第四章 波間に揺れる想い --- 1

 鷹が翼を広げる蒼い空も、花が咲き誇る緑の沃野も、すべて灰色となった。珍しい鳥の美しいさえずりも、柔らかくも冴え冴えとした風の囁きも、すべて聞こえなくなった。近付く嵐の湿気た匂いも、自らが手綱を取る馬の臭いも、すべて感じなくなった。山間の岩清水の甘さも、干涸らびた肉のまずさも、身体中にできた刀傷矢傷の痛みも、砂漠の焼け付くような暑さも、すべて、すべて……。

 父も家族も主君も友も夢も誇りもすべてを失い、もはや失うものはないと思っていたのに、また失った。あの荒野の夜は未だ明けぬまま、逃亡者に身を貶めた青年を闇の中へ閉じこめていた。遠くにあるとも近くにあるともわからない――いや、本当にあるのかさえわからない小さな頼りなげな儚げな光を目指し、ただ彼は重い歩を重ねていた。運良く辿り着けたとして、そこでどうするかはもはや忘れてしまったように、その薄汚れた顔には生気の欠片もなく、何の表情も浮かんでいなかった。

『どうか、生きて……』

 想像さえ難くなってきた消え入りそうなその声に、やっとのことで剣の束を握りしめ、

『行けえ!』

 脳裏に響くその声に、ようやく一歩一歩を踏み出した。

 他人の生命だけを吸ってどす黒く重くなった影を引きずりながら、虚無の人妖のようになりながら、それでも吹けば消えそうなほど淡い光を目を凝らして探しつつ進む。いっそ死んだ方が楽な行為だったが、死に神は青年の心を揺さぶることはできなかった。あまりにもその扉が堅く閉ざされていたので、入れる余地を見い出せなかったのだ。

 ラッカの村の灯も星の瞬きほどになった頃、青年はふと馬の歩みを止めた。街道に出くわす直前のことである。

 反逆者と逃亡者の汚名を二重に背負うことになったあの日から、青年は自分に近付いてくる音だけには野生の獣のように敏感になっていた。おかげで追跡者をかわし、襲撃者を退け、この日まで無事に生き延びてきたのだが、その本能が今また警鐘を鳴らし始めたのである。

 ――足音がひとつ。それと、犬のような呼吸音が……複数。

 青年は老人の遺品となった剣の束に手を乗せると、背中の気配に全神経を集中させた。自分に害を為そうとする者は、とにかく斬り伏せるだけである。こんな夜の荒野を彷徨いている以上、文句を言われる筋合いはない。

 相変わらず足音は一直線に彼の方を目指していた。獣に襲われているという可能性は、相手が悲鳴をまったく上げないところを見るとないのだろう。馬でなく徒であることや、獣連れなことには多少訝しく思ったが、所詮、自分には関係のないことだ。追捕隊や暗殺者の目を欺くために、一刻も早くアンザ島へ向かいたいところを山越えまでして異国の地へ入り、それからも砂漠越えに喘いだというのに、つくづく天から見放されたものだ。そして、次の瞬間、青年は今は隠れた太陽神に挑戦状を叩きつけた。

「イスフェル……!!」

 なぜ、その鈴の鳴るような声がこの荒野に聞こえるのか。振り向けば、なぜ、そのエリシア神のような美しい姿がこの荒野を駆けてくるのか。絶望に次ぐ絶望で、思わず双眸に涙が滲んだ。

「神よ、なぜこのような幻を……。そこまで私がお嫌いか……!!」

 激しく歯軋りすると、素早く馬首を返しながら、青年は堰を切ったように剣を抜き放った。

 驚いたのは、セフィアーナの方である。擦れ違った男を、落ちていたボロドン貝を、イスフェルと信じて追いかけてきたが、それが今まで何度も少女の旅を脅かしてきた盗賊たちさながらに――いや、それ以上の殺気を放ち、恐怖心を煽りながら、彼女に向かって突進してきたのである。思わず急停止した彼女の前へアグラスとイリューシャが飛び出して、迫ってくる馬に臨戦態勢を取る。

(いいえ、あれは……絶対にイスフェルよ!)

