ戻ってきたラスティンの背から弓箭を取り上げると、カイルは小さく呟いた。

「おまえたちの仲間に、わざわざ訃報を知らせる義理はない」

 彼の手元から放たれた矢は、陽の光を受けて銀色に輝きながら岩場を越えて飛んでいった。しばらくすると、騎手を失った馬が戻ってきて、カイルに弱敵の死を知らせたのだった。

「すっげー……」

 感心しきりのラスティンは無視して、カイルは遅れてやって来たセフィアーナに死体を見せまいと、アリオスから奪い取った手綱を引いて惨劇の場から離れた。

「カイル、怪我はない?」

「ああ、大丈夫だ」

《太陽神の巫女》たるセフィアーナは、殺生を肯定する気はもちろんない。だが、戦わねば自分たちが不当に殺され、そのために独り命を懸けてくれたカイルには礼を言わねばならなかった。

「カイル、守ってくれてありがとう」

 一方、岩場で死体を検分していたアリオスは、その場所その場所で何やら大声で喚いていたが、戻ってくるなりカイルを薄気味悪そうに見上げた。

「おまえ……いったい何者だよ。五人をたった一人で、まあ、いろんな方法で」

 予測はしていた質問だったが、カイルは一瞬、口ごもってしまった。そんな彼に代わって答えたのは、セフィアーナだった。

「カイルは私たちの命の恩人よ」

 カイルがはっとして少女を見上げると、彼女はにこりと微笑んだ。それを見たアリオスは、深く追及することをしなかった。アリオスはセフィアーナの為人を既に知っている。そんな彼女が共に行動する青年の過去を、これ以上この場で詮索する気にはならなかった。

「まあ、あれだな。ほら、これで一人一頭以上馬が揃ったし。良かったな」

 アリオスがごまかすようにおどけて見せ、セフィアーナとカイルは再び顔を見合わせると、首を竦めて笑った。

 その日の夜は、いつになく賑やかだった。カイルの強さに触発されたラスティンが、カイルに弓や棍の指南を頼んだからである。ラスティンの腕前は、弓矢は十本中六本が的代わりの木の幹に当たる「素人よりもマシ」な程度だったが、棍の方はまるで話にならず、その後、暇を見付けては稽古することになった。最初は傍らで野次ばかり飛ばしていたアリオスも結局、参加させられることとなった。セフィアーナの見る限り、アリオスはなかなかの強さだったが、カイルに言わせれば「詰めが甘い」らしく、アリオスはカイルに一度も勝てたことがなかった。だが、一連の特訓の甲斐あって、数日後、再び盗賊に襲われた時、今度はアリオスも、そしてラスティンも、多少なりともカイルに加勢することができたのだった。



 ビエーラを出発して以来二十日間、一行はほとんど野宿生活だった。宿に泊まったのはたった一度きりである。これはカイルが路銀を節約したためではなく、単に道中に町も村も存在していなかったからだ。ただ、荒野といえども緑洲オアシスが点在しており、飲み水や馬が食む草には困らなかった。とはいえ、いい加減、まともな食事にありつきたいと思っていた頃、緑洲の村ラッカが姿を現し、誰もが――特にアリオスが歓声を上げた。しかし、喜ぶには少々早かったようである。着いてみると、どう見ても家の軒数に合わない数の人々が通りを埋め尽くしていた。

「何だぁ……?」

 呆然としているアリオスの肩越しに、村の入口を見て、カイルは吐息した。そこでは夕焼けを背景に、八台もの幌馬車が並んで濃い影を浮き立たせていた。

「どうやら隊商が来ているらしいな」

「えー! 村の中でまで野宿なんてイヤだよ、オレ」

 ラスティンは喚いたが、カイルはむしろ嬉しそうだった。それもそのはず、盗賊から頂戴した馬を売る絶好の機会なのだ。

「さあ、行くぞ」

 すっかり馴れた馬の手綱を振るうと、カイルは先頭に立って最初に村の中へ入って行った。

「うげー、たまには女に囲まれて寝たいぜ……」

 嫌々ながら馬を進めるアリオスの言葉を聞いて、セフィアーナはあることを思い出した。

「そう言えば、村の女の人との結婚話はどうなったの?」

「嫌なことを思い出させてくれるな、セフィ。どうもこうも、あれは親父たちが言ってるだけだから」

「そうなの?」

「ああ。それよりも、宿屋に泊まるようカイルを説得してくれよ」

「説得しても、この人出じゃ、部屋の方が無さそうだけど……。とにかく当たってみましょう」

 早速、隊商の商人を掴まえて交渉に入っているカイルの横を通り過ぎると、三人は宿屋と思われる二階建ての比較的大きな建物に向かった。しかし、隊商の者たちがそこここに天幕を張っているところを見ると、もはや空き部屋は無さそうだった。隊商の女性に目配せなどして遊んでいるアリオスを後方から見て、セフィアーナはラスティンに囁いた。

