第三章 混沌たる荒野 --- 2

 血の臭いがした。

 イスフェルがゆっくりと目を開けると、そこには既に見慣れた黒檻車の天井があった。何故かひどく痛む頭に眉根を寄せながら物憂げに視線を転じると、手の傍に血まみれの短剣が落ちていた。瞬間、父ウォーレイの斃れ逝く姿が脳裏をよぎり、反射的にそれを払いのけていた。

「ッ……ハッ、ハッ、ハアッ……」

 早鐘を打つ心臓を押さえながら半身を起こすと、イスフェルはようやく異変に気付いた。王都出立以来、一度として開いたことのなかった黒檻車の扉が、開いている。

「………?」

 イスフェルは壁に手を付いて立ち上がると、後部の扉のほうへよろよろと歩いていった。

 王都を出て既に十日が経っていた。先日、王都から聖都への中継都市チストンを通り過ぎ、今はどこかの森の中であった。既に日が昇り、朝靄はわずかに残るばかり、普段ならば護送の官吏たちが出立の仕度に追われている時分のはずだが、鳥のさえずり以外は何も聞こえなかった。

「どうかしたのか……?」

 しかし、それに答えてくれる人間はいなかった。――少なくとも、生者は。

「こ、れは……!」

 久しぶりに地面を踏みしめた青年が見たものは、頚部や腹部を斬られて死んでいる官吏たちの姿だった。

「いったい、何が……」

 音を立てて黒檻車の側面にもたれかかると、イスフェルは必死になって昨晩の記憶を掘り起こした。

「確か車輪が壊れたと騒ぎになって――」

 振り返って足元の車輪を見ると、なるほど車軸に亀裂が入っている。今は補助用の脚が引き出されていた。

「それから……」

 その後、四人いた官吏のうち一人がチストンへ戻り、別の黒檻車を手配することになった。仕方がないので残った三人はここで野営することにし、携帯していた食料で夕食を済ませた。イスフェルにも干し肉と水の差し入れがあった。そして。

「それから、どうした……?」

 しかし、その後のことはまったく憶えていなかった。いつ寝たのかさえ。物が散乱しているところを見ると、かなり争ったのだろうが、そんな物音がすれば、通常の彼ならば寝ていても起きるはずである。斃れている一人などの手には剣さえ握られていた。

「相手は、盗賊か……?」

 しかし、それにはすぐに答えが「否」と出た。官吏たちの荷物には手が付けられておらず、そもそも仲間でもない罪人を護送中の役人に、計算高い盗賊が手を出すはずもない。

 その時、ある予感が胸をよぎった。それも、とてつもなく恐ろしく、内臓が震えるような。

「ま、さか……」

 イスフェルは黒檻車の扉へ戻ると、その入口の床に転がったものを見た。それは、先ほど彼自身が払いのけた短剣だった。イスフェルはおそるおそるその短剣に手を伸ばした。やはり、血が付いている。

 何故このようなものが檻の中の自分の傍らに落ちていたのか。そして、さらに奥の暗がりに落ちている物を見た時、彼の疑念は確信に変わった。それは、黒檻車の鍵だった。激しい頭痛と途切れた記憶、血の付いた短剣、官吏が持っているはずの鍵、そして唯一生きている彼自身。

「――何故だ!!」

 思わず、叫んでいた。父を失い、地位も名誉も、そして夢も失った。今の青年には何の力もない。それなのに、何故このうえ陥れられるのか。

「このうえ、ではないのか……」

 敵は宰相家を潰したかったのだ。しかし、宰相職の世襲を解かれただけで、サリード家は生き残った。だから、彼に官吏殺しという罪を重ね着せ、今度こそ息の根を止めようとした。ただそれだけの話だ。

 その時、後方で蹄の音がした。強張った身体でぎこちなく振り返ると、案の定、そこには冤罪の証人となるべき、代用の黒檻車を引いてきた官吏の姿があった。御者台で呆然としている彼の横には、折れた車軸を修理するためか職人風の男が座っており、さらに後方には十人の騎士が従っている。