 今や灰褐色の頭巾は自らが切る風にずり落ち、その頭部が露わになっていた。明るい麦藁色の髪は、王都で別れた時より耳を隠し肩に届くほどに伸び、きちんと剃られていた髭は、逃亡生活のうちに顎を覆っていた。前髪の奥で誇らしげに光っていた紫水晶の額輪は姿を消し、藍玉の瞳は獲物を狙う獣のように血走ってセフィアーナを見据えていた。以前の、勇気と、誇りと、生気と、理性に溢れていた光の面影は微塵もない。しかし。

 セフィアーナは狼たちの前に進み出ると、イスフェルの振り上げた白刃の下にその身を晒した。

「私を斬りたいのならかまわないわ! それであなたの気が済むのなら!」

《太陽神の巫女》の血は汚れを祓うとされている。彼女の血が眼前の青年の心を救うのなら、生命も惜しくはなかった。

(――ああ……なんていう目をしているの……)

 馬上で剣を振りかざしたまま固まってしまった青年の瞳を見て、セフィアーナは胸が潰される想いだった。手負いの獣のように孤独な、これ以上傷付ける場所がないほど傷付けられ光を失った玉のような瞳。怒りも悲しみも嘆きももはや打ち捨てられ、虚しさだけが支配する瞳。――どこか、カイルの瞳に似ていた。故郷の谷で行き倒れていた、あの時の……。

「イスフェル、私よ。セフィアーナ。わかる……?」

 ゆっくりと両手を伸ばすと、彼は怯えたように馬を引いた。

「う、そだ……嘘だ……」

 しかし、その言葉とは裏腹に、剣を持った手は勢いを失って次第に下ろされていく。セフィアーナはさらに歩を進めた。

「嘘じゃないわ。ほら、これ」

 セフィアーナはイスフェルの手を取り、その剣を離させることに成功すると、代わりに彼女がずっと握りしめていたものを包ませた。荒野に落ちた剣が乾いた音を立てる。

「もし私が偽者なら、これがあなたのものだって、どうしてわかるの?」

 少女に促され、その手をゆっくりと開くと、そこにあったのは小さな白い貝殻だった。

「これはあなたの――私たちの心。決して、亡くしてはだめ」

 瞬間、そこから淡い七色の光が溢れ出した。目映い、目も眩むような光の中で、聞き覚えのある甲高い声が聞こえてきた。

『ボクたちだけじゃなくて、みんなに良いことがありますように』

『マリオ、おまえ、良いこと言うなあ』

『じゃあ、ボクも早く文字を覚えて、たくさん本を読むよ。大切なものを守れるように』

『オレ、もっと練習して、もっと強くなる!』

(ミール様……マリオ様……)

『オレたちのいないところにおまえの居場所なんかないぞー』

『オレだけすごすご王都に帰れるか!!』

『おまえがオレたちに夢をくれたんだぞ! 最後まで一緒に走ろうって決めたじゃないかよ! そうじゃなかったのかよ!?』

『一緒に来てくれるかとおまえが言ったから、オレはここに居る! おまえがおまえを信じられなかったら、オレたちは何を信じたらいいんだよ……』

(シダ……セディス……)

『オレが殺られるとでも思うのか!? 必ず後から行く!』

『行けえ!』

『……能い鷹匠になれ』

(ユーセット……!)

