第一章 闇に掴むもの --- 2

 今年に入ってから、カイルが谷を下る道を通るのは既に四度目だった。一度目は、セフィアーナを《太陽神の巫女》の推薦試験に連れていくため。二度目は、自身の身勝手で聖都に置き去りにしてしまった院長を迎えにいくため。そして三度目は、香水の行商である。その景色はすっかり見慣れたものになっていたが、それを見つめる彼の心情はいつも異なっていた。

(谷で生きる決意をして、爺さんの息子になる決意をして、村の皆と生きる決意をした――)

 しかし、今回、自分のための決意はない。

(やっと、人並みだ)

 谷で暮らすようになって一年半。絶望の崖に指だけ引っかけてぶら下がっていた彼が、今では当たり前のように自分以外の人間のために動いている。

(すべて、あいつのおかげだな……)

 もう少しで永遠に冷え固まっていた心を解かしてくれた少女セフィアーナ。その彼女の念願のためなら、カイルは何でもする気だった。――だが。

(この不安はいったい何だ……)

 谷を出て一夜明けても、カイルの胸騒ぎは続いていた。それはどこか、春先にセフィアーナが聖都へ行くと言い出した時の不安にも似ていて、彼には不快だった。いったい何がそんなに不安を煽るのか。

 カイルは、少し前を歩く少年の後ろ姿を見た。

(――もし、エルジャスを訪ねたあいつが、ずっとそこで暮らすことを望んだら……)

 確かにセフィアーナは谷を出た。しかし、サイファエール一華やかな王都へ行っても聖都へ戻ってきたように、修行を終えれば必ず谷に帰ってくると思っていた。だが、自分を案じていた母親と出会い、血を分けた弟がいることを知った彼女が、かの地を離れたりするだろうか。人一倍、家族が一緒にいることを重んじている彼女が、谷へ戻ってくるだろうか。

(……すべてを受け入れるしかない。あいつがどこで生きるかは、あいつが決めることだ。あいつが幸せとともにあるなら、それでいい)

 養父ヒーリックが彼にエルジャスへ付き添うように言ったのは、或いは別の意味もあったかもしれない。しかし、かの地はおそらく青年の居たい場所にはならないだろう。彼は谷で生きることを決めたのだから。

「アグラス、どうした?」

 ふいにラスティンが怪訝そうな声を上げ、カイルは彼らの二ピクト先で前方を凝視しているアグラスに目を遣った。

「カイル、誰か来るみたいだ……」

 少年が言い終わらないうちに、崖沿いの道の向こうからひとりの若者が姿を現した。軽い旅装姿だったが、帯剣しているのが遠目にもわかる。内心で身構えながら、カイルはふと香水の行商のことに思い至った。

(よく考えたら、商売繁盛は良いことばかりじゃないな。来年からは偽物がもっと出回るだろうし、なにより売上金狙いの盗賊どもの標的にされる。また総督府に護衛を頼むか……)

 そんなことを考えていると、突然、相手に名を呼ばれた。

「カイルじゃないか!」

 手を振っている若者をじっと見て、カイルは「ああ」と緊張を解いた。リーオの町の文書屋で、手紙の配達をしている知り合いだった。

「やあ。こんなところで会うなんて、まさか町へ行くのかい?」

「いや、聖都だ」

「え、帰ったばっかりだろ? ああ、でも良かった、すれ違いにならなくて」

 若者はそう言うと、肩から提げていた革鞄の中から、ひとつの薄い木箱を取り出した。

「はい。きみに手紙だよ」

 思わず、青年の冴えた碧玉の瞳が見開かれる。

「オレに……?」

 セフィアーナの手紙は、いつもティユーが運んで来ていた。谷はまだ彼の後方にある。彼女や養父母以外で彼に手紙を出す人間など、この世にはいないはずだった。

「きみが帰った後に届いて、急ぎみたいだから持ってきたんだ」

 カイルが文箱を受け取ると、差出人の札入れのところにリエーラ・フォノイの名があった。

(リエーラ・フォノイ……? セフィに何かあったのか……!?)

