第二部 聖人の牙 魔性の恕

第一章 闇に掴むもの --- 1

 どんなに暑い夏が来ても、シリアの頂に載った雪が解けることはない。

 名産品の香水をすべて売りさばき、意気揚々と凱旋するダルテーヌの谷の一行は、緑が一段と濃くなった木々の間に故郷の山並みを見て、その表情をいっそう綻ばせた。

「もう少しで谷だぞ! 早くみんなの喜ぶ顔が見たいなぁ!」

 隊長のディールが殿しんがりで叫ぶ声に、馬上のカイルは小さく笑った。

 今、彼が手綱を取る馬には荷車が繋がれているが、そこには売上金で買った戦利品――村人たちの日用品――が隙間無く載せられていた。シリアの香水は以前からそれなりに名を馳せていたが、この春、《太陽神の巫女》に選ばれたセフィアーナがその香りをまとっていたため、出荷直後から売り上げは右肩上がりだった。中には、少女がダルテーヌの谷の出身ということを突き止め、わざわざ彼らのもとを訪ねてきた商人もいる。

 一行が地下水路《賢者の道》の入口にさしかかった時、カイルは洞窟の岩陰に大きな犬のような獣が伏せているのに気が付いた。

(あれは……)

 青年は馬を止めると、鞍から飛び降りた。

「カイル?」

「悪い、先に行っててくれ。すぐに追いつく」

 傍にいた仲間に手綱を預けると、カイルは犬の方へゆっくりと近付いていった。すると、招かれざる客に気付いた大型犬は、青年の歩が進むにつれ、口角を持ち上げ、喉の奥から唸りを発し始めた。

「やはり畜生だな。命の恩人を忘れるか」

 三日前、リーオの街で放った銅貨一枚の話を持ち出し、カイルは軽く首を竦めた。しかし、その冴えた碧玉の瞳は、言葉とは裏腹に和んでいる。彼はその犬の黒く美しい毛並みが気に入っていたのだった。

 さらに近付こうと草むらに入った青年は、犬が右前脚に怪我を負っていることに気付いた。黒い血がこびりついているところを見ると、かなりの深手なのだろう。その時、身に危険を感じたらしい大型犬がよろりと身を起こし、彼に向かって吠えつけた。

「落ち着け。おまえのご主人様はどうした? まさか、怪我したおまえを見捨てて行ったのか?」

 手負いの獣ほど恐ろしいものはない。立ち止まったカイルが犬からわざと視線を外した時、崖の上方で土煙と緊迫した叫びが上がった。

「アグラス、どうした!?」

 斜面の途中から猿のような身軽さで岩の上に降り立ったのは、先日のスリ少年だった。彼は草むらのカイルに気付くと、緊張していた面持ちをふっと緩めた。

「あんた……」

「また会ったな」

 カイルは落ちてきた横髪を掻き上げると、すっと立ち上がった。

「連れが怪我をしてるぞ。知ってるのか?」

「……昨日の夜、熊に襲われたんだ」

 少年は相棒に歩み寄ると、握りしめていた薬草を揉みほぐし、その足にあてがった。その上に、荷物から取り出した包帯を手際よく巻いていく。犬はよほど少年に心を許しているのか、傷口を触られても抵抗する素振りをまったく見せなかった。

「よく助かったな」

 カイルが手当を終えて犬の背中を撫でている少年を感心するように見下ろすと、少年は小さく肩を竦めて見せた。

「狼族にとっちゃ、こんなの日常茶飯事さ」

 一瞬、小首を傾げたカイルだが、以前、谷へやって来た旅人が、南東の国境にそんな部族がいると話していたのを思い出した。その情報が確かならば、狼族はエルジャスと呼ばれる山の奥に村落を作り、狩猟をして暮らしているという。白狼神という独自の神を崇め、成人と見なされた者には狼の伴侶が与えられる。彼らは兄弟の契りを交わし、どちらかが命を落とすまで、決して離れることはない……。

(――ということは、これは犬ではなくて狼か?)