『巨大な責任を、独りで抱え込まないで。あなたは優しいから、結局、最後には自分ひとりですべての罪をかぶる気なんだわ』

『聖都であなたのこと応援してるから』

(セ――)

 その名を呼ぼうとした瞬間、すべての光が集まりながら流れ星のように彼の眼前に落ち、そして荒野の暗がりの中、ひとりの少女の輪郭を神々しく浮き上がらせた。

「イスフェル」

 彼女の口が青年の名を象り、彼女の瞳が青年の姿を映していた。青年を取り巻くすべてが変わってしまったというのに、彼女はいつも通り、彼に向かって優しく微笑んでいた。

「――セフィ……?」

 思わず手を伸ばし、その頬に触れた。頬も、そして重ねられた彼女の手も、柔らかく、温かかった。彼女の双眸から溢れ出した涙は、熱いほどだった。――真物だった。

「よく……よく、無事で……!」

 彼の手をひしと握りしめたまま泣きじゃくる少女の頭を見ながら、青年は容易に混乱した。こんなことが、あるのだろうか。彼がいるのは、逃亡先の異国の地である。それなのに、どうして《太陽神の巫女》であるセフィアーナがここにいるのか――そこで、彼ははっとした。ここは異国とはいえ、太陽神の支配する地である。ゆえに巫女がいても――彼のもとへ巫女が遣わされても、おかしくはないのかもしれない。それなのに、青年は神に対して悪態を吐き、挑戦状まで叩きつけてしまった。今の彼に最も必要なものを贈ってくれた神に対して。

(神よ、どうかお許しを……)

 ぎゅっと瞳を綴じて神に心から詫びると、神から遣わされたものを確かめるために、おそるおそる瞳を開いた。すると、神の怒りに触れることはなかったようで、彼の娘は相変わらずそこで涙していた。

(ああ……)

 青年は少女の顔をよく見ようともう片方の手も伸ばし、その頬を包んだ。

「セフィ、オレは……」

 しかし、セフィアーナは泣き腫らした顔を横に振った。

「何も……何も言わないで。私には、あなたが無事でいてくれた、それだけでいい……」

 そうして、彼の首に手を回し、優しく抱きしめてくれた。以前にも覚えのあるシェスランの花の香が、イスフェルの鼻腔をくすぐる。すべてが救われたように思って、彼が安堵の吐息を深く深く付いた時、突如、なぜか視界が歪んだ。訝しげに眉根を寄せた次の瞬間、少女がいる方とは反対側の鐙から足が外れて均衡を崩し、少女の上にのしかかるように馬上からずり落ちた。

「イ、イスフェル、大丈夫!?」

 受け止め損ねたものの、尻もちをついた程度ですんだセフィアーナは、自分の上に載ったままのイスフェルの顔を見て、すぐに異変に気付いた。

「イスフェル……?」

 その額には脂汗が滲み、触れば額も頬も首筋も熱かった。口から息苦しそうに漏れる吐息も。

「イスフェル、あなた、熱が――」

 その時、セフィアーナは宿屋の女将が言っていたことを思い出した。

(具合が悪くて部屋に籠もってたって……あれは、追っ手から逃れるためだけじゃなくて、本当に調子が悪かったんだわ。どうしよう。こんなところにいたら、ますますひどくなっちゃう……!)

 しかし、大の男ひとりを馬上まで担ぎ上げることは、細腕の少女には不可能である。周囲を見回しても、人気などありはしない。無情にも、ラッカの灯は遥か後方で霞むように揺れるだけ――その時、セフィアーナの目に、見慣れぬ人間の匂いを嗅ぐ狼たちの姿が映った。

「あっ、アグラス!」

 突然、名前を呼ばれて、アグラスは驚いて飛びすさった。そんな狼に、セフィアーナは身を乗り出すように迫った。

「アグラス、お願いがあるの。ラスティンをここに呼んできて。このままじゃイスフェルが死んじゃうわ。お願い……!」

 しかし、アグラスは不思議そうな顔をして彼女の顔を見返しているばかりだった。

「私の言うこと、わからない……? ……そうよね、やっぱりラスティンじゃなきゃ……」

 その時、突然、イリューシャの方が走り出した。みるみるうちに、闇の中を村の方へと駆け去っていく。セフィアーナは、イリューシャともアリオスとも口にしなかったが、女心の方が先に通じたようだった。

(イリューシャ、お願いね……!)