 自然と表情が険しくなる。その時、文書屋の若者が明るい声を上げた。

「確かに渡したよ。じゃ、オレ、他の用もあるから行くよ。またな」

「あ、ああ……」

 挨拶もそこそこに、カイルは再び文箱に視線を落とした。そんな彼の様子に、ラスティンが不審げに首を傾げる。

「どうしたのさ。開けないの? ――あ、もしかして、字が読めないのか? オレが読んでやろうか」

 いくら知らないこととはいえ、サイファエール語はおろかレイスターリア語も話せるカイルに向かって「字が読めないのか」とは、良い度胸である。

「いい。読める」

「あ、そう」

 しかし、少年は待ちきれない様子で、カイルが手紙を開く手をもどかしそうに眺めた。

「誰から? もしかして恋人?」

「……リエーラ・フォノイ」

「誰?」

「おまえの姉さんの教育係だ」

 途端、少年の待ちきれない態度は急かす態度に急変した。

「姉さんに何かあったの!? 早く読んで、カイル!」

 言われるまでもないことだ。カイルは手早く手紙を拡げると、リエーラ・フォノイのどこか焦っているような文字を読んだ。そして、その内容に愕然とする。思えば、昨日からの胸騒ぎは、この手紙を予感してのものだったのかもしれない。


『信頼なるカイルへ

 もしもの時のために、この手紙を貴方へ託します。その時はどうか、あの娘たちのために真実を突き止めてください――』


 そう始まった手紙には、今年の《祈りの日》の前夜、前年の《太陽神の巫女》が変死したこと、真犯人を突き止めるためにテティヌへ出した手紙の返事が未だないこと、総督府で彼と別れた直後、《月光殿》の管理官アイゼスが行方不明になっていたことを聞かされたこと、そして、その陰謀を企てたとされるエルミシュワ高原の民のもとへ派遣されることになった《光道騎士団》に、セフィアーナが従うことになったことが書かれていた。

「カイル? リエー……ナントカさん、何だって!?」

 カイルの表情が一段と険しくなるのを見て、ラスティンは彼の腕を掴んだ。主人の興奮が移ったのか、アグラスも急かすように小さく吠える。カイルは半ば惚けたように少年の顔を見ると、ぽつりと言った。

「……セフィは、もう聖都にはいないかもしれない」

「えっ……ど、どういうことさ!?」

 しかし、異教徒の少年にこの場で最初から説明している時間はない。

「急ぐぞ、セフィが危ない」

 再び動き始めた青年の足は、もはや駆け足に近かった。



「こ、ここがフィーユラル……?」

 まるで断崖絶壁のような白大門に圧倒され、ラスティンは思わず尻もちをつきそうになった。しかし、そんな彼を置いて、カイルはどんどんと先に行ってしまう。谷を発って、五日が過ぎていた。

「カイル、ちょっと待ってよ。アグラス、大丈夫か?」

 痛々しげに右前脚を引きずっている相棒を励ましながら、ラスティンはフィーユラルの街並みに目を遣った。生い茂った緑の木立の下、石造りの建物が整然と建ち並び、少し視線を上げれば、家々の屋根の向こうに神殿の巨大な柱が幾つも並び建っているのが見えた。そして、正面の道の先にそびえるルーフェイヤ聖山――。

(ここが太陽神テイルハーサの都……)

 少年の故郷、エルジャス山を下れば、そこに暮らす人々は皆、その神を崇めている。彼の部族の守り神とされる白狼神は、霧の中に存在すると考えられており、霧の発生しやすい山中の沼のほとりに、小さな祠があるだけだった。

(……神さまの力より、人間の力の方が恐ろしいんじゃないか……?)