「いったい、何が……」

 変わり果てた仲間の姿に絶句する官吏の前に馬を並べた騎士たちは、青ざめた顔でイスフェルを見下ろした。

「何という恐ろしいことをなさったのです、イスフェル殿。王弟殿下のお慈悲を自ら無に帰すとは……」

「ち、違う。私ではない」

「違う? では、その手の短剣はいったい何なのです?」

「こ、これは――」

 しかし、次の言葉はもはや出てこなかった。この、すべてが青年に不利な状況で何を言っても、誰も信じてくれないことは明らかだった。

「この反逆者をひっ捕らえよ!」

 その命令が下った時のイスフェルの動きは、誰よりも早かった。彼を取り押さえようと騎士たちが馬を下りた瞬間、その隙を突いて馬に飛び乗り、手綱を振るったのだ。

「なっ、何をしている! 追え! 追うのだ!!」

 後方の、蜂の巣を突いたような騒ぎを置き去りにして、イスフェルは必死で馬を鞭打った。

 今、この状況でむやみに捕まるわけにはいかなかった。彼が捕まれば、今度こそ死刑になる。それだけなら別にかまわないが、そうなれば母も弟も幼い妹も、そして一族全員が無事では済まないだろう。彼が逃げたことでさらなる汚名を着せられることもあろうが、多少の時間稼ぎはできるはずだ。

 イスフェルは、心にあの男の姿を思い浮かべた。父の親友だった男。今や父の仇となった男。そして、彼自身の生命を救った、はずだった男。

(あの人の憎しみはこんなに深かったというのか……。だがオレは、こんな場所で死ぬわけにはいかない……!)

 藍玉の瞳に怒りと恨みと憎しみと、そしてただ生き残ることへの執念を燃やして、イスフェルは馬とともに風になった。



 逃げる罪人が必死なら、追う官吏も必死だった。相手はどこにでもいるケチな盗人ではない。王家に背き、アンザ島送りになった反逆者である。下手をすれば、自分たちまで首を刎ねられかねない。

「草の根を分けても探し出せ! 捕らえぬ限りは家へ帰れぬものと思え!」

 隊長の怒声に、そのことを言われるまでもなく認識している隊員たちは、かつてない恐怖心とともにイスフェルの追捕にかかった。彼らにもまだふたつの救いがあった。ひとつめは、逃亡者が彼らよりも地理に疎いという点である。イスフェルは身を隠すために森から出ようとはしないだろう。しかし、彼が逃げた森の北側は渓谷が多く、追い詰める側にはうってつけだった。

「二手に分かれて吊り橋で挟み撃ちにするのだ!」

 そしてふたつめの救い。相手が武術の名手とあって、檻車の乗り換えの際に不手際があってはと一個小隊で来ていたのが幸いした。五人ずつに分かれた彼らは、東西の道でイスフェルを追いながら、彼が通らざるを得ない吊り橋をめがけて走り出した。

 先にイスフェルの背を補足したのは、崖の道を追っていた隊の方だった。

「いたぞ! 奴だ!」

 官吏たちは道の癖を知っている分、有利だった。巧みに速度を変えて穏やかならぬ道を駆け抜けると、見る見ると罪人に迫った。

「待て! 逃げたところで未来はないのだぞ!」

「待て」と言われて待つ逃亡者がいるはずもないが、言葉で済むものならと言わずにはおれない。しかし、やはり、イスフェルの馬が止まることはなかった。

 先頭の弓矢を得意とする騎士が、馬上で弓を構えた。罪人の薄汚れた白い服の背まで十ピクトと、訓練時よりも短い距離に命中を確信し、矢を放とうとした、その時だった。突然、頭上から雷のような音がし、無数の岩が落ちてきた。

「危ない! 避けろ!」

 後方の騎士が叫び、弓を構えていた騎士は慌てて手綱を引いた。崖の道とはいえ幅があったことが幸いし、谷底に転落することは免れたが、がらがらと、時には目の前で岩が砕け落ちていく有様に、呆然とする。

「くそっ。迂回するぞ、迂回!」

 相次ぐ落石に見事に道を塞がれ、騎士たちは苛立ちながら馬首を返すと、森の中の道へと向かった。──逃した罪人が反逆者ではなく、彼らに冷静さが残っていたら、きっと気付いただろう。崖とはいえ、そこは落石があるような場所ではなく、そして、そこからふたつの不審な人影が彼らを見下ろしていたことに。