 彼女がきっとカイルたちを連れて戻ってきてくれると信じて、セフィアーナは再びイスフェルに視線を戻した。

「イスフェル、しっかりして。私はここにいるわ」

 自分に会ったことで、緊張の糸が切れてしまったのだろうか。それならば、不謹慎ではあるが、多少嬉しいのだが。

 少しでも楽になるようにと、襟首で留められていた外套を外してやると、イスフェルの上に着せかけた。その頭は、彼女の膝の上に載せてやる。

「イスフェル、もう少しの辛抱よ。すぐにみんなが来てくれるから」

「み……んな……」

 その呟きは掠れて声にはならなかったが、口の動きを見て、セフィアーナは理解した。

「ええ、みんなよ。私の――」

 その時、イスフェルがボロドン貝を握りしめた。それを見たセフィアーナは、続きを言うことができなかった。彼の中の「みんな」とは、ボロドン貝を持つ仲間たちなのだ。セフィアーナはただ、イスフェルの伸びた髪を撫でてやった。

 イリューシャが冷や汗を浮かべたアリオスたちを連れて戻ってきたのは、それから半ディルク後のことだった。



 倦怠感に包まれながらゆっくりと目を開けると、その先にあったのは見覚えのない天井だった。板がところどころ黒ずんで、朽ちているところもある。

「………?」

 判然としない意識の中でイスフェルが首をひねると、額の上から何か冷たいものが滑り落ちた。のろのろと手をやると、それは湿った手布だった。その時、木の軋む音がして、部屋の扉が開いた。思わず飛び起きると、手に水桶を持ったセフィアーナが驚いたようにこちらを見ていた。

「セフィ……!?」

 なぜ、彼の眼前に少女がいるのか。しかし、その疑問を発そうとして、イスフェルはふらついてしまった。急に激しい動きをしたせいで、頭が割れるように痛かった。

「ああ、イスフェル、まだ無理をしてはだめよ。さあ、横になって」

 少女は小走りでイスフェルのもとへやって来ると、枕元に水桶を置き、彼を無理矢理寝かしつけた。そして、彼の額に触れて体温を確かめる。

「……熱は下がったみたいね。よかった……。気分はどう?」

「あ、ああ……」

 いまいち状況が飲み込めず、イスフェルが呆然としていると、セフィアーナは喜びの表情を翳らせた。

「イスフェル、どうしたの? どこか痛いの?」

「い、や……どうしてきみが……。――ああ、これは夢か」

 言って、イスフェルは自嘲気味に笑った。弱い自分がまた愚かにも夢のような夢を見ているのだ。

 そんな彼を目を瞬かせて見ていたセフィアーナは、しばらくして破顔した。病み上がりで記憶が混乱しているのだろう。そこで、訝しげな彼に説明してやる。

「憶えてない? 私たち、三日前の夜、再会したのよ。この先の……えっと、どこかはわからないけど。でも、あなたが倒れてしまって。――あ、ここはラッカの村の、あなたが泊まっていた宿よ。部屋も同じ」