 あまりにも違う神の祀り方に、ラスティンは内心、恐怖を禁じ得なかった。

「おい、ボケッとするな」

 前を歩いていたはずの青年の声が右手から聞こえた。ラスティンが首を巡らせると、行き交う人の向こうに、カイルが眉根を寄せて立っている。

「え……あれ?」

 呆けているラスティンを置いて、カイルはそのまま道を曲がり、高い塀に囲まれた敷地の中へと入って行った。慌てて後を追いかけながら、門の表札にそこがセレイラ総督府であることを知る。

「カイル、ここって役所だろ? 姉さんって、あの山の神殿にいるんじゃないのか?」

「ああ。一番面倒な神殿にな」

「面倒?」

 旅の道中で、少年は姉が《太陽神の巫女》という誉れ高き娘であることをカイルから聞かされた。最初は話半分に聞いていたところもあった彼だが、フィーユラルを目の当たりにした今では信じざるを得ない。

(ここで姉さんは暮らしてるのか……。いったいどんな人なんだろう……)

 故郷を発ってから幾度となく考えたことを、今また思う。ひとつには、自分と姉のあまりにも違う文化と生活に、不安になっているのだった。

「同郷の者だというのに、面倒なことよな」

 カイルから簡単に事情を説明された総督ディオルト=ファーズは、そう言って快く二人の《月光殿》での身分証を発行してくれた。《正陽殿》は一般の信徒でも自由に出入りできるが、両月殿は許された者しかできないのが常だ。

 それを受け取ると、彼らは一路、ルーフェイヤ聖山を目指した。

「総督と仲良しだなんて、カイル、いったい何やらかしたのさ」

「やらかしたのは、あっちだ」

「ふーん? それにしても、二人して『面倒』ってどういうこと?」

「今にわかる」

 困惑気味に首を傾げたラスティンだったが、その意味はすぐに知れた。《月光殿》の神官に、極めて事務的に追い返されたのである。《太陽神の巫女》は修行のため、《祈りの塔》に籠もっている、というのがその理由だった。

「何でだよ! 総督の証明書もあるんだぞ!? オレを姉さんに会わせない気か!」

 神官相手にわめくラスティンを尻目に、カイルはあっさりと踵を返した。

「ラスティン、行くぞ」

「そうとも! 妨害されたってオレたちは――って、カイル! そっちは逆じゃんか!」

「いいから早く来い」

「何だよ、ここまで来て!」

 再び《光の庭》までとって返したカイルは、雲に覆われた空を見上げ、指笛を吹いた。

「な、なに……?」

 その横で、ラスティンも同じように顔を上げた。そんな彼の頬を時折、湿った風が撫でていく。あと一ディルクもすれば、雨が降り出しそうだった。

 しばらくしても、これといった変化は見られなかった。

「何か来るのか……?」

 少年が再び青年を見ると、カイルは冴えた碧玉の瞳を険しくしていた。

「……ひと足遅かったようだな。セフィはもう聖都にはいない」

「え……ええっ!?」

 セフィアーナの傍には人狩鳥ティユーがいる。その彼が姿を現さないということは、少女が既にこの地にいないことを指しているのだ。

「でっでも、さっき、《祈りの塔》で修行中だって……じゃあ、姉さん、どこにいるのさ!?」

 カイルは沈黙した。セフィアーナと総督府で話をしたのは、まだ十日と少し前のことである。いつ聖都を発ったのかはわからないが、先刻、対面した総督の様子から、《光道騎士団》の動きには気付いていないのだろう。リエーラ・フォノイの手紙の内容がまるで偽りかのように、聖都の町も神殿の神官たちも、いつもと何ら変わった様子はない。ということは、まだそう日が経っていないのかもしれない。

(どのくらいの軍勢かはわからないが、大人数での移動はとにかく目立つ。闇色の好きなヤツらのことだ。夜を好んで移動しているに違いない)

《光道騎士団》の目指すエルミシュワ高原は、聖都から北へ馬でだいたい十日の距離である。女神官の手紙が聖都から谷までの所要時間五日できっちり運ばれたとすると、今はその道半ばといったあたりか。

「ねえ、カイル!」

 答えをせっつく少年を、カイルは鬱陶しげに振り返った。その時、人目を嫌って藪の中を歩いていたアグラスが姿を現した。

「……相棒に訊いたらどうだ?」

「え?」

「狼というなら、犬と同じくらいに鼻は利くんだろう?」

 途端、少年が不満を爆発させた。

「オレたちを馬鹿にするのか!? だいたい、狼の鼻は犬のなんて目じゃないぞ!」

 彼が本気で怒っているのを見て、カイルはわずかに目を見張ると、小さく吐息した。

「別に、馬鹿にしたつもりはない。……悪かった」

「……なら、いいけど……」

 青年があまりにもあっさりと詫びを口にしたので、ラスティンは面食らって口ごもった。なんとなく居心地が悪い。その理由を、彼はわかっていた。カイルはただの親切で少年を聖都まで案内してくれたのだ。それなのに、必要以上に姉に会えるという期待を膨らませた彼は、その思いを潰され、青年に八つ当たりしてしまった。