 カイルがまじまじと黒い毛並みの生き物を見下ろすと、ちょうど顔を上げた少年と視線がぶつかった。

「あんたさ、この辺に住んでんの?」

「一番奥の谷にな。ここからだと、まだ馬でも半日はかかる」

 すると、少年は何かを考えるように唇に手を当て、再び青年を見上げた。

「ちょっと訊いてみるけど、この辺に神殿とかってないかな?」

「いや」

 カイルが即答したので、少年は気分を害したように眉根を寄せた。

「ほんとに!?」

「嘘を言ったところで、オレには一文の得にもならん。だいたい誰がこんな山奥にそんなものを建てるというんだ」

「でも……そう聞いたんだ」

「誰に?」

「母さんに……」

「ないものはない」

 青年に強く念を押され、少年は疲れたように項垂れると、その場に尻もちを付いた。

「そんな……なくなっちゃったのかな……」

「もし在ったとして、そこへ行ってどうする? 白狼神を崇める狼族が、太陽神の神殿に何の用だ?」

 途端、少年が明るい空色の瞳を驚いたように見開いた。

「よく知ってるね。人を捜してるんだ」

「狼を連れた人間の噂など、聞いたことないぞ」

「違うよ。狼族の人間じゃない。十六歳の女なんだけど……知らないかな?」

 カイルは憮然として溜息を付いた。

「こんな山里にだって、それぐらいの年齢の女は五万といる。もっとちゃんとした手掛かりはないのか。名前とか」

 しかし、少年の首は横に振られるだけだった。

「オレの姉さんなんだけど……会ったことはないんだ……」

 急に元気をなくして黙り込んでしまった少年の頭を見下ろしながら、カイルは小さく溜息をついた。できることなら力になってやりたいが、如何せん手がかりがなさすぎる。

「……おい」

「な、なに?」

「オレはもう行くが、おまえ、これからどうするんだ?」

「どうって……」

 神殿がないと聞いて、進むべき道を失ってしまったらしい。ひどく落ち込んだ表情の彼を、カイルはなぜか見捨てることができなかった。

「……連れの怪我が治るまでなら、オレの部屋にいてもいいぞ。ただし、狭いがな」

「本当かい?」

「あぁ」

 途端、少年の頬に喜色が滲んだ。

「じゃあ、そうさせてもらうよ。あ、ところでオレ、ラスティンっていうんだ。こいつは相棒のアグラス」

「……カイルだ」

「カイルか。よろしくな!」

 スリで生計を立てているとは思えないほど無邪気な笑顔に、カイルは呆れつつも笑みを漏らしていた。



 村へと続く吊り橋を渡ると、家々の玄関に灯る火が、一行を暖かく迎えてくれた。

「帰ったぞー!!」

 坂道を上りながらディールが叫ぶと、家から畑から村人が続々と集まってきて、家族との久しぶりの再会に歓声を上げた。

「今年はまぁ、たくさん買い込んで来たものだね。犬の毛皮まであるじゃないか!」

 荷台の中を覗き込んだ女が、そこで養生していたアグラスを見て豪快に笑う。「毛皮」という言葉を理解したわけではないのだろうが、アグラスが困ったようにラスティン少年を見上げ、それを見たカイルは思わず吹き出してしまった。

 隊商が帰ってきた夜は、村で唯一の酒場『春輝亭』で宴が開かれるのが常だ。村人とともに戦利品を抱えて酒場に入ろうとする青年を、少年は慌てて掴まえた。

「オ、オレはどうしとけばいい?」

 ラスティンの遠慮がちな態度に、カイルは冴えた碧玉の瞳を見張った。この少年、スリを働くわりには実にお人好しな性格らしい。

「これから宴だから、おまえも一緒に食えばいい」

「部外者のオレがいてもいいのか?」

「別にかまわないさ。家に帰ったところで、今日帰るとは婆さんも知らないから、オレたちの食事の用意はないし」

 マルバなら言えばすぐに用意してくれるだろうが、村長夫人に宴の席を外させるわけにはいかない。

「腹が減ってるんだろ? 今日は酒場のオヤジの奢りだし、遠慮しなくていい。一応、オレの客だしな」

「……そっか。ありがと」

 少年はそう言うと、小さく頭を下げた。そんな彼に、カイルはいっそう目を丸めるのだった。



 隊商に参加した者の席は酒場の中央に設けられていたが、カイルは怪我をしている相棒を気遣う少年のため、勝手口近くの席に腰を下ろした。アグラスを中に入れてもいいのだが、酔った輩に脚や尾を踏まれる可能性があるのでやめたのだ。