「ラスティン。アリオスって、その……女の人が好きなの?」

「は?」

 意味が分からなかったようで、しばらく瞬きを繰り返していたラスティンは、やがて渋いものでも食べたような顔になった。

「……姉さん、その言い方、おかしくない? 『女好き』って、言いたいんだよね……?」

「えっ?」

 今度はセフィアーナが考える番だった。少女は自分が言った言葉を反芻し、その意味に気付いてさっと赤面した。

「ああ、そうそう。ごめんなさい。言い間違えちゃった。女の人を好きなのは、男の人として普通よね」

「別に謝らなくても……」

 ラスティンは思わず吹き出した。おそらく姉は、《太陽神の巫女》があからさまに「女好き」などと口にしてはならないと思い、噛み砕いて言ったつもりなのだろう。結果、語弊が生まれてしまったのだ。

「確かにアリオスは女好きだよ。村でも人気があったんだ。ムカつくことにね。アイツ、口だけは巧いから」

「ふふ。じゃあ、その『口』にイリューシャも騙されてるのかしら。ラスティンは? 好きな子とか、いないの?」

「オ、オレは、別に!」

 そんな軽いやりとりをしている時だった。宿屋に併設された厩舎の入口で、セフィアーナは馬を連れたひとりの男と擦れ違った。馬の方はしっかりとしたあつらえの馬具を載せているのに、その手綱を取る男の衣服はひどく汚れていて、まるで奴隷か囚人のようだった。灰褐色の頭巾を目深に被り、同じ色の外套の内側には剣を帯びているのが見えた。どうやら隊商の人間ではないらしい。旅支度をして出てきたところを見ると、宿に泊まっていたのだろうか。それとも、部屋が無いと言われて、野宿できるところを探しに行くのだろうか。

(こんな時間に出発はしないわよね……)

 荒野をやって来た彼女たちだが、カイルによると、このラッカの村は街道の近くにあるとのことだった。だからこそ、隊商も街道を外れて立ち寄ったのだろう。だが、いくら街道が傍にあるといっても、夜中に旅をするのは愚か者のすることだ。それで無法者に襲われても、文句は言えない。

 ただでさえ頭巾で視界が狭まっているだろうに、さらに顔を伏せがちにして歩く男の様子は陰鬱としていて、セフィアーナの印象に残った。この時、時間神かあるいは風の神が悪戯をして、わずかでもお互いの顔を見せてくれていたら――少女がそう拳をきつく握りしめるような思いに駆られるのは、このすぐ後のことだった。



「部屋をふたつ……いや、できればひとつでも借りたいんだが」

 最初から懇願するような口調のアリオスに、宿屋の主人は案の定の言葉を返してきた。

「悪いね、今いっぱいなんだよ」

「げえ……」

 狼族二人組がうなだれた時、奥から女の声が投げつけられた。

「おまえさん! さっき一人出てったじゃないか。勘違いして金蔓を逃がさないどくれよ!」

「そんなこと言ったって、久々にこんなに客が入って、てんてこ舞い……あ、いや、だが、三人だろう? 寝台はひとつしかないよ」

 その時、いつの間にかやって来ていたカイルが口を挟んだ。

「四人だ。寝台はかまわない。三人が床に雑魚寝できないほど狭くはないだろう?」

「そりゃまあ」

 主人から部屋の鍵を受け取ると、一行は部屋のある二階へと向かった。

「言葉、普通に通じるのね」

「サイファエールとの国境が近いからな。商売上必要なのさ」

「ああ、いつになったら柔らかい布団で寝られるのやら」

「うるさいぞ」

「馬は売れたの?」

「ああ。三頭で銀貨一袋だ」

「安いんじゃないのか?」

「しょせん盗賊の馬だ。それとも、アリオスが代わりに交渉してくれたのか?」

「い、いえ……」

 どやどやと部屋に辿り着くと、ラスティンとアリオスは、背負っていた大きめの麻袋を優しく床に下ろした。中から出てきたアグラスとイリューシャが揃って身体を震わせる。外にいさせては、良くも悪くも目立ってしまう。かといって宿の者に言っても連れ込むのを良しとしないだろうということで、苦肉の策だった。セフィアーナの忠実なる僕ティユーも無論、この旅に同行していたが、人間の手が簡単に届くような場所にはいないので、心配する必要はなかった。