「でも、ホント、姉さんの匂いがわかればいいんだけど……」

 気落ちしたラスティンがそう言った時、にわかにアグラスが緊張した。耳を立て、辺りを探るように視線を巡らせる。と、突然、藪の中に飛び込んでいった。

「お、おい、アグラス!? どこ行くんだ、戻ってこい!」

 しかし、戻るどころかカイルまでが藪の中へ飛び込んでいき、ラスティンは栗色の髪をかきむしると、盛大に不平を鳴らしながら自分も藪の中へ続いた。



 無論、カイルは、アグラスがセフィアーナの手がかりを掴んだとは思っていない。だが、動物たちの勘がいかに役立つか、彼は重々承知している。アグラスが目指す先に何があるのかはわからないが、行ってみる価値を認めたのだった。

「アグラスっ。おまえ、怪我してるんだから無理するなっ」

 山の斜面をどれほど下った頃だろうか、ようやく追いついてきたラスティンがそう言った時、ふいにアグラスが立ち止まった。そして、ある小さな崖の斜面に向かう。その前で往来を繰り返しているアグラスを見て、ラスティンが怪訝そうに声をかけた。

「何だ、アグラス。ここがどうかしたのか?」

 そう言って地面を蹴飛ばした少年の足下を見て、カイルははっとした。その辺りの二ピクト四方の土の色が、他と少し違っていたからだ。ふと、リエーラ・フォノイの手紙に書かれてあったことを思い出した。彼女は前の《太陽神の巫女》の聖骸を、やはりこの山のどこかに埋めたという。しかし、それは半年も前の話で、今、彼らが立っている場所とは異なるはずだ。

「……ラスティン、ちょっと手を貸せ」

 カイルは持っていた荷物を近くの木の下に置くと、折れ落ちた長く太い枝をその地面に突き立てた。彼が何をしようとしているか察した少年とともに、それをできるだけ地中に潜り込ませると、あとは斜めにした太枝に体重を載せ、土を堀り返す。

「うっわぁ……ヤな気分。もう二度としたくなかったよ、こんなこと」

 少年のぼやきに、カイルは眉根を寄せた。

「……おまえ、スリだけじゃなくて墓荒らしもするのか」

「しないよ! ……ただ、ちょっと昔、そうと知らずにやったことがあるだけ――」

 その時、何かが太枝の前進を阻む感触がした。二人は歪めた顔を見合わせると、太枝を突っ込んだ先を細めの枝で掘り返し始めた。

「……ねえ、カイル。ひとつ訊いてもいい?」

「何だ」

「ここって、太陽神を祀る山なんだよね?」

「そうだが」

「なんでそんな聖なる山の、しかもこんなひっそりした場所に、アグラスが臭いを嗅ぎつけるようなものが埋められてるわけ? 太陽神は秘密の生け贄とか好きなんだ?」

「……黙ってろ」

 確かに祭事の種類によっては生け贄を捧げることもある。しかし、それは動物に限ったことで、その聖骸は祭事が終わった後、丁重に扱われるのが常だった。

『もしもの時のために、この手紙を貴方に託します――』

 リエーラ・フォノイの姿が脳裏に浮かび上がる。

(オレに手紙を寄越すほど先を読んで動いた人だ。きっと今はセフィの傍にいるはずだ)

 カイルはどんどんと重くなる手を必死で動かしながら、『もしもの時』がまだ彼女に訪れていないことを願った。

 そして、ついにそれが姿を現した。

「うえ……マジで……?」

 突然襲ってきた腐敗臭に鼻を覆いながら、ラスティンはを恐る恐る見遣った。黒い布で幾重にも巻かれていたが、それは紛れもなく人間の形をしていた。

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