 ほどなくしてどの円卓にも酒と料理が出揃い、村長たるヒーリックが椅子から立ち上がって挨拶を始める。しかし、今回は帰り着いたのが夕食時とあって、各家庭からも大量の料理が持ち込まれており、その良い匂いに途中からは誰も話を聞いていなかった。ようやく乾杯の音頭が取られた時、カイルと少年の杯は既に空となっていた。

「カイルの村は、香水を作ってるのか?」

 中央の席でディールが香水の売り上げについて大声で話しているのを聞いて、ラスティンがカイルに尋ねてきた。

「あぁ。わりと有名なんだが、今年は特に良く売れてな。上納金を引いても、いつもの倍はいってるんじゃないか」

「へぇ……裕福な村なんだね」

 その物言いが気になって、カイルは少年の顔を見た。

「おまえの村はどうなんだ?」

 すると、ラスティンは小難しげに顔を歪めた。

「裕福……じゃないけど、貧しくもないよ。まあ、狩りがうまくいかなかった日の夕食は最悪だけどね。麓の村に行けば、野菜なんかも分けてもらえるのに、族長が外の人間を嫌ってるからなかなか行けないし。オレは育ち盛りだっての!」

 そこで勢いよく炙り肉に喰いついたラスティンを、カイルは呆れたように見遣った。

「……そんなんでよく村を出してもらえたな」

「ひっはららしてほらへるはけはいほー!」

「口に物を入れたまま喋るな」

 青年の眉根が寄るのを見て、ラスティンは慌てて口の中の物を飲み下した。

「言ったら出してもらえるわけないよ。それどころか岩屋に閉じこめられるね、確実に」

「じゃあ、まさかおまえ……」

「おっと、早とちりしないでよ。ちゃんと置き手紙はしてきたから大丈夫さ。族長が心配してくれるわけはないけど、母さんには心配かけられないから」

「……ならいいが」

 他人事に安堵する自分に気付いて、カイルは憮然として酒杯を呷った。数か月前、何の連絡もなく聖都を出奔した自分が、少年に何を言えるというのか。

「……だけど、もう帰らなきゃ。残念だけど、もう時間が――」

「カイル」

 少年の呟きを遮ったのは、聞き慣れた老人の声だった。顔を上げると、ラスティンの後ろの狭い通路を、ヒーリックが酒瓶を持って歩いてきた。

「ただいま、爺さん」

「うむ。色々と大変じゃったろうが、無事でなによりじゃ。聖都でセフィに会ったんじゃて? 元気じゃったか?」

「あぁ。少し、巫女らしくなってた」

 村人のために、聖都でセフィアーナに土産話をせがんだ彼だったが、養父の赤らんだ顔を見て、今はそれを封印する。酔っぱらい相手に話したところで、後日また同じ事を訊かれるのが関の山だ。ラスティンを独りにするわけにもいかない。

 そんな息子の内心も知らず、ヒーリックは持っていた酒瓶をカイルの杯に傾けた。

「そうかそうか。あの娘なら、どこへ行ってもうまくやって行ける」

「……そうだな」

「だが、心配じゃ」

 どかっと酒瓶を円卓の上に置き、老人は焦点の合っていない目で宙を睨み付けた。

「爺さん?」

 酔いが回ったのかと椅子を勧めようとする青年を制して、ヒーリックはふいに真剣な表情を浮かべた。

「いや、さっき、ディールから王都のことを聞いてな。儂らを助けて下さったあの御方が、まさかそんな大それたことをするとも思えぬが……。セフィは特に親しくしておったようじゃから、そのことで心を痛めておるじゃろうと思うとな」

「あの御方」とは、王都で開かれた火宵祭の剣舞祭で、王弟トランスに剣を向けた宰相家の嫡男イスフェルのことである。先だって、セフィアーナのつてで、かの青年が聖都の剣舞祭で勝ち取った賞金を村のために寄付してくれたことがあったのだ。