 吊り橋の中央まで来たときだった。イスフェルは対岸に不穏な気配を察し、歩みを止めた。奪った馬が小さく嘶く。

「伏兵か……」

 表情を険しくしながら、馬上で後方を振り返った。おそらくもう少ししたら、崖で彼を逃した部隊がやって来るに違いない。官吏殺しに馬泥棒、さらには逃亡罪と、今だけでも幾重もの冤罪を負っているというのに、このうえ追捕隊と戦って怪我などをさせれば、申し開きのしようもなくなる。イスフェルは何気なく馬首を返すと、馬腹を蹴り、勢いよく走り出した。途端、背後が殺気立ち、青年は自分の推測が当たっていたことを悟った。

 道は二本在ったが、森の道を追捕隊がやって来ていると知っている以上、そちらへは進めない。イスフェルは自分がやって来た崖の道を選ぶと、手綱を振るった。勿論、落石があったことは知っている。が、彼の腕前を持ってすれば、飛び越えられぬ高さではなかった。そして、そこが下り坂になっていたことも幸いして、青年は見事に馬とともに宙を舞ったのだった。

 その後、イスフェルは森の道へ入ると、再び吊り橋を目指した。伏兵の部隊も、森の道から吊り橋へ向かい直した部隊も、おそらく彼を追って崖の道へ入ったに違いない。吊り橋の道を諦めたイスフェルが直後、再びそこへ向かうとは思わないだろう。そして案の定、吊り橋は無人だった。イスフェルは一気に渡りきると、唯一の武器、血塗れた短剣で、吊り橋の綱を断った。修理までに付近の住民や隊商に迷惑をかけるだろうが、今はそんなことも言っていられない。

 盛大な音を立てて、崩壊した吊り橋が対岸にぶつかり、そして眼下の川に転落していく。その様子を見届け、手綱を打とうとした時、傍の木の幹に、矢が突き立った。追捕隊が戻ってきたのかと対岸に視線を走らせたが、そうではなかった。道より一段高い、崖の緩やかな斜面に、馬が二頭並んで立っている。矢は、そのうちの一頭に跨った騎士が放ったものだった。

「………?」

 騎士たちは、灰褐色の頭巾を被っていた。矢を放った騎士がそれを脱いだ時、イスフェルは藍玉の瞳を大きく見開いた。

「ユ……セット……?」

 ここに居るはずのない、漆黒の髪の青年が、対岸から真っ直ぐと彼を見つめていた。

「どうして……」

 その時、ユーセットが静かに腕を伸ばし、イスフェルの左下方を指した。そこには急峻な崖に囲まれた小さな入り江があり、ユーセットがそこを落ち合う場所と指示していることをイスフェルは察した。もう少し早ければ、吊り橋を使って落ち合えたものを、時間神はどうしても彼の味方になってはくれないようだった。

 深く頷いた時、馬蹄の轟がして、追捕隊が崖の道を戻ってきた。吊り橋が落下する音を聞きつけたのだろう。

「いたぞ、奴だ!」

「くそっ、橋を落とされたぞ!」

 発見されるまでそこに留まっていたのは、彼らの目と鼻の先にユーセットともう一人の騎士がいたからだった。二人が今動けば、確実に追捕隊に見付かってしまう。それを避けるためには、イスフェルが囮となって注意を引き付けておくしかなかった。

「すまない! だが、私は殺していない!」

「何を言うか! 殺ってないなら、何故逃げるんだ!!」

「逃げはしない! だが、今は捕まるわけにはいかないんだ!」

 ユーセットたちが木陰に身を隠すのを確認すると、イスフェルは落ち合う場所とは反対側に向かって走り出した。彼を追うために、追捕隊も一斉に駆け出す。その後方を、彼らを対岸へ渡る先導役として、間を置いてユーセットたちも追い始めた。



 荒野の追跡劇は、追捕隊の願いも虚しく、日が暮れるまでに終幕とはいかなかった。山間を散々逃げ回ったイスフェルは、追捕隊を巻くと、ユーセットとの待ち合わせ場所に向かった。やがて細い道の奥に川面が見えた時、心が逸り過ぎて震えるほどだった。なぜユーセットがあの場所にいたのかも気になるが、今はそんなことより、ただ彼に会いたかった。