 今度はイスフェルが目を瞬かせる番だった。

「部屋も同じって……。――いや、そうではなくて……だから、つまり――」

 イスフェルは、はたと顔を上げた。

「夢じゃ、ない……?」

「ええ」

 セフィアーナの強い頷きを見て、イスフェルは、灰色の重い霧がかかったような記憶を辿ってみた。そして、確かに荒野で少女と出逢ったことを思い出したのだった。

「――ああ、そうか、そうだった……。よかった……」

 ぎゅっと目を瞑り、大きく吐息するイスフェルを見て、セフィアーナは心の底から安堵した。

「……ねえ、イスフェル、お腹空いてるんじゃない? お粥食べられる?」

「ああ……。――あ、いや、だが……」

 一度は頷いたものの、ここがセフィアーナの家ではないことを思い出して、イスフェルは慌てて首を振った。純朴で親切な農夫の家ならともかく、宿のような商い場なら、何をするにも銭子がかかる。彼はこの宿に泊まったことで、たまたま奪った馬の荷物にあった銭子――サイファエールとの国境が近いことから、サイファエール貨幣も使えたのには運が良かった――は使い果たしてしまった。それに、何と言っても彼は重罪人の身の上である。一緒にいると、いついかなる危険に彼女を巻き込んでしまうとも知れなかった。しかし、そんな彼に、少女はぴしりと言った。

「あなたは今はただの病人よ。病人はおとなしく看護人のいうことを聞くものよ」

 そして、彼の反論を待たず、部屋を出て行ってしまった。一瞬、呆気に取られ、やがて滲んできた笑みを、イスフェルははっとして消した。彼は今、幸せな気分を味わっていい身分ではないのだ。目を瞑ればすぐに、彼のために生命を投げ出してくれた人々の顔が浮かんでくる。

(ユーセット……。オーエン……)

 やっとの思いで再会を果たしたのも束の間、頼れる青年は謎の暗殺者集団からイスフェルを逃すための盾となり、その生命を落とした。仇を討つこともできず、その最期がどんなだったかも知り得ず、ましてや墓も建ててやれず、ただ彼からの最後の言葉を胸に、ひたすらアンザ島を目指すしかなかった。そして、オーエンと名乗った老人。父の旧知であったということ以外、もうその正体を知る術はない。あの二人の死に報いることができた日に、青年は再び笑うことが許されるのだ。

 しばらくしてセフィアーナが戻ってきた時、イスフェルはじっと天井を見つめていた。何かを考えているという風ではなく、天井自体を見ているようで、セフィアーナも釣られて顔を上げてみたが、特に珍しいこともないものだった。

「イスフェル、どうしたの……?」

「ああ、いや……ここの天井はこんなだったかと思って……」

 イスフェルはこの部屋に二泊ほどしたが、天井どころかその間の記憶がほとんどなかった。追われる身で宿を借りるなど足の付きやすいことはしたくなかったが、体調があまりにも悪く、背に腹は代えられないと行き倒れるように飛び込んだのだ。しかし、少女と出逢えた今となっては、怪我の功名、病の功名だった。

「イスフェル、少し起きられる? 食事の前に着替えた方がいいと思って。ここのご主人が着替えを貸して下さったの。たくさん汗をかいたから、身体も拭かなくちゃ」

「わかった……」

 少女に手伝ってもらいながら半身をゆっくりと起こすと、イスフェルは自分の無様な姿を情けなく思った。

「セフィ、すまない……」

 申し訳なさそうに少女を見ると、彼女は少し怒ったように頬を膨らませた。

「何度も言わせないで。あなたは病人、私は看護人」

 そして、手布で汗を拭き取ってくれた。慣れた手つきを見ると、以前に何度もやったことがあるのだろう。その時、部屋の扉が遠慮がちに叩かれ、ひとりの少年が顔を覗かせた。

「姉さん、お粥だけど、できたと思われるから持ってきてみたけど――」

「まあ、ありがとう。そこの机の上に置いてくれる?」

 すると、少年は言われた通りにし、さらに使いやすいようにと円卓を寝台の方まで引きずってきた。

「セフィ、彼は……?」

 少年はセフィアーナのことを「姉さん」と呼んでいたが、彼女は孤児だと聞いていた。尋ねると、セフィアーナは「ああ」と顔を明るくし、少年を紹介してくれた。

「私の弟のラスティンよ」

「どもっ」

 少年がぴょこっとお辞儀する。屈託のない笑顔が、セフィアーナに似ているように思った。イスフェルは名乗りを返した後、再び少女に視線を戻した。

「弟……?」

「ええ。……聖都に帰ってから、私にも色々なことがあったの。けど、これはあなたがよくなってから話すわ。今は身体を休めることだけを考えて」

 粥が冷めないよう、セフィアーナは手早く作業を終えると、イスフェルに着替えを着せかけた。そして粥を小さな椀によそう。その湯気を胸一杯に吸い込んだラスティンが、幸せそうに吐息した。