 老人の思いも寄らぬ言葉に、カイルは思わず言葉を失った。

『宰相家のイスフェル様が謀反を起こして捕まったらしいぞ!』

 その叫びをリーオの町で聞いた時、彼は何と思ったのだったか。

 本当はカイルが受け取るはずだった賞金を奪い、セフィアーナの隣に肩を並べて座っていた青年。少女に唯一悩みを打ち明けられた男。見も知らぬ村人たちから慕われる貴族。

 ――ザマァミロ。

 少女の悲しみには思いを馳せず、醜い感情に笑みさえ浮かべ、仲間たちのもとへ戻ったのではなかったか。

「………」

 突然、険しい表情になった彼を、少年が心配そうに覗き込んできた。

「カイル? 大丈夫か……?」

 その時になって、ヒーリックはようやく傍らの少年が村人でないことに気付いた。

「やや。カイル、こちらはどなたじゃね」

 それで我に返ることができたカイルは、遅ればせながら少年を養父に紹介した。

「エルジャスのラスティンだ。リーオの街で知り合ったんだが――」

 意味深いところで言葉が切られたので、ラスティンはどぎまぎしてカイルを見た。しかし、青年の方でも、さすがにこれからしばらく家に置こうとする少年の素行を明かすのは憚られたようである。

「……今日、下の洞窟のところで偶然また会ったんだ。文無し宿無しというから連れてきた。人捜しの旅の途中なんだと」

「ほお?」

 カイルの言葉に興味深げにまばたきした老人は、先ほど勧められた椅子を自ら腰の下に引き込むと、改めて少年に向き直った。

「それはいったい誰を捜しておるのじゃね? 下の洞窟まで来たということは、探し人はシリアの者か? 儂はここの村長じゃから、もしや役に立てるかもしれんが」

 酔っているのかいないのか、まくし立てる老人にラスティン少年は少し身を引いた。

「ありがとう、ございます。探してるのは、オレの姉さんなんです。父違いの……」

「それは……珍しいのう」

 母親違いの兄弟は世に溢れているが、父違いというのはあまり聞かない。何と返していいか悩んだ挙げ句の間抜けな相槌に、ヒーリックは我ながら呆れたが、少年の方は小さく笑って少し肩の力が抜けたようである。

「オレの母さん……オレの父さんと知り合う前、フィーユラルにいたんです。その頃知り合った男との間に女の子を……つまり姉さんが生まれたんだけど、なんか色々あったらしくて、母さん、どうしても姉さんを育てられなくなって……それで、シリア山の麓にある神殿に姉さんを預けたって……」

 少年の話を聞いて、ヒーリックは細い腕を組んだ。

「神殿か……。じゃが、ここいらにはそんなものは――おお、もしや、ケルストレス神の祭殿のことか?」

 老人の視線を受けて、カイルはゆっくりと首を横に振った。

「あそこは祭壇があるだけで、見た目も砦そのものだし、神殿と間違えるにはちょっと無理があるんじゃないか?」

「うむ、そうじゃな……」

 その時、あきらめ顔でカイルの後ろの壁を見ていた少年が、にわかに声を上げた。彼が思わず指した先を二人が辿っていくと、そこには小さな竪琴――セフィアーナが幼い頃、練習で使い、《太陽神の巫女》になったのを記念して店内に飾られたばかりの物――が掛けられていた。

「そう言えば、母さん、竪琴を一緒に置いたって言ってたなぁ……」

 村長親子は見事に時間神の呪縛にかかった。再び少年を振り返る二人の動きは、彼ら自身が笑いたくなるほどゆっくりとしたものだった。まるで顔に穴が空いたような彼らを、ラスティンがひとり、怪訝そうな顔をして見つめている。