「ユーセット、いるか……?」

 人どころか馬の気配もないので、よもや幻影を見たのかと思い始めた矢先、ふいに背後から声がかかった。

「ここだ、イスフェル」

 振り返ると、頭巾を完全に取り払ったユーセットが少し首を傾げて立っていた。彼の後ろには洞窟があり、その中に馬といまひとりの騎士が隠れていた。

「ユーセット、本当におまえなのか……?」

 旧知とまともに相対したのは、まさにすべてを失ったあの火宵祭の日以来だった。実物を目にしてもなお疑心暗鬼の弟分に、ユーセットは苦笑した。

「すまなかった。こうなる前に追いつくはずだったんだが……」

 王都を立ってからというもの、不眠不休で馬を飛ばしてきたのだが、寸でのところで間に合わなかった。彼らが黒檻車に追いついたのは、まさにイスフェルが逃亡用の馬を奪取したところだったのだ。追われるイスフェルに追捕隊が追いすがった時は、馬で岩を落としてなんとか捕縛を免れさせたが、彼の敏捷さが災いして、またしても目の前で吊り橋を落とされてしまったのだった。

「『こうなる前』……? どうして、わかったんだ……?」

 すると、ユーセットが「彼が」と、後方の騎士を指し示した。

「彼が教えてくれた」

 イスフェルが洞窟の中にいる騎士を見ると、彼は馬とともにゆっくりと出てきた。頭巾の下の顔は、しかし、イスフェルの知らぬ顔だった。

「オーエンと申します」

 その名にも声にも聞き覚えはなかった。困惑顔で再びユーセットを見ると、青年はその顔を見て小さく溜息をついた。

「もしやと思ったんだが、やっぱりおまえも知らないか」

「ああ……」

 ユーセットはイスフェルに老人が訪ねてきてからの経緯を話し、それを聞いたイスフェルは、深く吐息した。

「こうなってしまったことは無念としか言いようがないが、王都にまだオレに目をかけてくださる方がいらっしゃるとは……。それがわかっただけでも有難い」

 無論、イスフェルは腹心の友人たちが彼を見捨てたとは思っていない。この世で過ごす最後の夜と思っていたあの夜、目の前のユーセットを含め、彼らが近くまで来てくれたことを知っている。彼らがイスフェルを救い出そうと追ってこないのは、イスフェルがそれを望んでいないことを、彼らが知ってくれているからだ。彼らには、自分よりも、自分たちの夢を追って欲しかった。あの、心優しき二人の王子とともに。