「このお粥さ、めちゃくちゃおいしいね」

「まあ、摘み食いしたの?」

「だって、すっごい美味しそうな匂いがするからさ。前は食べさせてもらえなかったし、つい……」

「前」とは亡き母にセフィアーナがご馳走した時のことである。姉弟の胸に一抹の悲しみが過ぎったが、お互い口に出しては何も言わなかった。セフィアーナは、笑顔でイスフェルを見た。

「ですって。食べられそう?」

「勿論、いただくよ」

 セフィアーナが匙を運んでくれ、イスフェルはもはや思い出せないくらい久しぶりに温かい物を口にしたのだった。

「……本当においしいな」

「院長先生直伝の特製だもの。何にでも効くのよ」

「何にでも? じゃ、アリオスにも食べさせなきゃ」

 弟の言葉に、セフィアーナは首を傾げた。アリオスなら先ほど会った時も元気でぴんぴんしていたはずだが。

「アリオスがどうかしたの?」

 彼女の心配は、しかし無用のものだった。

「あいつの女癖さ。さっきも隊商の娘に言い寄ってひっぱたかれたんだ」

「まあ」

「じゃあ、オレ、皆と下にいるから」

「うん。ありがとう」

 ラスティンが出て行くのを見届けた後、イスフェルは感心したように吐息した。

「……すごいな」

「え?」

「とてもつい最近出会った姉弟とは思えない」

 そこでセフィアーナも小さく笑った。

「私も……小さい頃から一緒に育ったみないな感じがしてるの。不思議ね」

「ラスティンの他にも、誰か一緒なのか?」

「ええ。例のアリオスと、カイル。カイルのことはもう知ってるわよね。アリオスはラスティンと同じ狼族なの」

 カイルの名を口にするのは、彼の過去の因縁から勇気が要ったが、相変わらずイスフェルはそのことに気付いていないようだった。

(もしかしたら、カイルの杞憂なんじゃないかしら。そうだといいけど……)