 そこへ騒々しくやって来たのは、ヒーリックの妻マルバだった。

「まぁ、二人とも、お客さんなのかい!? どうして早く言わないんだい。料理も飲み物も全然ないじゃないか」

 マルバは隣の席から大皿を一気に二枚も持ち上げると、カイルたちの食卓に音を立てて並べた。そして、やっと夫と息子の様子がおかしいことに気付く。

「……どうしたんだい? 二人とも……」

 そんな養母を制すと、カイルは少年に掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。

「ラスティン、姉さんの年齢はいくつだと言った!?」

「え、十六だよ?」

「預けられたのは!?」

「確か、生まれてすぐ……? まだ生後二、三か月の頃だって――」

「爺さん……!」

 カイルの愕然とした表情に、ヒーリックも呆然と頷きを返す。

「間違いない、セフィじゃ……」

「えっ。なに、姉さんを知ってるの!?」

 腰が抜けたように、がたんとカイルは椅子に腰を下ろした。

「きっとそうだ……。おまえが神殿神殿というから、失念してた。この村には孤児院があるんだが、多分、おまえの母親は、そこの礼拝堂を神殿と勘違いしたんだ」

「ええっ!?」

 今度は少年が身を乗り出す番だった。

「姉さんが、この村に……!?」

 酔いが足下に来ていたヒーリックは、マルバの手を借りて立ち上がると、カイルのために道をつくった。

「カイル、急いで孤児院に行くんじゃ。シュルエ殿にこのことを知らせて来い!」

「わかった」

「オ、オレも行くよ!」

 飛ぶように走り出した青年の背を、少年は慌てて追いかけた。その横を、脚を引きずるアグラスが従う。

「アグラス、やったぞ! 姉さんを見付けたぞ!!」

 しかし、この時点で喜ぶにはまだ随分と早かったことを、後日、彼は思い知るのだった。



「おかえりなさい。道中変わりありませんでしたか?」

 院長室で書物を相手にしていたシュルエ・ヴォドラスは、カイルの姿を見て目を細めた。そして、続いて入ってきたラスティンを見、首を傾げる。

「……そちらの方は?」

「こいつは――」

 しかし、勢いづいていたラスティンは、カイルの声を遮って、半ば叫ぶように自己紹介した。

「オレ、ラスティンっていいます! 姉さんを迎えに来ました!」

「姉さん……?」

 シュルエ・ヴォドラスが目を瞬かせるのも無理ないことだった。カイルは少し困ったようにラスティンを見た。

「ラスティン、落ち着け。セフィは今、ここにはいないんだ」

「え……えっ!?」

 瞬間、泣きそうな顔を浮かべるラスティンに対し、セフィアーナの名前を耳にしたシュルエ・ヴォドラスは、困惑に表情を歪めた。

「カイル、説明してちょうだい」

「はい」

 勧められた椅子に座ると、カイルはラスティンと出会った経緯や、彼が捜しているという義理の姉がセフィアーナではないかということを語った。それに耳を傾ける院長の表情は、意外にも終始、落ち着いていた。

「院長……」

 話し終え、カイルが改めてシュルエ・ヴォドラスを見ると、彼女は視線を伏せ、静かに吐息した。

「……おそらくあの娘に間違いないでしょう。シリア山の麓には、ここ以外に神殿と間違えそうなものはありませんし、預けられた時期と年齢がぴったり一致します。何より、竪琴が……」

 十六年前、セフィアーナをその腕に抱いて以来、覚悟はしていた日だった。それでも、自分が思うよりずっと冷静でいられるのは、春に既に子離れをしていたからかもしれない。あの決断は、誰のためにも間違ってはいなかったのだ。

「あの、それで、姉さんは今、どこにいるんですか?」

 椅子に浅く腰かけ、居ても立ってもいられないといった少年を、シュルエ・ヴォドラスは真っ直ぐと見つめた。

「その前にラスティン、少し訊きたいことがあるのですが……」

 その表情が今までとは少し違うように見て取って、ラスティンは身を固くした。

「な、何ですか?」

 しかし、自分から言い出したものの、シュルエ・ヴォドラスはそれを口にするのをためらっているようだった。

「何でも、訊いてください」

 重苦しい雰囲気に、ラスティンが声を詰まらせながらそう言うと、シュルエ・ヴォドラスは困ったように微笑み、ようやく口を開いた。

「なぜ、今になって……?」

 その問いかけを聞いて、カイルはシュルエ・ヴォドラスの逡巡した理由にようやく気が付いた。

 確かにシュルエ・ヴォドラスはセフィアーナの育ての親であり、少女のことに関して、どのようなことも知る権利があるだろう。しかし、彼女は親である前にひとりの神官なのだ。親兄弟を迎えに来た者に対して、「なぜ」とまるで責めるような問いかけを発することにためらいを覚えても無理はない。

「それは……」

 しかし、今度はその問いを受けたラスティンの方が言葉に詰まってしまった。

「ラスティン……?」

 心配そうなカイルにラスティンは大丈夫と頷いてみせると、大きく深呼吸して顔を上げた。

「……母さん、病気なんです。もともと身体が弱かったんだけど、去年の秋、急に熱を出して倒れて……それ以来、ずっと寝込んでるんです。長老が言うには、もう長くないって……」