「呑気なことを言っている場合か。それで、これからどうする?」

 ユーセットはイスフェルに重大な問いを発した後、オーエンを振り返った。

「おまえの主人は、間に合わなかった時のことを想定していたか?」

「……いえ」

 間者として歴戦をくぐり抜けてきたオーエンも、今回のことは誤算だった。今回ばかりはどうしても間に合わなければならなかったというのに。

「無責任なことだな」

 苛立ちを隠さないユーセットの物言いに一抹の懐かしさを感じながら、イスフェルは老人に尋ねた。

「今をもってしても、おまえの主人の正体をオレたちに教えてはくれないのか?」

「申し訳ありませんが、申し上げることはできません」

 オーエンの脳裏に、主人トランスの壮絶な言葉が蘇る。

『愛より憎しみの方がより生きる力を与える』

 彼の真の思惑が何処にあるのかはまだ不明だが、敵役を自ら進んで引き受けた主人のために、今ここで明かすわけにはいかなかった。

「……つまり、おまえの主人は、こいつの王都帰還を願っているのではなく、これ以上の混乱を避けたがっている、ただそれだけということか」

 ユーセットが邪推の翼を拡げても、老人はただ黙っていた。そんな彼に助け舟を出したのは、意外にもイスフェルだった。

「おまえたちが間に合っていようといまいと、今のオレに王都での居場所はない。そうじゃないか、ユーセット?」

「それは……そうだが……」

 ユーセットが二の句を継げず忌々しそうにしている間に、イスフェルは老人の前に立った。

「オーエンとやら、主人の命とはいえ、オレのために遥々すまなかった。だが、これ以上はここにいてもらっても仕方がない。王都へ戻ってくれ。ユーセット、おまえもだ」

「お、おい!」

 いきなりの最後通告に、ユーセットは目を剥いた。その一方で、オーエンは青年の申し出を予想していたらしい。

「……では、行きなさるのか」

「ああ」

「何? おまえ、行くってどこへ行くつもりだ」

 冷静なはずのユーセットが二人の会話についていけず、狼狽していた。そんな彼に、イスフェルは藍玉の瞳を瞬かせた。

「おかしなことを訊くものだな、ユーセット。行くところは最初から決まってるじゃないか。アンザ島だ」

「アンザ島だと!? せっかく逃げおおせたのに、いったい何故だ!」

 このあたりにくると、ユーセットの声はもはや叫びになっていた。彼はこの地にイスフェルを助けにきたのだ。火宵祭の時も、処刑の前夜も、そして今回も、イスフェルを助けることができなかった。このままおめおめと王都へ戻れるはずもない。いきり立った彼に、しかし、イスフェルがかけたのは存外、穏やかな声だった。

「確かにさっきは逃げたが……だが、そもそもオレにやましいところはない。それなのに、このまま一生逃げ続けろというのか? それに何より、オレが逃げるということは、母上やシェラード、エンリルが死ぬということだ」

 ユーセットは思わず息を呑んだ。イスフェル大事で、思わずその重大なことを忘れていた。彼をここへ遣ってくれたのは、そのシェラードだったというのに。その時、中央裁判所へ潜入した夜、生意気な後輩たちに言われたことを思い出した。

『ユーセット殿。普段の冷静な貴方に戻ってください。うまくイスフェルを助けられたところで、もうあいつに帰る場所はありません』

『イスフェルは家族を大切にしていた。イスフェルを存在させてくれたという点で、貴方は彼らに大恩があるはずです』

『早く戻って、シェラードの傍に居てやれよ。確かにあいつはイスフェルに比べたらまだまだだが、だからこそあんたの力を発揮して、再び栄光を取り戻させてやることもできるだろ』

 ユーセットは内心で苦笑した。何ということか、彼はまた同じ轍を踏もうとしていた。

「オレは、こんなところで死ぬわけにはいかない。必ず生きて、アンザ島へ辿り着く。それがきっと――」

「無実への証明にもなる、か」

 言わんとしていたことをそのまま言われて、イスフェルは驚いてユーセットを見た。すると、彼の緑玉の瞳には、いつもの冷静さが戻ってきており、イスフェルは微笑んだ。

「……そうだ、ユーセット」

「おまえの考えは分かった。だが、せめてアンザ島まではオレも行く」

 敵は官吏さえ、いや宰相さえ殺してしまうような輩なのだ。いくらイスフェルが腕に自信があっても、独り荒野に放り出すことはできない。しかし、またしてもイスフェルは首を横に降った。

「気持ちは嬉しいが、それは駄目だ。もしもの時、おまえがいたら、余計に弁解のしようがなくなる。おまえは、今のサリード家にこそ必要な人間なんだ。それに――」

 イスフェルはわずかに眼光を尖らせ、老人を見た。

「オレが襲撃されたということは、オーエンの主人の情報が間違っていなかった――つまり、その人物が真犯人を知っていることを証明したということだ」

 ただそれだけで、ユーセットは察した。イスフェルは彼に、その人物を自力で探し出して欲しいのだ。

「……わかった」

「すまないが、よろしく頼む」

「おまえの頼みだ。是非もない」

 その言葉を聞いて安堵の吐息を漏らすと、イスフェルは水辺に立った。既に日は落ち、正面の断崖も暗がりに没して見にくくなっていた。

「……おまえとこんな場所にいると、レイスターリアからの帰りの旅を思い出すな」

 イスフェルは呟くと、自嘲気味に笑った。成人の儀を控え、あれは夢と希望に満ちた旅だった。それからまだ半年しか経っていないというのに、人生とはかくも先の読めぬものであったとは。それからイスフェルはユーセットのもとへ取って返すと、彼を強く抱きしめた。

「シェラードを、よろしく頼む」

 イスフェルの渾身の想いを、ユーセットは確かに受け取った。

「……任せておけ」

 しかし、そんな彼らの頭上に、無情にも矢の雨が降り注いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る