 そんな彼女の考えを励ますように、次にイスフェルが口にしたのは、カイルのことではなかった。

「狼族とは?」

「エルジャス山って知ってる? パーツオット海沿いの、カルマイヤとの国境の近くにあってね。そこに、狼と一緒に暮らしてる部族がいるの」

「へえ……」

 博学なイスフェルではあるが、彼も狼族のことは知らなかった。

「――あ、じゃあ、ええと、三日前、きみと一緒にいたのは……」

 途切れがちな彼の記憶にも、セフィアーナを守ろうと前に飛び出してきた二頭の獣の存在は鮮明に残っていた。

「ええ。ラスティンの狼のアグラスと、アリオスの狼のイリューシャ。ふたりとも、とても賢いのよ」

「彼らがオレをここまで運んでくれたのか……。お礼を言わないとな」

「気にしないで。何のかんの言って、皆、人助けが好きなんだから」

「そうはいかないさ」

 最後の匙を飲み下し、茶も飲んでしまうと、イスフェルは立てかけておいた枕に背を預けた。

「ごちそうさま。とてもおいしかった……」

「この分だと、すぐによくなりそうね。じゃあ、私、洗濯に行って来るから。おとなしく寝ていてね」

 セフィアーナが膳や桶をまとめるのを見て、彼はふいに表情を翳らせた。

「オレが着ていた服は……?」

 もとは真っ白だったというのに、彼が歩を進めるたびに汚れていった囚人服。あれが彼の罪の証であり、彼が罪を贖おうとする証でもあるのだ。

「一応、取ってはあるけど……」

「捨てないでくれ。大切なものだ」

 青年の真意のほどはわからなかったが、セフィアーナはただ頷いて部屋を出た。


     ***


『イスフェル、ここはオレに任せて先に行け!』

 それは、ユーセットの口から発せられたこともない、ひどく切羽詰まった口調だった。

『ヨッセ!?』

『シュラッドに、おまえを今度こそ守ると約束した! だから、行け! 先に行け!』

 青年の必死の形相に、イスフェルも必死で言い返した。

『何を言う! おまえを置いて行けるか!』

『オレが殺られるとでも思うのか!? 必ず後から行く!』

『ダメだ、オレは行けない……』

 やっと再会できた唯一無二の仲間を失いたくないという弱さと、しかし、アンザ島へは必ず辿り着かねばならないという身勝手な想いが、この時のイスフェルの心を優柔不断にしていた。行けないと言うなら、早々に剣を抜いて暗殺者へ向かっていたら、違う結果が生まれていたかもしれないというのに。

『行けえ!』

 ユーセットの渾身の叫びが上がる。そして次の瞬間、彼の背から、その心臓を突き抜けた剣の切っ先が覗いていた。ユーセットの首がだらりと後方に下がり、その緑玉の瞳はもはや硝子玉のようになって、イスフェルの方に向けられた……。



「イスフェル!」

 肩を激しく揺さぶられ、イスフェルはかっと目を見開いた。すると、暗がりの中、蝋燭の明かりに照らされたセフィアーナが、思い詰めたような顔で彼を覗き込んでいた。

「大丈夫!?」

 しかし、悪夢以上の悪夢と、夢のような再会を体験した彼には、どれが現実なのか区別が付かず、戸惑った。そんな彼に、セフィアーナが今度は穏やかな声で話しかけてくれた。

「私よ、セフィよ。わかる?」

「あ、ああ……」

 思わず、イスフェルは両手で顔を覆った。

(ここが、現実だ……)

 そして、吐くことを忘れ、喘いでいた呼気を、ゆっくりと体外へ押し出す。

「嫌な……嫌な夢を……」

 しかし、その最期を目にしたかしないかだけの違いで、この現実も嫌なものに違いないことは、青年自身、よくわかっていた。他のこともすべて、これからも彼が死ぬまで続く苦しみ、癒えぬ傷だということは。

「ええ、ひどく魘されていたから……」

 セフィアーナは冷や汗の浮かんだイスフェルの額を手布で拭いてやった。

「何か飲む……?」

「水を……」

「わかったわ。ちょっと待ってて」

 セフィアーナは急いで階下へ降りると、宿の厨房から水差しを借りてきた。

 宿の主人には、イスフェルのことはセフィアーナの生き別れの兄だと説明してある。すっかり同情してくれた主人は、病人を受け入れることを了承してくれ、彼女たちの泊まる場所には納屋を用意してくれた。女将は最初、胡散臭そうな顔をしていたが、少女の健気な介抱振りに当てられて、厨房への立ち入りも井戸水の使用も許してくれたのだった。

「はい、ゆっくり飲んでね」

「ありがとう……」

 イスフェルは起き上がってひとくち水を含むと、静かに吐息した。その様子を見守っていたセフィアーナが首を傾げる。

「……少しは落ち着いた?」

「ああ……」

 それでも少女が不安そうな顔をしていたので、イスフェルは笑って見せた。

「もう、大丈夫だ」

「……いいのよ」

「え?」

「今はまだ、無理をしないで……」

 セフィアーナは、イスフェルを包むように抱きしめた。彼が痛々しくてならなかった。

(今、鬱屈した気持ちを心に閉じこめてしまったら、きっと彼は変わってしまう……)