 絞り出すようにそう言って、ラスティンは唇を噛みしめた。

「母さん、譫言うわごとでよく誰かに謝ってたんだ。それで問い質してみたら、オレに姉さんがいることがわかって……」

 母親の面影でも思い出したのか、少年の頬に涙が伝う。彼の足下に伏せていたアグラスが、そんな主人を慰めるように身を寄せた。

「母さん、自分のせいで姉さんがつらい思いをしてたらって悔やんでて……。オレ、辛い思いを抱えたまま母さんを死なせたくなくてっ……。だから、だから、姉さんを捜す旅に……」

「そう……」

 シュルエ・ヴォドラスは再び吐息すると、壁に掛けられた聖都の風景画を眺めた。そこで祈りを捧げて暮らす少女の顔が脳裏に浮かぶ。

(かわいそうに。やっと見付かったと思ったら、あの娘に残された時間はあと僅かなのね……)

 そうと知れたからには、ここで貴重な時間を浪費するわけにはいかない。

「……ラスティン、すぐにここを発ちなさい。セフィは今、聖都にいます」

「え、フィーユラルに……?」

「ええ。聖都で神官になるために修行をしているのです。あの娘はずっと迎えが来るのを待っていました。きっと、あなたとエルジャスに向かうでしょう」

 本来なら、《太陽神の巫女》が務めの期間中に私用で出かけることは許されないだろう。しかし、《月光殿》の管理官アイゼスは、王都行きをセフィアーナの意志で決めさせたという。そんな彼なら、或いは寛大な措置を取ってくれるかもしれない。

「今夜はゆっくりとお休みなさい」

 シュルエ・ヴォドラスの微笑みに見送られて、二人は孤児院を出た。無言で頬を擦っている少年に、カイルは言いそびれていた事実を告げた。

「ラスティン、院長はおまえの姉さんの育ての親だ。セフィアーナという名を付けたのも、セフィを皆から好かれる人間に育てたのも」

「え……?」

 少年は慌てて後方を振り返った。すると、孤児院の院長は、相変わらず彼らを見守ってくれていた。

「院長先生……」

 少年は明るい空色の瞳に涙を溜めると、彼女に向かって深々と頭を下げた。



 ダルテーヌの村人の旅はいつも未明の吊り橋から始まる。

「じゃあ、行って来るよ」

 今回も案内役を引き受けることになったカイルは、ヒーリックとマルバに軽く挨拶すると、後ろに下がった。替わってラスティンが歩み出る。

「あの、お世話になりました。もっとお話ししたかったです」

「私たちもよ。またいつかいらっしゃい。御馳走を作って待ってるわ。この子にもね」

 マルバが忘れずアグラスを見下ろし、ラスティンは嬉しそうに笑った。

「ありがと、おばあさん」

 次の日の朝が早いということで、村人とは僅かしか話す時間がなかったが、それでも彼らから聞いた姉の様子は、彼に否が応でも期待を抱かせた。一刻も早く、彼女に会いたかった。

「カイル」

 ヒーリックに手招きされて、カイルが歩み寄ると、養父は真剣な眼差しを彼に向けた。

「セフィがエルジャスに行くことに決めたら、その時はおまえも行け」

「爺さん?」

「都が揺れておる時は、盗賊どもの稼ぎ時じゃからの。子ども二人で旅をさせるのは危険すぎる」

 即答しない青年が何を考えているかに思い至り、老人は大袈裟に笑って見せた。

「なに、わしらのことなら心配せんでもいい。村の者が助けてくれよう。それより、二人を頼んだぞ」

 青年の手を握った養父の手に、力がこもる。息子として、父の願いを断るわけにはいかない。

「……わかった」

 力強く頷いたカイルが歩き出そうとした時、後方から彼を呼ぶ声が響いた。坂道を見上げると、孤児院の女神官が走ってくるのが見えた。

「よ、よかった、間に合って……」

 大きく肩を上下させながら、エイダ・カーシュはカイルに封書を差し出した。

「これ、院長先生のお手紙。セフィに渡して欲しいって」

「……わかった」

「じゃあ、気を付けてね、二人……三人とも。神の御加護がありますように」

 その時、シリアの山の端から、朝陽の一条がほとばしった。その中へ歩き出しながら、しかし、カイルは今回の旅の終わりを想像できないでいた。

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