「あら?」

 セフィアーナは唯一の寝台を見て笑った。布団や枕に、まだ人型に跡が残っていたのだ。

「きっと忙しくて、まだ片付けてなかったのね」

「そんなことより腹減った! 下に何か食いに行こうぜ」

「賛成!」

 カイルの懐が暖まっているのをいいことに、ラスティンとアリオスはちらと見かけた食堂の献立を思い浮かべて垂涎した。

「私はここにいるわ」

 竪琴の入った袋を小さな円卓に置きながら、セフィアーナは言った。

「どうした、気分でも悪いのか?」

「ううん、そうじゃなくて。宿の人が来たらいけないし、この子たちを見ておかなくちゃ」

 それを聞いて、カイルが浮かれている狼族二人組を振り返った。その冷ややかな視線を受けて、二人の涎も凍り付く。

「いいのよ、私はそこまでお腹空いてないから。三人で先に食べてきて」

 カイルは先にラスティンとアリオスだけを行かせることも考えたが、貨幣価値をわかっていない彼らだけを行かせると、どれだけ料理を注文するか計り知れず、嬉々として廊下に出た二人に続き、しぶしぶと部屋を出た。ひとり残ったセフィアーナは、狼たちが抜け出した袋をたたんで片付けると、荷物を寝台の横の壁に並べた。ついで、狼たちが見付からないよう宿の者の滞在時間を短くしようと、布団の被単シーツなどを剥がしておく。

「二人とも、誰か来たら、寝台の下に隠れるのよ」

 そう狼たちに言い聞かせた時だった。セフィアーナの足下で、カツンと何かが落ちた音がした。見ると、白い小さな石のような物が落ちていた。

「貝殻……?」

 セフィアーナはそれを拾い上げた。彼女の手の平の上で、巻き貝が転ぶ。その表側には、桃色と空色、淡い卵色の線が鮮やかに入っていた。

「え、これって……」

 セフィアーナは、自分の首に掛けてあった物を取り上げた。見比べるまでもなく、それはまさにボロドン貝だった。しかも、その欠けている先端には人工的に穴が開けられた跡があった。瞬間的に、少女の脳裏を先刻の厩舎の入口で擦れ違った男が過ぎった。

「そんな、まさか……!」

 確かめようと部屋の扉を開けると、そこには驚いた表情の女将が立っていた。

「ああ、あんた。すまないね。まだ部屋、片付けてなかったろ。今すぐ――」

 しかし、セフィアーナは女将の言うことを聞いていなかった。

「あのっ、私たちの部屋にさっきまで泊まってた人って、どんな感じの人でしたか!?」

「え? ああ、若い男だよ。背が高くて、髪はボサボサで……旅の剣士って感じだったけど」

 不思議そうな顔で答えてくれる女将に、少女は今度は慎重な面持ちで尋ねた。

「顔は、どんな……?」

「私は見てないんだよ。ここに来た時は真夜中で、応対したのは主人なんだ。二日ほど泊まってったけど、その間は体調が悪いとかで、ずっと部屋に篭もってたしね。――ああ、そういえば、食事を運んでった娘が騒いでたっけ。髭を剃ったら絶対イイ男だとか言ってたけど」

 それを聞いた途端、セフィアーナは駆けだしていた。続いて出てきた狼たちを見た女将の悲鳴ももはや聞こえない。階段を落ちるように降りると、表へと転げ出て、必死で雑踏にその姿を探した。

 辺境や荒野を行っていたせいで、チストン以来、その消息を耳にすることはなかった。それでも、心の中ではいつも気にかけていた。毎晩毎夜、神にその無事を祈っていた。どうして今、この地に、この荒野にいるのかはわからない。だが、もし本当に彼なら、この時間に旅立ったのにも頷ける。逃亡中の身の上には、昼間の明るさは命取りだ。

 神はなぜ擦れ違いなどという試練を自分たちに課そうというのだろう? ひとたび慈悲を垂れて彼と自分とを引き会わせようとしてくれたなら、それ以上の運命の悪戯は御免被りたかった。

(イスフェル……!)

 セフィアーナは欠けてしまったボロドン貝を握りしめると、星の瞬く空の下、街道へ向かう道筋を走り出した。その頭上にはティユーが、足下にはアグラスとイリューシャが従っていた。


【 第三章 了 】

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