 そんな彼女の優しさは、安らかな風となってイスフェルの心に確かに届いていた。

「セフィ……」

 まるで幼い子どもが母親に甘えるように、イスフェルはセフィアーナの首筋に顔を埋めた。

「……さあ、ちょっと横になったほうがいいわ」

「眠りたくない。眠れば、また夢を見る……」

「大丈夫よ。私が傍にいるわ」

 セフィアーナは、イスフェルの手をきゅっと握った。

「ずっといるから」

 セフィアーナの真っ直ぐな視線を受けて、イスフェルは素直に従った。《太陽神の巫女》ならば、夢魔も追い払ってくれるだろう……。

「……セフィ」

「なあに?」

「――いや……おやすみ」

 セフィアーナは微笑むと、イスフェルの頭を撫でてやった。

「おやすみなさい」

 イスフェルは再び目を閉じた。



 朝日が差し込んだ明るい厨房の片隅で、カイルはセフィアーナが呆然と佇んでいるのを見付けた。彼女の前では小鍋の蓋が中身の反乱に音を立てて揺れていた。

「セフィ」

「………」

「セフィ」

 二度目の呼びかけで、セフィアーナはようやく顔を上げた。

「あ、カイル……」

「鍋、噴いてるぞ」

「え? あっ、いけない」

 セフィアーナは我に返ると、慌てて小鍋を火から下ろした。

「大丈夫か?」

 病人の世話で、セフィアーナはこの数日、ほとんど睡眠を取っていなかった。

「私なら全然大丈夫よ」

「なら、どうかしたのか?」

「え、う、ううん……」

 セフィアーナはイスフェルのことを考えていたのだが、カイルにそうとはなかなか告げ難かった。しかし、青年が見透かしたようにじっと彼女を見つめたので、セフィアーナは観念して口を開いた。

「……イスフェルのことをね、考えてたの。彼、今、心にとても大きな傷を負っているわ。すべてを失って……」

 カイルは黙ってセフィアーナの言うことを聞いてやっていたが、心の中で考えていたのは辛辣なことだった。イスフェルのようにすべてを失って苦しみもがいている人間は、実際、世に溢れている。カイル自身もそうだったように。イスフェルは王国の中枢にいただけに、劇的に捉えられすぎるのだ。

「昨日の夜もイスフェル、ひどく魘されて……。けど私、何もしてあげられなかった。傍にいてあげることしか……」

 拗ねるように小鍋の中身を杓子で掻き混ぜる少女に、カイルは溜め息を吐いた。

「おまえの悪い癖だな」

「え?」

「すぐに自分を責めるのはやめろ。おまえがそう思っていても、相手におまえの労る気持ちが伝わっていることもある。オレの時がそうだったように」

「カイル……」

「以前にも言ったが、あの時おまえがいてくれなかったら、オレはきっと今、生きてない。誰かが傍にいてくれているというだけで、結果はかなり違うはずだ。答えを焦るな」

 思わず呆けて、セフィアーナはカイルの顔を見つめた。

『辛い時に、側に誰かがいてくれるというのは心強いものだ。だから、彼はダルテーヌの谷を、……こんなにも自分のことを心配してくれるきみの傍を離れなかったんだとオレは思う』

『焦らないで。一度深い傷を負った者は、一生それと向き合っていかなければならない。彼が生きようと決めたことは、その覚悟ができたということなのだから』

 それは、《尊陽祭》の折り、カイルが行方不明になったことに心を痛めていたセフィアーナに、イスフェルが言ってくれた言葉だったが。まさかカイルの口からイスフェルに関して同じことを言われるとは思ってもみなかった。

「どうした?」

 訝しげなカイルに、セフィアーナは慌てて首を振ると、にこりと笑顔を向けた。

「……ありがとう、カイル」

 イスフェルとカイルは不思議な縁で結ばれているのかもしれない――セフィアーナは、楽観的にもそんなことを考えていた。

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